瞳を閉じてもう一度 <10>



コール音を数えながら彼女は時計を見た。もう、とうに日付の変わっている時刻だった。
4度目のコールを数えたところで思い直して受話器を置こうとした時、相手は電話を取った。
「もしもし・・」
「オスカル?」
「ごめんなさい。こんな時間に」
「まだ起きていたよ。珍しいね、君から電話をくれるなんて」
電話のベルで目を覚ましたに違いない。軽い咳払いの後で自分の名を呼んだのは、寝起きのかすれ声を隠すためだったのだろう。心優しい求婚者がめったに夜更かしをしない男だったことを彼女は思い出し、自分のうかつさが情けなくなった。
「・・あれ、何か音楽を・・」
「え?」
「ああ違うな。これは・・波だ。波の音が聞こえる・・」
彼女はとっさに開け放していた窓を閉めた。ついさっきまで他の男の腕の中で聞いていた波音。それは彼女が口を開く前に、電話の向こうに彼女の罪をささやく気がした。
「・・で? どうしたの。何かあった? それともまた眠れない?」
男のいたわるような穏やかな声に、彼女の胸は痛んだ。
「・・・私・・」
─ 何からどう言えば・・
彼と別れて部屋に戻ってすぐ、発作的に受話器を手にしていた。
2日前とはすっかり変わってしまった自分を、この人に何と説明すればいいのだろう。
何の心の準備もなく電話してしまったことを彼女は後悔していた。
─ 好きなひとができました。さようなら、って?
 あなたを愛していなかったことに気づきました。だから結婚できません、って?
どんな言葉を選んでも、この電話がこれから男を傷つける以外の何でもないことに、彼女はあらためて気づき、言葉をつぐことができなかった。
─ 傷つけたくない、とでも? ばかな・・私は・・・・
『傷つけたくないとでも言うつもり? ふさわしくないなんてあやまられる方がずっと傷つく!!』
愛しい男に拒まれてぶつけた自分の言葉が耳にひびく。
窓ぎわにいるのだろうか。電話の向こうで車が一台通りすぎる音が聞こえた。今年の夏はパリで過ごすといっていた男の部屋の細長い窓と、繊細なつた模様を織り込んだ青磁色のカーテンが目に浮かんだ。
─ こんな時刻に、誰がどこへ行くのだろう・・。それともどこかからの帰りかな・・・。
これから自分のために人ひとり不幸にしようとしているというのに、ふとそんなことを考えている自分に気づき、彼女はかすかな後ろめたさを覚えた。
─ 彼の痛みなど・・しょせん私にどうこう言える資格はない・・・。
「会ったのか。彼に」
「・・・え・・?」
男は唐突に沈黙をやぶった。彼女は男の言葉の意味をつかみかねて、小首をかしげて聞き返した。男は小さくため息をついた。
「出逢ってしまったんだな。君のただひとりのひと。運命の・・恋人に・・」
彼女は絶句した。
─ 運命の・・恋人・・!? 何故この人が・・?
