瞳を閉じてもう一度  <13>





ホテルにほど近い商店街は、アーケードも店も店主も皆、なんだか一昔前の匂いを漂わせるひなびた雰囲気だった。一心不乱に机に向かう昼下がり、時折急に、ひとりでいることがいたたまれなくなることがあった。そんな時、彼女はここへ来る。目的もなくぶらついていると、いつの間にか身体も気持ちも軽くなっていた。
まるでハーモニカのような、どの店の間口も小さい商店街の、入り口から4軒目に、訪れるたび彼女が必ず立ち寄る古書店がある。店先に、前来たときには無かった、ひものかかった本の束が無造作に積まれているところをみると、店主が何やら、たっぷりと仕入れて来たところのようである。
アランとの約束までの時間を持てあまし、ふらりとやって来た彼女は、掘り出し物でも探そうと入口のガラス戸を押した。扉についたベルが客の到来を告げても、店主は姿も現さない。昼寝でもしているのかもしれない。彼女は店の古びた掛け時計を見上げた。約束の時間までにはまだ、うんざりするほど間があった。
まず手前の平棚をざっと見たあと、いつも一番時間をかけてながめる二番目の棚の前に立ち二、三歩行ったところで、さんご色のサテン装丁のロンサールの詩集が目に入った。立ち止まって、その回りの本の背表紙をざっとながめ回してから、彼女は背伸びをして上から二段目の棚のロンサールに手を伸ばした。
幅も高さもばらばらな本がびっしりと並べられ、指一本くらい立てて引いてもびくともしない。いったい店主は、本当に本を売る気があるのかしらと疑いたくなるほどだ。一度腕をおろし、軽く息をついてから、彼女はもう一度本に手をかけた。さっきより力を入れ、苦労してどうにかさんご色を本の行列から引っぱり出すのに成功したとき、「あらっ!」という唐突で晴れやかな、この店に実にそぐわない声がした。
彼女は驚いて手をひっこめ、声の方へ顔を向けた。
「それ。私もね、見たいと思って、ほら、でも高くて手が届かないでしょ、だから」
踏み台を両手でかかえて笑っている中年女性を見てすぐ彼女は、あれ?と思い、数秒してから、その人が誰だったかを思い出し笑顔になった。彼と出会った日に飛び込んだブティックの店主だった。
「マダム!」
「偶然ね。同じ本を見ようとするなんて。それも同時に」
ふたりは一緒に棚を見上げた。彼女が引っぱり出しかけたピンクの本が中途半端に本の行列から飛び出していた。
「と言うより、こんなとこでばったりの方が奇遇と言うべき?」
“こんなとこ”はないか、と言って首をすくめながらその人は勘定場の方をふり返った。この程度の騒ぎでは、店主を昼寝から起こせないようであった。あいかわらずそこにはカラの椅子がぽつんと置かれているばかりである。
「映画なら、恋の始まりのシーンてとこね」
その人は茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「そうですね。でも」
と彼女は笑った。
「私が先月観た映画じゃ、そのあと、ものすごい不倫が始まりましたけど」
「ものすごい?」
「そう。ドロドロの」
女ふたりは声を上げて笑った。
「で?あなたの方はどう?その後。えっと、あなたは既婚者じゃない、わよね?」
「ええ、幸か不幸か」
ふたりはまた笑った。
「こんなところで偶然について語り合うより、うちの店でコーヒーでもいかが?例の彼と約束がなければ、だけど」
「ふふ、夕方に別の彼と」
「あら、すみに置けないわね。じゃ偶然だけじゃなく不倫についても語り合わなきゃね、大人の女同士」
そう言うと、彼女の返事を聞く前にさっさとドアベルを鳴らし、ムッシュウまた来るわねと言いながら女店主は外に出た。彼女もあわてて後を追った。
横に並ぶと女店主は、彼女の肩の辺りまでしか背がなかった。そのわりに歩く速度は妙に速い。彼女は小走りになった。
「さ、着いた。到着!」
