嵐 (後編)




そっと、静かなノックの音がして、音も無く重い扉がそろり、と開いた。
明け方の肌寒さにショールをまとった小さい体があった。

「おはよう、ばあや。」

ベッドの柱に身をもたせていたオスカルは、乳母のほうに顔だけを向けて言った。

「お嬢様、どうかもうお休みになって下さい。
 ばあやはお陰さまでもう充分やすませていただきました。
 後はわたくしがやりますから・・・。」

弱々しく微笑むこの方は本当にあの凛々しいお嬢様だろうか。
なんと一晩でおやつれになったのだろう。

「お顔色が悪ぅございます。
 お嬢様がお体を壊すようなことがあれば、
ばあやは申し訳が立ちません。」

昨夜は頑固なまでに休もうとしなかったオスカルを説得すべく、声に力がこもる。

「私のことなど・・・。」
「いいえ、お嬢様のお体こそ大事でございますから。」

力強く、諭すように言う乳母の言葉に、オスカルの疲れきった表情がゆらいだ。

ぽろり。

朝露が木の葉から滴るように、オスカルの頬を伝わる涙があった。

「・・・ごめんね、ばあや。」

命より大切なお嬢様の涙にばあやが慌ててその両手を取る。

「ごめんね。私はまた、ばあやのアンドレを傷つけてしまった。」

美しいその顔が浮かべる痛々しい表情にいたたまれず、力づけるように両手を強く握った。

「なにを仰います。
 この子が勝手に自分で怪我をしたんですから。
 大体お嬢様が軽症でいらしたのに、大怪我をするなんて。
 日頃の精進が足りない印です。」

こんな時でも、あいかわらずこの乳母は孫を褒めることをしないらしい。
いつもの日常の一瞬に、オスカルの頬がゆるむ。
その僅かな微笑みに励まされて、ばあやは言葉を続けた。

「この子は頑丈さでは馬なみですからね。
 こーんなに周りに心配をかけといて、
 『あれ、おばあちゃん、どうしたの』
 なんていって目を覚ますに違いないんです。
 心配するだけ損ですよ。」

いくらなんでも、それではアンドレが可哀想だ、とオスカルが笑った。

「いいんですよ、この子にはそのくらいで。
 さ、お嬢様は少しでもお休みになって下さい。
 お部屋の用意はできていますから。」

ばあやの説得に、やっとオスカルがベッドから体を離した。

「わかった。
 少しだけ横になろう。
 ああ、でも、もしアンドレの・・・」
「ええ、この莫迦の目が覚めたら御呼びいたしますとも。」

ささ、とオスカルを促す。
侍女に声をかけておいてオスカルを強引に自室へ引き取らせると、ばあやの足はベッドへと向かっていた。

サイドテーブルの濡れたタオルや、きちんと撫で付けられた髪などに、横たわる怪我人への、女主人の気遣いが現れていた。

すとん、と椅子に腰を下ろす。
その背中は、つい先程オスカルを励ました時とは変わって、一回り小さく見えた。

「莫迦だねぇ、お前は本当に。
 あんなにお嬢様にご心配をかけて。
 本っ当に莫迦だよ。」

このままお前が逝く様なことがあれば、お嬢様は一生ご自分をお責めになるだろう。
そんなことがあってはならないんだよ。
お嬢様にそんな負い目を負わせてはいけない。

あふれ出る涙を前掛けで抑えながら、ばあやは肩を震わせていた。


* * * *


城壁の上を歩いていた。

山の尾根に沿って作られた要塞の城壁と思われるそれは、延々と果てしなく伸びている。
城壁の外は暗くて深淵はのぞけない。
暗く霧が立ち込めていて、辺りは薄暗かった。

石を荒削りに切り出した階段が裸足に痛い。
空気が薄いのか、頭が割れるように痛む。
息をする度に肋骨が痛む。
薄いシャツは霧を吸ってぐっしょりと肌に絡み付いていた。

(もうどの位こうして歩いているのだろう)

アンドレはぼんやり思った。

(休みたいな)

もう幾度もそう考えただろう。
実際、階段の両脇には歩くことをやめた人々がうづくまり、通り過ぎるアンドレをうつろな目で見上げていた。

だが、そう思うたびに前を行く金髪の姿が階段の天辺できえてしまうのだ。
慌てて山の頂まで階段を上がれば、下方にヒョコヒョコとまた、金髪の頭が見える。

休んでしまえば、その姿を見失ってしまうだろう。

(どこまで歩くんだろう)