「違う?」
窓のガラス越しに海を見ていた彼女は、思わずカーテンを引いて窓に背を向けた。波の音はもう聞こえないはず・・。
ふいに耳の奥で、ざざーっと波が打ち寄せるごう音が響き、男の唇の甘さに酔い吐息をもらす、つい今しがたの自分の姿が、ありありとまぶたに浮かんだ。
「・・・ど・・うして・・・」
男はかすかに笑った。
「わかっていたんだよ、始めから。わかっていて、それでもやっぱり僕は君に求婚してしまった」
「・・わかっていた・・・・って、何を? 何のことを言っているのかわからない」
彼女は手をこめかみに当てて首を振った。揺れる髪がその指にからみつく。
『君は髪をおろした方が似合うんじゃないかな』
かつてこの男にそう言われたことがあったと、ふと彼女は思い出した。その時彼女は笑って答えなかった。ピンははずされることはなかった。
「わからないことの全てを知る必要はない。世の中にも人生にも、たぶんわからないことの方が多い」
「でも、知りたいこともある。知らなければならないことだって・・」
「もちろん。ただ、僕に君と彼について語れというのは少々・・」
「何?」
「酷な注文だな」
「・・・」
「心配しなくても君たちふたりのことは君たち自身が一番よく知っているよ。
 僕なんかよりずっとね」
「でも私たちは何も・・」
「私たち・・か・・」
「あ・・」
「そう、君たち二人がともにあることは、朝になれば日が昇ることと同じくらいに確かで自然なことだ。
 君は彼の隣りに。彼は君の傍らに。それが神が与え給いし場所」
「・・・」
「彼の手を離すなよ。今度こそ。やっと出逢えたのだから。
 ふふ・・言わずもがなだな。彼が君を離すわけがない・・」
「・・アンドレを・・・知っているの・・」
「アンドレ・・。決して忘れられない名前だ。そう、僕は彼をよく知っているよ。君ほどではないがね」
「私が? 何故? 私はまだ彼の何も・・」
「何故って? まだ何も知らないはずの彼に、すっかり心をとらわれてしまっているのが何よりの証拠さ。
 プロポーズを断る理由になるくらいにね。いつかと同じだ・・」
「いつか・・って・・? ・・何? だって・・。私はきのう初めて・・」
「時間など・・」
男はふっと笑った。
「・・あなたは・・ずっと前から私たちが出逢うことがわかっていたと言うの。
 そんな・・何故。何故そんなこと。あなたが彼を知っていたとしてもそれと私とは何も・・」
「ごめん。混乱させるようなことを言ってしまったかな」
「混乱!? 私はきのうからずっと混乱してる。あなたやアランが知っていることを私たちは何も知らない! 私は何も・・!」
「知っているんだよ。君の心が何もかも。そして彼もね。本当はもう、気づいているはずだ」
「気づいている? 私が!? 何に?」
「・・・もう彼なしでは・・生きていけない・・。ということにも? 気づいてない? 本当に?」
男の声が、わずかな苦渋を含んでいた。彼女ははっとして受話器を握りしめた。
「それは・・・」
「頭であれこれ考えすぎるのは君のよくない癖だ。静かに心の声に耳を傾ければ、焦らずとも答えは自ずと見えてくるよ。きっと、ね」
「自分で見つけろと・・」
「一番大事なものを君はもう見つけたじゃないか。他に何が要る? 彼が君の傍らにいるのなら、もう何も要るまい。言葉も、理由も、過去も」
「何も要らない・・・」
「そう。ましてや僕が君に告げられる言葉など・・もう一言も残ってはいないよ。
 君がこれから聞くべきは僕の言葉ではない。彼の言葉と、君の内なる声」
「・・・」
「たとえ、もしこれから先、君が今知りたがっていることを知ることが出来なかったとしても」
「・・ええ・・」
