瞳を閉じてもう一度 <11>





「あれ、まだ寝てた?」
目をこすりながら部屋のドアを開けた彼女はパジャマ姿だった。
「10時に来るってゆうべ言っただろう」
彼女は髪を片側に寄せて、ゆったりとした1本の三つ編みにしていた。日記の束を脇に抱えた彼は、笑いながらその髪を手に取った。
「誰かさんのせいでここんところ睡眠不足で」
彼女は手を口に当ててわざとらしくあくびをした。
「それはおかしいなあ。君が睡眠不足になるようなことは、俺まだ何もしてないはずだけど」
彼は腕を組んで、おおげさに眉間にしわを寄せた。彼女はしばらくぽかんとしていたが、急に首まで真っ赤になってドアをばたんと閉めた。
「あいたっ!! 急に閉めるなよ! 骨が折れたらどうするんだ!」
「ふん、だ。これくらいで折れる骨なんかありません。ドアが壊れるかと思った、の間違いじゃない」
ドアの向こうで彼女が笑っているのが聞こえる。
「今着替えてるから、ちょっと待ってて」
「それなら俺は出直してくるよ。実は俺もさっき起きたばかりで、コーヒー1杯飲んだだけなんだよ。下で何か食べてからまた後で・・」
「私だって食べてない」
ドアが開いて彼女が顔を出した。
「うわ、もう着替えてる」
「ちょっとって言ったでしょ。朝食ならここで一緒に。私がおごる」
彼女は目を丸くしている彼の腕を引いて、部屋の中に招き入れた。
「おどろいた。女性の朝の支度ってのは、もっと時間がかかるものかと」
「まだ顔を洗ってないもの」
彼女はそう言うと、さっさとバスルームに入って歯磨きを始めた。ばしゃばしゃと水音がしたと思う間もなく、編んだ髪をほどきながら彼女は戻ってきた。
「お待たせ」
「まだ濡れてるよ、ほらここ」
彼はポケットからハンカチを取り出して、もっと待てる男だよ俺は、と笑いながら彼女の額をぬぐった。
「これくらいすぐ乾くのに」
彼女が唇をとがらせた。
「髪だってとかさないと。ほら、そこにかけて」
彼は今度は、櫛(くし)を取り出して彼女の後ろに回った。
「あきれた・・いつも持ってるの、ハンカチと櫛」
「あれ、君は持ってないわけだ」
振り向いて彼を見上げた彼女の頭を前に向かせながら彼は言った。
「ああ、それは、んーと、そう、時々・・」
「なるほど。世話の焼きがいがありそうだ」
彼がくすくす笑った。
男に髪をすかれたのは初めてだった。彼は櫛を通したあとを左手でなでつけながら、彼女の長い髪をていねいにとかしていた。髪をなでられるごとに、彼女は彼のその手をとらえて唇に押しつけたくなるのを必死でこらえた。
「あなたのその櫛は、さぞかしいろんな色の髪を知っているのでしょうね」
意地悪な台詞でも吐かなければ、身体が芯から溶け出してしまう。
「残念ながら、こいつは男の黒髪以外知らないよ」
ウソなのかほんとうなのか、彼はまじめな顔で即答した。どうせ何を聞いてもこの人にはこんな調子ではぐらかされてしまうのだろう。
きっとこの男は、髪をとかされている女がとけそうになっているのを知っていてわざと知らん顔をしているのに違いない。どこまでが無意識で、どこからが作為なのか、さっぱりわからない。押し倒してやろうか、この色男。
いや、そんなことをしたらまた、あっという間に形勢逆転だ。その手の攻防では、この男に所詮かないはしない。彼女は苦笑した。
「はい、これでOK。世界一の美人になったよ」
彼は軽く彼女の頭頂にキスした。
「ありがとう。世界一気のきくハンサムさん」
どういたしまして、と首を傾けた彼は、ポケットに櫛をしまいながら、今度は自分の身の置き所を探して首を巡らせた。
「狭いでしょ。ゆっくり座る場所もなくて」
「ああ、そんなこと」
「でもね、すごく安いの。この部屋」
彼女はうれしそうに片目をつぶった。
「そのへんにかけて・・」
ベッドを指さした彼女は、そこにぬいだパジャマがそのままだったことに気づき、あわててかたづけ始めた。
「ごめんなさい。幻滅ね」
「まさか」
彼は後ろから腕をまわして、かがんだかっこうの彼女を抱きしめた。
「ますます好きになったよ」
