薔薇の名前 1



その晩、華美をこのまないジャルジェ将軍家にしては珍しく、盛大な舞踏会が開かれていた。
夜が更けてもジャルジェ家には明かりがこうこうと灯り、広間のほうからはにぎやかな雰囲気が伝わってくる。
馬車留めでは、数多くの貴族の馬車が所狭しと止められ、主人についてきた従僕や召使達には使用人棟で、広間からのお下がりの食事やワインが振舞われていた。
その間を縫うようにして黒髪のジャルジェ家の従僕が、各使用人達から彼らの主人達が今夜泊まる部屋に必要なものをきいて回っている。
大規模な貴族の舞踏会では往々にして客が館に泊まることが少なくない。
夜遅くまで開かれる宴のため、ホストに近しいものは大抵その晩を招かれた屋敷で泊まっていく。
部屋の手配は本来アンドレの仕事ではないのだが、今夜ばかりは大広間付でオスカルが他の男に抱かれて踊るのを見るよりはと、裏方に回っていた。

「やあ、アンドレ。ご苦労さん。」

流行の白髪のかつらをし、黒ビロードのお仕着せをきた男が声をかけた。

「ミハエル、そっちもな。」

ジェローデルの供でやってくるこの男とは、近衛隊の頃からの知り合いだ。
ジェローデルの好みらしくいつも上質で流行を取り入れたお仕着せを着ているが、主人に似ず気取らない男であった。

「珍しいじゃないか、お前が裏方なんて。いつもオスカル様についていて、こんなほうにはまわらないのに。」
「今晩は客が多いからな。部屋の用意だけでこっちはてんてこまいしてるから、広間のほうは他にまかせてるんだ。」
「あーあ。俺もオスカル様のドレス姿を見てみたかったぜ。」

お前はもう見たんだろう、と聞いてくるミハエルにンドレは、忙しくてそんな暇はなかったよ、と返す。
そのまま、まるでその話題を避けるかのように、テーブルの空になった皿を片付けはじめる。
そんなアンドレをミハエルはじっと見ていたが、ふっと同情の微笑をうかべるとそれ以上なにも言わず、他の使用人たちの会話の輪に加わっていった。

数日前に屋敷に仕立て屋が出入りし始めてから、アンドレはなるべくオスカルの部屋へ行かないようにしていた。
壁にかけられているであろう衣装を見ないようにするためだ。
今日も支度が整ったオスカルを広間へエスコートする役を他の者に代わってもらった。
オスカルのドレス姿を見れば、自分がどんな行動に出てしまうか自信がなかったからだ。
きっと嫉妬でおかしくなってしまうだろう。
女の姿のオスカルが誰かに抱かれて踊るのを想像するだけで、怒りにも似た感情が自分の中にこみ上げてくるのを、アンドレはじっとこらえていた。

氷の花といわれたオスカルが、そのよろいを脱ぎ、柔らかな絹のドレスに包まれて、ベルサイユ中の貴族の男たちに高貴な一輪の花として差し出されるのだ。
その花へ手を差し伸べる権利さえ自分にはないのだと思うと、抑えがたいどす黒い思いが内にわいてくる。
いっそのこと、その花が他の男に手渡される前に、へし折って自分の手の中で滅茶苦茶にしてしまえば、この狂気が癒えるかと思う。
やり場のないイライラを抑えきれず、アンドレは洗い場へ、ガチャン!と音をたてて食器を届けた。
そんなアンドレに女中達は眉をひそめるものの、皆アンドレの気持ちが痛いほど分かっているから、あえて小言をいうものはいない。
そんな労りが余計にアンドレを落ち着かなくさせていた。

突然、使用人階段辺りが騒がしくなった。
数人の客が口々に供のものを呼んでいる。
当分舞踏会は終わらないとのんびりしていた従僕たちはあわててワインを飲み干し、身なりを整えると何事かと、呼ばれるほうへと走っていく。
どうやら大広間のほうで何かあったらしい。
続いて、貴婦人たちの甲高い悲鳴が裏手までひびいた。
同時に、広間付きだった女中が数人、台所への階段を駆け下りてきた。
アンドレを見つけると
「アンドレ!どうにかしてちょうだい!いきなり兵隊がおしかけてきて・・・!」
と腕をひっぱり、叫ぶ。
「は?兵隊?」
事態がさっぱり読めないアンドレがいうと
「そうよ!あんたと同じ衛兵隊だわ!オスカル様は笑ってらっしゃって、お止めにならないの!」
「ただでさえ、オスカル様がドレスをお召しにならずにお出ましになって、お怒りになっていらっしゃるお客様がいらっしゃるのに、こんなことになってしまって!」
「お願いだから止めて頂戴!旦那様は卒倒寸前よ!」
口々にわめきながら、アンドレを広間へ続く廊下へ押し出した。
目の前を、怒り心頭といった風の貴族が何人か通り過ぎる。

「オスカルはドレスを着てないのか?」

目の前で起こっている騒ぎが耳に入らないかのように、アンドレは女中の一人に聞いた。

「なによ、あんた知らなかったの!?ばあやさんが一生懸命止めたのに、礼服でいらっしゃたのよ。」

ああ、ほら、あそこにいらっしゃるわ、と指差すほうを見ると、確かに真っ白の礼服に身をつつんだオスカルが高らかに笑いながら騒ぎを見物していた。
後ろではジャルジェ将軍がオスカルをにらみながら、怒って帰ってゆく客に詫びをこめた挨拶を繰り返している。
アンドレは、張り詰めていた暗い思いが、さーっと薄れていくのを内に感じていた。
オスカルらしい、とほっとすると共にこみ上げてくる笑みを、ジャルジェ将軍ににらまれてなんとかかみ殺す。
あいつらをどうにかしろ、と目で命令する将軍に、同じく目礼で返すと、アンドレはテーブルに群がっている、衛兵隊一同へ声をかけた。

