薔薇の名前 3



ジャルジェ家の正面につけられた馬車の横で主人を待っていたミハエルは、随分たってから現れた主人の格好に驚きの声をあげた。

「ジェローデル様!一体どうなさったので!?」
「気にするほどのことではない。馬車を出してくれ。」

ハンカチで丁寧に髪からチョコレートを拭き取りながら、ジェローデルは馬車に乗り込んだ。
金糸の刺繍の施されたダマスク織りの上着には大きく茶色の染みができていた。
向かいに座って染みだらけのネックチーフを受け取りながらミハエルが尋ねる。

「ショコラをかぶられたので!?お怪我はございませんか?」
「大丈夫だ。熱くなかったからな。」
「はぁ・・・ジャルジェ様と何かあったので?」
「いいや、何も無い。ああ、しばらく黙っていてくれ。」

珍しく苛立った声でそういわれては、ミハエルも黙るしかない。
ガタガタと揺れる馬車の窓から新鮮な空気を吸いながら、ジェローデルはたった今のやり取りを思い出していた。



彼に嫉妬を感じたことなど一度もなかった。
四六時中あの方と一緒にいる彼が羨ましくはあったが、所詮従僕の身だ。
どんなにあの方と親しいとはいえ、あの方の夫になれるような身分でもなければ財もない。
求婚をジャルジェ将軍に許されてから、事実、あの方を手に入れるのは時間の問題だと思っていたのだ。

それなのに、あの方の心から彼の事が消えることはなかった。
バルコニーで口付けした時、彼女の瞳はたしかに、そこにいない誰かを探していたのだ。
加えて今朝の一言。

(私は・・・一人ではないと・・・そう思っている)

あれにはぎょっとした。
正式な夫婦としてお互いを支えあっていく関係よりも、今の彼との主従関係のほうを選ぶというのですか!?

どんなに日参し、想いのたけを打ち明けても、私にその心の奥まで見せていただいたことはないというのに・・・!
彼になら、貴女を一生支えていく役目を与えると・・・!

初めて彼に対して激しい嫉妬を覚えた。

階段の踊り場でばったり彼と出くわしたとき、私は自分の中の邪悪な心が頭をもたげてくるのを抑えられなかった。

彼を傷つけたい。
立場をわからせてやる。
あの方を慕うその気持ちを踏みにじり、立ち上がれないようにしてやろう。

『オスカル嬢はやっと私に心をお許しになって下さったよ。あの方の口付けは実に甘くてかぐわしい。』

嘘はいっていない。

彼の顔色がさっと蒼くなったのがわかった。
手に持ったトレーの上のショコラがカタカタと揺れている。

『彼女には新しい生活でできるだけ不便がないようにと考えているのです。
君はずっとあの方に仕えてきたから、急にいなくなっては、彼女も心細いでしょう。
ああ、君はヌーベル・エロイーズを読みましたか。
アンドレ・グランディエ。
私にも妻を慕う召使を側につける位の、心の広さはもちあわせているつもりです。』

口にすることさえ許されない彼の気持ちを、最大に侮辱する言葉だと充分理解した上での発言だった。
だが、私の中の優越感が頂点に達した時、ショコラが襲ってきた。

『そのショコラが熱くなかったのを幸いに思え!』



「ふふ・・・その通りだ。」
「ジェローデル様?」

ミハエルが困惑げに主人を見た。
従僕の方に向き直ると、微笑をうかべて言う。

「私はもう少しで恥をさらして歩くところだったのだよ。」
「???」
「ふふふ。」

彼の誇りある怒りをうけた時、私は自らを恥じたのだ。
従僕相手に本気になってしまったことからではない。
清廉なあの方を愛してしまった男として、あるまじき行動にでたことをだ。

(だが、私は諦めたわけではない)

窓から入る風が、ショコラの香りを吹き飛ばしていった。






空のショコラのカップを厨房に投げ渡し、乱暴にお仕着せをベッドの上に投げ出すと、アンドレは屋敷から逃れるかのように、足早に出て行った。

先刻、薔薇の花を部屋に届けたときは、オスカルの態度は至極普通だった。
それが、ジェローデルとは何もなかったのだと、アンドレを安心させたのに。
所詮、恋に狂った愚かな男の愚かな期待に基づいた、希望的観測でしかなかったのだ。

落ちていた枝を拾い、茂みを力任せに叩いた。
バサッ、バサッ、と茂みが揺れ、葉が散るたびに、昨夜のオスカルのジェローデルを見上げる眼差しを思い出してしまう。

お前は今朝もあいつにその唇を許したのか?
あいつは今朝も愛しげにお前を抱きしめたのか?