「うそばっかり」
「ほんとさ。顔を洗う間タオルを持って待ってるような人は俺は苦手なんだ。なんだか怖くて」
「妙にリアルね。体験談?」
彼女は顔だけをふり向かせて片眉を上げた。
「ただの例えだよ」
「どうだか」
笑いながら彼女はまたパジャマをたたみにかかった。
「着替えるのは速いけど、かたづけるのは遅いな」
「あなたがそうやって、はがいじめにしてるからでしょうが」
彼女は再びふり向いた。
「俺がやろうか?」
「けっこうです」
「俺は独り住まいが長いからね。世話をやかれるよりやくほうが性に合ってる」
「ふーん、世話をやいてくれる人には不自由しなかったんじゃないの」
「苦手だって言ったろう、そういう女は。その点、君は理想的だ。ワインは落とすし、すぐ転ぶし」
彼は腕をはずして彼女からパジャマを取り上げると、さっさとたたみ始めた。
「どうせ私は手のかかる女です」
「だからそこが好きだって言ってるんだよ」
きれいにたたんだパジャマを彼は彼女に渡した。
「それはどうも」
「それより大事なことを忘れてた」
「え、 何・・」
深刻な顔で声を落とす彼に、彼女は心配そうに眉を寄せた。
「朝のあいさつがまだだろ」
にやりとして彼は、ぐいと彼女の腰を引き寄せた。たたんだばかりのパジャマが床に落ちる。
「あ・・せっかくたたんだのに・・」
「いいから」
下を向きかけた彼女の顔をあおむかせて、彼は彼女の唇をふさいだ。腰を引き寄せられたまま、のしかかるようにくちづけられて、彼女の背は弓のようにしなった。
「・・・朝のあいさつにしては濃厚すぎない?」
長いキスのあと、ほうと息をつきながら彼女は笑った。
「ご満足いただけましたか?」
「全然足りないけど」
彼は笑った。
「ご要望にお応えするのは全くやぶさかではありませんが、先生」
パジャマを拾い上げながら彼は言った。
「先生って言わないで、って!」
彼の手からパジャマを乱暴に取り上げて彼女は言った。
「しかし先生、私が何の用でこちらにうかがったか、すっかりお忘れでは?」
「あ」
「思い出した? たまには仕事もしないとね」
「担当編集者のキスに悩殺されて仕事を忘れてました、次からはもっとキスの下手な人をよこしてくださいって報告しといて」
「即、クビだな」
「失業したら、私の助手でもやる?」
「そんなことしたら全く仕事が手につかなくなるぞ。なにしろ先生は、助手と朝のあいさつをするだけで午前中いっぱいかかるそうだから」
「で、今度は私がクビ?」
「やっぱり今から仕事した方が良さそうだな」
「みたいね」
ふたりは笑って軽く唇をあわせた。
「ここ、ちょっと読んでみて」
一番上に乗せておいた日記の一冊を手に取りベッドに腰かけた彼は、1789年7月の日付のページを開いて指さした。隣に腰をおろし、しばらく文字を追っていた彼女が、目を見はって彼を見た。
「女・・隊長!? バスティーユの・・あの・・」
「そうなんだ」
「だけどそんな記述はどんな歴史書にも・・」
「ああ、そうだろうな。聞いたことがない」
「名前は書いてないの」
彼女は他の頁をぱらぱらとめくった。
「まったく」
「そう・・」
彼女はしばらく黙り込んだまま、魅入られたように日記を読みふけった。
「7月13日で・・途絶えている・・」
「日記が再開するのは5年後だ」
「このあと・・この隊長は・・」
「翌日、男を追うように命を落としている。バスティーユ襲撃を指揮していて集中砲火を受けたようだ」
「・・そう・・・なんて・・」
「ああ」
彼女はノートに目を落としたまま考え込んでいたが、思い切って口を開いた。
「あなたの同僚の彼・・」
「アランのこと?」
彼女は顔を上げてうなずいた。
「ちょっと・・気になることが・・」
「なんだ。いきなり口説かれたとか?」
「まさか。あなたじゃあるまいし」
「だよな。そういう男じゃない、あいつは」
彼は目を伏せ、唇に笑みを浮かべた。冗談をまとわせて、懸命に自分の閉じかけた心を開こうとしてくれた、夕立の日のアランの顔が目に浮かぶ。
「そうね。無愛想に見えるけど、生真面目で優しい人」