「何も変わりはしない。君がその想いを向ける相手が、生涯かけて彼だけだということには」
「・・・・」
「それで充分じゃないのかな」
「それは・・そうかもしれないけど、でも」
「たしかに。僕はずっと以前から、君が彼と出逢うだろうことを確信していたよ。では何故、と君は問うだろう。
それでもいいと思ったからさ。せめてその日が来るまでは君の側にいよう。そして、いつも何かを探しているような眼をした君の、ほんのわずかでもその埋めがたい喪失の痛みをやわらげることが出来ればと、そう思ったから」
「そんな風に・・ずっとあなたは・・。知らなかった。あなたがそんな・・」
「しかし所詮彼のかわりになることは出来ない。君が愛する男は唯一人なのだと、何がどう変わろうとそうなのだということを、僕は君と過ごした日々の中で、何かにつけ事ある毎にいやと言うほど思い知らされた。君自身でさえ気づかない、ごく些細な、しかしゆるぎない確かすぎる、言葉や表情や声や行動。全てが僕に叫んでいた。彼に逢いたい。寂しいつらい苦しい。彼だけを愛していると」
「そ・・んな・・・。私は・・・」
「君を本当に愛していたよ。今もその想いは変わらない。しかし、いやだからこそ僕は、君と彼が出逢えたことを誰よりも祝福しなければならない。よかったねオスカルと言いたい。
これでもう君は大丈夫だ。僕の役目は終わった。何も思い残すことなく僕は消えられる」
彼女は振り向いて鏡に映る自分の姿を見つめた。
誰だ。この女は・・。出逢ったばかりの男に心をとらわれ、長い間都合よく甘えさせてくれた優しい人を、もう用済みとばかり切り捨てようとしている残酷で身勝手な女・・。
唇に首筋にまだ残るアンドレのくちづけの余韻が、裏切りの刻印となって彼女を責めた。彼の唇の感触を残す唇で、彼女は男の名を呼んだ。
「ヴィク・・・」
「そんな情けない声を出すなよ。幸せなんだろう、君は今」
「ええ。・・信じられないほど・・」
「はは、言ってくれるね。失恋したばかりの身には少々こたえる」
「あ、私ったら・・」
「ふふ、いいよ、そうでないと僕が困る。君が幸せならそれでいい。僕の願いはそれだけだから。少々強がりと言えなくもないけどね。
 でも・・本心だよ」
「ヴィク・・ごめんなさい私・・」
「あやまったりしないでオスカル。君と出会えて共に過ごせた時間は、いつまでもずっと僕の宝物だ。ありがとう。
 さよならのキスができないのが残念だけど」
「ヴィク・・・」
「こうなることがわかっていてプロポーズするなんて・・余計なことをしていらぬ心労をかけてしまったね。すまなかった」
「ヴィクトール! 何故あなたがあやまるの!? 私が・・!」
「おやおや、そんな大きな声を出してはだめだよオスカル。今何時だと思ってるの」
「そ、そうね・・」
「相変わらず短気だな」
笑いをこらえながら男は言った。苦笑している男のなじみの顔が目に浮かぶ。
「だ、だってヴィクトール!!」
「しぃー」
「・・・・」
「いいんだよ。もういいんだ。何も言わなくていい。僕のことは今日限り忘れていいんだよ。愛せないことは決して罪ではない。悪かったとか後ろめたいとか申し訳ないとか、そんなことはどうか思わないでくれ。過ぎたことは忘れて、今日のこと、明日のこと、彼のことだけを考えればいい。
 わかったね。僕の最後のお願いだ」
「・・・・」
「聞いてくれるね」
「・・・」
「オスカルわかった?」
「ええ・・」
男が安心したように、ふっと笑う気配がした。
「・・永遠・・」
「え?」
「なんて、陳腐な言葉とずっと思っていたが、どうやらその見解は誤っていたようだ。言葉として存在するものは、もしかしたら全て、この世に厳然と存在しているものなのかもしれない。ただそうと気づかないだけで」
「・・・」
