『幻想(ゆめ)でもいいから』



 1789年7月13日。パリの街にも夕闇が迫ろうとしていた。
 フランス衛兵隊は、パリから程近い大聖堂の中で今宵の夜露をしのぐことに決めた。初めての実戦の疲労を引きずった兵士たちの表情は一様に暗い。

 アランは他の班長たちと共に点呼をとり、食料や補充用の弾丸を配り始めた。ここに来て初めて気づいたのだが、隊長は通常のパリ出動程度では考えられない量の物資を、輸送班に運ばせていた。あの方はいつから民衆側につく決心をされていたのであろうか・・・アランはその用意周到さに舌を巻く。それだけに今の彼女を思うと、心が痛んだ。

 
 テュイルリー宮広場で、隊長は次第にその熱を失っていくアンドレを抱き、声
もなく涙を流し続けた。何人かの兵士がアンドレを安置場に移動させようとしたが、大きく首を振り、その腕を解こうとしない。仕方なく、人目につかないようにして、そのままこの大聖堂まで連れてきたのだ。
 今は奥の小部屋にかくまい、誰も近づかないように言い渡している。
 このことを知っているのは、アランのほか小隊長クラスの数名だけだ。

 「アラン、ここはもういいから、おまえは隊長のところへ行ってくれ。」
 事情を知るユラン伍長が言った。
 「隊長を何とか慰めてさしあげてくれ。おつらい気持ちはわかるが、このままでは困るのだ。」
 アランはうなづいて小部屋に向かう。おれに隊長にかけられる言葉などあるのだろうか・・・アランの足取りは重い。


 「アランです。失礼します。」
 ノックをしても返事がないので、アランは小部屋の扉を開け中に入る。
 わずかにろうそくが灯された薄暗い部屋の中で、隊長は物言わぬアンドレを膝に抱き、無心にその頬をなでさすっていた。涙も涸れ果てたのか、その目は虚ろに見開かれたまま視線はアンドレから離れようとしない。アランは何か言おうと開きかけた唇を閉じ、部屋の隅に腰を下ろした。
 この二人は、おれたちには想像もつかないほど固い絆で結ばれていたのだ。
 もう少しだけ、この方に一人の女性として恋人の死を悼む時間をさしあげたい・・・。

 だが、その一方でアランはこうも思う。こんな隊長を若いやつらに見せるわけにはいかない。若い兵士たちの中には隊長を神のように崇拝している者も少なくない。今の彼女が太陽の化身でも勝利の女神でもない、恋人を失った悲しみにくれる一人の女にすぎない、と知れば彼らの中の何かが崩れる。もう彼らは隊長のために決死の覚悟で戦うことはできないだろう。指導者を失った衛兵隊が暴徒と化すのは時間の問題だ。アランにはユラン伍長らの焦りや苛立ちもまた、手に取るようにわかるのだ。


 アンドレ・・・なんでおまえ、隊長を残して死んじまったんだよ・・・詮無い
こととは知りながら、アランはつぶやかずにはいられない。今の隊長を見ろ、まるでぬけがらだ。アンドレ、わかっているのか?隊長は確かに革命の思想を支持していた。ベルナールからの影響もあるだろう。おれたちを通して知った市民たちの現実が隊長の心を大きく揺さぶったかもしれない。だけどな、隊長をこんな風に、地位も身分も家も家族も、何もかもを捨てるまでに踏み切らせたのはおまえなんだぞ。宮廷から裏切り者のそしりを受けようとも貫きたかったのは、おまえへの愛なんだよ。平民の男に誠実であろうとした隊長の愛の証が貴族を捨てることだったんだ。
 自由、平等、友愛・・・どんな言葉で飾り立てたって、ここは戦場だ。ほこりと血にまみれて、人のうめき声しか聞こえない生き地獄だ。なんで、こんなところにあれほど愛した女を置き去りにしていっちまえるんだ!?あんまりじゃないか!!

 
 そうして、しばらくアランは隊長を見つめていたが、ふとその様子がおかしいことに気づいた。今までアンドレを見つめていると思っていた視線の先にあるのは、いつも肌身離さず持っているジャルジェ家の紋章が刻まれた短剣。

 まさか・・・?