「アンドレ!さすが隊長ん家はいいもん食ってんだな!」
「な、な、これなんっつー肉だよ。俺こんなもん食ったことないぜ」

アンドレを見て口々に、感心したように声をかけてくる。
なかには仲間や家族へのみやげにするつもりか、ナプキンに食べ物を包んでいるものさえいる。
真っ白な上質のナプキンが肉汁にそまっていくのを見た女中が、おもわず天をあおいだ。
乱痴気騒ぎが始まってから、広間の隅にかたまって、衛兵隊が豪奢なテーブルセットを滅茶苦茶にしていくのを見ていた女中達が、まるで、あんたのせいよ、とでもいうように、アンドレを睨み付けてくる。
あとで襲ってくるであろう彼女たちのヤキ入れを思い、アンドレはとりあえず近くにいる者達から、外へ連れ出し始めた。

「な、これ、もらって帰ってもいいかな?」

上着にどっさりパンを包んだ隊員が遠慮がちにアンドレにきく。

「ああ、もってけるもんは持っていっていいから、将軍のお怒りが落ちないうちに取り合えず外へでてくれよ。」

いくらオスカルの許しがあったとはいえ、天下のジャルジェ将軍の屋敷である。
多少の遠慮を感じていた隊員たちは、それでも食べられるだけ食べ、飲み、持てるだけの土産をそこらのナプキンやクロスに包むと満足げに出て行き始めた。

台無しとはこのことをいうのだろう。
ジャルジェ将軍の友人数名と、一握りの貴族を除き、客は早々に立ち去ってしまった。
勿論、踊っているものなどいない。
演奏団も所在無げに突っ立ているだけだ。
ジャルジェ将軍が場を変えるため、客を自分の客間へと誘う。
その中にジェローデルの姿がないのにアンドレは気付いた。
己の中にこみ上げてくるいやな予感をあえて無視するよう努めて、広間の片付けに加わった。

ばあやと女中頭が銀食器の数を数えている。
どうやらどさくさに紛れ、幾つか失敬した者がいたらしい。
染みのついたテーブルクロスやナプキンを抱えた女中は絶望的なため息をついている。

オスカル様も無茶をしなさる・・・

そんな声が聞こえてくるようだ。
舞踏会がぶち壊しになってほっとしていたアンドレも、ちょっとやりすぎだったかもな、と感じながら、壁際に並べられた椅子を片付け始めた時だ。
窓ガラス越しに中庭につづくバルコニーが目に入ってきた。
そこに立っている二人の人物。
オスカルと、栗色の長髪の貴族、ジェローデルだった。
見るな、と心が叫んでいるのに、金縛りにでもあったように目がそらせない。
周りの騒音が一切聞こえてこなくなる。
怒っているようなオスカルにジェローデルが何事かをささやいているようだ。
ふっと、オスカルの表情が和らいだ。
そして、とてもはかなげなまなざしで、ジェローデルを見上げる。
ズキン、とアンドレの心が悲鳴をあげた。

ミルナ、ミルナ、ミテハイケナイ!

今にも逃げ出したいのに、アンドレの足は鉛のように床にすいついて動かない。
ジェローデルがオスカルを抱き寄せた。
オスカルの唇が、ジェローデルのそれに重ねられる。
アンドレはぐらりと、足元が崩れていくのを感じた。
ロウソクが吹き消されたかのように、目の前がふっと暗くなる。
心が血をふいた。
オスカルがジェローデルを押しのけて、中庭へと駆け出していったようだが、それすらもアンドレの頭にはもう入ってこなかった。

気がつくと自分の部屋で一人座っていた。
一本だけ灯されたろうそくが、ぼんやりと辺りをてらしている。
どのくらいそうしていたのか、アンドレは、テーブルの上の小さな紙の包みを睨み付けていた。
頭の中で、さっきの光景が、莫迦の一つ覚えのように繰り返される。

オスカルがジェローデルを見上げたあのまなざし。

絞り上げられられるように、アンドレの心が痛んだ。

オスカルの唇がジェローデルのそれに重なる。

目の前が暗くなる。
暗いのは夜の闇のせいか。
見えなくなってきた目のせいか。
それとも己の心の闇のせいか。

気付けば、硬く握られた手に、じっとりと脂汗がにじんでいた。
鍵をかけられた扉の向こうで、ノックがした。
アンドレは微動だにしない。
じっと紙の包みを凝視しているだけだ。
やがて諦めたのか、訪問者は去っていった。
きっと裏方では混乱して人が足りないのだろう。
申し訳ないが、今はとても手伝える状態じゃないんだ。

今夜差し出された高貴な花は、鋭いとげをもった薔薇だった。
だがその棘をものともせず、見事薔薇を勝ち得た人物がいたというわけだ。
両手に顔をしずめ、ははは、とかすれた声でアンドレが笑う。
手のひらを濡らしているのは、汗なのか、それとも絶望の涙なのか。
闇だ。
自分の前から永久に光が失われたことを理解している心には、底知れない闇だけがあった。


つづく