贈り物 2
彼の記憶がなくなって、早や二週間。
日に日にアンドレの表情は暗くなり、あの日以来、彼の笑顔を見る事はなくなっていた。
本当にこのまま記憶は戻らないのではないかと、恐ろしい考えが頭を支配する。
このままでは絶対嫌だと思いつつ、といって記憶を取り戻す方法など思い浮かぶわけでもない。
それにラソンヌ先生の言葉が私を縛り付ける。
記憶を取り戻す事が彼の幸せなのかわからないが、それでも今の状況を少しでも変えたい。
久しぶりの休日、今日はあの泉で二人きりで時を過ごそう。
アンドレの部屋をノックすると部屋へ入った。
彼は椅子に座りながらぼんやりと窓の外を眺めていたが
私が部屋に入ってきた事に気がつくと、ゆっくりとお辞儀をした。
「アンドレ、調子は如何だ?」
「・・はい、おかげさまで。」
「なあ、アンドレ。今日はこんなに天気も良いし、外に出かけないか?」
しかし、彼はゆっくりと目をそらしながら答える。
「ありがとうございます。しかし、気が乗りませんので。」
「アンドレ、部屋に篭ったままでは記憶だって戻らないぞ。
少しは外の空気を吸った方がいい。
そうすれば記憶が戻るかもしれないではないか。さあ、行くぞ。」
彼の腕を取ると立ち上がらせようとしたが、彼は私の瞳を見ようともせずぽつりと呟いた。
「オスカル様、それは命令ですか?」
その言葉が私をいらだたせた。
何故、彼は記憶を取り戻さない。
それは私への罰なのか。
私がいつまでも自分の想いに気がつかなかったことへの、神からの罰なのか。
それとも、アンドレ、お前からの罰か?
そんな思いが私の口調をきついものにしていた。
「そうだ、命令だ。出かけるぞ。」
その言葉を聞いたアンドレは、力なく瞼を閉じると静かに立ち上がった。
「・・・わかりました。用意をするので少々お待ちください。」
その言葉を聞くと、私はアンドレの部屋を出て扉を閉じた。
瞳からは涙が零れていた。
今までならば二人で馬を走らせてやってきた泉も、今日は馬車での到着だった。
御者には迎えに来てもらう時間を指定して、帰ってもらうことにした。
ただ、二人っきりで時を過ごしたかった。
泉の傍に並んで腰掛けたが、アンドレの表情は相変わらず暗い。
「なあ、アンドレ。この泉には小さい頃からよくやって来ていたよな。
小さいころの事も覚えていないのか?」
「・・・はい。」
彼は私の顔を見ようともせず静かに答える。
「この泉でお前は溺れそうになったのだぞ。いくつの時だったかな。
岸の所が前日の雨のせいでぬかるんでいたのに気がつかなくて、滑って泉に落ちたんだ。
お前は大騒ぎをして、大声をあげていたのだが、本当は足が着く位の深さで。
ハハハ・・・、びしょぬれになりながら泉から出てきたお前は、
恥ずかしそうに顔を赤くして、私に笑うなと怒ったのだ。
・・・本当に覚えていないのか?」
彼の頬を両手で包むと、私の瞳を見ようとしない彼の顔を私のほうへと向けた。
しかし、彼は目をそらそうとするだけ。
そんな姿を見た時、彼への想いが溢れ出るのを止める事はできなかった。
そっとその唇に口付けた。
刹那、彼は大声をあげた。
「オスカル! お前・・・。」
「アンドレ?」
驚く表情の彼の瞳は、次第に怒りの色へと変わっていった。
「お前は俺の記憶を取り戻すためなら、好きでもない奴にも口付けるのか?」
怒る彼の唇から零れた言葉。
それは待ち望んだ言葉だった。
「ア、アンドレ。・・・思い出したのか?」
「ああ。・・・いや、思い出したんじゃない。もともと思い出していたんだ。」
「もともとって・・・。いつから?」
「そんな事はどうでもいい。
お前は好きでもない奴と口づけするのかと聞いているんだ。」
アンドレは私の行動が理解できないようで、憤っているようだったが、
私にとってはそんな事こそ如何でも良かった。
アンドレの記憶が戻っていたのだ。
堪えきれず彼の広い胸に倒れこむと、子供のように涙を零した。
「オ、オスカル? おい、泣いているのか?」
「アンドレ、・・・良かった、本当に。
このまま、お前の記憶が戻らなかったらと思うと、胸が張り裂けそうだった。」
「・・・そうか、すまない。
記憶が戻ってない振りなんかしたせいで、お前に口付けまでさせてしまったんだな。」
彼はゆっくりと私を離すと、すまなそうに話した。
「違う、アンドレ。」
「いや、すまない。辛い事をさせた。」
「違う!」
そう言うと、もう一度その唇にそっと口付けた。
「オスカル・・・。」
「違う、聞いてくれ。お前の記憶を取り戻すために口付けたのではない。
私が口付ける相手は・・・心から愛する人だけだ。
アンドレ、・・・愛している。」
「・・・オスカル、悪い冗談だったら辞めてくれ。
記憶を失っている振りをしていた罰ならいくらでも受けるが、これだけは俺にとって辛すぎる。」
私の瞳から目をそらした彼は唇をかみ締め、感情が溢れ出ないようこらえているようだった。
「アンドレ、お前がそう思うのは無理もない。
だが、私は気が付いてしまったのだ。
私が愛する人、恋焦がれる人はお前なのだと。
気が付くのが遅すぎて、お前に辛い思いをさせてしまったが、だが、これが私の本心なのだ。
もう一度言う。・・・愛している、アンドレ。」
そう話す私をアンドレは信じられないという瞳でじっと見つめていた。
「本当に? 夢でないのか?」
「夢ではない。如何したら信じてくれる?」
「・・・もう一度口付けを。」
アンドレの腕が私を引き寄せると、もう一度その唇に口付けた。
今度はより甘く・・・。
ゆっくりと名残惜しそうに唇を離すと、私は口を開いた。
「そういえば、先程、記憶は戻っていたと言っていたが、一体如何いうことだ?