 そう思った瞬間、彼女はその短剣を抜き、自らの喉に突き立てようとした。
 アランはあわてて短剣を払いのける。短剣が床に落ち、からん、と音を立てた

 「アラン・・・」
 彼女は初めてアランの存在に気づいたように視線を上げた。みるみるその両の目に涙が膨れ上がり、頬を伝って落ちる。
 「どうして邪魔をするのだ・・・?もう、たくさんだ・・・もう生きていたく
ない・・・」
 アランは愕然とする。目の焦点が合っていない。なぜ気づかなかったのだ?も
っと早くに声をかけていればこんなことには・・・

 「隊長、しっかりしてください!」
 その肩をつかんで大きく揺さぶる。
 「あなたはそんな方ではなかったはずだ。今朝、あなたの瞳は理想に燃え、そ
の唇は大志を語った。あなたは我々の胸に大きな夢を抱かせてくれた。我々は、
祖国の名もなき英雄になるために立ち上がったのではないのですか!」
 彼女は力なく首を振る。
 「言うな、アラン・・・わたしには・・・もう、何の光も・・・見えない・・・」

 アランの頭にかっと血が上った。彼女に対する情けなさと、自分のふがいなさ
に対する怒りと、悲しみと苛立ちと切なさと・・・いろいろな気持ちがないまぜになり、アランは隊長の頬を平手で思い切り張り飛ばした。
 頬を押さえもせず、顔をあげようともしない彼女を、アランは思わず抱きしめ
た。
 アンドレ、アンドレ、隊長を助けてくれ!わかるだろう?隊長にはまだ使命が
あるんだ。隊長はおまえだけのものじゃないんだ。それでも、隊長を救えるのはおまえだけしかいないんだ。たのむ、アンドレ。おれに力を貸してくれ!隊長を
、おれたちが大好きだった、あの凛々しい隊長に戻してくれ!!


 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか・・・


 光の降り注ぐ明るい部屋の中で、オスカルは誰かに抱きしめられていた。
 「・・・オスカル・・・・・オスカル・・・・・」
 花びらが舞い落ちるときのような、かすかな声がオスカルの肩をかすめ、落ち
た。

 「オスカル・・・いとしい、おれのオスカル・・・」
 さっきより少し大きくなった声を、オスカルの耳ははっきりととらえた。
 「アンドレ!?」
 「・・・ああ、やっと気づいてくれたな。おれはずっとずっとおまえの名を呼
んでいたんだぞ・・・」
 「アンドレ、どこにいるんだ?」
 「おまえのすぐそばに・・・わからないかい・・・?」
 オスカルを抱く腕に力がこもり、その手が波打つ金髪をなでつける。この感じ、このしぐさは・・・
 「アンドレ、本当におまえなのか・・・?」
 顔も見えないのに、オスカルはアンドレがにっこり微笑んだのを感じた。オス
カルはうれしくなって自分を抱くその身体に腕をまわす。
 「アンドレ、よかった。生きていたんだな。わたしはてっきり・・・」
 アンドレの微笑が少しくもる。
 「オスカル、すまない。悲しい思いをさせてしまったね。おまえにはもうおれの姿は見えないだろう。だけど、オスカル、忘れないでくれ。おれはいつでもおまえのそばにいるよ。」
 「アンドレ・・・じゃあ、やっぱり・・・」
 オスカルは目を伏せる。涙を止めることができない。
 「そんなに悲しまないでくれ・・・」
 「・・・無理だ・・・」
 アンドレは困ったような顔をしていたが、やがて、静かに言った。
 「オスカル、よく聞いてくれ。おまえはこれからも生きていくんだ。フランス衛兵隊の命運がその肩ひとつにかかっている。オスカル、男として生きてきたおまえの苦しみを目の当たりにしながら、こんなことを言うおれを許してくれ・・・ブロンドの髪をひるがえし指揮をとるおまえは、鳥肌が立つほど美しい。その青い瞳の奥にゆれる情熱の炎、凛とした唇から発せられる迷いのない言葉。おれはもう一度、そんなおまえを見たい・・・」
 アンドレの手がオスカルの髪の中にすべり込み、その肩を抱く。
 「ああ、かわいそうに、こんな細い肩をして・・・ときには逃げ出したいほどの孤独がおまえを襲うかもしれない。でもそんなときはどうか思い出してほしい。おれはいつでもおまえのそばにいる。どうしようもなく迷ったときは、目を閉じ耳をすませてくれ。おれがおまえに必ず答えをやる。子供の頃からかたときも離れず生きてきた。今までも、これからも変わらない。おれはおまえの影だ。」