「永遠の・・運命の恋人同士がやっと巡り逢えた。
これでもう、君はあんな風に寂しそうに笑うことはない。魂が抜けたように、窓の外の夕陽をいつまでも見ることももうなくなるだろう。光り輝く笑顔を取り戻す。顔を上げて真っ直ぐ前を見据えて歩き始める。
隣りにいるのが僕でないのが残念だが・・」
「ヴィク・・」
「ああ、余計なことを話しすぎてしまったな。さあ、もうさようならを言わなければ。こんな夜更けに他の男と長電話はいただけない。君の大切な人を悲しませる。もういいかな。僕から別れのあいさつをしても」
「ごめんなさい・・私は・・」
「またあやまる。自分が悪いなんて、決して思ってはいけないよ。
 誰も悪くない。仕方ないのだよ。どうしようもない。
 人の心に命令は出来ない。そうだろう?」
「それは・・」
「愛しいひとを愛し抜けばそれでいい。君が幸せなら・・僕も幸せだ」
「・・ヴィク・・」
「さあ、もう・・切るよ」
「・・ん」
「さようならオスカル。君の幸せを祈っているよ。いつも」
「ありがとう・・ヴィクトール。さようなら・・・。・・ありがとう長い間・・・ありがとうほんとうに・・ありがとう・・・」
小さくうなずく気配の後、男は静かに自分から電話を切った。彼女はしばらく受話器を耳に当てたまま、ツーツーという無機質な音を聞き続けていた。
窓辺にもたれて夜の街を見おろし、最後の言葉を静かに口にする男の姿がふいにありありと目に浮かぶ。
彼女の頬を涙がひとすじ伝った。
激するでもなく驚くでもなく、待っていたかのように男は自分から別れを口にした。その潔さが彼の想いの深さを語るようで彼女はつらかった。覚悟していたとはいえ、言いたいこともあったろう。少しくらいはこの身勝手すぎる振る舞いを責めてくれればよかったのに。
優しい人だった。穏やかで、冷静で。近づきすぎず、離れすぎない。いつも絶妙な距離をとって、そっと彼女を見守ってくれていた。
アンドレが真夏の太陽なら、ヴィクトールは秋の日射し。静かに柔らかい愛を彼女に注いでくれた。
たとえ彼女の胸の氷を溶かすことが出来なかったとしても、彼がいなければ、自分はもっと違う生き方をしてきたかもしれない。
耐え難い寂寥に押しつぶされ自堕落な日々に憂鬱を紛れ込ませ見えなくして・・。この恋にまともに向き合う勇気も自信も持てなかったろう。
私はあなたにはふさわしくない、と、男が自分に言ったと同じ台詞を、自分の方が恋しい男に言っていたかもしれない。
崩れてしまいそうな自分を支え続けていた手の温かさに、その手を離すまで気づかずにいたことに彼女は愕然とした。
─ 始めから別れを覚悟して、あんなに優しく微笑みかけてくれていたの、あなたは。
  時限付きの恋人役を、知っていながら引き受けてくれていたの、あなたは。
でも・・・
はたはたとひざに涙が落ちた。
─ 恋人だなんて、呼べない・・よね・・そんなの・・・。
唇をかんで涙をぬぐう。
─ そんなあなたに、私は何もしてあげられなかった。
ただ傷つけ続けていただけの時間を宝物と、それなのにあなたは言ってくれるの・・。
ふと彼女は、初めて彼の部屋に転がり込んだ日に、彼が言った言葉を思い出した。
「君はまだ、真に愛する人と出会っていないだけだよ」
あの時はただの気休めだと思った。しかし、彼はあの時から、それがアンドレであることを知っていたのではないのだろうか。
少なくとも彼は、自分のことを指してはいなかった。でなければ、あんなに寂しそうに笑ったりはしない。
『出逢ってしまったんだな・・。君のただひとりのひと。運命の・・恋人に・・』
─ 運命の恋人・・・
何があるというのだろう・・私たちの間に。
アランも・・同じことを。
始めからわかっていたって・・何を?