この前来たときとは、ずいぶん感じが違うな、と思い、入口前で立ち止まった彼女は、それがショウウィンドウにベタベタと貼られた赤いSOLDESの札のせいだと気づいた。
「無粋でしょ」
入口の扉を開けようとした手を止め、店主もショウウィンドウをながめた。
「でもね、少しでも売って帰らなきゃ」
「帰る?」
「ここにはね、夏の間だけ来ているの」
彼女はうなずいて、もう一度ショウウィンドウに目をやった。赤い札の奥に飾られた青と紫の水彩画風の花のプリント地のサンドレスが、なんだかもうずいぶん季節はずれに見える。今年の夏も終わろうとしていた。
店の奥は店主の住まいになっていた。
案内されたダイニングのテーブルに腰をおろすと、海辺の町というよりもパリの洋裁店のアトリエにいるような気分になった。鍋がつるされたタイルの壁のすぐ横に、生地の切れ端のサンプルやら、描きかけのデザイン画が無造作に貼りめぐらされている。
「どこにいるのかわからなくなるでしょ、ここに来ると」
コーヒーの用意をしながら、部屋を見回す彼女に店主は声をかけた。
「ここは私が生まれたうちなの」
「え、そうなんですか」
店を開いているにしては、浮いていると言ってもいいほど、なんだかこの町に不似合いな人だなと、初めて会った時から思っていた彼女は目を丸くした。
「25まではここに住んでいたのよ」
「では今はどこに?」
「パリの6区に店を出してるの。オデオン駅の近く。うっかりすると通り過ぎてしまうような小さな店だけれどね。仕立てもするのよ。この前あなたに見立てた絹の、ね。あれは私のオリジナル。毎年夏になるとね、大きなワゴンに夏向きの商品を積めるだけ積んでやって来るの。年配のお客が多いのにね、この前あなたにすすめたようなね、あんなのも何故か沢山積んできてしまうのよ」
と店主は笑った。
「でね、ああやってふらりと、私のお気に入りの品にピッタリのお客さんが現れたりするとね」
店主は腰をかがめて、ポットを火にかけた後、店の入り口の扉に目をやった。
「なんかね、生きててよかったあ・・って、思ったりするのね」
大げさか、と言って主人は舌をだした。
「でもほんと、あれはなかなかの見立てだったわよね!」
「ええ、完璧。しかもね、あれを着て歩くとなんだかね」
彼女は肩をすくめてくくくと笑った。
「自分がちょっとセクシーになった気がして」
「もちろん。あのデザインはね、『出逢ったばかりの人にいきなりディナーに誘われたブロンド美女のために』っていうコンセプトよ。でもって、その憎らしい男を一発で射落とせるように、ってね。まさに、あの日の夜にぴったり。どう?行けるところまで行けた?」
コーヒーポットからドリップに湯を注ぎ落としながら女店主は目だけ上げて聞いた。にっと笑ったその顔がおかしくて、彼女は笑いながら首を横に振った。
「あらぁ、それは残念。はいどうぞ」
東洋風のコーヒーカップ2客をテーブルにのせ、店主は彼女の斜め横に腰をおろした。
「ねえ、黒い瞳でしょ、その彼。違う?『男は夜色の瞳で彼女を見つめた・・』」
「あはは。よくわかりましたね」
「うふん、そんな気がした。ああいう誘い方をする男ってのはね、そういう謎めいた目をしているものよ」
「へえ、そうなんですか?」
「そうよ。そして『男は何か、過去の傷を引きずっていた』」
彼女は黙って首をかしげた。
「『しかも、男は、あなたを失うことを恐れている』」
「いえ、たぶん、むしろ」
「ん?」
「恐れているのは私の方です、きっと。大輪の花が開いたような華やいだ気分の底に何故だか、身体が震えるほどの恐怖が」
「彼を失うことの?」
彼女はうなずいた。
「何の根拠もない、それはもう茫漠とした不安です。ナンセンスだって、わかってるんですけど。どうしても消えなくて」
「へーぇ。でもま、運命の出逢いではあったわけだ。会ったばかりでもう失うことを恐れてるなんてね。あまりないんじゃない、そういうこと」