「ああ。いい奴だよ」
「ただ・・・“隊長”・・と」
「なに? 隊長?」
「そう呼んだの。彼は私を」
「なんだそれは」
「私に聞かないでよ。わからないから聞いてるの」
「はは。そりゃそうだ」
「『何も思い出せませんか、隊長』って」
「何のことだ。俺にもわからないな。何を思い出すんだ。少なくとも奴は前から君を知っていた、ってことになるな。前にどこかであいつと会ったことがあるんじゃないのか。学生時代の下級生とか」
「さあ・・覚えはないけど。ただ・・」
「うん」
「なんとなく・・初めてじゃないような・・。だから私、自分から声を・・。あなたの同僚と知らずに」
「ああ、そのことはアランが自慢してたよ」
「あなたとどれくらいのおつきあい。幼なじみとか・・」
「いや、4年前にあいつがうちの社に来てからだよ。どうして」
「うん・・」
「ずいぶん奴にこだわるんだな」
「だって彼、あなたのこと、すごくよく知ってるみたいだったから」
「ああ確かにな。どういうわけか、俺自身より俺のことをわかってるんじゃないかと思うことがあるよ。妙な奴さ」
彼は笑って肩をすくめた。
「それって・・単に馬が合うとか偶然とかって、言ってしまえるものなのかな」
「・・それ、どういう意味?」
「なんとなく・・・。ただの直感だけど・・」
「まあな。あいつに初めて会った時、昔の親友と再会したような気がしたのは確かだし、一緒にいると長いつきあいの悪友のようにも思えるが。だからって・・」
「わずか4年のつきあいの人があんなこと言うかな・・。彼は・・」
彼女はまたノートに目を落として、続きを言いよどんだ。
「・・何。まだ何かあるの」
彼女の顔をのぞきこむ彼を彼女は見返し、アランに言われたことを思い返しながら、一言一言確かめるようにゆっくりと言った。
「私は・・あなたがなくした・・・魂の片割れで、運命の人で・・あなたは私に会える日をずっと待ってたんだ、って。まるで・・始めから私たちが出逢うことがわかっていたみたいに・・」
別れた恋人にも全く同じことを言われた、と。互いの最も近くにいた人間が、二人して口をそろえて同じことを言うなんて、と。別れた理由の張本人にそれを言うことはさすがにはばかられ、彼女は言葉半分で口を閉じた。
「会ったばかりでいきなり? 」
「会って10分もたってなかったんじゃないかな。挙げ句、私もあなたと同じだったんじゃないかって」
「そうか・・あいつ、君にもそんなことを・・」
『 他の奴じゃだめなんだよ・・・。あのひともおまえもな 』そう言ったきのうのアランの顔がよぎり、彼は眉を寄せた。
「あの時はわけがわからなかったけど、これを読んでふと・・何故かあの時のことが頭に浮かんで」
「・・・隊長・・女の・・・まさか。だってこれは200年以上も前の」
「ええそれはもちろんわかってるけど。・・彼・・」
「うん」
「私に・・敬礼を・・こんな風に」
彼女は立ち上がってアランをまねて敬礼した。
アンドレはその瞬間、スーッとからだがどこか別の時空に吸い込まれるような妙な気分になった。
「奴は確かに何か知ってる。この頃時々妙なことを言うんだ。これも君に一人では読ませるなと」
「彼は何を・・」
「さあ、それはわからないが」
「でも、彼の言うとおり確かに何か・・何か思い出せそうな・・思い出したいのに思い出せない何かがあるような、そんな気がずっとしている」
「ああ、俺もだ」
「あなたにくちづけられる度、名まえを呼ばれる度、まるで時空がゆがむように・・」
「違う場所の、違う空気が身体を包む。とらえられない速さで頭の中を何かが駆け巡って」
「浮かんでは消える様々なものたち・・。たまらなくなつかしいたくさんの・・・」
ふたりは顔を見あわせた。
「君に会ったあの日から」
「そう・・あなたに会ってからずっと」
「・・それが・・・これと・・何か・・・? それをアランが知っている、と・・?」
「ま・・さか・・だって・・・」
ふたりは同時に積み上げた日記に目をやった。
「だけど、一体・・・」
