贈り物 1


西の空がほんのりと赤く染まる頃、私は兵舎の門をくぐろうとしていた。
ブイエ将軍に呼び出されて、わざわざひとりで出かけたのだが
待たされた挙句、このような書類一枚を渡されておしまいとは。
ブイエ将軍の嫌がらせにも困ったものだ。
そういえば、もう日が傾きかけている。
今日の仕事はこれでおしまいにして、アンドレと一緒に帰ることにしようか・・・。

・・・アンドレと一緒に。

その一言に頬が染まる。
そう・・・、私は気がついてしまった。
長い間、気がつかぬように心の奥底に隠しておいた彼への想い。
それが堰を切ったように、溢れ出してしまった。
声を探し、姿を追い、そしてそのぬくもりに包まれたいと希わずにはいられない。
だが、アンドレはこの想いにまだ気がついてはいない・・・。

「隊長〜!」
門をくぐると数人の隊員達が私の元へと駆け寄ってきた。
「如何したんだ? そんなに慌てて。」
「大変です。アンドレが、アンドレが。」
その言葉に頭から血が引く思いがした。
「アンドレが如何したんだ!」
「は、はい。アンドレがバルコニーから落ちて・・・。」
「バルコニーから? それより、アンドレは大丈夫なのか? 怪我は?」
「怪我は酷くないようですが、意識が戻らなくて・・・今はお屋敷に。」
「意識が戻らないだって? 一体、なんでバルコニーから落ちたんだ!」
「あ、あの、どうも手すりの所が朽ちていたようで・・・。」
「朽ちていただと? 一体ここの管理はどうなっているのだ!
それで、アンドレの命に別状はないのだな。」
「はい。ただ意識が戻らないのが心配だと軍医が言っていましたが。」
「そ、そうか。ありがとう。
・・・私はこのまま屋敷に戻る。後のことはよろしく頼むとダグー大佐に伝えてくれ。」
すぐさま屋敷へと馬を走らせたが、全速力で走る馬のスピードさえもどかしく感じる程、
『アンドレの意識が戻らない』、その言葉が私を締め付けていた。

屋敷に戻るとすぐさま彼の部屋へと向ったが、すぐには扉を開ける事が出来なかった。
この中で彼は一体どうなっているのか、そう思うだけで体が固まってしまったように動かないのだ。
大丈夫、大丈夫、と心に言いきかせながら扉を開けようとした瞬間
扉が内側から開き、ばあやが涙をいっぱいにためながら出てきた。
「お嬢様・・・。」
「アンドレの具合は如何だ?」
私の問いに、ばあやの瞳からはたくさんの涙を零れ落ちた。
「・・・はい。怪我は酷い打撲と、かすり傷程度なんですが・・・。」
「まだ、意識は戻らないのか?」
「いいえ、意識は戻ったのですが、・・・それが。」
「ばあや! 一体如何したというのだ!」
「覚えていないんです。あたしの事もジャルジェ家の事も。もちろん自分の名さえ・・・。」
そう言うとばあやはその場に泣き崩れてしまった。
私はばあやの言葉が理解できなかった。

アンドレが何も覚えていない?

ばあやをその場に残し、勢いよく扉を開け彼の部屋に入ってみると
そこにはいつもと変わらないアンドレがベッドの上に座っていた。
ゆっくりと彼の傍まで近づいてみる。
私を見上げる黒曜石の瞳、その瞳の色は変わらない。
だが、いつもと違う。
あの優しく包み込むような輝きがないのだ。
「・・・アンドレ?」
その問いに彼は小首をかしげながら言った。
「あなたも私の事をアンドレと呼ぶのですね? やはり私はアンドレというのですか。
すみません、一体、あなたはどなたでしょうか。
先程、目が覚めてから・・・何も思い出せないんです。」
愕然とした。
アンドレが、あのアンドレが私を覚えていないなんて。
本当の事を言うと自信あった。
ばあやの態度から、これが冗談ではない事はわかってはいたが
もし本当に記憶を失っていたとしても、私の姿を見ればきっと思い出してくれると。
それは単なるうぬぼれだったのか。
「アンドレ! いい加減にしろ! 私がわからないというのか?
そんな冗談許さないぞ!」
彼の肩を掴み怒鳴ってみても、彼の表情は困惑以外何ものでもない。
「すみません・・・。」
「アンドレ!」
殴りかからんばかりの私の姿を見たばあやが飛んできた。
私にしがみつき、許してやってくださいと泣くばあやを見て私の手は止まったが
そんな私達の姿を見ていても、彼の瞳に輝きは戻らなかった。