 オスカルははっと顔を上げる。これだけは言っておきたい。いつもわかってく
れているからと口にしないできた、いろいろな思い。でもこれだけは、はっきりと自分の口から伝えたい。
 「アンドレ、わたしはおまえを影になどしたくはない。おまえと並んで歩いていきたいんだ。だからこそ、自由な市民として・・・」
 アンドレは少し目を細める。
 「わかっているよ、オスカル。そういう意味ではないんだ。おれたちは二人で
ひとつだ。おまえが輝けば輝くほど、おれは色濃くその姿を形作ろう。おまえが生きている限り、おれもまた、生きているんだ。」
 オスカルはアンドレの言葉を繰り返す。
 「わたしが生きている限り、おまえも生きている・・・」
 「そうだよ、オスカル。」
 オスカルは唇をかんだ。アンドレの言葉を信じよう。そうでなければ耐えられ
ない。だけど、それでも、やっぱり・・・・・
 「・・・いやだ、アンドレ・・・いっては、いやだ・・・・・!」
 オスカルはアンドレにしがみつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
アンドレは目を閉じてオスカルの髪を背中を軽くさすった。何度も何度も、そっ
と、そっと・・・

 「もう泣かないで。」
 オスカルの嗚咽がおさまる頃、アンドレは言った。
 「さぁ、涙をふいて外に出るんだ。みんながおまえを待っている。おまえさえしっかりしていれば、まだまだ戦える。そして、今夜はもうおやすみ。いろいろなことがありすぎてくたくたのはずだよ・・・それに、ゆうべも寝かせてやれなかったしな・・・」
 オスカルの顔が耳までばら色に染まる。
 「ばっ、ばか、アンドレ!いきなり何を・・・!」
 「ははは・・・いい顔色になった。心配していたんだぞ。さぁ、立てるか、オスカル。おれが手を貸してやる。自分の足で立つんだ。行くぞ・・・」
 アンドレは腕をほどき、オスカルの手を取った。その唇がオスカルの手の甲に
触れ、頬に触れ、額に触れ、最後に唇に触れ、そして、消えた。


 
 「アラン、おまえ、どさくさにまぎれて何をしているのだ。」
 凛とした隊長の声にアランははっと目を開けた。目の前に豊かな黄金の髪があ
った。
 「こっ・・・こっ・・・これは・・・失礼いたしました!!」
 あわてふためいて飛びのくアランを見て、隊長はおかしそうに笑った。何がなんだかわからない。

 「少し、兵士たちの様子を見てこよう・・・ありがとう、アラン。心配をかけたな。」
 しっかりとした足取りで部屋を出て行く隊長をアランは呆然と見送った。思わ
ず自分の手のひらを見つめる。さっきまで抱きしめていたはずなのに、その感触
もぬくもりも思い出せない。
 ・・・それはおれのものだからな・・・おまえにはやらないよ・・・
 アンドレの声が聞こえたような気がして、ぎょっとしてアランは振り返った。
奥に横たわるアンドレはもちろん何も答えない。

 なんでもいいや・・・アランはひたひたと胸にわきあがる喜びをかみしめてい
た。おれはあんな隊長を見ているだけでいい。明日からもあの方の下で誇りを持って戦うことができる。おれにはそれだけで十分だ!

 
 「隊長、ばんざあい!!」
 大聖堂にこだまする兵士たちの歓声を聞きながら、アランは一人、涙をこぼし
ていた。