薔薇の名前 2
強い薔薇の香りが立ち込めていた。
優しい瞳が自分を見つめる。
さしのべられた手が安息を約束している。
この腕に抱かれてしまえば、もうなにも苦しむことはないのだと、思わせた。
この胸に顔をうずめてしまえば・・・。
優しく抱き寄せられる。
甘い疼きが胸に広がり、オスカルの唇は自然に、落ちてくる口付けを受け止めた。
瞬間、強烈な違和感が襲う。
はっ、と目を見開けば、そこにあるのは鳶色の瞳に栗色の髪の男。
ちがう!
心が激しく間違いを指摘した。
思わず両手でジェローデルを押しのけ、中庭へつづく階段を駆け下りようとするオスカルの手を、とっさにジェローデルがつかんだ。
「マドモアゼル!」
「あ・・・」
突然のオスカルの行動に動揺をかくせない鳶色の瞳が、サファイアの瞳をもの問いたげにみつめる。
「貴女を驚かせてしまったのなら、もうしわけありません・・・」
「ち・・がう・・・」
ジェローデルに手をつかまれたまま、オスカルは顔をそむける。
「ちがうのだ・・・お前ではな・・・い」
(お前ではない!私が求めているの・・・は!)
愛しいその唇からこぼれた拒絶ともとれる言葉に、一瞬動揺したジェローデルの手から力がぬける。
その手を振り払って、今度こそオスカルは中庭へと駆け出した。
手の甲で無意識に唇をぬぐう。
ちがう!彼ではない!
脳裏を懐かしい面影がよぎった。
ズキン、と心臓が止まりそうになる。
震えるゆびで何かを思い出そうとするように、唇にふれる。
そうだ・・・私の知っているくちびるは・・・
しっとりと、私の唇を押し包み、忍び込み・・・
私の知っているくちづけは・・・!
脳裏によみがえるのは、遠き日、フェルゼンを想ってパリで酔って暴れて帰った夜、くちびるに落とされた優しいくちづけ。
思い出すのは、辛いとき、黙って胸を貸してくれた幼馴染の温かさ。
わたしが・・・苦しいとき、受け止めて欲しいのは・・・!
気がつけば、いつの間にか裏手の使用人口まで来ていた。
まるで何かを期待するかのように、立ち並ぶ窓を見上げたオスカルの目に、ひとつだけ薄暗く明かりの灯った部屋がとまる。
会って・・・そして、どうしようというのだ・・・私は。
押しつぶされそうに苦しい胸を押さえながら、オスカルはするりと、木戸を開けると中に身をすべらせた。
広間の方がまだ忙しいためだろう。
使用人棟はしん、としずまりかえっている。
誰かに見られるのを避けるかのように、無意識にそろり、と足を進めていた。
あいつの顔をみれば・・・私の昂ぶりをしずまらせてくれる、いつもの落ち着いたあの瞳をみれれば・・・それで・・・
目指す扉の前まで来ると、万感の期待を込めて、軽くノックする。
だが、中からはコトリと音もしない。
オスカルの顔にみるみる落胆の色が広がった。
浮かんでくる涙をおしとどめて、念のため、もう一度ノックしてみる。
だが、返事はない。
莫迦だな・・・今頃私が引き起こした騒ぎの後始末に真っ先に借り出されてるだろうに・・・
さっき見えた明かりは、きっと消し忘れたものだろう。
目頭を指で押さえて、浮かんでくる涙を止めようとした。
混乱している心をあざ笑うかのように、はは、とかすかに笑ってみる。
なにを泣いているのだ・・・そもそもあいつに会ってどうしようというのだ私は・・・己がもてあましているこの胸の苦しみに、名前をつけてもらおうとでもいうのか・・・莫迦な・・・
ゆっくりと、主棟への廊下を歩きながらオスカルは、生まれて初めて経験する、甘く、息が詰まりそうな重苦しさに捕らわれていた。
一夜明けて、すがすがしい初夏の朝が新しい一日を運んできた。
流石に昨夜の茶番のあとでは、父や昨夜泊まっていった客と顔をあわせづらく、オスカルは自室で朝食をとっていた。
お仕着せを着たアンドレが、オスカルにカフェ・オレを注ぐ。
アンドレと目があえば、昨夜のことを思い出し動揺してしまいそうで、オスカルはアンドレの顔を直視できないでいた。
代わりに、カップを渡すその長い、なめらかに動く指を見て言う。
「朝から、さんざんばあやに小言をくらった。
お陰で昨夜は皆、後片付けに大変だったって。」
いつも、あの指が私の髪をなぜ、あの指がわたしに触れる・・・
途端、こみあげてきた胸苦しさを悟られまいと、オスカルはしゃべり続けた。
「昨夜、ちょっとお前の部屋に寄ってみたんだが、留守だった。
