あやこん様の好きな来生たかおさんの曲から着想・・・です。









   

Goodbye Day



「もう夏だな」
中庭に面した司令官室の、少し開けた窓から外の空気が流れ込んでくる。
仕事の手を止め、誰に言うともなくつぶやく彼女の声に、彼も顔を上げ窓の方を見やった
「そうだな」
ついこの間まで樹々を包んでいた黄緑色の柔らかそうな新緑が、すっかり色を濃くし、もっさりと重
く繁り始めていた。
しかし、彼はすぐまた机の上の彼の仕事に意識を戻した。
彼女は、そんな彼を上目づかいにうかがいながら、自分もまた机の上に視線を戻した。
 
 
 
ろうそくを全部消しても、窓からさしこむ青い月の光は、彼の獣のようにしなやかな皮膚を、くっきり
と浮かび上がらせる。
 
ーーこの躰が私を抱き、
私に反応して熱くなる。
私だけの恋人・・・・。
 
背の深いくぼみから腰へ続く張りのある曲線を、彼女は陶然と見つめていた。
情熱的な行為のあと、少し息をはずませ、しっとりと湿り気を帯びたその肌は、ふるいつきたいほ
ど魅惑的であった。
男たちの厚い胸板を、太い首を、骨張ったあごを、苦々しい思いで直視できない日々があった。ど
んなに剣の稽古をしても、大股で歩いても、彼女には決して持つことの叶わないものであった。
男にも女にもなれない、自分の中途半端さを見せつけられるようでつらかった。
 
ーー男の身体を、こんな思いで見つめるようになるなんて・・・
 
彼のことを思うだけで、その姿を、その瞳を見るだけで、胸がしびれるように苦しくなる。
そんな自分にまだとまどい、持て余している彼女だった。
生まれた時から女は捨てて生きてきたはずだった。
 
ーーそれなのに・・・。
私の中にはこんなにも、女が強く脈打ち息づいていた。
彼の熱い想いをぶつけられて、激しく反応し、強く大きく目覚めた。
待っていたかのように。
こんな日が来ることを、はじめから知っていたかのように。
 
「アンドレ・・・」
ささやくように呼んでみる。
「ん?」
うつぶせになり目を閉じていた彼が、声の主に穏やかなまなざしを向ける。
「美しいな、おまえは」
「俺が?」
「髪も瞳もこの肌も・・・」
彼女は、彼の肩こう骨の形を指で確かめた。
関節も、筋肉も、
そして、彼女の指は、味わうようにゆっくりと背骨をたどり、腰へすべりおりていった。
背中も、腕も、それから・・・
逞しい腕が彼女を抱き寄せる。彼女は、腕から指先へ足先へ、しびれるような感覚が走るのを感じ
る。
こんなにおまえに溺れてしまって、私はどうしたらよいかわからない・・・
口にはせず、彼の胸に顔をうずめる。
 
 
 
そんな、昨夜の彼の姿が、昼間こうして仕事をしていても、彼女の心をとらえてしまう。
指先に残るなめらかな感触・・・。
私は何を・・・
まとわりつく夜の記憶をはらいのけようと深呼吸する彼女を気づかうように、彼が視線を向ける。
「疲れたならひと休みしようか。何か飲み物を持ってきてやる。何がいい。」
 
ーー優しいのだ。
おまえはいつも、穏やかで静かで優しいのだ。
そして昼間は、夜とはまるで別人のような顔で、そうして平気で・・・。
 
「さっきからあまり仕事がはかどっていないようだな、隊長殿」
「!!」
席を立ち、彼女の机に手をついて顔をのぞきこむ彼の、からかうような口調に思わず顔をそらす。
今彼女をとらえているものが何なのか、彼はすっかりお見通しなのではないか。
 
ーーだいたい何だこいつは。
どうしてそんなにクールにすましていられるのだ。
ふたりきりのこんなに狭いこの部屋で。
死んでしまいそうなほど、私を愛していると言っていたくせに!
 