「今は・・わからない。しかし君との出会いがただの偶然でなく、何か他に意味のあるものだったとしてもそうでなくても」
彼は彼女の頬に手をやった。
「そんなことは、どっちでもいい。こうして出会って愛しあえた。これ以上確かなものはない。今はそれだけでいい」
彼女は微笑んだ。
─ そう、それだけでいい。この想いだけは確かなのだから。
通い合う想いが温かかった。アランが言ったとおり、この日をこそ長い間、ずっと待ち続けていたのだとふたりは思った。
だからこそ知りたい。ふたりをつなぐものが何かあるのだとすれば何もかも。
互いの腕の中こそが探し求めたただひとつの居場所であると、なぜこんなにも確信できるのか。出逢った瞬間に心をとらえたあの思いが何だったのか。
この、泣きたくなるほどの愛しさとなつかしさが、胸つぶれるほどの幸福感が、他の何を失ってもかまわないとまで思えるほどの安堵が、ふたりをつなぐ深い絆の秘密なら、何もかも知りたい。
しかし、それを知ってしまった時、失うものがありはしないのか。
どうしても思い出せないのは、何か思い出したくないことがあるからなのではないか。
ふと、ふたりの頭をよぎるそんな不安があった。
ならば、今こうしてやっとつかめたものだけを慈しんでいればそれでいい。もう互いの存在以外には何も要らないと、見交わす瞳に言葉無く告げあったふたりなら。
そう。この時だけで。
ふたりは笑み交わし、ちいさくうなずきあった。
「俺がほんとうに君の魂の片割れになれたらうれしいけど」
「なれるんじゃない。運命の人なんだから・・」
「この日記の隊長と従僕みたいに?」
「ふふ・・じゃあ、あなたは私の従僕?」
「そうなるな。それも悪くない。君は“隊長”なんだろ?」
ふたりは小さな笑い声を立てた。
「許されざる愛・・か」
「このふたりは・・幸せだったのかな」
「さあ、どうだったんだろうな」
「出動前夜、ふたりはどんなふうに過ごしたのだろう。同じ床で・・密かに愛を交わしたのだろうか」
「たぶんな」
「どんな覚悟を胸に・・抱擁に身を沈めたのだろう・・。見交わす瞳と瞳に浮かんだものは何だったのだろう・・」
「革命・・か・・・」
「・・・・」
「何を・・迷っていたんだろうな、俺は。俺たちは今、こんなにも自由なのに」
「自由・・・・そんなこと、思いもしなかった。今まで一度も」
「そうだな」
「このひと達が命を賭してかちとろうとしたもの。私たちが意識もしないほどあたりまえに享受しているもの。もっとも、持て余して扱いかねてるけど。もっと素直に生きることができれば楽なのにね」
「まったくな。自由の重さもありがたさもかえりみることもない。だから、自分の手で自分を縛ってることに気づかない」
「かかえきれないほど持っているものを慈しむことを忘れて、持っていないものばかり数えて。つまらないことで悩んだり迷ったり腹を立てたり」
「つまりそれが自由ってことなんだろうさ。ま、自由の代償であるとも言えるわけだが」
「ふふ・・なるほどそうかもね」
「惚れぬいた女を腕に抱くことさえ罪だった。いや、愛することさえ許されなかった。その大罪を犯してあの男が手にしたものは何だったのかな」
「・・・永遠の愛・・・・」
「永遠・・・か・・」
「ふふ、陳腐ね。言葉なんて。しょせん私たちなんかには想像もつかない」
「まあね。しかしその通りだよ。きっと」
「何に縛られていても、人を想う心は縛れないものね。どんな時代でも魂だけは自由であったと思いたいな・・」
「以前の俺なら、この色男の従僕野郎の気持ちはわからなかったろうな。バカな男だと、鼻で笑っていただろう。
しかし今ならわかる。君がたとえ王妃でも、俺はこの腕に君を抱きしめる。何を失っても君を奪う。この男がそうしたように。」
「アンドレ・・」
「なぁんてな。くさいセリフがいくらでも出てくるんだなあ、この口は。ま、病気だから勘弁してくれ」
「何それ! アンドレったら。 本気にした!」
「ばかな。セリフはくさくても俺は心にもないことを言ったりはしない。ただし・・」
「何よ」