「おかしいですよね」
「ほんとに初めて会った人なの」
「ええ」
「昔、ものすごく好きだった人に生きうつしとか」
「そんな人、いないですもの」
店主は、ふぅん、と首を傾けた。
「でもそんなものかもね、男と女の縁なんてものは。偶然と運命が腕組んでダンスしてるみたいな」
「ダンスですか」
変なたとえ、と店主が笑い出し、彼女もつられて笑った。
「ベートーベンよ、人生は。『運命はある日突然やって来てドアをたたく』ジャジャジャジャーン!」
「突然です。ほんとに。今日が昨日の続きだってことを疑いたくなるくらい」
「そして、昨日はなくても平気だったものを、今日はそれ無しでは生きていけなくなってる、って?」
店主が彼女の顔をのぞき込むと、彼女はこくりとうなずいた。
「『かけがえのないものを手にした者は、その瞬間から、それを失う時が来る恐怖と向き合うことになるのだ』ふふ。なら、なくしたくないものなんか、持たなければいいようなもんだけど。でも、ね」
「欲深なんですね、私、きっと」
「さあね。それはどうだかわからないけど。身体の半分をもぎ取られるような思いを・・したことがあるとかね・・」
「え?」
その時、店のショウウィンドウの前に立ち止まった老夫婦の話し声が聞こえてきた。
「綿ローンのドレスね。透けてて綺麗」
「50年前なら迷わず買ってたね」
「あら、50年前のあなたのお財布に、このドレスを買えるだけのお札が入っていたかしら?」
「うーむ、それを忘れとった。あの頃僕は失業中で、そうだ、なかなかプロポーズできなくて」
「そうそう。ドレスどころか・・」
ふたりは腕を組み、楽しそうに笑いながら去っていった。
「ねえ。仲良さそうな老夫婦ってさ、なんかむかつかない?」
その後ろ姿をしばらく見送っていた店主が口をとがらせて彼女に言った。
「ええ?」
「独りもんのジェラシーか。いやねえ」
彼女は吹き出した。
「でもわかります。確かになんだかね」
「ね」
店主が小さくため息をついた。
その瞬間、彼女は胸に大きな穴があいて、そこを風が吹き抜けていくような妙な気分になった。遠くで誰かが「隊長!!」と叫ぶ声が、かすかに聞こえた気もする。おや、と思って手を額に当てると、ぐらり、とめまいがした。彼女はあわてて、ショウウィンドウの向こうの海に目をやった。
朝たれ込めていた雲が切れて、日が射し始めていた。風がないのだろう。海面はきらきらと静かな光を返している。しばらく見ていると、さっきまでは聞こえなかった波の打ち寄せる音が、小さく低く耳に届いた。
「昔ね。さっきのあの古書店でね、やっぱりあんな風に、同時に同じ本に手を伸ばした人がいてね」
店主がショウウィンドウの向こうの海に目をやったまま話し始めた。
「オウガイよ。知ってる?」
「モリ・オウガイですか?」
「そう。『舞姫』相手は東洋人の若い男だったわ」
「オウガイの国のひとですか?」
「そうね、日本人。でもね、私、学がないから『日本って中国のどの辺ですか?』って聞いて苦笑されたわ」
彼女は手に持ったコーヒー椀に目を移した。そしてそれが、日本の焼き物であることに気づいた。その人との思い出の品なのかと聞こうとして、ふと何故かそれは、今聞いてはいけないことのような気がした彼女は、開きかけた口を閉じてコーヒーを一口飲んだ。
「古いバイクにまたがって、くたびれたリュックひとつでこの町にふらりとやって来てね。なんだか西部劇の風来坊って感じだった」
彼女は、その人の姿を頭に思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。
「素敵なバイクですねと言ったら、これが一番安かったから、と答えたわ。どうしてこんな世界の果てみたいなところへ来たのと聞いたら、自分の生まれ故郷と似ていたからって。自分の故郷と似た所がいいなら、さっさとくにへ帰ればいいのにね。ふふ、訳がわからない」