「カフェでいいな」
彼女の答えを待たず、彼は司令官室から出て行ってしまった。
前と何にも変わらない。
昼間の彼は、ふたりがただの幼なじみではなくなってしまった今でも、前とまったく変わらなかった

 
ーーそれでいいのだ。
囲りに何か悟られるようなことがあってはならない。
わかっている。しかし・・・。
死にそうなのは私の方だ。こんなに混乱している。
私だけが。
 
美しい金色の髪を、くしゃくしゃと両手でかきむしる。
恋の始まりの波は大きすぎて、飲み込まれそうになってしまうものなのだということを彼女は知ら
ない。
初めての恋人だから。
“女”として在ることにさえ、不慣れな彼女だったから。
自分はこんなにも、あふれる想いを持て余し、溺れそうになってあえいでいるのに、彼はひょうひょ
うとしていて、まだまだ余裕さえ感じさせる。
まるで片想いしているような気分であった。
 
ーー前は・・どんなふうだっただろう。
よく思い出せない。
いつも一緒にいるのがあたりまえだったし、そう意識せずとも、オンとオフの切りかえは容易だった

いや・・それは、あいつが屋敷の外では、いつも影のように自分の存在を消していたからだ。
今・・も?今もそうなのだろうか。
だとしても、今は前とは違う。つい何時間か前まで同じベッドにいたのだ。
あんなに情熱的に私をその手で抱いたおまえが・・・。
変わり身があざやかすぎる・・・。
それが私をとまどわせる。ひとり取り残されてしまったようで。
 
その時、彼がふたりぶんの濃いカフェを持って戻ってきた。
彼女の机に、彼がカチリとも音をたてず、なめらかな動きで茶わんを置く。いつもと同じだ。しかし、
その手の仕草さえ 彼女を落ち着かなくさせる。
部屋にカフェの香りが広がった。
「あ・・ありがとう・・」
「オスカル」
「ん?なんだ」
「仕事が手につかないのは俺のせいか?」
「え?」
「おまえらしくもない。
ふたりの時と仕事の時と、昔はおまえのほうがしっかり切りかえられていたように思うが?」
「どっ、どういう意味だ!おまえにそんな・・」
「上官がそんなことでは困るな。兵士たちにからかいの種をわざわざ提供しているようなもんだぞ」
「わ、わかっている。それくらい私にだって!!」
彼女がキッと彼を見返そうとしたその時、困ったような顔で少し微笑んだ彼は、机ごしに彼女にお
おいかぶさるように背をかがめ、彼女の肩を引き寄せたかと思うと、いきなりくちづけた。
彼が仕事場でそんなことをしたのは初めてだった。
驚きに目をまん丸に見開き、声も出せない彼女をまっすぐに見つめて彼は言った。
「俺は嘘つきだ」
「え?」
「何くわぬ顔をして書類をくっているが、頭の中には俺に抱かれて肌を染めたゆうべのおまえのな
まめかしい姿が浮かんでいる。」
「!!」
「きちんと公私を切りかえろ?どの口が言っているやら。
ただ俺はおまえと違って、それでも仕事は支障なくこなせる」
「・・・すまない」
「べつにおまえを責めているわけじゃないさ。
おまえとこうなって、幾晩一緒に過ごした。まだ何日もたってはいまい」
「・・・まだ・・・二日だ・・」
「そう、まだたった二晩さ。今夜で三夜め」
 
