ホットワイン
オスカルは朝から下腹部の鈍い痛みに耐えていた。
春だというのにしとしと降り続く雨で気温は低く、三部会会場の大理石の床からは冷気が立ち上ってくるようだ。
軍靴のかかとから腰にかけて存在する鈍い痛みを紛らわそうと、時折、会場の警備箇所から箇所へと兵士の様子を見に巡回してはいるが、朝から立ちっぱなしには変わりなかった。
「隊長。」
アランら一班が巡回してきたオスカルとアンドレを見止めて声をかけた。
「ご苦労様。異常はないか。」
「特にないです。柵の外の見物人もいたって静かなもんです。」
「そうか。ああ、アラン、シフト変更表をとりに私の部屋まで来てくれないか。一応お前にも目を通してもらいたい。」
「あいよ。」
アラン、アンドレを連れてオスカルは議会内の司令官室へと向かった。
アンドレがアランにせっつかれて三部会の進行状況を話してやっている。
その声がまるで遠くから聞こえてくるようにオスカルは感じていた。
下腹部の痛みは、冷えとあわさってますますひどくなっていく。
司令官室に行けばとりあえず腰を下ろすことができる、と自分にいいきかせた。
急に静かになったオスカルに気付いたアンドレが、オスカル、と声をかけた瞬間、オスカルは自分の顔から、さーっと血の気が引くのを感じ思わず両手でアンドレの腕にしがみついていた。
「オスカル!」
「隊長!」
ああ、気持ちが悪い。吐き気がする。
立っていられず、アンドレの腕にしがみついたまま、オスカルはその場にしゃがみこんでしまった。
「オスカル、部屋まで運んでやる。」
「馬鹿、屋敷じゃないんだ。お前に抱かれて議場内をうろつくわけにはいかん。」
膝に手をあて、屈伸する形でオスカルは何とか立ち上がる。
だがその顔色は蒼白だ。
「司令官室まで歩けそうか。」
アンドレが背中に手を回しながら聞く。
首をかすかに横に振って、苦しい息の下で答える。
「ただの貧血だ。少し休めば大丈夫だ。」
「軍医を呼んできましょうか。」
アランが心配そうに言った。
「大げさに騒ぐな。ただの貧血だ。」
肩で大きく息をするオスカルを支えながら、アンドレが傍らのアランを見た。
「アラン、すまないが一足先に司令官室へ行って、暖炉に火をおこしておいてくれるか。」
「ああ、勿論だ。」
火など、このご時世に贅沢だ、というオスカルの抗議には耳を貸さず、アンドレから鍵を受け取ると、アランは階段を三段抜かしで駆け上がっていった。
「ほら、ここに腰掛けるといい。」
壁に半ドーム型に大きく取られた飾り棚の大理石の腰板へとオスカルを導く。
飾ってあった花器をずらし、埃を払うと、オスカルをそっと導いた。
「俺の肩に頭をあずけろ。そのほうが楽だろう。」
いわれるまま素直にアンドレの肩に頭を預けると、すまない、とつぶやく。
「謝ることなどない。ここんとこ激務続きだ。男だってばてる。」
「疲れだけではない・・・」
小さな声で、月のものだから・・・、と加えた。
「すまん。知っていたら朝からこんな立ちっぱなしになどさせなかった。
気付かなかった俺の責任だ。」
「ふふ、こんなことまでお前が責任を感じる必要はない。」
きりきり、とした痛みが下腹部に走り、思わずオスカルは手をあてた。
「痛むのか。」
「ああ、ばあやの薬もこの天気ではきかないようだ。
すまない、お前にもアランにもこんなことで迷惑をかけてしまった。
つくづくこんなものなければいいと思うぞ。」
「迷惑などと思うな。辛ければそう言ってくれ。」
だが、アンドレはオスカルが辛いなどといわないことを知っている。
女ゆえの辛さは理解されないだけでなく、だから女は、といわれかねないことを知っているから、オスカルは黙って痛みに耐えるのだ。
だから、オスカルの体調を見計らって仕事のアレンジをするようアンドレは勤めていたのだが。
歩けるようになったオスカルを支えて、アンドレが司令官室につくと、アランが心配そうに出迎えた。
暖炉からは暖かい空気が流れてくる。
気を利かしてくれたのだろう、暖炉の前には長いすが応接室から運ばれて置いてあった。
「有難う、アラン。
オスカル、アランの気遣いだ。長椅子に横にならせてもらえ。」
本来なら司令官室で寝そべるなどしないオスカルも、アランの心遣いをありがたく受けることにして、軍靴を肘掛にのせる形で横になった。
暖炉の火が冷えた下腹部へ暖かい。
「本当に大丈夫ですかい。」
「ああ、大丈夫だ。心配をかけてすまないな。」
「別に心配なんてしてませんぜ。
しっかり休んでくれないと、隊長に倒られちゃ困るからよ。」
オスカルを見下ろしながら、照れたようにアランが言う。
「アランの言うとおりだ。しっかり休め。」