店主は姿勢を変えず、外へ目をやったまま、口だけで笑った。
「フランスなんて地球の裏側までやってくる日本人てのは、金はあるけど、日本でちゃんと大人をやってけなくて逃げ出して来てる奴か、さもなくば、自分には並はずれた才能があると思いこんで、からっぽの財布と夢って名の幻をかばんに詰めこんでやって来たおめでたい奴か。
『フランスに行ってまして』と言えば、『ほうそうですか』ですむ不思議な国なんだ日本は。日本人はどういうわけかフランスが大好きで。フランス人は日本のことなんてよく知りもしないのに。片思いですよ、って。笑ってた。
それで自分がどっちなのかは言わなかったけどね。いずれにせよ、生まれた場所じゃ生きていけない、はずれ者には違いない。
この町で、ずっとここで生まれて育ったのに、居心地悪くて、すねてひねくれて生きてた私と、なんだか重なってね」
店主はひじをついて、店の入口の向こうの海に目を当てたまま、独り言のように言った。
「それで?」
その後ずっと黙っている店主にじれて彼女がうながすと、うつむいていた店主は、ちょっと顔を上げて彼女の顔を見た。そしてまた下を向き、指で椀をもてあそびながら、思い出をたどるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。
若いふたりが恋に落ちるのにそう時間はかからなかったこと。早くに両親を亡くしずっと一人だったこのうちで、ふたりが暮らし始めたこと。黒髪のかわいい男の子が生まれたこと。シオンと名付けたこと。子どもというものがこんなにも愛しいものかと、命より大事なものがこの世にはあるものなのだと、初めて知ったということ。
夢見るようにそこまで話した店主は、そこで小さく息をついて、またしばらく黙っていた。彼女は今度は何も聞かず、話の続きが始まるのを待った。
「ある日、そう、夏が始まりそうな、あれは七月の半ば、珍しく蒸し暑い日だった。昼ご飯のあと、一人で海に遊びに行ったシオンが、夕飯の時間になっても帰って来ないから、空腹も忘れるほど夢中で遊んでるなと思って、浜まで迎えに行ったのね」
「子どもの頃って、どうしてこんなにすぐ帰る時間がきちゃうんだろうって、いつも憤慨してた気がする」
「そうね。いつもそうだったわ、あの子も。お腹がぺこぺこになってやっと帰ってくるの。でもね。その日はどんなに探しても、どこにもあの子はいなくてね。夜になっても夜中になっても帰って来なかった。朝になっても次の日になってもその次の日になっても」
彼女はある予感に身体を硬くして次の言葉を待った。
「あの子が浜に変わり果てた姿で戻ってきたのは、三日後の早朝だった」
「いくつだったんですか・・・」
「4つよ」
「4つ・・」
「それは多分、きっとはじめからそうなるって、決まっていたのよね。だって、幸せすぎる5年間だったもの。不安になるくらい。そんな日が続くわけない。誰のせいでもないし、どうしようもない。私たちだってわかってた。だけど」
彼女のすぐ上の姉の子が4つだった。拾ってきたどんぐりを彼女に見せた時の、姪っ子のふくふくした小さな手のひらが頭に浮かんだ。
「わかっているからって、納得できるわけじゃない」
同意を求めるように、店主は首を回して、彼女の方を見た。
「何故ひとりで出かけさせたのか、どうしてもう少し早く迎えに行かなかったのか、この間・・帰りが遅かった日に、どうしてもっときつく言い聞かせなかったろうか、何で他の子じゃなくてシオンなんだろう、なんで私じゃなくてあの子なんだろう・・どうしてここは海辺なの・・何の罪?何がいけなかったの・・いや違う、誰も何も悪くない、悪いのは私だ私だ。私が悪い悪い悪い・・・・」
「・・」
「苦しかったろう。怖かったろう。悔しかったろう。私を呼んでいただろう。なのに!!
