薔薇の名前 4
アンドレは手にした布巾で床のワインを拭った。
白い布がみるみる真っ赤に染まっていくその色は、蝋燭の明かりの下で、まるで血のようにどす黒い。
まるで心に巣食っていた悪性のデキモノが破裂し、毒を含んだ血が流れたようだ、とアンドレは思った。
一滴も残さないように丁寧に床を拭きながら、アンドレは取り返しのつかない間違いをしなくて済んだ事を、神に感謝していた。
なんという思い上がりだろう。
なんという自分勝手な。
愛すれば、何をしても許されると?
愛の名の下ならば、お前の命を奪ってもよいと?
お前の命はお前のものであって、他の誰のものでもないのに。
おまえ自身が、誰のものでもない、自由な存在であるというのに。
いつから俺はお前が自分のものだと自惚れるようになった。
片目を失っただけでなく、俺はお前への愛ゆえに何も見えなくなっていたのか。
鼻腔をかすかな薔薇の香りがくすぐった。
初夏の夜のさわやかな風が、ボウルに盛られた薔薇の香りを部屋中に満たす。
初めにワインを持ってきたときには気がつかなかった香り。
窓の外では月明かりが瑞々しい木々に美しい影を落としていた。
美しい、と思う。
何故今まで見えなかったのだろう。
生きて、呼吸しているオスカルこそが美しいということを。
彼女が存在するこの世界がこんなにも美しいのに。
今ならば何にでも耐えられると思った。
床を拭く手を止めて、アンドレは近づいてくる足音に耳をすました。
代わりのワインを持って部屋にやってきた時、オスカルは居なかった。
聡い彼女のことだ。
ワインに何が入っていたのか、アンドレが何をする気で居たのか、気付いただろう。
違う形であったにせよ、二度も自分はオスカルを手にかけたのだ。
覚悟はできていた。
願わくば、旦那様の手で成敗してもらわんことを。
ワインに染まった布を手桶にしまうと、アンドレはひざまづいたまま、じっと足音が近づいてくるのを待っていた。
部屋に入ったオスカルが目にしたのはアンドレの背中だった。
彼が部屋に戻ってきたことに安堵を覚えながら、オスカルはアンドレから数歩下がったところで歩みをとめた。
アンドレの背中を見つめる。
この男の存在が愛しい、と思った。
せつないまでに。
アンドレ、とかすかに呼んでみる。
その声を待っていたかのように、アンドレがゆっくりと立ち上がった。
蝋燭の炎で、アンドレの影がゆらり、とゆれる。
それが彼のはかなさを語っているようで、思わずそっとアンドレの背中に手を添えた。
びくん、とアンドレの体が反応する。
(どこへもいくな)
声にならない声でそう呼びかけながら、オスカルはゆっくりアンドレの腰に腕を回した。
そっと、壊れ物を抱きしめるかのように腕を伸ばしながら願う。
どこへもいくな、と。
アンドレは何も言わない。
オスカルは背中越しに、アンドレの鼓動を聞いていた。
アンドレが何をしようとしていたのか悟った瞬間、内にこみ上げてきたのは怒りだった。
ここまで彼を追い詰めた自分の結婚話に、いいようのない憤りを感じていた。
自分の結婚とは、こんなにまで彼を苦しめるに値する程、ジャルジェ家にとって大切なものなのか。
アンドレが出て行ってすぐにオスカルは夫人の部屋へ向かっていた。
震えるこぶしを握り締め、母に問う。
なんの為の結婚なのかと。
夜更けの娘の急な訪問に驚きつつも、夫人は優しくオスカルの頬を両手ではさむと答えた。
お前を安全なところへやりたいという、親の願いだと。
「・・・すまない。」
アンドレの声が背中を通して耳に直接伝わってきた。
「俺は・・・どうかしていた・・・。」
「私こそ、すまない。
お前が苦しんでいることに気付きながら、なにもできなかった。」
アンドレがやさしく微笑んだのが背中を通してわかる。
その大きな手がそっと、腰に回されたオスカルの手に重ねられた。
「俺の苦しみは俺の勝手であって、お前のせいではない。
そんなことにも気付かず、俺は自分の苦しみにお前を巻き込もうとした。」
「それでいい。
私はいつもお前に頼るばかりで、お前になにもしてやれない。
お前が苦しまないですむのなら、私はなんでもするぞ。」
ああ、とアンドレが息をついて腰に回された腕をほどき、オスカルに向き直る。
(では、俺を愛してくれ)