自分を心配する二人の黒髪の男たちを見上げながら、無性にオスカルは気恥ずかしくなってきた。
「休め休めといわれても、そう見下ろされていたのでは、休みづらいんだが・・・。」
そりゃそうだ、とアランとアンドレが顔を見合わせて笑う。
「何か温まるものを持ってきてやるから。鍵をかけていくから、少し心置きなく休め。いいな。」
警備詰所の台所へ向かうアンドレに付き合いながら、アランがつぶやいた。
「隊長ってよ、やっぱり女だったんだな。」
「何だ今更。」
雨で濡れた頭を手でくしゃくしゃかきながら、上手く言えねぇんだが、とアランが続ける。
「いや、女って大変だな、って思ってよ。
ディアンヌも割と辛そうにしてたけど、アレだろ、貧血のワケってのはさ。」
こいつ、結構カンがいいな、と思いながらアンドレは耳を貸す。
「それに加えて、俺たちだってバテちまいそうな激務の連続だ。」
「良くやってるといいたいのか?」
「いや、それもそうだが、なんっつーか、支えてやんなきゃ、みたいな。」
アンドレが口角に笑みを浮かべて自分を見ているのに気付いたアランは、慌てて叫んだ。
「お前、今俺が言ったこと忘れろ!間違っても隊長にいうんじゃねーぞ!」
「何でだ、オスカルが聞いたら喜ぶぞ。素直にそう言ってやればいいのに。」
「うるせぇ、こんなこと口が裂けたって言うか!
あっー、なんだよ、その笑いは!
テメェまた俺のことケツが青いだの、思ってるだろ!
っかーっ!付き合ってらんねぇぜ!」
そういい捨てると、軍靴の音も高く、回れ右をして歩き出してしまう。
「おい、台所へ付き合ってくれるんじゃなかったのか。」
「俺はそんなに暇じゃねぇんだよ!」
お前が言い出したくせに、と足早に歩き去るアランの後姿にアンドレは笑い出していた。
香り豊かな甘いにおいでオスカルは目を覚ました。
いつのまにか眠っていたようだ。
暖炉の火がはぜる音がする。
一瞬屋敷に居るような錯覚を起こす。
肩にはアンドレの上着がかけられていた。
だが香りの元は見えない。
「アンドレ?」
「ああ、もう起きてしまったのか?」
以外に近くで声がしてオスカルは長椅子に起き上がった。
すぐ脇の書き物デスクで仕事をしていたらしいアンドレが、歩みよる。
「具合はどうだ?」
「ん、一眠りしたからもう大丈夫だ。」
オスカルが、いい匂いがするな、と、くんくん辺りを嗅ぐのに気付くと、アンドレは湯煎にしてあったデカンタをオスカルに示した。
「ホットワインか!」
赤ワインを暖めたものにシナモンやナッツ類のスパイスを入れたホットワインは、オスカルの好物だった。
アンドレがグラスに注いでくれるのを、長椅子ごしに見ながら、ふふふ、とオスカルが笑う。
「まるでノエルみたいだ。」
「ちょっと季節外れかとも思ったが、温まるのにはこれが一番だからな。」
ふーふーしながらワインを口にするオスカルの隣に腰を下ろしながら、アンドレは自分の上着をひざ掛け代わりにかけてやった。
「司令官室で私一人がこんなに温まっているなど、外で雨に濡れている皆に悪いな。」
「気にするな。養生と贅沢は違うんだ。
休むべきときに休まないと、いざという時に倒れたら、それこそ皆に迷惑だぞ。」
「ふふ、小言はいらないぞ。」
オスカルが頭をアンドレの肩に預けてきた。
アンドレが腕をオスカルの肩にまわし、指先で優しく髪をなでる。
気持ちよさそうに目を瞑って、オスカルはアンドレに体を預けていた。
オスカルの結婚話が立ち消えになって以来、オスカルは以前よりもアンドレとの心の距離が縮まったと感じていた。
お互いあの件では苦しんだ分、前より一層絆が強くなったのかもしれない。
以前はアンドレにさえも中々弱音を言わなかったオスカルだが、最近は疲れた時は素直にアンドレにもたれかかるようになった。
それがアンドレには嬉しい。
一生、男としては見てもらえなくても、これ以上オスカルに必要とされている人間は、自分以外にいないと感じられるからだ。
アンドレにはそれで充分だった。
「アンドレ。」
ん?、とアンドレがオスカルを見る。
「いや、何でもない。」
「なんだ、変な奴だな。」
このままずっとお前とこうしていたいな、といいかけた言葉をオスカルは飲み込んだ。
口に出してしまうと、却ってこの心地よさが失われてしまう気がして。
そのままアンドレの体温を肩越しに感じながら、オスカルは、胸のうちに広がるこの温かいものは、ホットワインと暖炉の火によるものだけではないと、漠然と感じていた。
ホットワインの温かい芳香が二人を包んでいた。
Fin
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