ひとつ山を越えれば、また次の山が待っていた。
それらを金髪の姿は疲れも見せず越えてゆく。
アンドレはただ、その姿を見失わないようにと、それだけを念頭に歩いていた。

さーっ、と吹いた風が、霧を尾根に吹き寄せ始めた。
刻一刻と深まっていく霧に、金髪の頭が消えてゆく。

慌ててアンドレは階段を駆け上がっていた。
疲れて言うことをきかない両足を呪いつつ、必死に後を追う。
前に伸ばした手のひらも見えないほどの白い闇の中で、ひたすら駆けた。

(待って!)

足がもつれる。
前方に勢いよく転がったアンドレは、嫌というほど飛び出した岩に腹部を打ちつけた。
激痛が脳を直撃する。

(待って、待ってくれ!オスカル!)


* * * *


大音響が響いていた。
豪奢な金銀糸の刺繍の天幕が目の前に広がっている。
鼓膜を割るかのようなその音が、頭蓋骨を打つ痛みだと気付くのにしばらくかかった。

寝返りをうとうと身をよじった瞬間、腹部に激痛が走った。

「っくそ・・・いっ痛ぇ・・・!」

「アンドレ!?」

祖母の声がした。
小さい姿がベッドの縁から身を乗り出すようにして覗き込んでいた。

「アンドレ!目が覚めたんだね!」
「おばあちゃん・・・」

痛みに涙を浮かべつつ、心配げに自分を見る祖母に無理やり笑顔を作る。

「よかったよ、この莫迦が・・・」

涙を浮かべて孫息子の頬をなでた。

「ああ、お前が起きたこと、お嬢様にお知らせしなくては。」

ああ、オスカルは無事らしい。

嬉々として部屋を小走りに出て行く祖母の後姿を見送りながら、アンドレは痛みに耐えていた。



* * * *



短くも深い眠りから覚めたオスカルがアンドレの目覚めを知ったのは午後になってからだった。
疲れ切って眠っている主人を起こすに忍びないと、声をかけるのをためらっていた侍女を叱りつつ、
オスカルは慌てて着替えを済ませると部屋に飛び込んだ。

医師や看護婦、ばあやに囲まれたベッドに、アンドレは今朝と同じように横たわっていた。
違うのは、今は開かれて自分をみつめる黒曜石の瞳。

思わずベッドに駆け寄ると、上掛けの上に投げ出されていた手をとった。
弱々しくはあるが、血の気の戻ったその顔に微笑が広がっていた。

「やあ。」

アンドレのその言い方が、あまりにも普通で腹が立つやら、ほっとするやら。
何も言えず泣き笑い顔でいるオスカルに、心配をかけたな、と言葉を継ぐ。

「莫迦。」

ああ、もっと何か言い様があるだろうに。
そんな言葉しかかけられない己を、オスカルは呪う。

「お前まで、莫迦莫迦言うなよ。
 もうおばあちゃんから充分それは聞いた。」

芝居がかって哀れに自分を見るアンドレが可笑しくて、涙目で笑ってしまう。

だが、医師が告げたアンドレの状態は決して笑って済ませるものではなかった。

打撲による内臓損傷の危険があること。
意識がなかったことから、頭への傷も心配であること。

「軍隊で鍛えていたお陰で、腹部への損傷が致命傷にならずにすみました。
 しかし、しばらくは絶対安静ですぞ。
 ベッドに起き上がるのも禁止です。
歩けるようになるまで、泊り込みの看護婦をよこしましょう。」