ーー今夜・・・
 
彼女の鼓動はまた速くなった。
「おまえが仕事もできなくなるほど動揺したとしても、思えばしかたのないことさ。そういうことには
まるで不器用だからな、おまえは。まっすぐで純粋で嘘が下手だ」
「・・・」
「しかし俺は違う。嘘をつくのが身に付いている。なにしろ年期が違う。
心と裏腹な態度で外では従卒の顔に徹する。それが俺の昼の顔だ。長年の習い性になっている
んだ。
それがおまえを不安にさせてしまったんだな。謝るよ」
「べつに私は・・・」
心の内を見透かされていた恥ずかしさと安堵で、彼女はますますうつむいてしまった。
「だが俺があざむかねばならないのは囲りの人間だけだ。おまえを困らせるつもりはない。俺の本
心を聞かせようか」
「本心・・て」
「たとえばさっきだ。
俺を上目づかいにちらちら見ては落ち着かないおまえが可愛くて、俺はここが司令官室だというこ
とも忘れて、おまえを抱きしめてくちづけたい衝動にかられる」
「し、しかしおまえは知らん顔をして・・」
「俺はいつもおまえを見ていると言っているだろう」
「・・とてもそんな風には・・」
「だから嘘がうまいと言っている」
「なんて奴だ!人の気も知らないで!」
「ははは。まあそう怒るな。
俺はおまえの補佐官だ。おまえの仕事をスムーズに進めるのが俺の仕事だ。そうだろう。その俺
が自分で邪魔してどうする」
「それは・・そうだが・・」
「それとも、おまえが俺を見るたびに、俺もにっこり微笑み返した方がいいのかな」
「べ、べつに私はそんな!」
「ふたりきりのこの部屋で、それだけですませられるのか、おまえは? 俺の微笑みにすぐ悩殺さ
れるおまえが」
彼は不敵ににやりと笑った。
「の、悩殺!」
「『おまえの微笑みは罪作りだから、やたらあちこちに振りまくのはやめろ』と、きのう怖い顔をして
言っていただろうが?」
「・・言ったけど・・」
「ま、やきもちをやかれるうちが花だが」
「やき!そ、そんなんじゃ!」
「まあいい。考えてもみろ。ここでおまえを抱きしめてキスして。以前ならともかく、今の俺はそれだ
けで終われる自信がない」
「ば・・ばか・・」
「そこへあのがさつな一班の連中が、ノックも途中で『隊長ー!』なんて登場してみろ。想像しただ
けで恐ろしい」
「あははは、まったくだ。どんな顔をするか目に浮かぶ」
ふたりは声を上げて笑った。
「やっと笑ったな」
「え?」
「きのうからずっと、不安そうな顔でそわそわ落ち着かなかったぞ」
「・・・」
「わざわざ俺に『隊長はどこかおかげんでも悪いのですか』と心配して聞きにきた奴までいたくらい
だ」
「そ・・そうか。それは・・まずいな・・」
「あれで意外と勘のいいアランなんかは、何か感づいていたみたいだし。さっき、さんざんつっこま
れた」
「おかしいな・・私はいつも通りのつもりだったのだが」
「全然いつも通りじゃなかった」
「そ・・そうか・・」
「そんなに隊での俺は冷たいか?」
「まるで別人だ。クールすぎる。特におまえと私がその・・」
「同じベッドで夜を過ごすようになってから・・か?」
「そ、そんなにはっきり・・言わなくても・・」
「ははは。それにしても、氷の花にクールと言われようとはね」
「からかってるな!」
「夜が熱ければ熱いほど、昼間の俺はクールになるのさ。
司令官室の俺が冷たすぎるのは、ゆうべのおまえが情熱的すぎたからじゃないか?」
「お、おまえは、嘘つきでしかも、い、意地悪だっ!私をからかって喜んでるな!」
「ほらそうやって、すぐ挑発にのる。まったく手のかかるご主人様だ。一から十までかみくだいて手
ほどきしなきゃならんらしい」
「だって・・」
彼は笑いながら小さくため息を吐き、三歩で彼女の席の後ろにまわりこんだ。そして、腕の中に彼
女を包み込んだ。
「オスカル」
「ん」
「この瞳の奥に・・俺がたとえ・・おまえへの熱情を深く・・誰にも気取られぬよう封じ込んでいたとし
ても・・」
そして彼は、彼女の耳元に唇を寄せ、秘め事を告げるように囁いた。
「愛している・・おまえを想っている・・。
いつも、どんなときも。
どこにいて何をしていても。
昔からずっと・・今も・・そしてこれからも・・・」
彼女は思わず右手で心臓のあたりをギュッと握りしめた。
熱く甘く躰中がしびれて、今すぐにでも彼の胸に飛び込んでしまいそうになる自分を、芯から溶け
てしまいそうな躰を、必死で押しとどめるために。
軍服の胸の階級章が手のひらにくい込んだが、痛みは感じなかった。
彼は、彼女のその手をそっと開かせて、自分の手の中に包み込んだ。
「だからおまえは、俺のことなんかに頓着せず、前だけを見て、しっかり歩いて行けばいい。
俺はいつも側にいて、おまえを見ていてやる。
おまえが振り向けば、すぐに抱きとめてやれる場所で」
「アンドレ・・・」
ふたりはどちらからともなく唇を寄せた。
冬の日だまりのような暖かさと懐かしい彼の香りが彼女を包む。
「さあ、仕事だ。すぐに俺に見とれて手の止まる上官殿につきあっていたら、いつまでたっても帰れ
ないからな」
彼は、残っている方の目でウィンクした。
「ふん!だれがおまえなんかに」
頬を染めて、ぷいとそっぽをむく彼女を、彼は微笑みを浮かべて見つめた。
初夏の日射しに金髪が揺れて光った。
 
 
 
帰りの馬車の中で、彼にもたれてうたた寝する彼女の横顔は、ここ最近の激務の疲れが見えるも
のの、穏やかで安堵に満ちていた。
彼は、彼女の髪を撫でながら、そんな彼女の寝顔を見つめていた。こみあげる限りない愛しさ。胸
にしみわたる幸福感。
しかし一方でこの国は、少しずつ傷を深くしていくようであった。どろどろした膿が吹き出すのは、
時間の問題だろう。
彼は、夕闇に沈みかけた外の景色に目をやった。
 