 あの子は何のために生まれて来たの・・ここに・・私たちの、ところに」
彼女は、テーブルの上の、店主の堅く組まれたこぶしにそっと右手をそえた。店主は顔をあげ、少し笑って彼女の手を握りかえしてから、冷めたコーヒーをひとくち飲んだ。
「考えても仕方ないことばかりが、くりかえしくりかえし胸を去来した。そしてそれは多分、あの人も同じだったはずなのに、何故か私たちは向き合えなかった。手を取り一緒に泣けたはずなのに、同じ痛みをかかえる二人だったはずなのに、どうしてかしら・・私たちはどんどん孤独になり、溝を深めていったわ。
そしてある朝、目が覚めた時、隣にいるはずのあの人はいなくなっていたわ。五年もここにいたっていうのに、荷物なんてものもほとんどなくてね。あの人の痕跡をとどめるものは何一つ残ってはいなかったわ。きれいさっぱり消えてた。あの人のこともシオンのことも、もしかしたら全部、長い夢だったんじゃないかと錯覚するほどにね。
涙も出なかった。
どれくらいたってからか・・とりあえずコーヒーでもいれようとここへ来たわ。そしたらね、そこに」
と、店主はテーブルの真ん中を指さした。
「しわくちゃの紙切れが置いてあってね。一言“ゴメン”って書いてあった」
彼女が相づちも打てずに困ったような顔で店主を見ると、肩をすくめて他人事のように、それはないわよね、と言った。
「むらむらと腹が立ってきてね、何がゴメンよ、何に謝ってるの、何を!?また逃げ出すの?今度はどこにも逃げ場なんてないのに・・どんなに逃げても逃げ切れないのに・・。許さなきゃならないの?私が?ねえ何を・・ってね、大きな声で怒鳴って泣いて。泣いて泣いて。
そしてね。思ったの。今、ただただ彼に、ここに・・私の隣にいてほしいって。それだけでいい。あなたの行く所が、ここ以外どこにあるの。ってね」
この部屋で、ひとり狂ったように泣いている若い店主の姿がふいに浮かび、彼女はきつく唇をかんだ。
「そうよ、きっとあの人も同じ気持ちのはず。だから必ず帰ってくる。もしかしたらもう、家のすぐ近くまで帰ってきてるかもしれない。決まり悪くて帰りづらくて、商店街のカフェでコーヒーなんか頼んでいるのかも。だったら、あと小一時間もすれば・・。何かおいしいお昼ご飯でも用意して待っていよう。
そう確信して待ったわ。一日、一週間、一ヶ月・・。
だけどね。あの人は帰って来なかった。ここへは二度と。
あの人がここへ来て、私と暮らして、シオンがやって来て。なによりも確かなゆるぎない何かをつかんでいる気になってた。だけど。
お互いの影に似た色を見つけて、なんとなく興味を持って、なんとなくそうなって、家族みたいな、自分の居場所みたいな、そんなものを見つけた気になってただけだったのかもしれない。
子どもをなくしてそしてこわれてしまう。
それって何だったんだろうって、時々思ったりするの、今もね。
落ちてないのね。まだここに」
と、店主は自分のみぞおちにこぶしを当てた。
「でもまだ決まったわけじゃないでしょう、帰ってこないって。もしかしたら」
「ええそうね。そんな風に私も何度も思ったのよ。でももう疲れてしまったの」
「でも・・まだ愛しているのではないのですか、その方を」
「さあ・・愛してるってことが、どういうことなのか、それももうよくわからなくなってしまった。でもそうね、きっぱりNONと言えないのは、どうしてなのかしらね」
彼女は黙ってうなずいた。
「でも思えば・・」
残ったコーヒーを飲み干し、店主は彼女と自分の椀に二杯目を注ぎ入れた。
「別れのない出会いなんて、あり得ない。人生なんて、ふわっと生まれてふいに消える。夢みたいな、あぶくみたいなものよね」
「ええ、そう・・そうかもしれない。でも、出会って、共に過ごした時間は決して消えない。今ここになくて、夢のようでも、あぶくのようでも、でもやっぱり確かに在った時間だから・・。忘れられない・・なくしても消えない・・。そう、必ず別れはやって来るけれど・・・」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「そう・・そうね」
