瞳を閉じてもう一度 <1> 海辺の町のバカンスの宿の机にむかいペンを走らせていた彼女は、ふと顔をあげて時計を見た。約束の2時までもう何分もない。 「たいへん、つい夢中になってしまった」 ゆうべも仕事に没頭しすぎて、シャワーさえ浴びていなかった。初対面の人と会うというのに、さすがにこれではまずいと考えた彼女は、あわてて着ていたものをベッドに脱ぎすててバスルームにむかった。 濡れた髪を無造作にねじりあげ後ろで止めながらクローゼットを開けた彼女はため息をついた。 「ろくなものがない・・・」 仕方なく、白いシャツにストレートのGパンといういつもの服を取り出し、あわてて身支度をととのえると、少し考えてから、靴だけはいつものスニーカーはやめて白いサンダルをはいた。 待ち合わせ場所の海に面したカフェテラスは、この小さなホテルの一階にあった。はきなれないサンダルのせいで、彼女はカフェテラスに降りる階段で二度もつまずいてころげ落ちそうになった。 「やっぱりスニーカーにすればよかった・・・」 カフェテラスには人影はまばらだった。 こんな時間に浜にも出ずにお茶をのんだりする客はそういないのかもしれないな。もっとも、部屋にこもって仕事をしているよりはずっと、バカンスの昼下がりらしい過ごし方かもしれないが。 そんなことを思いながら、彼女は首を巡らせて待ち合わせの相手をさがした。 カフェテラスの天井に、それでも客たちのしゃべり声や笑い声がひびいて、かすかなざわめきとなって午後の明るい日射しの中にただよっていた。客は老夫婦が多いようであった。 ふと囲りとは違った空気を感じて目をやると、そこには男がひとり、ぼんやりと海をながめている。 「彼だろうか。黒髪のひとだと聞いたが・・。でも思っていたよりずいぶん若い・・」 彼女は声をかけるのをためらった。 その時男は、肩までのびたくせのある黒髪をかき上げ、誰かをさがすようにフロアに視線を巡らせた。そして一瞬彼女に目をとめたが、少し首をかしげ、またよそへ目をやった。 男は瞳も真っ黒だった。 彼女は、胸がドクンと大きく脈うつのを感じた。 ─何・・・何だろう、胸が・・・ 彼女はもう少し男を見ていたい気がしたが、約束の時間は部屋を出る時すでに15分もすぎていた。気を取りなおしてもう一度カフェテラスを見まわしてみる。しかし、人を待っていそうな黒髪の男は、やはり彼しかいなかった。 彼女は男の側に歩をすすめた。サンダルが石の床にひびいてカツカツと音を立てる。その音に男が彼女に顔をむけた。 「あの・・」 「はい」 男はすわったまま彼女を見上げた。 ─夜色の瞳・・ 彼女はまた、胸の鼓動が速くなるのを感じて、右手で心臓を押さえた。 「あの失礼ですが、ムッシュウ グランディエですか?〈ル・デトゥール〉誌の・・」 「あ!」 男は椅子をけって立ち上がった。長身の彼女よりまだ頭半分背が高い。彼女は男を見上げるかっこうになった。 「これは失礼、あの・・ジャルジェ先生、ですか?すみません、もっと年配の方かと・・」 「私も」 ふたりは思わず同時に吹き出した。 「ごめんなさい。まさかこんな若い方が私の研究なんかに興味をお持ちとは思わなくて」 「ああ、お電話さしあげたのは編集長ですから」 「ええ知ってます、それは。でも・・・。大学でも、こんな手あかまみれのカビのはえたテーマをなんで選ぶのやら気が知れないってよく言われるので。“革命”なんて・・今更でしょ」 「じゃ俺もご同様です。社では変人扱いですから」 ふたりはまた笑った。それからふたりとも立ったままだったことに気づき腰をおろした。 「ごめんなさい。初めてなのに遅刻してしまって・・」 彼女はペコリと頭を下げた。 「あれ、過ぎてましたか。俺、時計を持ってなくて」 彼は、シャツの袖をめくってみせた。 「私も」 ふたりはみたび笑い合った。 「えっと、初めまして。〈ル・デトゥール〉のアンドレ・グランディエです。」 「初めまして。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです。」 「ふしぎだな」 「え?」 「なんだか初めて会った気がしない。」 「・・・・・・」 彼女は困ったような顔で頬を染めうつむいた。 「いや、あの、すみません。つきなみな口説き文句みたいなことを。