ーーオスカル・・
また一日、どうやら何事もなく終わりそうだな。
こんな日が永遠に続けばどんなにいいだろう。
明日がまた、今日と同じような一日であるようにと祈るけれど。
巡りくる一日一日が、かけがえのない毎日・・・。
俺たちを包む優しい夜の闇が薄れ行く時刻、おまえの部屋を出て俺は自分のベッドに戻る。
俺はそして上る朝日に祈る。今日一日が、何事もない穏やかな日でありますようにと。
しかし、今日と同じ明日は、もうあと幾日も続きはしないだろう。
 
彼は再び、腕の中の彼女に視線を戻した。
 
ーーそして・・・
くちづけるたび俺をとらえる暗い予感。
おまえのかぐわしい吐息に混じる血の匂い・・・。
右目の光が弱くなってから俺は、音と匂いには獣なみに敏感になっているんだよオスカル。
初めてそのことに気づいた日、俺は部屋でひとり泣いた。
おまえが胸に抱えている爆弾と、この国の抱える爆弾と、どちらが先に火を吹くのか・・俺が光を完
全に失う日も、そう遠くはないだろう。
おまえが望むなら、しばらくは俺は気づかないふりをしていてやろう。俺が悲しむ顔をおまえは見た
くないのだろう。
しかしオスカル・・・
おまえを手にかけようとして思いとどまったあの夜に、俺は、おまえのすべてを受け入れて生きて
いく覚悟を決めたんだよ。
おまえが秘密をかかえる重さに耐えきれなくなるその前に、俺はそのことをおまえに告げよう。
俺が悲しめば、おまえは俺以上に嘆くだろう。身を切られるような痛みにさいなまれるだろう。そし
て、俺を悲しませてしまう自分をせめるかもしれない。おまえはそういう奴だ。
だから俺は悲しまない。嘘をつくのは得意技さ。本心を瞳の奥に封じ込める。朝飯前だ。
俺のこの胸の嘆きは、決しておまえには悟らせまい。おまえを失う予感に、日々この身をふるわせ
ているとしても。
できることならこの腕の中に、おまえを閉じこめてしまいたい。こわれそうな身体で炎の中へ飛び
込もうとしているおまえを。
それでも、それがおまえの選んだ生き方なら、俺はそれを受け入れて、おまえを守り抜いてやろう

この先、どんな運命が俺たちを待ち受けていたとしても、これからおまえが向かおうとするところが
どこであっても。
それはきっと、俺もまたそう生きたいと望む道であることを知っているから。
 
彼は彼女の手を取り、そっと手の平にくちづけた。
眠ったまま彼女は、くちづけられた手を、軽く、握り返した。
 
 
 
馬車が静かに止まった。
彼は軽々と彼女を抱き上げステップを降りた。
「おや、姫はすっかりおやすみのようだな」
御者をつとめていたジャンが声をかけた。
「まったくいい気なもんだ。俺をヘラクレスとでも思っているらしい。重くて腕が抜けそうだよ」
彼は笑って答えた。
「いつもは凛々しくていらっしゃるが、そうしているとお小さい頃のままだな。なあ、アンドレ」
「ああ・・」
「安心しきったお顔をなさって・・。おまえがいつも隣にいてくれると思っておいでなのだな、オスカ
ルさまは」
「そうなのかな」
「近頃のオスカルさまは表情が柔らかくおなりだ。ついこのあいだまで、きついお顔をなさっていた
が・・」
「・・・・・」
「アンドレ・・よかったな・・長い間の想いが叶ったんだな」
「ジャン!!それは・・」
彼の大声に、眠り姫がかすかな声をたてた。
「おっといけない」
ジャンは人差し指を立てて口にあてた。
彼女は無意識ながら、彼の腕の中にいることに気づき安心したのか、もぞもぞと動いて彼の胸に
顔をうずめ、再び寝息をたてはじめた。
彼女のそんな様子を見て、ジャンはおやおやという顔で微笑んだ。
「口には出さないが・・・皆祝福しているよ、アンドレ。
大事にしてさしあげてくれ。オスカルさまは俺たちにとっても大切なお方だ」
「わかっているよ。命にかえても守り抜くよ。ありがとう・・ジャン・・・」
「しかしアンドレ、おまえ、もっと自分のことも大事にしろよ。
おまえにとってオスカルさまは命より大切な方かもしれないが、オスカルさまにとってのおまえもた
ぶん、同じようにかけがえのない存在だろう。
もしもおまえに何かあれば、オスカルさまが悲しまれる。
そのことを忘れるなよ」
「・・・・・・」
「よけいなことをしゃべりすぎてしまったな。さあ、早く姫をベッドに運ばないと。冷えてきた」
「あ・・ああ、そうだな」
「おやすみ、アンドレ。明日の朝はいつもの時間でいいのか?」
「ああ、頼む。おやすみ、ジャン」
ジャンは軽く手をひとふりして、馬にむちをあてた。
アンドレは、しばらく遠ざかる馬車を見送って、その場に立ちつくしていた。
「ジャン・・・ありがとう・・・」
 