店主は目を閉じ笑みを浮かべた。
「あなたとの別れもね」
「ええ」
「今日がその日かもしれないし」
「50年後かもしれないし」
「ふふ、そうだわね。縁があればまた会えるか」
「ええ」
店主は、はあっと大きなため息をつくと椅子を蹴立てるように勢いよく立ち上がって伸びをした。
「あーやれやれ。なあんでこんな話になっちゃったんだか。まだ会ったばかりのあなたに、ねえ。ごめんなさい。なんだかね・・年かしら」
彼女は答えず、笑って首をかしげていた。
「違うのよ。私ね、あなたに見せたいものがあったのね。もう会えないかもしれない人だけど、もしまた会えたら絶対見せようって。そしたらバッタリじゃない?ああこれは縁があるぞって。だから誘ったのに」
店主は壁にびらびらと貼られたスケッチやら切り抜きやらを、あちこちめくりながら言った。
「何ですか?」
「あの日。あなたが初めてうちの店に飛び込んできた時ね。あれ、この人・・って思ったんだけど、その時には思い出せなくて夜になってからね」
店主は、おかしいなあ・・確かこの辺に・・と、一番ぶ厚い束をめくりながらつぶやいていたが、はたりと動きを止め、しばらく黙って、一枚のデザイン画を見つめていた。そして、そのままのポーズでいったん首だけ彼女を振り向いてから、うん、と言って、その一枚を引き抜いた。
「これ」
店主は引き抜いた一枚の古びたデザイン画を彼女の前に差し出した。
「あなたに似てない?ううん。あなたよこれ、まるきり」
白いドレスの、長い金髪の女は、言われてみれば確かに彼女によく似た感じだった。いや、それだけではない。となりで愛おしそうに女を見下ろす男。くせのある黒髪の、長身の男。これはまるで・・まるきり・・・。
「思い出したのよ。昔描いたこの絵のことをね」
店主はなんだか自慢気に、腰に手を当て彼女の横から絵をのぞき込んだ。
「ね。もしかして、彼も似てたりする」
「え、ええ・・とても」
店主は腕を組み、考え込むように天井を見上げて、うーんとうなった。
「この絵ね。あの人が消えて、ちょうど一ヶ月たった日に描いたの。怒りとか絶望とか恨みとか・・そんなのがふいっといっとき消え失せたのね。いっときだけど。ああでもないこうでもないって、色々考え過ぎてパンクしちゃったのね。たぶん。頭が」
「え・・え」
彼女は少々混乱していた。うさぎを追いかけて穴に落っこち、へんてこりんな世界に迷い込んでしまったアリスのような気分だった。しかし、ともかく、混乱したまますべての話をとりあえず最後まで聞こう、と思った。考えるのはその後でもかまわない。
「するとね。不思議なの」
そう言いながら店主は両手をぱん、と打ち鳴らした。
「ずーっと忘れてた記憶がね。記憶、なんてかっこいいもんじゃないな。なんか、脳みその引き出しの奥の方に、ぐちゃぐちゃに押し込まれてて出てこられなかったなんかがね。にゅるっと出てきたみたいなねえ」
「にゅるっと」
店主はまじめな顔でうなずいた。
「誰に聞いたかとか、いつ、どこでどんな風に聞いたかもよく思い出せないんだけどね」
ここで店主は口をつぐんだかと思うと、やっぱりやめよ、と言って彼女の手からデザイン画を取り上げた。
「え、何、どうしてですか」
すっかり聞く気になっていた彼女が抗議すると店主は口ごもりながら答えた。
「だってやっぱり変だわ。荒唐無稽すぎるわ。うん。私なんだか今日は、変な話ばっかしてる」
「変な話好きですけど」
彼女は腕を伸ばして、店主の手からデザイン画を取り上げて顔を近づけた。
「だって。似すぎてる」
彼女は絵の男を、右手の中指でそっとなぞりながら言った。
「話を聞かずには帰れません。私」
店主は苦笑した。
「そうよね。似すぎてる」
そう言って店主は彼女のとなりに腰をおろした。




つづく