「君にだけだ、オスカル。君にしか聞かせない」
「・・・・・それも、病気?」
「さあ、どうかな」
「意地悪!」
「俺の眼を見ればわかるだろう? 本心かどうか。愛しい我が隊長殿」
「もう絶対本気にしない!」
にっと笑った彼の唇が、抵抗する間も与えず、とがらせた彼女の唇を割って熱い吐息を忍び込ませる。長いくちづけのあと頬をたどり耳たぶをとらえたその唇が低くささやく。
「君と出逢わせてくれた運命に感謝するよ。ずっと側にいる。離さない。俺の・・運命の恋人・・。愛しているよ、オスカル」
「ん・・・・」
胸がつぶれそうだ、と彼女は思った。自分にだけ向けられた、二つの黒曜石のきらめき。見交わした瞳に映るひとの、なつかしさ愛しさ。
「なんだか泣きそう」
「泣くなよ。まだ早い」
「へえ、いつならいいの」
「言ってもいいのか」
「やっぱり意地悪! すっごく意地悪!」
「ははは」
思い出せない絆の気がかりも、昨日までの不安も迷いも、朝の光にとけて消えようとしていた。彼はそっと、彼女の額にキスを落とした。
「さて・・と。仕事に取りかかる前に腹ごしらえするか。何がいい」
彼は立ち上がって彼女をふり返った。
「えっとね、ショコラとそれから・・」
「えっ、朝からショコラ飲むの」
「これ、全部読むんでしょ」
彼女は積み上げられた日記を指して肩をすくめた。
「何も食べないうちから頭使って、もうふらふら。血糖値を上げなきゃ頭が働かない」
「使ったのは頭じゃないだろ。ショコラより甘いキスじゃだめ?」
「そのデザートは、もうとっくにオーダー済み」
「そうでした」
彼は笑って受話器を手に取った。



「何も・・聞かないんだな・・」
「聞いて欲しいのか」
「あ・・いや・・・」
「充分だよ、もう」
「・・・」
「どこへも・・嫁がないんだろ。一生」
「ん・・」
「それ以上何を聞くことがある」
「・・アンドレ、すまなかった・・」
「何が」
「うん・・」
「俺こそ・・すまなかった」
「・・何が?」
「ん・・・うん」
「いつの間にか大人になって。いろんなものが変わってしまったな」
「変わってはいないさ。何も」
「そうかな」
「そうさ」
「ふふ・・。でも、少しくらいは変わっていてほしいな」
「そうか?」
「そうじゃないか?」
「俺は・・何とも言えない。ごめん」
「そ・・うだな・・。すまない・・」
「謝るなよ」
「おまえこそ」
「ああそうだな。もうやめよう」
「変わっても・・変わらない。今までどおり、このまま」
「おまえがそう望むなら」
「アンドレ・・・私・・は・・・・」
「何も言わなくていい。わかってるよ」
「すまない・・・アンドレ・・・私を許してくれ」
「謝るなと言ったろう。何を許すんだ。お前は何も・・」
「酷い女だ私は。おまえにも」
「ジェローデル少佐にも・・かな」
「・・・」
「ふふ。わかってるよ、そんなことは。なんだ今更」
「そう・・か。そうだな。まったくだ。今更だな」
「そういうこと」
「そんな私をおまえは・・・」
「どうしたんだ。なんだかいつもと違うぞ、おまえ」
「いつもの私か・・。自分勝手で頑固で意気地なしで。いつもと違うなら、それはいい傾向だ」
「何を言ってるんだよ。しょうがない奴だな」
「ここが・・一番暖かい。おまえとこうしている時間が・・・私は一番好きだ」
「ああ、俺もだよ」
「では、まだこの胸を、借りていてもいいだろうか・・」
「なんだよ。今までそんなこと一度だって聞いたことないじゃないか。いつだって勝手に飛び込んできて、気がすんだらさっさといなくなって」
「ふふ・・そうだったな」
「あまたの希望者に丁重に断りをいれて、おまえのために空けてあるよ」
「あまたの? それは光栄だな。大勢のご婦人を泣かせて、私は安息の地を得ているわけだ。ふふ・・」
「わざわざ俺にことわらなくても、お前だけの場所だよ、ここは。出逢った日から、命つきる日まで。ずっと。
一番・・好きなんだろう」
「ん」
「それだけでいいよ」
「・・・・・」
「ん?」
「誰にも・・・・・渡したくない・・・」
「ん。そうか。覚えておくよ」