屋敷の裏庭の、幼い頃よく遊んだ池のほとりまで来ると、アンドレは思い切り、手にしていた枝を投げ入れた。
ぱしゃ、と小さな音をたてて、波紋が水面に広がる。

幼い頃、なんでもできたオスカルに、アンドレが唯一教えられたことは、石を水面に投げる飛び石だった。
負けん気の強いオスカルはアンドレより沢山とばせるようになるまで、日が暮れるまで夢中で練習したものだ。

見上げれば、二人で登った樫の木がそびえたっていた。
夕日のきらめきが、まるで日の光にきらめく幼い頃のオスカルの髪のようで、アンドレは目をほそめた。

剣の練習で俺を泣かせては困ったようにしていたオスカル。
近衛に入る時、子供時代に決別するように樫の木を見つめていたオスカル。
十代の頃、フェルゼンへの恋を一人で耐え忍んでいたオスカル。
片目を失ったとき、俺のために復讐しようとしてくれたオスカル。
衛兵隊で、体当たりで兵達に立ち向かっていったオスカル。

どの瞬間のオスカルも俺は知っている。
悲しいとき、辛いとき、オスカルが頼るのはいつも俺だった。
あいつが心を許すのは俺だけだったのに。

池のほとりにうずくまると、両手で勢いよく顔に水をかけた。
滴る水滴が涙か水なのか、自分でも分からなくしてから、仰向けに寝転がった。

これからお前が辛いとき、側にいてその重荷を分かち合うのは、あいつ。
毎朝、毎晩、その頬に挨拶の口付けを落とすのは、あいつ。
冬の朝、寒さで冷たくなったその手を温めるのは、あいつ。
困ったとき、お前がその姿を探すのも、あいつ。

そんなお前を見るために、神は俺に光を残されたのか!?
いっそのこと、黒い騎士を追って命を落としていれば、お前はまだ、俺のために涙を流してくれただろうに。

お前が他の男に抱かれる、その同じ屋敷に俺が仕えるとでも、あいつは思っているのだろうか。
そんな地獄の日々を送るぐらいなら、新婚の臥所に押し入り、かぐわしい寝床を血みどろの惨劇に変えてやろう。

ポケットの紙包みを指先で感じながら、アンドレは赤く染まっていく空をにらみつけていた。




「わしは、間違っていただろうか?」

傍らで針を動かしていたジャルジェ夫人は手を止めると、夫を見た。

「あれのために、よかれと思って結婚を勧めたことだ。」
「ほほ、昨夜は大変なことになってしまって。」

柔らかく微笑む。

「まったく。お陰でわしは宮廷で皆に向ける顔がないぞ。
自分の娘を動かせないで、軍が動かせるものか、とな。」
「オスカルは貴方の言うとおりに動く兵隊ではありませんもの。」

微笑みながら手厳しく言う夫人に、ジャルジェ将軍はもう一度はじめの質問を繰り返した。

「後悔しておいでなのですか?」
「そもそも、あれを女として育てなかったのが、わしの最大の誤りだったかもしれぬ。
普通に育っていれば、他の娘達のように今頃子供もでき、幸せに暮らしていたかもしれぬのに。」

ふーっ、とため息をつく。

「こんな混乱に満ちた時代が来ると分かっていたなら、決して軍人としてなぞ育てはしなかった。」

あれは、わしを恨んでいるだろうか、とつぶやく。

夫人は夫を見ると言った。

「恨んでなどおりませんでしょう。
あの子にとって、貴方はいつも目標でしたから。
お父様に認められたいと、そればかりを追って努力してきたのです。」
「わしはその努力に報いることなく、女に戻って結婚しろと言い渡した愚かな親というわけだ。」

子を思う親はいつでも愚かなものと誰かが言っていましたわ、と夫人は笑った。

「あの子はまるで、渡り鳥ですわね。
どんなに危険でも海を越えて渡っていく鳥は、安全な籠の中では幸せにはなれないように。」
「その危険な旅に、一人で送り出すことの怖さを、わしは今やっと感じているのだ。」

