瞳を閉じてもう一度 <12>





電話のコール音に顔を向けた時、ふいと彼女の頭に浮かんだのはアランの顔だった。
向こうが名乗るより早く、彼女は電話の相手の声が予想通りの男の声であると気づいた。落ち着いてはいるが、底に芯の明るさを含んで、どこかいたずらっ子のような声が、人好きのする響きを持っている。
「ル・デトゥールのアラン・ド・ソワソンです」
その声に何故かなつかしさを覚える。一度会っただけの男の声を即座に聞き分けることができたのが何故なのか、彼女は自分ながら不思議な気がした。
─夢のせいだろうか・・。
微かな後ろめたさにうろたえて彼女は理由を探した。
『隊長!!』
ついさっき彼女の腕を引き、そう叫んだ声。身体はまだその夢を引きずっている。耳に残る声が電話から聞こえる声に重なる。つかまれた感触の残る右手首を彼女は見下ろした。受話器の向こうの男が、軍服をまとっているような錯覚におちいる。
「あ・・あ・・おはようございます」
彼女は頭で渦巻くかすかな混乱をおさめようと、何度か小さく首を横に振ってからあいさつを返した。
「先日は・・どうも、あの・・突然失礼なことを。申し訳ありませんでした」
「そんな、とんでもない。私こそ・・」
謝るようなことを男は何もしていない。いきなり怒鳴ったあげく、逃げるように立ち去った自分の方こそ謝らねばならない。
あれは一体何だったのか。思い返すと身が縮む。自分でも未だ不可解なままの言動を、恋人にさえ話せずにいる彼女だった。
どんよりと胃の底で淀んでいるものを抱えたままで、それを知っている男と話すのは気が重かった。
「今日は、仕事の話で」
「ああ・・仕事・・。はい、なんでしょう」
聞きたいことがないわけではなかったが、どうやら男がそれ以上あの日の話をする気がないらしいとわかって、彼女はいささかほっとして肩の力を抜いた。
「写真を撮らせていただきたいのです」
「え?」
「今度の連載のためのあなたの写真です。今日お時間いただけませんか」
「私の写真・・・」
「あなたの連載に他の人の写真をつけてもしょうがないでしょう」
男は笑った。
「ああ、ええ、まあそれはそうですが・・。今日、ですか」
「ええ。いかがでしょう」
また急な話だなと思いながら彼女は時計を見た。とはいえ、何の予定もない彼女ではあった。今日一日、恋人はたまった仕事を部屋にこもって片づけると言っていた。もしかしたら、そのことを彼から聞いて電話してきたのかもしれない。
多少おっくうな気がしないではなかったが、約束をかかえて落ち着かない気分で過ごすことも、何時間かでも時間をつぶす理由が出来ることも、恋人に逢えない所在なさをまぎらわせるには好都合かもしれない。
多分この恋人の相棒は、そういう気を回すことのできる男なのだろう。そんな気がする。
「だめですか、今日は」
「いえ、そういうわけではないのですが、その・・ええ確かにそんな話がありましたね。でも、今の今まで、すっかり忘れていたもので。ちょっとうろたえてしまいました。だって私の写真なんて・・」
電話の向こうで男が再び短く笑うのが聞こえた。
「ああ、そういうことですか。堅めの内容の本ではありますが雑誌ですから。ヴィジュアルも大事な要素なんです。読者は記事を書いた人にも興味を持ちますしね。まあ誌面の半分は写真ですし、そんなに大層に考えていただくようなものではありませんよ」
「・・そういうものですか。実は私・・カメラマンの方にこんなこと言うのは失礼なのですが・・写真を撮られるのが苦手で」
「ああそれなら大丈夫です。オレ独りで撮りますし、大仰なことはしませんから。セッティングもしないし、レフをあてたりもしないし」
「レフ?」
「反射板です。白くて大きな」
「ああ、よくモデルさんの撮影なんかで・・」
「ええ、そうです。手持ちのカメラでごく普通に撮りますからご心配なく。出来上がりを見てあなたが恥ずかしくなるようなものは撮らない程度の自信はあります。大丈夫ですよ」
「あ・・ええ、それはもちろん・・」
心配なのは写真の上がりではない。
撮影というのは、どれくらい時間がかかるものなのだろう。このひとと二人きりで過ごしたりして、また妙なことを口走ってしまいはしないだろうか。この男といると、ふいに自分がわからなくなりそうで、それが心配なのだ。
顔を上げて見た鏡に映る女は不安な顔を向けていた。
「今日夕方はいかがですか。6時頃から暗くなるまでくらいは。ちょっと長くなりますが。黄昏時に外で撮りたいんです」
「ええ・・私は」
「よかった」
「6時・・ですね」
「ええ、その頃に。下のカフェで待ってます」
礼を言って、では、と電話を切ろうとした男があわてて言葉をついだ。
「ああそうだ。撮影には普段着でおいでください。この間みたいな」
「・・この間?」
「ふだんのままのあなたを自然な感じで撮りたいので」