それを私とアンドレが一番よく知っていると言うのか・・。
彼と過ごすたび脳裏に浮かんでは消える、記憶と呼ぶにはあまりにも曖昧な、それでいて胸をかきむしられるほどなつかしいものたちのことを彼女は思った。
─ 何かあるのだ。確かに何かが。この身体の奥に眠っている。彼と出会って目覚めかけている何か・・。
『一番大事なものを君はもう見つけたじゃないか。他に何が要る? 』
─ そうかもしれない・・そうだけれど、でも・・・私は・・・
彼女は大きく息を吐いて立ち上がった。
「もうやめよう。また・・眠れなくなる」
明日の朝、彼と約束があった。
他の男のために流した涙がまだ乾いてもいないというのに、明日の朝のことを思うとたまらなく胸がおどった。
誰を傷つけても、今夜つかんだ熱い瞳の男の手を、自分はもう決して離すことは出来ないだろうと彼女は思った。今はまだわずかに残る痛みも罪悪感も、明日の朝彼の顔を見れば、たちまち雲散してしまうだろう。恋をすると女は、なんと残酷になれるものなのだろう。
愛を知り傷つくのは自分でも恋人でもなく他の人間であったなどと、恋した男のことで頭がいっぱいだったつい先刻までは思いもしないことだった。
彼女はパジャマを取り出しシャツを脱いだ。
その時、いつも胸にかけているロザリオが小さな音を立てた。彼女ははっとしてそれを手に取った。細かなつる草模様におおわれた、きゃしゃな銀細工のロザリオの裏には、クロスした部分にひっそりと、二つのイニシャルが絡み合うように刻み込まれていた。
AとO・・。
─ アンドレと・・オスカル・・? まさか・・・。でも・・こんな偶然・・・。
彼女はパジャマをベッドに投げて、バッグの奥から黒ビロードの小さな巾着を取り出した。その中から彼女が手の平に落としたのは、彼女の首にかかっているのと全く同じロザリオだった。
2つのロザリオを手の平に並べて彼女は眉を寄せた。みぞおちの奥で、何かが外へ出ようともがいていた。
その時、ひらめくように男の声が耳によみがえった。

  このロザリオは、あの夜の俺の誓いの印だ・・・・

頭がじんとしびれた。
─ そういえば・・あの時・・。
童話の王子めいた、ふだんは生身の男を感じさせない幼なじみが、堰(せき)が切れたように情熱をぶつけてきたことがあった。
たわいない子ども時代の思い出話で大笑いした。笑い止んで、ふと男を見ると、いつもと眼が違っていた。突然押し倒されて怖くなった。しかし、男の優しさに甘えて、ずっと関係を持たずに中途半端なつきあいを続けていることに一抹の後ろめたさもあった。抱かれてもいいと思った。そうすることが、彼に甘え続けてきたことに対する礼儀だと思った。
首筋をなぞる、いつも冷静な男の熱い吐息が、男がその表情の裏に押し込めてきたものの熱を感じさせた。
ところが彼はその時、小さくうめいて身体を離した。見ると手にしたこのロザリオを、青ざめた顔でじっと見つめていた。どうしたのと声をかけようとした時、男は悲しそうにふっと笑って私から離れて立ち上がった。「すまなかった。二度とこんなことはしない」そう冷めた声で言う、私に背を向けて立つ彼は、急に遠いところへ行ってしまったように見えた。
彼は何故あの時・・。これに、何を見ていたのだろう・・・。
手の上のロザリオが、ほのかに熱を帯びた気がして、彼女はもう片方の手をそっと重ねた。
彼女の手の中で、2つのロザリオは小さくちゃりんと音を立てた。久しぶりに片割れに会えたうれしさに身を震わせるように。




「偽善者め。これで満足か・・!」
受話器に手を置いたまま顔を上げたヴィクトールは、目の前の鏡に映る自分に吐き捨てるように言った。
彼はこぶしを振り上げ、鏡の中の青ざめた美しい男の顔を思い切り殴りつけた。