「これ以上ないわがままだな、私は。最悪だ」
「よく知ってる」
「ふふ・・」
「おっと、足元に気をつけろ。そこはいつも水たまりになるな」
「いつも菩提樹の葉むらを映して・・。水たまりに映る葉陰を見ながら隠れて泣いたこともあった」
「ああ」
「誰にも見つからないよう来たはずなのに、いつの間にかおまえが肩を抱いてくれていた」
「そんなこともあったか」
「おまえの胸は私の不安も涙も苦しみもすべて受け止めて、魔法のように忘れさせてくれた。いつも、どんな時も。ずっとずっと長い間・・・。
だからどんなつらいことがあっても、また前を向いて歩き出せた。私にはこの場所があるから大丈夫だと、ことあるごとに思いながら今日まで来た」
「そうか。それはよかった。俺でも少しは役に立ったか」
「おまえがいなければ私は生きられなかった」
「そんなことはないよ。おまえは・・」
「そうなんだ。それがやっとわかった。ほんとに莫迦だ私は」
「おまえが莫迦なら俺はなんだ? 明日から生きていけないよ。もういいじゃないか。さあさあ、そんなことより、懺悔してるひまがあったらさっさと帰って休んでくれ。気が気じゃないんだよ、俺は。最近ろくに・・」
「夜更けなのに明るいな。影がこんなに濃い」
「話をそらしたな」
「ふふ・・」
「ま、確かにいい月だが。明日あたり満月かな」
「もうあんなに月が高い・・。今何時頃だろう・・」
「衛兵交代はまだのようだが・・すっかり遅くなってしまった。さあもう帰ろう」
「まだ・・帰りたくないな・・」
「もうじき兵士たちが引き上げてくる。連中がこんなところを見たら腰を抜かすぞ。それでなくても、あることないこと噂されてるんだ。何言われるか、知れたもんじゃない」
「誰も来やしない。こんな時間にうまやの裏になんて」
「それはどうかな。実に色気のない場所だが、兵舎の中では数少ない逢い引き好適地だ。物好きがのぞきに来ないとも限らんぞ」
「ふふん。腰でも何でも抜かせばいい。どんな艶っぽい噂が流れるか楽しみだ」
「何言ってる。そんなことになったら、闇討ちにあって俺は一巻の終わりだ」
「ふふ・・大げさな」
「しかし、いい思いのひとつもせず殺されるのは合わないな。ははは」
「・・・・」
「・・今のはしゃれにならなかったな。ごめん」
「そんなこと・・・ない・・」
「・・・」
「変わらなければ・・ならないな。この国も、私も・・。このままでいいと・・思ってはいない」
「オスカル・・」
「でも今は・・もう少しだけ・・このままでいても、いいかアンドレ」
「・・ああ」
「なんだか、泣きたい気分だ」
「おお、いいぞ。いくらでも泣け」
「ふふ、いいのか。おまえが私を泣かせていたと噂が立つぞ」
「それは激しくまずいな。今度こそ命の保証がない」
「ふふ・・・」
「いつまでもこうしていてやるよ。おまえの気がすむまで。もう急いで帰るのはあきらめた」
「明日の朝きついな」
「あったり前だ。寝坊するなよ」
「あ・・りがとう、アンドレ・・。私は・・・・」

ふっ、と辺りが真っ暗になった。
今となりにいるはずの男の名を呼ぼうとして私は愕然とした。今口にしたばかりのその名を思い出せない。長い時を何度も呼び交わしたはずのその名を。
どうしたことだ。顔も・・思い出せない。
まだその胸のぬくもりが、この頬にも肩にも残っているというのに。
覚えているのに。その瞳の優しさも、胸元の香りも、唇の熱も、手の大きさも。
おや・・・・。
暖炉の前に一人腰かけているのは・・。あ・・あ、なんだ、もう帰っていたのか。おまえ、急にいなくなるから驚いたぞ。ここで待っていてくれたのか。
さあ、今すぐ思い出させてくれ。その手で。あの夜のおまえを。
おまえの、よく知っているはずのその手が、闇の中で私の知らない手になって、私の封印を切ったあの夜のことを。
そうすればきっと何もかも思い出す。身体の奥深くに沈み込んだ記憶が浮かび上がる。
おまえのしっとりとした手のひらが、うぶ毛一本さえ残さず、私の肌のすべてを記憶に刻み込もうと、ゆっくりと、しかし確かに、おまえの唇を追いながら私の肌をたどったあの夜のことを。