(でも、あの子は一人ではありませんわ。)

黒髪の男の姿が夫人の胸中をよぎったが、言葉にすることはなかった。

「もう無理強いはしないつもりだ。幸いジェローデルは気長に待つと言ってくれておる。あれの気持ちが傾くまで待つつもりだ。」
「それはようございました。」

(でも、なぜだかあの子は結婚しない気がします。)

母親の直感でそう感じながら、夫人は再び針を動かし始めた。




夕食を終え、すっかり人気のなくなった食堂で、ばあやはひとつひとつ丁寧にロウソクを吹き消してまわっていた。
最近元気のなかった孫息子が、今夜は久しぶりに落ち着いた風で給仕を務め、主人の冗談に笑みさえ見せていたことに、ばあやはほっとしていた。

彼の秘めた想いは分かっていた。
幼い頃から一緒に育った二人だから、ある意味仕方のないことだとも思う。
だが、どうにもなるものではないのだ。

(まあ、それでもどうにか気持ちに踏ん切りをつけたのかねぇ。)

最後のロウソクを燭台にうつし、食堂を出て行こうとしたばあやの目の前にアンドレが立っていた。

「きゃぁ!」

思わず燭台を取り落としそうになった。

「びっくりさせないでおくれよ!そんなところにぬぼーっと突っ立て!」
「ぬぼー、は酷いな。おやすみの挨拶に寄ったのに。」

アンドレが軽くばあやの頬にキスをする。

「これからオスカルにワインを持っていったら、俺も休むから。」
「ああ、よーくお休み。お疲れさん。」

もうよく見えない目で、記憶をたよりに廊下をすすんでいく孫の後姿を見送りながら、ばあやは、ふと、説明しがたい思いを覚えた。
大したことではないのだが、何かあれ、という感覚にとらわれる。

「大きくなってからは、お休みの挨拶なんてろくろくしに来なかったのにねぇ。」

そうつぶやくと、懸念を打ち消すように頭を振り振り、厨房へと歩いていった。



オスカル付の侍女が廊下でアンドレとすれ違った。

「お疲れ様。そのワイン、オスカル様に持っていくの?」
「ああ。」
「私はアイロン部屋にいるから、お休みになられる時は呼んで頂戴な。」
「ああ、わかった。」
「お休み、アンドレ。」
「お休み。」

使用人棟へ続く階段を下りながら、彼女はふと足を止めた。

(あら?)

さっきのアンドレに確かに違和感を感じたのだが、なんだったのだろう。

(ああ、礼装のお仕着せなんか着てたからだわ。)

でも何故かしら、という疑問は、アイロン部屋で女中達との噂話に加わる頃には、彼女の頭から消えていた。




グラスを傾けながら、オスカルは赤ワインの芳香を楽しんでいた。
グラスの縁越しに黒髪の幼馴染を盗み見る。

ヌーベル・エロイーズを読んで涙を流していた私に、彼は、そうか、お前も読んだか、とだけ言うと、黙ってワインを渡した。
彼がそれ沈黙が今はありがたかった。

読後の余韻に浸りながら、オスカルが微笑む。

「なにか?」

アンドレがいぶかしげに尋ねた。

「いや、突然、昔を思い出した。
覚えているか?幼い頃はよく、父上の書斎に忍び込んでは一緒に本を読んだ。」

走馬灯のように、脳裏に彼と共に過ごした日々が思い起こされる。

剣の練習で私に泣かされていたアンドレ。
近衛に入る時、子供時代との決別に躊躇する私の背中をおしてくれたアンドレ。
十代の頃、フェルゼンへの恋を耐え忍んでいた私を、黙って支えてくれたアンドレ。
片目を失ったとき、愚痴ひとつ言わなかったアンドレ。
衛兵隊で、体を張っていつも私の味方でいてくれたアンドレ。

どの瞬間のアンドレも私は知っている。
悲しいとき、辛いとき、いつも頼れるのはアンドレだった。
私が心を許せるのはアンドレだけだった。

そして私が傍にいてほしいのは・・・

オスカルはゆっくりとグラスに唇をつけた。


一瞬何が起こったのか分からなかった。
アンドレが何か叫んだ気がする。
オスカルの目は、スローモーションのように、床に落ちて砕けるグラスを追っていた。



つづく