しゃらしゃらと音を立てながら足元に落ちた鏡の破片に、窓の外の細い月が映っている。枯野色の絨毯に散らばった、闇の中でも光を集めてきらめく鏡の上に、少し遅れて男の手からしたたり落ちた血が、小薔薇のように紅く咲いた。
男は手に刺さった鏡の一片を引き抜いて足元に投げ捨てると、テラスに出て空を仰いだ。パリの淀んだ空をおおう雲の切れ間に浮かぶ細い月が「愚か者よ」と笑っている。男は眉を寄せて視線を外した。
─律儀なあのひとのこと。
 あの男と別れてすぐ私に電話をよこしたのだろう。
 熱い愛のささやきと、甘いくちづけに酔ったあとで・・。
 いや、もしかしたら・・。
 あの電話は、あの男の部屋からだったかもしれない。眠っている男を起こさぬよう、そっと寝台を抜け出して・・。
 あの男は、眠ったふりをしているだけで、何もかも聞いていたかもしれない。何も言わず、何も聞かず・・・。
「ふん・・!」
男は右手を乱暴にふって、したたる血を振り落とした。
─・・たとえあの男の腕の中であのひとが、白い肌をさらしたまま受話器を握っていたとしても、
 あの男の手を身体に這わせるままにして、私の名を申し訳なさそうに呼んでいたのだとしても、
 そんなことは・・私にはかけらさえ関わりのないこと。
ヴィクトールは再び顔を上げた。月は雲にその姿を隠そうとしている。
─愚問だった。幸せかなどと。
 恥じらうように信じられないほど幸せだと答えたあなたの声の晴れやかさだけを、私は記憶にとどめればよい。
 そうだ。それだけを。
 あなたのそんな声を聞くことが、長い間の私の願いではなかったか。ようやく私の夢が叶ったのだ。
 これ以上の喜びが・・あるだろうか。
 そうだろう、ヴィク。
彼はあざみをかたどったテラスの鉄の手すりを握りしめた。どんなに強く握りしめても手の平の熱を吸い込むだけで、ざらついた硬い感触は頑固に自分の形を主張する。その頑なさに腹を立て鉄棒を振り下ろしたところで、裂けるのは鉄のあざみではなく男の手の肉のほうだろう。
運命もまた似たようなものかもしれないと、ふと彼は思い小さく笑った。
雲が切れた。
皮肉な笑いを浮かべる唇のような月が、男をあざ笑うように姿を現す。手すりから離した手を、男はその光にさらしてながめた。
「なぜこんなに月の光は青いのだろう。・・まるで死人の手のようだ・・」
しかし、今同じ時刻、この同じ月の光を浴びていても、波の音の聞こえるあの部屋で、燃え上がる熱情のままに抱擁に身を任せる二人の肌は、決して死人のようではあるまいと、自虐的な妄想がまた浮かびあがる。
─この同じ月の下、あの波音の聞こえる部屋で、今あなたはあの男の焦がれ続けたなつかしいくちづけに、甘い吐息をもらしているのか・・・。
焼けるように熱くみぞおちでとぐろを巻いていたものが、今度は鋭い刃となってヴィクトールの身体を切り刻んだ。
「私・・の・・・!」
強く握りしめたこぶしに、また新しい血がにじんで落ちた。
─あなたを護りたかった。
 あなたをさいなむもの全てから。
 遠慮がちに唇を寄せると、一瞬困惑した表情を浮かべたあと眼を閉じたあなたを。
 くちづけのあとあなたの唇からもれるのが、吐息ではなく小さなため息だと気づいてから。
 一向に熱を帯びないくちづけをごまかすために私の胸に頬を寄せたあなたの思いが、この胸にではなく、何処か遠いところへとんでいるのを感じながら。
 近づけば近づくほど、あなたの中のあの男の存在の大きさを思い知らされた。
 彼に逢いたい、彼の傍らで人生を紡ぎたいのだと、身体中で叫び続けるあなたを、自分に向けさせようとする空しい努力を手放したのはいつからだったか。
ヴィクトールは部屋に戻り、乾いて醜くひび割れ始めた血を洗い流し、引き出しから新品のグレイのハンカチを取り出し傷を強くしばりあげた。