はは、当たり前だな。お前も昨夜はいろいろと駆り出されたんだろう。ご苦労だったな。」
オスカルの言葉に、アンドレが何かを言おうと口を開いたとき、ノックがし、ジェローデルの従僕、ミハエルが入ってきた。
「おはようございます。マドモアゼル・ド・ジャルジェ様。
本日もご機嫌うるわしゅう・・・」
オスカルの目が、驚きに見開かれた。
「ジェローデルは昨夜泊まっていったのか!?」
「はい、ご親切にも、ジャルジェ将軍様にお部屋をご用意していただきました。
つきましては、私の主人が是非、オスカル様と朝食をご一緒したいと申しているのですが・・・。」
そうだった・・・彼との事はまだケリがついた訳ではないのだ。
「そうだな、私も彼とゆっくり話をしたいと考えていた所だ。」
オスカルの言葉に明らかにほっとした表情を浮かべて、ミハエルが一旦下がる。
ふと、オスカルは傍らに立つアンドレを気遣うように見上げた。
「もう一人分を用意してくる。」
アンドレの声の冷たさがそのままオスカルの心をつかむようだ。
アンドレ・・・そんな顔をするな・・・。
私は、もう・・・。
そう言ってやりたいのに、のどが詰まって何も言えなくなってしまう。
部屋を出て行くアンドレの後姿を、オスカルはただ見つめていた。
朝食の席にいつもの様に優雅な足取りでジェローデルは歩み寄ると、オスカルの手をとり口付けた。
(私が普通の貴婦人だったら、これ以上の求婚者はいないと思うのだろうな)
テーブル越しに、その品のよい服装や、あくまで優雅な物腰を観察しながら、オスカルは思う。
「なにか・・・?」
蒼い瞳が自分を見ているのに気付き、ジェローデルが問う。
「いや・・・私に妹がいたら、きっとお前のような男が求婚者であれば嬉しいだろうに、と考えていた。」
「ああ、でも私がお慕いしているのは、架空の妹君ではなく、その姉上なのですが。」
「その姉は一生嫁ぐつもりはないそうだ。」
その言葉にジェローデルが意外だという表情をする。
「しかし、その御方を慕う男に、その甘い薔薇に口付けを許されたこともあったのでは?」
ふふ、気障だな、お前は、とオスカルが笑う。
その微笑に勇気付けられたように、ジェローデルはオスカルを抱き寄せると、そのあごに手をかけて自分の方を向かせた。
「あの一瞬に真実な気持ちがなかったと?」
だが、オスカルの心にもう迷いはなかった。
サファイアの瞳が、甘い言葉にたじろぐことなく、じっとジェローデルの目を見つめ返す。
ふと、悲しげに眉をくもらせると、静かに、しかしはっきりと告げた。
「すまない・・・。」
「マドモアゼル・・・」
「分かって欲しい・・・私は、お前とは結婚できない。」
「私の愛情を疑っておいでですか・・・?」
ジェローデルの顔が曇る。
「違う。お前が私を慕ってくれるのを疑いはしない。」
「では何故・・!」
手をほどくと、窓の外を見ながら答えた。
「上手く説明はできない・・・ああ、でも昨夜はっきりと分かったのだ。私は結婚はしない。」
青ざめた顔でジェローデルが問う。
「幸せになるのを敢えて拒むと仰るのですか?」
「結婚することだけが私の幸せになる道だとすれば・・・そうだ。」
「誰にも支えられず、一生を孤独に生きると?」
「一人ではない・・・と、私はそう思っている。」
誰が貴女を支えるというのです!?
あの黒髪の男ですか!?
そう叫びたいのをこらえ、動揺して震える声を抑えつつ、一歩下がるとジェローデルは深く礼をした。
「願わくば、貴女を支える役目を私めにお与えにならんことを・・・!」
私には貴女を私のものにする力があるのですよ!
ああ、貴女の意思など尊重せず、国王陛下に報告さえしてしまえばそれで済むというのに・・・!
それができるジェローデルなら、求婚にこんなに手間をかけたりはしない。
無言で見つめ返すオスカルに、寂しく微笑みかけると、ジェローデルはいとまごいを告げた。
胸に、かつて感じたことの無い嫉妬の炎を感じながら。
扉を後ろ手にしめて、アンドレは深く息を吐いた。
あの後、夜が明けるまでまんじりともせず、深い闇の中に沈んでいた彼に、今朝のオスカルはまぶしすぎた。
彼女が輝けば輝くほど、今の自分は闇に沈んでいくようだ。
ジェローデルを招き入れるということは、昨夜の出来事がオスカルの中で肯定的にとられているということになる。
そして・・・俺はどうなる?