看護婦など分不相応、と辞退するばあやには耳を貸さず、オスカルは医師の言葉に従っていた。

「ばあや、アンドレにはしっかり治ってもらわなくてはならないからね。
 看護婦でも薬でも必要なものは取り寄せるよ。」

その有無を言わせない口調にばあやも折れるしかなかった。




看護婦の部屋の用意や、薬の指示に皆が部屋をでていくと、オスカルはアンドレの側に腰掛けた。

「痛むか。」
「いや。」

実は猛烈に痛むのだが、そんなことはいえない。
アンドレは無理やり笑顔を作った。

「嘘をいうな。痛くないわけがない。」

お見通しか、と笑うとアンドレは痛みをこらえるように眉をひそめた。

「すまない。
 パリの状況を見定めずに馬車をだした私の責任だ。」
「お前のせいじゃないさ。
 俺の責任だ。」

お前がなんともなくて良かった、とアンドレは微笑んだ。
その優しい眼差しに会って、オスカルは言葉に詰まってしまう。

なにか、言わなければならないことが沢山あった筈だった。

自分がいかに彼を必要としているのか。
どんなに、彼なしでは生きられないか。
伝えなければいけないのに。

舌をなくしたかの様になにも言えず、ただじっと、アンドレの手に重ねた己の手を見つめる。

その沈黙を破ったのはアンドレだった。

「父さんや母さんの夢を見た。」

オスカルがはっと、顔を上げた。

「凄く居心地がよくて、ずっと一緒に居たいのに。
 でも、お前が呼ぶんだ。」
「私が?」

アンドレがオスカルをみつめる。

ざわり、と胸が騒いだ。

「嵐の中にお前が一人でいるもんだから。
 俺が側にいかなきゃだめだろう?」

ざわり、ざわり。
胸に広がる波紋が大きくなってくる。
ふるえる鼓動が悟られないだろうか、と思いながら、アンドレから目を離せない。

「なのに、お前はさっさと一人で先にいっちまうんだ。
 俺はもうぼろぼろで、疲れきってるのにさ。」

「それでお前はどうした?」

「追いかけたさ。
 当たり前だ。
 俺がお前をおいていける筈がないだろう?」

どくん、と心臓がひとつ大きく鳴った。
ぽたり、と涙が落ちる。

「お前はいつも・・・」

あふれ出した涙は留まる術を知らぬかの様。

「オスカル・・・?」

慌てるアンドレに目もくれず、オスカルは両手の中のアンドレの手を濡れた頬に押し付けた。
節くれた大きい手のひらが、オスカルの陶器のような頬を包む。

お前はいつも、そうやって。
自分を傷つけながらも私の側に駆け寄ってくれる・・・。

「この涙はお前のせいだ。
 お前の手で拭かせてもらう。」

他人の掌で涙をふき取りながら、オスカルは言った。

「俺のせいか。」
「ああ、お前のせいだ。」

オスカルはいたずらっぽく微笑みながら、幼馴染の顔をみつめた。

頬に当たる掌が愛しい。
自分を優しく見つめる黒曜石の瞳がいとおしい。
この男が。

自分の掌に顔を埋めて微笑むオスカルにアンドレは見とれていた。

美しい、と思う。
愛しくて気が狂いそうだ。
掌に当たった唇の感触。
あれは口付けだったのだろうか。
それとも微笑んだだけ・・・?

ふるえる心を抑えながら、アンドレはそっと、オスカルを自分の方へ引き寄せた。
以外にも抵抗無くオスカルは顔を寄せてくる。

固まってしまったかのようにお互いから視線が離せないまま、オスカルの顔がアンドレのそれに近づいた。

オスカルの金髪がはらり、と垂れ、小さな黄金の帳をアンドレの顔の周りに築く。

お互いの吐息が感じられる距離。

ふっと、オスカルの瞳に戸惑いの色が浮かんだ。

そのまま、アンドレの唇を掠めるようにして、オスカルの唇が頬に着地する。
かすかに開かれたオスカルの柔らかな唇が頬に当たり、アンドレの背筋がぞくり、とあわだった。

「早く治れ・・・」

かすかに、耳元でオスカルがささやいた。
オスカルの吐息が耳にかかり、鼓動が早鐘のように早まる。

ゆっくりと、丁寧に頬に授けられるキス。

オスカルの白い頬がアンドレの口元をかすめ、その黄金の髪が顔に落ちる。

永遠にも思われる一瞬。

直に唇に落とされるよりも、それはある意味、より濃密な口付けであった。

ゆっくりと顔を起こしたオスカルの眼がアンドレの顔を見つめる。

二人の間の、熱っぽく重たい空気が、オスカルが身を起こすに連れて、四散していくのが感じられた。
名残惜しげに指先でアンドレの指を弄びながら、オスカルがいう。

「明日は出仕する。」
「ああ。」
「できるだけ早く帰るようにする。」
「俺こそ、一緒に行けなくてすまん。」

引っ掛けた人差し指同士から、お互いへの愛しさがこぼれだしていくようだ。

言葉にならない想いが。
言葉などいらない気持ちが。

どく、どく、と脈打つものが。
流れて。
溢れ出して。

この感覚に溺れてしまっても構わない、と感じながら。
微動だにせず、二人はお互いを見詰めていた。




End