嵐 (前編)



憎しみに満ちた顔が私を凝視していた。
血走った目で何かを叫びながら私に掴み掛かってくる。
あっという間に馬車から引きずり出されていた。
四方八方から手が伸びてきて軍服のボタンを引きちぎる。
もみくちゃにされながら倒れないよう石畳を踏みしめた。

「オスカル!逃げろ!」

怒号に交じり合ってかすかに聞こえた声。

「貴族は皆殺しちまえ!」
「俺の息子が死んだように、お前も殺してやる!」

群集にもまれて身動きがとれない。
耳元で何かを叫んだ男の唾が頬に飛んだ。
嫌な臭いのする息が顔にかかる。

「貴族は殺せ!」
「殺せ!」

違う!
違うのだ!
貴族は私だけだ!
アンドレ!
アンドレは関係ない!
彼は平民だ!
平民だ!

そう叫んだのに、怒声にかき消されて自分の声が聞こえない。
アンドレの声がしたほうへと、人の間を泳ぐようにして足を踏み出したが。

ぐい、と鋼のような抵抗にあう。
厚い胸板が自分の行く手を阻んでいた。
逃がすものかと。
目の前にある顔、顔、顔。
ぞくり、と冷たいものが背筋を走った。

憎しみに満ちたその顔は人のものか。

鬼に囲まれていると思った。
貧困という悪霊に取り付かれた鬼が。
日々の労働に鍛え上げられた腕を振り上げ。
日々の生活に疲れ果てた腕を振り上げ。

私は自分に向かって振り下ろされる棍棒を、莫迦のように眺めていた。


* * * *


びくん、と体が跳ねるようにして飛び起きた。

朝日が目を射る。
目が慣れてからようやく自分が見慣れた部屋にいることを理解する。
ぐっしょりと冷や汗をかいた背中にシャツがはりついて気持ち悪い。
同じく汗ばんだ手のひらで、顔を撫でた。
目を閉じればあの鬼のような顔が浮かんできて、慌てて目を開ける。

不自然な体勢で眠ってしまったから夢見が悪いのか。
おとといの夜のショックによるものなのか。

椅子に座ったままの腰が痛んだ。
臀部が床ずれしたように感覚が無い。

立ち上がりながら、帳で囲われたベッドに横たわる男の顔を覗き込んだ。

土気色の顔。
乾いた唇。
閉ざされた瞳はもう丸一日開かれていない。

ぐったりと横たわるその体のあちこちから、彼の命が逃げ出していくようだ。
重い天蓋がベッドの四隅に作る闇が急に恐ろしくなる。
暗闇が彼の命を侵食していくようで。

込みあがる震えを抑えながら、直接顔に朝日が当たらないよう気をつけつつ、帳をすべて引き上げ
た。

改めて傍らに立ち、アンドレの顔を見下ろす。
生気の無いその顔は、本当に見慣れた幼馴染の顔だろうか。
いつか葬式で見たデスマスクを連想して、頭を振ってその不吉な予感を振り払う。

朝日の中で、黒髪の付け根に乾いてこびりついた血を見つけた。
昨日全て拭い取ったと思っていたのに。

洗面器でタオルをぬらすと指先に絡め、そっとかがみこんだ。
そっと、そっと力を込めないように気をつけて。
乾いた血と汚れをふやかしながら。
目を覚ませと。
祈りを込めて。
ゆっくりと拭き取る。

思わず涙がこみ上げてきて、こぶしで口元を押さえた。
嗚咽が漏れないように。
彼を起こすのが自分の泣き声でないように。

あんなフラッシュバックのような夢を見たせいか。
こらえていた感情が溢れてくる。

屋敷にたどり着いた時から、泣いてはいけないと自分に課していた。
今は泣くときではないと。

医師を呼ばせ、自分の手当てもそこそこにアンドレの部屋に駆けつけた。
北向きの彼の部屋では治りが遅くなると、南向きの客間に運ばせた。
ばあやの説得にも耳を貸さず、以来アンドレの眠るベッドの傍らで過ごしている。
どんな変化も見逃すまいと。
神経をはりつめて。