それは彼女に贈られたハンカチだった。
─退官する教授のためだったか、何かの賞を取った教授のためだったか、とにかくあまり気乗りのしない、しかし義理で顔だけは出さねばならないパーティーがはねた後だった。
ホテルのロビーで皆がまだ話に花を咲かせている中、黒いシンプルなドレスのあなたがひとり玄関を出ようとしているのを見つけた。あわててかけより声をかけようとしたその時、階段を降りかけたあなたが大きく体勢を崩した。手を差し出したが間に合わなかった。
あなたは恥ずかしそうに笑って私を見上げた。
「やっぱりだめね。こういう靴は」
脱げてしまったサテン張りの黒いパンプスを、あなたは手でつまみ上げた。膝から血がにじんでいた。思わずハンカチを差し出した。
2日後、汚してしまったからと渡された小さな包みの中に、これが入っていた。
初めて彼女に贈られた思い出の品が、彼の手の血を吸い込んで汚れていくのを、ヴィクトールは呆けたように見つめた。
いつ突然終わるやもしれぬ恋人との日々は、振り返る余裕さえなく、ただ一日一日をどうにか送ることだけで精一杯だった。こうなって初めてヴィクトールは、重ねてきた日々の様々な残像を、ひとつひとつ手の平に乗せて思い返した。
報われぬと知りつつ愛した人との思い出が、どれもみな、彼女の唯一人の、永遠の恋人の男の影をまとっていることに、今更ながら気づかされる。思い出が増えるたび、だから二人の再会を、あんなにも確かな予感として自分は感じていたのだと、妙にしんとした胸の内で確認する。
─ワイン・・・
最も幸せで、最も苦悩した夜のことを彼はふと思い返した。
─私の誕生日だった。
何か贈り物をというあのひとに、私は、では夕食を一緒に、とリクエストした。
馴染みの店に予約を入れて貸し切りにした。
いくつも席数のない小さな、ジビエとワインの美味い、居心地のいい店だった。
ジビエの季節にはまだ少々早かったが、店主はいいのが入っていますよと、私にそっと耳打ちした。
勘定を私が払うと知ったあなたは、ではワインは私が、とリストを手にした。
いいワインが揃っていると、あなたは嬉しそうに目を輝かせた。
そして、ジビエがメインならコート・ド・ローヌ系がいいだの、野鳥ならこれ、雉ならこれ、兎ならこれ、と細い指で迷いもせず次々と楽しそうに指し示した。
店主が目を丸くしていた。
「ソムリエ顔負けだな。君がそんなにワインに詳しいとは知らなかったよ」
そういう私に彼女は微笑んで答えた。
「受け売りよ」
「へえ。誰の?」
突然彼女が眉を寄せて目を泳がせた。
「・・・・誰・・の・・?・・・誰・・だったろう・・・・」
あの男の顔が鮮やかにまぶたによみがえった。あの頃あなたに聞いたことがあった。ワインのことは全てアンドレに任せている。彼に任せていれば間違いないと。私は飲むのが専門だ。そう言ってあなたは微笑った。彼のワインの講釈が始まると、長くてまいると。
あの時胸に湧きあがった黒い渦が、再び私を襲った。
それを顔に出さず笑みを返すことに、辛うじて私は成功した。
「まあいいさ。受け売りでも何でも、美味しいワインが飲めればそれでいい」
楽しい一夜だった。ワインのせいか、いつになく話がはずんで、あなたはいつもよりよく笑った。
店を出てもそのまま別れがたく、私はあなたを部屋に誘った。
珍しくあなたは首を縦に振った。
やはり少々酔っていたのか、あなたは私がほんの少し席を外した間に居間のソファで眠りこんでしまった。
やれやれと苦笑して横に腰をおろすと、あなたはふんわりと微笑んだ。
そっと頬に手を伸ばした。
その時、あなたははっきりと、あの男の名を呼んだ。
はっとして手を引くと、あなたは眠ったまま、くちづけをせがむようにあごを上げた。