でもなんだか」 彼女も男を前にして、一瞬なつかしい空気に包まれたような気がしていた。しかしそんなはずはない。知人にこんなタイプの人はいない。 彼女は後悔していた。口紅くらいさしてくればよかった。しかし、バカンス用の荷物に、口紅は入っていなかった。 「そうだ、忘れるところだった。仕事の打ち合わせでしたね」 彼は笑って言った。 ─なんて笑顔をするのだろう、この人は。まるで・・・ 「あ、ええ、そうでした」 彼女はあわてて胸ポケットからメモを取り出した。 「革命時代の女性についてのエッセイを、秋から6回連載していただくことになっていたのでしたよね。何か・・」 「ええ、いくつかピックアップしてみました。マリー・アントワネットでは月並みだから、マイナーな人選にしてみたのですが。よかったでしょうか」 「ええもちろん。その方がいいです」 「面白い話がたくさんあるんです。あの当時には」 彼女は選び出した10人ほどの女性とそのエピソードについて簡単に説明した。 「いいですね。どれも面白い。あとは先生にお任せします」 「あの・・」 「はい、何か。何でもおっしゃってください」 「あの、先生っていうのは・・・」 「だめですか」 「ええ。名前で呼んでくださいませんか」 「マドモアゼル オスカル・・と」 「マドモアゼルと呼ばれるのは苦手なんです。だいいちもうそんな年じゃないし。もう30ですもの。あなたよりずっと年上でしょう」 「え、俺は今月の26日で32ですよ」 「そうなんですか?」 「独り身ですからね。背負うものも何もない。ガキなんですよ」 「わたしも独りです。ガキです」 彼は少し首をかたむけて笑った。 「今月の26日って、人権宣言の」 「ええそうです。さすがにすぐ出ますね」 「ふふ」 「では、オスカル・・と呼ばせていただいても?」 「ええ、そのほうが」 「じゃ、俺のことも」 「アンドレ・・って」 ふたりは笑み交わした。 「なんだかあなたといると笑ってばかりだな。俺はほんとは、もっと暗〜い男なんですけれどね。少なくとも社ではそう思われてる」 「私も」 ふたりはまた笑いながら、ああ本当に、何年ぶりだろう、こんなに笑って人と話をするのは・・と思っていた。 ─ この人の、声も、笑顔も、私の心をやわらかくしてくれる。どうしてだろう・・。 ほんの30分前に出会ったばかりなのに。 もっともっと声を聞いていたい。この笑顔を見つめていたい。 ─ なんて色をしているのだろう、このひとの瞳は。森の奥の湖水のように静かに何もかもを映しだす。笑うと唇がまるで薔薇の花がほころぶみたいに・・・。 なんだかずっとこうして向かい合っていたくなる。 どうしてだろう。ついさっき、初めて会ったひとなのに。 仕事の話が終わっても、ふたりの話はつきなかった。今までは話す相手さえなかった話が、まるで旧知の仲のようにはずんだ。 話がお互いの職場の人間関係におよんでしばらくたった時、彼が急に立ち上がった。 「ああっ、忘れてた!」 「何?」 「待ち合わせを・・。同僚が俺の部屋に来ることになってたんだ。今何時だろう」 ふたりは時計をさがした。しかし、バカンスの宿のカフェに、時計などかかっていようはずもなかった。 「3時・・は過ぎてるだろうな」 「私たちが会ったのが、たぶん2時をうんとまわった時間だったから・・。3時の約束?」 「そう、3時」 「ごめんなさい。私がひきとめてしまったから」 「いや、それは俺のほうだ。いいんだ別に。待たせてどうこういう相手じゃないし。あなたと話しているほうがずっと楽しいし」 「そんなこと言って。悪いよ、待ってるひとに」 そう言いながらも彼女はうれしそうだった。 「すみません、急に。また連絡します。俺もしばらくは、この宿にいますから」 彼は、勘定書をにぎって早足で立ち去りかけたが、ふと思いついたようにふり返った。 「今夜、一緒に食事を。ダメかな」 「え?」 「海辺の丘の上の、古い石造りの・・えっと、なんていったかな・・」 「メゾン ドゥ ヴェール?」 「そうそう。いかがですか、もしよかったら。まだ話の途中だったし」 「え・・ええ、私は」 「そう、よかった。じゃあ7時に。予約入れておきます」 そう言うなり手をあげて出口に向かう男を、彼女はすわったまま、ぼんやり見つめていた。 ─誘われてしまった・・・行くと言ってしまった・・・ と、そこへ、また男が小走りにやってきた。 「あれ、何か忘れもの?」 男はいたずらっぽい笑みを浮かべた。 「そう忘れもの。リクエストをひとつ」 そして背をかがめて彼女の耳元に唇を寄せた。 「その美しい髪を・・今夜はおろしてきてください」 「え?あの・・・」 「じゃ7時に。忘れないで」 彼はウィンクをして、かけていってしまった。 「その美しい髪を・・おろして・・・って・・」 彼女は、テーブルに残されている彼のカップを見つめて、ひとり赤面していた。 もし、同じせりふを他の男に言われていたら、即座に眉をつりあげていたであろう彼女であった。 しかし、今彼女の胸に残っているのは、甘い余韻であった。彼女は、耳に残る彼の低くやわらかな声を何度も思い返した。 ─恋の予感・・・ しかし彼女は、ふと頭をよぎったそんな思いをふりきるように、頭をふってテラスのむこうの海に目をやった。 恋。彼女にはそれは、苦い思い出ばかりがつきまとう言葉でしかなかった。男たちは皆それぞれに優しかった。しかし、つきあいが深まれば深まるほど、彼女をとらえるのは、どうしようもない違和感であった。相手をそのまま受け入れられなくては愛することもできないと、わかっていてもどうしようもなかった。 結局は、いつも男から別れを切り出された。 「君は僕を愛してなんかいないよ」 男はいつもそう言った。 そんなことはない。愛していた・・と思う。 自分はもしかしたら、ひとを愛することのできない女なのだろうかと、真剣に悩んだ若い日もあった。 ただ一人、忍耐強く彼女の側を離れなかった男がいた。 お互いの家が近く、年の近い彼女のいとこと3人で、幼いころからよく遊んだ幼なじみであった。 年頃になって別々の学校に通うようになり、しばらくは会うこともなかったが、大学の入学式でばったり再会した。 幼い頃の面影を残しながらも、彼はもうすっかり大人の男であった。甘えん坊でよく泣いた、肩を組んで一緒に走りまわった少年は、見上げるほど長身の、すれちがう女たちがふり返るほどの人目をひく美しい男に成長していた。 学生時代は、学部が違うこともあり、会えばあいさつをかわす程度のつきあいだったが、卒業後ふたりとも大学に残り、会う機会も増えていった。一緒に食事をしたり飲みにいったり、休日に待ち合わせるようにもなった。 それでも、長い間ふたりの仲は幼なじみの恋人未満だった。 その均衡が破れたのは、一年ほど前の、彼女がつきあっていた男にまた、いつもの捨てぜりふとともに去られた日の夜のことであった。 すっかりうちひしがれた彼女は、一人になりたくなくて、ついふらふらと彼の部屋を訪ねた。 「何がいけないのかわからない。私は誰も愛せない冷たい人間なのだろうか」と泣きつのる彼女を、彼は黙って抱きしめた。 その夜、彼女は彼の部屋で一夜を明かした。しかし彼は、それ以上は彼女にふれようとはしなかった。彼はベッドを彼女に使わせ、自分は居間のソファーで休んだ。 そんな男は初めてだった。 彼といると心がやすらいだ。彼は彼女に何も求めなかった。ただあるがままの彼女を受け入れてくれた。もっと電話してほしいとか、仕事をやめて一緒になってほしいとか、女らしい格好をしてほしいとか、化粧をしてほしいとか、そんな、いつも他の男たちから言われたようなことは一度も口にしなかった。 黙っていても彼女の気持ちを察して、人恋しい時にはふっと現れ、ひとりでいたいと思えばさっと身を引く。そんな男だった。 その彼が、このバカンスに入る前に求婚してきた。彼が彼女に何かを求めたのは、これが初めてだった。「バカンスの間に考えておいてほしい。今年の夏は会わない」と彼は言った。 ─彼とならうまくやれるだろう。穏やかで心やすまる家庭を築けるだろう。 それは確かな予感であった。 しかし彼女は、いまひとつ、その一歩を踏み出せないでいた。 ─彼を愛しているだろうか・・ 彼は居心地のいい男だった。しかしそれは、愛と呼べるものだろうか・・・。 彼女は、もうすっかりさめてしまったコーヒーをすすった。 「苦い・・・」 舌が焼けるほど熱い、甘いショコラが飲みたかった。
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