唇に当てたこぶしを、関節が白くなるほど握り締める。

許さない、と思った。

もしこのまま彼が死ぬようなことがあれば、
私は決して民衆を許しはしない。

貧困が彼等をそうさせたのだとか。
彼等も自分を慕ってくれている衛兵隊員達と同じパリ市民だとか。

そんなことは関係なく。

自分は一生彼等を憎むだろう。
彼を失った癒えることの無い傷を、手負いの獣のように舐めながら、
復讐に燃えた目で民衆を憎悪するだろう。

そしてきっと、衛兵隊にはいられまい、と思う。
彼を殺した民衆と同じ身分の隊員とどうして何事も無かったかのように付き合えよう。

(武官は感情で行動するものではない)

アンドレに言われた言葉が脳裏をめぐるが。
だが。

「私はそんなにできた人間ではないのだよ。」

ふふ、と自嘲気味に笑う。

わかっているのだ。
何よりも許せずにいるのは自分。
二度も自分のせいでアンドレを危険にさらしてしまった己が一番憎い。
だからこそ他人を憎まないではいられない。

貴族は滅び行く階級だと、いつしかベルナールが言っていたことが本当なら。
民衆を憎むことで、彼らの憎しみの対象となり。
彼等にやがて滅ぼされる日が来たなら。
私の愛しい人を殺めたのと同じ方法で我が身も滅ぼされるなら、それが本望というものだ。

(愛しい人・・・)

目を上げると、背の高い長い金髪を背中に垂らした女が、いまにも泣きそうな顔をして立っていた。

縋り付くような目をして。

(私には彼が必要)

女の目が訴えていた。

(何も要らない。
 何も考えられない。
 彼なしでは生きられない!)

それが鏡に写った自分だとようやく気付く。

私はこんなに女だったか?
こんなに弱々しく、縋るような顔をする女だったのか?

ひゅーっ、と喉が鳴った。
頬が濡れる。

手のひらで口元を押さえても。
堰を切ったような感情は留まることなく。

鏡の中の女は、涙で歪んだ顔を両手に埋めて泣きじゃくる。

一人で道に迷った子供のように。

憎しみも、復讐の誓いもどこかへ消え。
あるのは絶望に打ちひしがれた人間が一人。
愛する人を救う術を知らず。
無力で。

ただ、ただ、泣き続けていた。



* * * *



暗い家の中を暖炉の炎が温かく照らしていた。

暖炉の前に寝そべり、炎を見つめていたアンドレを呼ぶ声がする。

振り向けば母が夕餉の時だと呼んでいた。
小鹿のように跳ね起きて、食卓へ付く。
向かいには彼と同じ黒い髪に黒曜石の瞳の父がいる。
がっしりとした手が胸元で組まれ、父が食前の祈りをささげた。

日々の労働で鍛えられたその腕は太く、指は土で黒い。
何度洗っても、その手に染み込んだ大地の色は褪せることがないと思われた。

不意に閉じられていたその目が開かれ、祈りを捧げることを忘れていた息子に気付くと、こら、と目
が叱った。

だが、その表情はいつも優しく。
父が決して自分を叱らないとアンドレは判っている。

怖いのはどちらかといえば母のほう。
普段はおっとりしているのに、いいつけを守らなかった時等は、
「こらっ、アンドレ!」
と耳をつかまれる。
父に言わせれば、母のあれは家系だそうだ。


贅沢ではないが温かい夕食が始まる。
父のユーモアたっぷりの話に母と二人笑いながら。
両親の愛に包まれて、アンドレはからからとよく笑った。
椅子から転げ落ちそうなほど大笑いし、
母にようやくマナーが悪い、とたしなめられた時。

ふと、窓の外の暗闇に誰かを見たような気がした。

息子の視線に父が窓を振り返る。

「風がでてきたな。」

そういって立ち上がると、雨戸を閉めるため一旦窓をあけた。
途端、ごう、と風が吹き入れる。

「早くしめてくださいな。」

母が風から食卓をかばいながら父の背中に向かってそう言った。

「誰か外で泣いてる。」

アンドレの耳が風の中の泣き声に似た音を聞きつけた。

「いやだ、アンドレ。気味が悪い。」
「風の音だよ、アンドレ。
 森を抜ける風は時々泣き声みたいに聞こえるものだ。」

雨戸が閉められた途端、風の音は遮られ、家の中に再び温かい空気が満ちた。

何事もなかったかのように暖炉の火はあかあかと燃える。

豊かとはいえない家計では、お腹いっぱいというわけにはいかないけれど、父が揃うこの夕食の
時間がアンドレは好きだった。
一日働きづめの父に遠慮してお代わりをためらうアンドレに、父が気にせず欲しいだけ食べろ、と
言う。
育ち盛りなのだから、と母にも言われ、アンドレは遠慮なく皿を一杯にする。