艶めいたその表情は、私が知らない、初めて見るあなたの、あの恋人に向ける貌だった。
憎悪が、その時初めて湧きあがった。
嫉妬はしても憎しみを抱くことだけはと、律していた自分の中の何かが弾け飛んだ。
あの男の夢を見ているあなたを抱え上げて、それでも何とかベッドに運べたのが奇跡のようだった。
私は結局、一晩中まんじりともせず、焼け付くようなみぞおちの痛みに苦しんだ。
今日か。明日か。
いつあの男がこのひとの前に姿を現すかと、まるで逃走を続ける脱獄囚のような思いで過ごした日々。
思ったよりその日の訪れは遅かったが、それは幸福よりむしろ苦しみを多く私に与えた。
それでも離れられなかった。
明日まででもいい。今日まででもいい。
一日でも一時間でも長く、あなたに最も近い場所にいられる男でいられるうちは、と。
やがてそれが、彼の不在に苦しむあなたの為なのか、それとも彼の不在につけ込んで、愛しいひとをこの手に抱いていたい為なのか、
それすらもわからなくなりかけた。
私も限界だった。
そしてまた、同じ愚行をくり返してしまった。求婚など、決してするべきではなかったのだ。
あなたがいつかあの男と運命の再会を果たす時、私が傷となってあなたを苦しめることがないようにと、忌まわしい過去と捨て去りたい記憶となってあなたの中に存在することだけはするまいと、込み上げるものを渾身の力で押さえつけてきたというのに。
ふん、結構なことだ。最後の最後でしくじった。
私がいかに紳士面をした野獣であったか、毎夜夢の中で、あなたにどんなことをしていたか。
すれ違う黒髪の男に向けた目を、あなたが悲しげに伏せるたび湧きあがるどす黒いあの男への嫉妬と憎悪がいかほどのものであったか、あなたは知っているだろうか。
アンドレ・グランディエ・・・!
君なら見抜くだろう。
このすかした顔の奥に押し込めた、男の本性を。
そして哀れむか。
お前の愛する女が求める男はおまえではないと。おまえがどれほど身を削って想いを捧げようと、この女は俺しか愛しはしないと。
私の眼前であの人の腰を引き寄せ私に挑むような視線を投げかけながら、ゆっくりとあのひとの唇を奪う様を見せつけるか。
いや、あの男は決してそんなことをしはしない。
それは私の煩悩と嫉妬が私に見せる幻影だ。
君は控えめに目を伏せて優雅に私に黙礼する。
「今日までオスカルを支えて下さったのですね。もう大丈夫です。これからは私が。ありがとうございました」と。
何も持っていないはずのあの男こそが、あのひとが欲するもの全てを持った唯一人の男であることに、私は誰よりも早く気づいた。
あのひとより早く。あの男よりさえ早く。
自分を押さえるすべを誰よりもその身にそなえたあの男を、手にしたショコラをぶちまけるまでに怒らせたのは、私の最後の悪あがきだったろうか。
あの熱で、あの眼で、彼はあのひとを灼き尽くす。冷えきったあのひとの胸を熱く燃え上がらせる。
あのひとに魂を奪われる男がたとえ何人いようとも、どれほど想いをこめて愛そうとも、決して届かぬほどの深さ熱さで彼は彼女を愛した。
そして、これからも。
これでいい。ついにお役御免だ。
神も粋なはからいをなさる。私がパリを離れる日も近い。おあつらえすぎて笑えてくる。
さあ、荷造りを始めなくては。重すぎる荷物はパリに残して。
今度会う時は、ただの幼馴染みに戻って、笑って二人の肩を抱けるようになっていましょう。
3年先か、10年先か。そんな日は永久に訪れてはくれないかもしれないが。
それでも努力はしてみますよ。
あなたのために。

 『ありがとう・・ヴィクトール。さようなら・・・』

愛していました。美しいひと。
さようなら、わがシルフィード。さようなら・・・。



つづく