「ああ・・そういうことなら・・。助かります。ほんと言うと、普段着しか持ってきていないんです」
「あれ、でも、あるでしょう。あいつとレストランに行った夜の」
やっぱりよく気の回る男だ。彼女は急におかしくなって含み笑いした。
信頼か、親しみか、適当な距離か。これから被写体になる相手の緊張と不安を取り去るためには何が適当か。この気の回る男はきっと、これから仕事をする相手の受話器から聞こえる声の調子だけで、相手がどんな応対をしてほしがっているのか、瞬時に的確に嗅ぎ分けるのだろう。口調のくだけ具合が絶妙だ。あつらえた靴のようにぴたりとはまる、包み込まれるような受け答えは、警戒感をそれと気づかないうちに解いてしまう。
仕事柄かもしれない。しかし、言葉の裏をくみ取ってもらえそうな、そんなこの男の柔らかさと大きさが、どこか彼女の恋人と通じるものを感じさせた。この男が恋人の、たぶん数少ない、もしかしたら唯一の友人であることにあらためて思い至る。それは彼女の中でもやついていたものを、風が雲を吹き流すようにすいと消し去った。
「ああ、あれ・・。そう言えば・・。ふふ、忘れてました」
「忘れて?」
男は笑った。
「ええ、すっかり忘れてました。出かける前にあわてて買いに走ったんです。だから・・」
「あれ、じゃ、奴と同じだ」
「え、そうなんですか」
「そうですよ。あの日、やっと現れたかと思ったら、ろくにオレの話も聞かないで、さっさと出かけちまいましたから」
「ふふ、ひどいですね、それは」
「まったくですよ。オレなんか全く眼中になしですからね」
意外だった。
あれから何度も思い返しては胸を焼いたあの日の、レストランの中庭で立ち上がった瞬間の恋人の姿。
砂色のスーツに合わせた、品良く地紋の浮き出たセピア色のシャツ。タイは確か深い紫根色。暖色にも寒色にも見える淡色のスーツの甘さを、漆黒の髪がいい具合にひきしめ、風になびく髪とはためくジャケットの裾が彼の野性味を微かに浮かび上がらせていた。
値札をはずしたばかりの、ついさっきまで店のハンガーに掛かっていたものを、どうやったらあんなにもしっくりと着こなせるのだろう。とても直前にあわてて買ってきたものを着ているようには見えなかった。決め方もくずし具合も惚れ惚れするほどバランスが良かった。
― へ・・え、あのスーツ・・。そうだったんだ。あの伊達男。何が、ドレスアップは性に合わないな、だ。
にやりと笑ってウィンクする恋人の顔が浮かび、彼女は苦笑した。なんだか悔しい。
「でもディナーは食べそびれたんですよ。私が慣れない靴でつまづいて捻挫しちゃって。情けないでしょ」
『俺はこっちの展開の方がうれしいけど』
射抜くような男の視線がふいに浮かんだ。
大人の品と獣のしなやかさ。危険なまなざしの裏に見え隠れする熱と孤独。ほんの時折、ふいに顔を出す、泣きたくなるほどの優しさ。
心を奪われない女がいるだろうか。
いや彼は、誰にでもそれを見せるわけではないかもしれない。
『おまえだけの場所だよ、ここは』
ついと頭をよぎった言葉は、愛しい男の言ったものだったろうか・・それとも・・。強く目を閉じた時、心臓の裏側が、燃えるように熱くなった。
「へえ、そうだったんですか。ま、どっちにせよ、あいつがデートの内容をオレに聞かせてくれるなんてことはまずあり得ませんからね。秘密主義なんですよ。ヤな野郎でね。」
「ふふ。ヤな野郎、ね」
「ええそりゃもう・・・あ、しまった。あなたの恋人でしたね奴は。・・って何言ってんだオレ。いや、すみません。くっそー、バカだオレは」
本当に焦っているらしい男の声に、たまらず彼女は吹き出した。
「でもそれについては私も同感。“ヤな野郎”ですよね、確かに彼は。ほんっと!」
「あ、やっぱり」
ふたりは笑った。
「おっと、まずい。あなたとこんな長電話してるのを“ヤな野郎”に知られたら後で何言われるか・・。もしかしたら今だって、仕事の前にあなたの声を聞きたくなって電話をかけてるかもしれない」
「さあ、それはどうかな」
「『写真を撮らせてくれって言うだけに、なに時間かけてるんだ。おまえにも彼女にも30分も電話がつながらなかったが』なんてね。言うんですよ。クールな顔して。で、その後がコワイ。『さて。で? 今度はどんなくだらない話を彼女に聞かせた?』薄笑いを浮かべてね。実に不気味です」
男が彼の声色をまねするのがおかしくて彼女は大笑いした。
今の話は奴には内緒ですよ、と電話を切ったアランの声に、一昨日の思いつめたような響きはなかった。
受話器を持ってベッドに腰かけたまま、彼女は短くため息をついた。
─ 何も聞けなかったな・・・。“隊長”の話も。“運命”の話も・・。
『こうして出逢って愛しあえた。・・今はそれだけでいい』
つんと鼻の奥が痛くなる。
「そうだ・・それ以上何が・・」
ふっと笑って彼女は、また窓の外の曇り空に目をやった。






つづく