 
 
「よっこらしょ」
彼はベッドに彼女を寝かせ、靴を脱がせ、サッシュを解いた。そして、慣れた手つきで軍服の前を
はだけて彼女をうつぶせにすると、スルリと軍服を引き抜いた。
「やれやれ・・」
「う・・ん・・・アンドレ・・・」
「なんだ寝言か?どんな夢を見ていることやら。まったく、こいつは・・。襲うぞ」
ベッド脇の椅子に腰かけた彼は、彼女の背に広がる髪にそっと手をやった。
眠ったまま彼女が微笑む。それを見て彼も微笑んだ。
「三度目の夜は、おとなしく別々の部屋でやすむとするか。俺も、ものわかりのいい大人になったも
のだ。さて・・」
彼は立ち上がり、彼女の唇に軽くキスした。
「おやすみ、オスカル」
そしてもう一度髪を撫でて、猫のように足音も立てず部屋を出て行った。静かにドアが閉まり、部
屋には窓からさしこむ月明かりと彼女のやすらかな寝息だけ・・。
こうして、ふたりの三度目の夜は更けていった。
ところが、ホールの大時計が、鐘を12回打ち鳴らし終えたちょうどその時、ジャルジェ家の眠り姫
の魔法がとけて、彼女はその奇跡のように美しい瞳をパッチリとあけた。
彼女は、自分が今どこにいるのか、朝なのか夜なのかわからないまま、しばらくぼんやりしていた
が、突然ガバと起きあがり、ベッドの真ん中に座りこんだ姿勢のまま、何かを捜すように部屋中を
少々あせり気味にきょろきょろと見まわした。
部屋は暗く、静まりかえっていた。
彼女はベッドから飛びおりるや出口まで走り寄りノブに手をかけたが、ふと自分の着ているものに
目をやると、もう一度奥に戻った。
そして、すそ長の夜着に着替え、それから苦労してベッドからシーツを引きはがして頭からかぶっ
た。
そして今度はゆっくりと扉の前までやって来ると、そこに耳をあてて外の気配をうかがった。幸い、
皆もうすっかり部屋に引き上げ休んでいるようであった。扉の外は静まりかえって、コトリとも音は
しない。
彼女は細く扉を開き、そこから外をのぞき見た。
そして、スルリと部屋をぬけだした。
 
 
 