心でそうつぶやきながら、茶化したように言う。
「気を付けろ。そんなことを言って後が怖いぞ。」
「冗談にするな。私は本気で言ったんだ。」
澄んだ蒼い瞳がアンドレを見あげた。
この瞳に見つめられて、どうして卑怯な真似ができようか、と思う。
「お前が幸せであれば、俺はそれでいい。」
本心だった。
ジェローデルと結婚することでオスカルが幸せになるのであれば、それでいい、と今なら思えた。
この世界の美しさに心がふるえた時、しのび来る時代の変化に思いを馳せた。
ジェローデルならば、オスカルを安全な所へ連れて行って幸せにしてやれるだろうか。
初めて、アンドレはこの美しい人を守れるならば、己は地獄の業火に何遍焼かれてもかまわない、と心から感じていた。
「ふふ、私だってお前が幸せならそれでいい。」
言って、オスカルは自らの科白にはっとした。
(愚かな、私は何を言っているのだ)
アンドレが何を望んでいるのか、私は知っているのに。
そして、それをかなえてやれない自分が居ることも。
「あ、アンドレ、私は・・・」
アンドレの瞳をまっすぐに見れず、目を泳がせるオスカルを、アンドレは優しく見つめた。
素早く、そっと、その美しい頬に口付けを落とす。
「ふふ、そう言ってくれただけで、俺には充分だ。」
そんな彼が切なくて、オスカルは額をアンドレの胸に預けながら、言葉でなく、直に心が伝わればいいのに、と思った。
自分にとって彼がいかに大切な存在か、解って欲しいと思う。
きっと一人ではもう生きていけないほどに。
それが愛かと問われれば、解らない。
待ってくれ、と心の中でつぶやいた。
もう少し、待って欲しい、アンドレ。
もう少ししたらきっと、この感情に名前が見つかる気がするから。
くしゃくしゃ、とアンドレの大きな手がオスカルの髪をなでた。
「さあ、もう寝たほうがいい。明日は仕事だ。」
「ああ、そうだな。」
名残惜しげに体を離すと、笑みを浮かべてお互いを見詰め合う。
もう大丈夫だ、と思った。
「また明日。」
「ああ、明日。」
新しい一日。
新しい何かが始まろうとしている。
扉をしめて、オスカルは大きく息を吸った。
夜風までもが新鮮に感じられる。
薔薇の香りを胸いっぱい吸い込みながら、オスカルの頬に笑みが広がっていった。
<エピローグ>
夜着に着替えながら、夫人は深いため息をついた。
今さっきまで、末娘がひざまづいていた椅子に目をやる。
あんなに取り乱したオスカルを見るのは初めてだった。
蒼白の顔で、自分の膝にしがみついてきたオスカル。
(お教えください。
わたくしの結婚は、結婚して跡継ぎを生むということは、どんな犠牲を払ってもジャルジェ家にとって成らねばならないことなのですか?)
サファイアの瞳は、もしそうであれば自分にも覚悟がある、と物語っていた。
あまりの思いの行き違いに驚いた。
ジャルジェ家の為が理由で勧めた結婚ではないというのに。
素直になれない父娘が今までどんなやり取りをしてきたのか。
愚かな。
苦しむ娘の頬をなでながら夫人は告げた。
家のためではないということを。
子の安全を案じてゆえのことだったと。
そしてここまで娘を苦しめたことを後悔していることを。
ああ、と安堵のため息がオスカルの口をついて出た。
(そうでしたか)
母の膝に顔を埋め、心から安心したかのように、ゆっくりと微笑んだ。
それは母親ながら、見とれてしまうような、美しい笑みだった。
(お騒がせしました。有難うございます。
これでオスカルは進んで行けます)
寝台に横たわりながら、夫人は、そう言った時の娘のはればれとした顔を思った。
変わりつつあった何かがオスカルの中で変化を遂げたと、そう感じた。
それは、オスカルにとって望ましいものに違いない。
けれど、わたくし達にとっては・・・。
形容しがたいかすかな不安が胸中に広がるのを、夫人は感じていた。
さざめく木々の葉擦れが、迫りつつある時代の変化の足音の様に思えて、夫人は軽く身震いをした。
開けられた窓が初夏の夜風を招きいれ、ボウルに盛られた薔薇の香りが部屋中を満たす。
けれどその香りがこの先、夫人を安らかにさせることはなかった。
終わり
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