ちょっと贅沢だけど、と母が煎れてくれたコーヒーをすすりながら、暖炉の火を見つめる父。
一日の終わりで無精ひげが伸び始めた父の横顔がアンドレは好きだ。
母に比べれば寡黙で、でもいざというときには頼りになる父。

「あらあら、アンドレ、眠そうね。」

とろん、と瞼が重くなり始めた息子を認めて母が言う。

「いらっしゃい。着替えなくては。」

母の、水仕事で荒れた手が優しくアンドレの肩を促すように抱く。
そのまま部屋の片隅に作られたベッドへ向かおうとしたアンドレの歩みが止まった。

「どうしたの?」

母がアンドレの顔を覗き込む。

「やっぱり、誰かが泣いてるよ。」

閉じられた扉の隙間から漏れ聞こえた音は、風の音ではなかった。
誘われるように戸に駆け寄り、閂に手をかける。

「アンドレ。」

母の手がそっとアンドレの小さい手に添えられた。

見上げれば、母のはしばみ色の目が悲しそうに自分を見ている。
父が立ち上がる気配がして振り返れば、父もまた自分を見ていた。

「外へ行きたいのか?」
「うん。」
「もう外は暗いぞ。風もでているし雨も降ってきたようだ。」
「でも気になるんだ。」

暫く考えていた父が、母に、行かせてやれ、と目配せする。
母の手がそっと離れた。
アンドレの手が閂を持ち上げ、扉を押す。

ばたん、と風が戸を大きく開いた。
ごぅっ、と強い風が雨とともに屋内に吹き込んでくる。
暖炉の火が大きく揺らいだ。

ざわざわと揺れる葉ずれの音に混じって、確かに誰かが泣いていた。

暗闇に目をこらすと、間口からもれた光が台形に地面を照らす、その光がやっと届くか届かないか
の所にぼんやりと浮かぶ、白い影があった。

ついっ、とアンドレが足を踏み出す。
たちまちシャツが雨を吸ってぐっしょりと体に張り付いた。

行くべきだろうか。

「ねぇ、こっちにおいでよ!」

風にまけじと大声で白い影に呼びかけた。
だが白い影は泣き続けるだけだ。

アンドレの脳裏にいつか父から聞いた、嵐の夜の悪霊の話がよみがえる。
哀れな声で助けを呼ぶほうに行けばそれは悪霊で、助けおこそうと手を貸した人間にとりついてし
まうのだそうだ。

雨は冷たさをましてくる。
母の手が促すように肩におかれた。

「ねぇ、そこの人!」

もう一度声をかけるが、アンドレの声が届いた気配はない。
もしかするとあの白い影は岩かなにかで、泣き声と思っているのは本当に風の音かもしれない、と
少年が思った時。

射るような白い光が一瞬辺りを照らした。
まばたきするよりも短いその瞬間に、戸外にたちつくす子供の姿が浮かぶ。
肩を震わす金髪の頭。

ざわり、と胸が騒いだ。

どーん、と腹に響く音が空気を揺るがす。
子供の姿は闇に消えた。

あと数歩のところにあの子はいる。

早くなった鼓動に連動するかのように、アンドレの足が前に進んだ時。
闇にむかって歩き出した息子を母が呼びとめた。

光と闇の境界でアンドレは立ち止まる。
振り向けば母の肩を抱いた父が戸口に立ち、じっと自分を見つめていた。
その優しい目は、行くのか、と聞いている。

戻ればいい。

アンドレの理性がそう告げる。
家へ帰れば温かい暖炉と、優しい両親が待っている。
嵐の夜に冷たい雨の中、なぜ闇へと向かうのだ。

ぐっしょりと全身をぬらして、アンドレは迷っていた。

あと一歩を踏み出せば、きっと自分はもうあの暖かい家に戻れない、とそんな予感がした。
母が心配げに自分を見ている。
父の優しいまなざしに胸が痛んだ。

でも。

金髪の頭が目の前をちらつく。

行かなきゃいけない。
あの子の側に。

両親の姿を今一度目に収めると、少年は外の暗闇への一歩を踏み出した。




to be continued...