諦めきれず、あいつがジェローデルに対して冷たい態度をとっていたことに、いちるの望みをかけていた俺は・・・なんて愚かだろう。
ジェローデルがオスカルを愛する気持ちに偽りはないだろう。
自分と同じように、永いときをかけて彼女を愛してきたに違いない。
唯一違うのは、彼には求婚する権利があって、自分には無いことだ。
どんなに愛しても、身分のない男の愛は無意味なのか・・・!
アンドレの手が、チョッキの胸ポケットにしまわれた小さな包みにふれた。
「アンドレ」
急に声をかけられて、アンドレは、はっと顔を上げた。
オスカルによく似た声の主は、朗らかにアンドレに微笑みかけると、階段をゆっくりアンドレのほうへ下りてきた。
「奥様、お早うございます。」
慌てて、頭を下げる。
「お早う。昨夜はご苦労様でしたね。」
「い、いえ。」
夫人が自分に声をかけるなど、なんの用だろうといぶかしげにしていると、
「ほほ、たまには貴方に手伝ってもらおうと思って。」
と、ジャルジェ夫人は手にした籠を差し出した。
「庭師が薔薇のしげみに花がついたと教えてくれたのです。
花だけ集めて水に浮かべれば、神経の疲れにきくそうですよ。」
薔薇の棘は鋭く、誰かに花を摘ませるのが貴婦人の常だった。
だが、その役がアンドレに回ってくることは稀だ。
戸惑いながらも、アンドレは籠を受け取った。
目指す薔薇の茂みは、最近ベルサイユで流行っている種で、その花ぶりは小さい。
その分、香りは強く、香をたく代わりに、薔薇を盛ったボウルを部屋中に飾るのが流行っていた。
コーヒーセットを載せた盆を侍女が運んできた。
別の従僕が夫人の後方にパラソルをセットする。
夫人が侍女が持ってきてくれた刺繍台に布をはめ、針を進めはじめる。
その様子はあくまでも平凡かつ平和で、アンドレの胸中とは裏腹に初夏の午前にふさわしくさわやかだった。
白い可憐な薔薇の花を摘みながら、アンドレは以前ロザリーから聞いた花言葉を思い出していた。
白い薔薇は、純潔、高貴を意味するのよ。
まるでオスカル様のようだと思わない?
目の前の白い花が、昨夜のオスカルの純白の礼服姿と重なる。
ついで、その薔薇を手中にした栗色の髪の貴族の姿も。
決して自分のものにはならない花だ。
叫びだしたくなるような焦燥感をこらえ、思わず摘み取った薔薇ごと手を握り締めた。
音もなく、可憐な花は彼の手の中で潰れた。
指をひらくと、握り締められ、黄色に変色した筋をつけた肉厚の花びらがはらはらと地面に落ちた。
その花びらの、思いがけない醜さに驚く。
「ほほ、アンドレにしては随分乱暴に摘んでいること。」
夫人が声をかけられ、アンドレは我にかえった。
「申し訳ありません。棘が刺さったものですから。」
「いいのですよ。怪我はなくて?」
そういうと立ち上がり、アンドレの脇に立つと、いとおしげに一輪の薔薇のつぼみに触れた。
「アンドレ、薔薇の花言葉を知っていますか?」
「はい、確か白薔薇は純潔を意味するとか・・・」
「ほほほ、貴方はさすがによく知っていること。オスカルは花言葉なんて興味も示さないでしょうけれども。」
そういって、隣の茂みから赤い薔薇を注意深く摘むと、アンドレの白薔薇ばかりの籠に、ぽとん、と落とした。
「赤い薔薇は、情熱的な愛・・・。」
ゆっくりと色の異なる薔薇をつんでは、籠に入れていく。
「ピンクの薔薇は、完全な幸福。
黄色の薔薇は、喜びと幸せ・・・」
やがて、あるだけの色が集まると、アンドレに微笑みかけた。
「いろいろな色を集めた薔薇の束は、
"私にとってあなたは全て"
を意味するそうですよ。知っていましたか?」
ぎょっ、としてアンドレは夫人を見た。
「奥様・・・それは・・・」
奥様はどこまでご存知なのだろう。
アンドレの額に冷や汗が浮かぶ。
「わたくしはね、アンドレ、オスカルにはいつかこの花言葉のように殿方をお慕いする日が来てくれればよいと思っているのですよ。
あの子にはこの薔薇の花言葉のように、女としての幸せや愛する人を見つけて欲しいのです。」
(だが、奥様や旦那様が望まれるオスカルの相手に決して俺が含まれることはない・・・。)
「籠がいっぱいになったら、旦那様とオスカルのお部屋に届けておいて頂戴な。
あまり強情を張りすぎることのないようにとね。」
皆がオスカルの幸せを望めば望むほど、自分は彼女から遠ざかるを得ない・・・。
頭を下げて、かしこまりました、と答えるアンドレの胸の内は、さんさんと降り注ぐ日の光の中でも暖められないかのように、冷えていた。
つづく
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