ぐっすり眠っていた彼は、だれかが自分の部屋をノックしているのに気づき起き上がった。
「こんな時間に・・何かあったのかな。」
彼は急いで扉を大きく開けた。
とたんに、頭からシーツをかぶった眠り姫が、彼の首に両腕をまわし胸にとびこんできた。
「オ・・・・・!」
彼はあわてて彼女を部屋の奥へと押しやり、扉の外に誰もいないことを確かめると、急いで、しか
し静かに扉を閉めた。
「ばか、おまえ!なんなんだいったい!?びっくりするだろう!なんだその格好は!?あ、裸足で
来たな、こんなところへおまえ・・! ば・・ばかかおまえは!?」
「そんなにおこらなくてもいいだろう!!」
「しぃっ!!静かに!おこってるわけじゃ・・」
「起きたらおまえがいなかった」
「だからって来ることないだろう、そんな格好で。誰かに見られたら何て言うつもりだったんだ、まっ
たく!」
「やっぱりおこってるじゃないか。自分が悪いくせに」
「おこってないし、俺は何も悪くないだろう」
「ちゃんと顔は隠して来たんだぞ」
「そのシーツか?よけい目立つんだよ・・」
「・・・おまえの顔が見たかったんだ」
「オスカル・・・」
「・・・・・・・」
彼はベッドに腰かけて彼女を見た。
「おまえこそ・・昼間とは別人だぞ・・」
軍服を脱ぎ剣も持たず、素肌に薄絹の夜着一枚まとっただけの、素足で所在なげに彼の部屋にた
たずむ彼女の姿は・・。
「愛しているよ、オスカル」
「・・・・・」
「ここへおいで」
彼のとなりに腰をおろそうとした彼女を、彼はひざの上に座らせた。彼女は遠慮がちに彼の胸に頭
をもたせかけた。
「うれしいよ、オスカル。俺の部屋におまえが・・」
彼はぐっとつまった。
ー皆、祝福しているよ・・・。
さっきのジャンの言葉が脳裏によみがえる。
「あいかわらず泣き虫だな、おまえは」
「ふふ・・」
「私がなぐさめてやる」
「どうやって?」
「こうやって・・・」
彼女は彼におおいかぶさるように、彼の唇に自分の唇を重ねた。そのままふたりはベッドにたおれ
こんだ。
「おまえにおそわれるとは思わなかったよ」
彼は彼女を見上げて笑った。彼女の髪が彼の頬にはらりと落ちた。
「その笑顔が見たかった・・」
「悩殺された?」
「された」
彼女は彼の胸に耳をあて、そこに確かに愛しい男がいることを確かめるように、暖かな鼓動に耳を
すました。
「ずっとこのままでいられたらいいのに・・・」
「ああ・・・」
「アンドレ・・」
「ん?なんだ」
「アンドレ、アンドレ、アンドレ・・」
「どうした、泣いてるのか」
「アンドレ・・」
「なぐさめてくれるんじゃなかったのか。おまえが泣いてどうするんだ」
「ん・・・・・」
「オスカル」
「・・・・」
「・・おまえを必ず幸せにすると・・・約束できない俺を許してくれ」
彼女は黙って首を横にふった。髪が、彼の胸でさらさらと揺れた。
「アンドレ・・愛してる・・・愛してる・・アンドレ・・」
「俺もだよ、オスカル」
「今まで何度こうしておまえの名を呼んだろう。十万回か・・百万回か・・。あと・・・何度呼べるのだ
ろう・・・」
「ばかだな。これからもずっと一緒だ。何度だって呼んでくれ」
「そうだな。ばかだな、私は。何を言っているんだろう・・」
「・・・」
「今夜は・・ここにいてもいいか」
「だめだ、と言ってもいる気だろう」
「ふふふ」
「しかたない。よい子で静かにしてろよ。ここはおまえの部屋と違って壁も扉も薄いんだからな」
「わかっている。静かにするから・・ん・・」
「なんだおねだりか。大胆な姫だな。
やれやれ、俺は夜明け前にまたヘラクレスにならなきゃならんな」
「何?」
「なんでもないよ。
さて、姫の命令に従わないと何されるかわからないからな」
彼はくるりと体勢をかえ、胸の上の彼女を自分の下に組みしくと、情熱的な唇を彼女の唇に押しあ
てた。彼女の唇から、熱く甘い吐息がもれた。
息をひそめ声をころして抱き合うふたりを見ているのは、高くのぼった窓の外の月ばかり。少し開
いた窓から、カーテンを揺らして初夏の風がふたりの肌の間を吹き抜けた。
「風が・・・」
「寒い?」
「熱い・・おまえの・・・」
「・・・・・」
「こんなに・・・熱い・・・」
「オスカル・・」
「私を・・・・忘れないで」
「!!」
「おまえの躰に私を・・・刻み込んで」
「いつまでも一緒だ。離れない」
「・・・・・・」
「約束するよ」
 
ーーおまえを部屋に送り届けたら
また俺はのぼる朝日に祈ろう。
この朝日とともに訪れる一日が、また昨日のように穏やかな一日であるようにと。
愛しいオスカル
おまえが幸せであるようにと
おまえが健やかであるように・・と・・
 
強い風が吹きぬけ、窓が大きな音をたてて開いた。カーテンが船の帆のように大きくふくらみバタ
バタと鳴った。
しかしもうふたりの耳に、その音は届かなかった。
風は屋敷の庭の水面(みなも)に波紋を描き、空の雲を吹き流した。さえざえと澄みわたる夜空にこ
うこうと月が照り、星が数を増やした。
月は、ふたりを照らし、屋敷を照らし、ベルサイユをパリを照らしていた。
彼が祈りをささげる朝日が顔を出す時刻までは、まだたっぷり時間がありそうだった。
 


                                     fin