指の一本一本が、まるで別の生き物のようにうごめいて私を翻弄して・・陶酔の深さに耐えきれず閉じた眼のかわりに私の唇が、かすかな叫びとともに開かれたまま息を乱していた。
ふと不安になり、眼を開けて小さく手の主の名を呼んだ。いつもより熱を帯び、艶を増してはいるものの、よく知っているなつかしい夜色の瞳が、いつもの優しい微笑みを浮かべて私を見返してくれた。
私は、もう一度おまえの名を呼んだ。声というより吐息に近い響きで、おまえも私の名を呼び返す。私はまた、深い安堵と幸福感に包まれ寝台に身を沈める。それと同時に落ちていく、はい上がれない程深い、陶酔の淵。
おまえの眼、指、背中、髪、声、名前、すべてが愛しくてたまらない。私はその人を抱きしめようと手を伸ばした。
しかしその手は、むなしく空を切った。私の手が抱いたはずの、大きな温かい愛しいひとの身体はそこにはなかった。
私はひとり、真昼の街の路地裏に立ち尽くしていた。
見上げた空が、突き抜けるほど青い。しかしその青い色は、水底から仰ぎ見ているかのように、ゆらゆらと揺れてにじんでいる。
私の視界をかすませている、頬を伝い、足元に落ちる、こぼれてもこぼれてもわき上がる涙。
・・・・涙?
何故。何故私は泣いているのだろう。こんなに空が晴れているのに。
理由もわからないまま私は泣き続けた。何故なのだろう。悲しくて恐くて、はらわたが引きちぎられるようだ。自分が今こうして生きていることが不思議なほどに。
涙の熱さが、握る指の力が、声をしぼろうとする意志が、私がそれでも生きていることを思い知らせる。そして、この命より大切なかけがえのない愛しい者が、もうこの熱も力も意志も持たぬのだと思い知る。
私は自分の胸元に手をやり、硬い手ざわりの衣服ごと、胸のふくらみを痛みを感じるほど強くつかんだ。ここにはまだ、そのひとがつけた紅いあとが、はっきりと昨夜の名残をとどめているはずだ。
その人の名を叫びたかった。声を限りに、その、なつかしく愛しい名を。
しかし声は出ない。名前を思い出せない。
顔も声も、姿も手も唇も・・思い・・出せない。
それなのに、そのひとがここにいないことが悲しかった。私がこんなに苦しいのに、肩を抱いてくれないことが不思議だった。
いつも側にいて、ほんのかすかでも私の胸にかげりがさした瞬間、やわらかく暖かく私を包み込み受け止めてくれたそのひとの気配が、いつまで待っても感じられないことに、私はだんだんいらだってくる。
そのひとの名を呼びたかった。
しかし名前を思い出せない。声が出ない。気味悪いほど静まりかえった路地裏に漂う火薬の匂い。その時ドーンと腹に響くごう音が耳を貫いた。殺気だった群衆の声が、地響きのように足元から這い上がる。はっとして私は顔を上げた。
私の・・・・・。私の・・・!
おまえは・・行ってしまったのか? 私を置いて・・・・!!!
たまらず駆け出そうとする私の前に、突然大きな影が立ちふさがり、私の手首をちぎれんばかりに強く引いた。
「 隊長!!」
・・・・・・・アラン・・!?



長い夢を見ていたような気がした。
思い出せるのは、青い空と深い悲しみ。「隊長!!」と呼んだアランの顔。つかまれた手首の痛み。
身体に残る夢の余韻が重い。彼女はそっと、まだ痛みの記憶が残る右手首をさすった。
天井に目をあてたまま耳を澄ますと、かすかに届く波音が重くこもっている。雲が厚いせいだろうか。
彼女は起きあがってカーテンを開いた。
思った通り、海の水面にのしかかるように、低く厚い雲がたれこめていた。それでも夏の陽光は雲を透過して、一帯を陰気な明るさで満たしている。
夢の中の、目にしみるような青空がまぶたに浮かんだ。明るい空と、石畳がはね返すまぶしい夏の陽。しかしそれは、耐え難い悲嘆と恐怖をともなってよみがえる。まがまがしいスカイブルー。
目の前の曇天に彼女はほっとした。
大きく息を吐いたとき、枕元の電話が鳴った。
「おはようございます」
アランだった。



つづく