もともと、記憶を失ってはいなかったのか?」
「いや・・・違う。本当にあの事故の後は何も思い出せなかった。
まるで霧深い森の中に迷い込んでしまったようだった。」
「では、いつ思い出したのだ?」
私の問いに罰の悪そうな表情をしたアンドレが答える。
「・・・一週間くらい前かな。」
「一週間前だって? それからずっと私を騙していたのだな。」
「騙していたわけではないんだ。」
「では、何故だ? それに一体何がきっかけで思い出したのだ?」
「お前だ。お前の香りが記憶を呼び戻した。」
「香り? 如何いうことだ?」
首を傾げる私をそっと抱き寄せると彼は言葉を続けた。
「あの日、お前は涙を零しながら俺を抱きしめてくれただろう。
その時、俺の鼻をくすぐる懐かしく芳しい香りが、俺の頭の中で何かを呼び覚ましてくれたんだ。
まるで徐々に霧が晴れていくような感じだった。
すっかりお前の事を思い出した時には、すでに俺の部屋にはいなかったがな。」
「では、何故、すぐに私に教えてくれなかったのだ。
何故、記憶が戻らない振りを続けたのだ?」
その問いに私を抱きしめていた彼の手が緩んだ。
「俺が記憶を失った理由を考えていたんだ。
もしかしたら、これは神からの贈り物だったのではないだろうかと。」
「おい、何を言っているのだ。如何して私の事を忘れることが神からの贈り物なのだ?」
少し怒りを含んだ私の問いに、アンドレは寂しそうに微笑んだ。
「あの時はそう思ったんだよ。
何が起きようともお前が俺の物になるとは到底思えなかったし
それに、お前はジェローデル大佐から求婚されていた。
お前を守るという役目さえも終わったのかもしれないと考えていた。
だから、お前が俺以外の男の物になる姿を見なくてすむように、
神は俺の記憶を消してくれたのかもしれないと考えるようになったんだ。」
「アンドレ、・・・私は。」
「いいんだよ。わかってる。
だが、俺は記憶を取り戻してしまった。心の底からお前の事を愛している自分をな。
俺はこれからどうすればいいのか悩んだ。
そしてこのまま、記憶をが戻らない振りをして、お前の傍から離れるのが一番良いと決めたんだ。
お前を忘れる事が一番良いんだと、神もそうおっしゃっていると言い聞かせて・・・。」
「アンドレ、私を忘れる気だったのか? 忘れられるとでも思ったのか?」
「出来る出来ないんじゃないんだ。そうするしかないと思ったんだ。」
やはり私は彼のことをここまで追い詰めていた。
その変える事の出来ない事実が、私を締め付け、そして涙を零れ落とさせた。
しかし、アンドレはその零れた涙をそっと拭いながら優しく微笑んだ。
「泣かなくていい。
記憶を失った事は本当に神からの贈り物だったんだ。
おかげで、お前は俺のことを愛していると言ってくれた。
これが贈り物でなくてなんだというんだ?
「だが、私は神からの罰だと思った。」
「何故?」
「自分の想いに気がつかなかった、気が付こうとしなかった事に対してだ。
そんな私に神が罰をお与えになったのだと思っていた。
・・・だが、アンドレ、お前が言うように今回の事は神からの贈り物だったのかもしれないな。」
「そうだよ・・・。」
そう言いながら、今度は彼の唇が私に口付けた。
「なあ、アンドレ。今回の事は本当に事故だったのか?」
「と、言うと?」
「・・・いや、・・・自殺とか。」
心配そうに彼の瞳を覗き込む私に、彼は優しい笑みを浮かべた。
「自殺するように見えるのか?」
「だが・・・。」
「事故だよ。お前もあのバルコニーを見たんだろう。
全く、あんなに朽ちているなんて気が付きもしなかったよ。
ちゃんと、バルコニーを直しておいてくれよ。また落ちるのは勘弁願いたい。」
「そうだな。もう愛しい恋人に忘れられるのは嫌だ。」
「俺も嫌だ。だが、・・・きっと大丈夫だろう。」
「何が?」
「きっと何度記憶を失おうとも、俺はまたお前の事を愛するよ。
何があっても、何が起きようとも、お前の事を恋焦がれないわけがない。」
「アンドレ・・・。私も記憶を失っても、きっとまたお前を愛する。」
「オスカル。・・・いや、ダメだ。」
「えぇ、何故だ?」
「お前は自分の想いに気がつくのが遅すぎる。
もし、記憶を失ったら、俺のことを愛してくれたとしても、
俺はまた長い間待たなければならないだろう。」
「そんなに待たせたか?」
「ああ、とてもな。」
「すまない。」
「いや、今、この腕の中にお前さえいれば・・・。」
彼の腕が私の肩を優しく抱き寄せると、もう一度あの愛しい唇が落ちてきた。
爽やかな風が私達を包んでは、そっと去っていく。
もう少しこのまま、お前のぬくもりを感じていよう。
馬車が戻ってくるまで、もう少し。
神からの贈り物に感謝して。