次の日、アンドレの部屋を覗くとまだ眠っているようだった。
仕方がないので兵舎に行くと、隊員達がアンドレの様子を尋ねてくる。
ここで本当の事を言っても混乱を起こすだけと
怪我は酷くはないが大事をとって暫く療養させると告げた。
そんな私の耳に意外な言葉が入ってきたのは、
まったくと言っていいほど仕事が手につかず、中庭を散策している時だった。
「おい、本当に事故だったのか?」
誰だかはっきりとはわからなかったが、隊員の声が聞こえてきた。
「お前だってあのバルコニーを見ただろう。あんなに朽ちてちゃ危ないわな。」
「そりゃあそうだが・・・。」
「何だよ、何が言いたいんだ?」
「いや、何。アンドレの奴、自殺でもしようとしてたんじゃないかなってさ。」
「自殺? あいつがか? そんな事ないって。」
「そうか? あいつのご執心の隊長さんには結婚話が出ているんだぞ。
もともと、高嶺の花だが、他の男に取られるとなりゃ、自殺のひとつもしたくなるんじゃないか?」
「まあな。あいつ、隊長一筋だからな。
あれほどの男だったらいくらでも他に女を作れそうなのに、全く馬鹿な奴だよ。」
「ああ・・・。」
それ以上は離れてしまったので聞き取れなかったが、全く考えもしなかった言葉。

自殺・・・。

ほとんど進まない仕事を放り投げると、アンドレを見てくれているラソンヌ先生を尋ねた。
先生が言うには・・・。
記憶喪失と言っても、一生記憶が元に戻らないわけではない。
何かのきっかけで思い出す事もある。
もちろん、それがいつになるか、何がきっかけになるかは医者である先生にさえもわからない。
もしかしたら長い間このままかもしれないとも。
ただ、私をひきつけた言葉。
人には嫌な体験・・・それが辛ければ辛いほど
無意識のうちに心の奥底に閉じ込めてしまおうとする事がある。
それは封印され、初めからその嫌な体験はなかったと、思い込もうとする事があるのだそうだ。
そして、実際、その嫌な体験はその人の記憶から消し去られてしまい
思い出すという事さえなくなってしまう。
もし、そうなると記憶が戻る事が良いことなのかと先生は言っていた。
もちろん、アンドレにはそんな事はないと付け加えてくれたが。

思い出したくないほどの記憶。
それは、私の事なのだろうか。
全てを忘れてしまうしかないほど、彼は追い詰められていたのだろうか。
それに隊員達が言っていた『自殺』という言葉。
自分の存在さえ消し去ってしまいたかったのか。
何故、私は自分の想いに今まで気が付かなかったのだろう。
もっと早く自分の心の内と向き合っていたら、こんな事にはならなかったのかもしれない。

毎日、仕事に行く前と帰ってきた時、アンドレの部屋を訪ねた。
彼はあの日から私の事を『オスカル様』と呼ぶ。
ばあやが私と彼の関係を教えたのだろう。
昔から、ばあやはアンドレに『オスカル様』と呼ぶよう言っていたが
冗談や正式な場以外で彼が私の事を『オスカル様』と呼ぶ事はなかった。
これが現実なのか・・・。

私の事を忘れ一週間。
さすがに仕事が手につかないとは言ってもいられず
急ぎの書類だけでもとやっていたら、すっかり夜更けになってしまった。
こんな時間にまだアンドレが起きているとは思えなかったが
せめて寝顔だけでも見てみたいと彼の部屋をノックした。
「アンドレ、起きているか?」
「はい、どうぞ。」
何度聞いても聞き飽きない愛しい声が部屋の中から聞こえてきた。
「まだ、起きているのか?」
「はい、なかなか寝付けなくて。オスカル様は今お帰りですか?」
「ああ、仕事がたまってしまって。」
そう言いながら、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
「私がこんな事になってしまったせいで、ご迷惑をおかけしているのですね。」
「いや、そんな事はない。気にせず、ゆっくり療養してくれ。」
「ありがとうございます。あの、・・・ひとつお聞きしても宜しいでしょうか。」
「うん?」
「何故、オスカル様は毎日私の元に訪れてくださるのですか?」
「迷惑か?」
「いえ、まさか。
ただ、オスカル様程の方が自分の従僕とはいえ、
このように毎日訪れてくださる事が不思議なんです。」
「フフ、早く記憶を取り戻してほしいからだ。
私と話す事で記憶が戻るきっかけがあるかもしれないだろう。」
その言葉を聞いたアンドレは満面の笑みを浮かべた。
「そのお言葉、嬉しいです。
私が何もかも思い出すことを望んでおられるという事は
きっと、記憶を失う前の私は、オスカル様のお役に立てていたのですね。」
何日ぶりに見た彼の笑顔だろう。
一体、いつになったらお前は私を見て、それだけで笑顔をくれるのだろうか。
それに、役に立っていただなんて。
役に立つどころか、お前がいなくては生きていけないのに、・・・それさえもわからないのだな。
気が付くと涙が零れていた。
「オ、オスカル様、一体どうなさったのですか?」
その問いに答える代わりに、彼を抱きしめていた。
「オ・・・。」
「何も言うな。・・・このまま、暫く・・・お願いだから。」
とめどなく零れ落ちる涙をどうする事も出来ず、彼のぬくもり、匂いを抱きしめていた。