瞳を閉じてもう一度 <2> 「なんだ、おまえは。ひとの部屋で昼間っからのんでるのか」 アンドレは、部屋のソファーに寝ころがり、待っていた男に声をかけた。 「ちぇっ、さんざん待たせておいてえらそうに言うな」 ソファーの男は起き上がった。 「いや、すまない」 「こんどの新連載の打ち合わせだろう。ずいぶん長引いてたんだな」 「まあな」 「なんだ、奴さん何かごねたのか。たしか大学の助教授だったろ」 アンドレはグラスを出して、男がのんでいたワインをそそいだ。 「そんなんじゃないよ」 「じゃ、なんだ。インテリの行きおくれたばあさんにつかまって、くだらない講釈でも聞かされてたか」 アンドレは笑って男を見た。 「あにはからんや、俺より年下の美人だったんだ」 「えっ、そうなのか」 「今夜一緒に食事する約束をした」 男はあきれ顔でアンドレを見た。 「おい、またかよ」 「なんだよ」 「おまえ、女に誘われたからって、断りたきゃ、はっきり断ってもいいんだぜ。 おまえがもてるのは認めるけど、その気もないのに、むこうに気をもたせるようなことをして、結局は傷つけることになるんだ。いつもそうじゃないか」 「何が」 「季節が変わるたびに違う女から夜中に電話がかかってきて泣かれるのはもうごめんだぜ。『アンドレには好きなひとが他にいるんでしょ。アランあなたなら知ってるはずよ』ってな」 「よくしゃべる男だな」 「好きでもない女とつきあうのは罪作りなだけだぜ、アンドレ。おい、聞いてるのか」 「誘ったのは俺の方だよ」 「は?」 「俺が誘ったんだ」 「・・・」 「なんだよ。急に静かになるんだな」 「オレも行こうかな。おまえが自分から女を誘うなんて。どんな女か見てみたい」 「おまえは来ちゃダメ」 「ちぇっ。けち」 「ははは。そのうち気が向いたら紹介するよ」 「なんだよ。気が向かなきゃ会わせてもらえねえのかよ」 「アランはいろいろ信用できない」 「ふん。おまえにだけは言われたくないね」 「じゃ、俺は出かけてくるわ」 「おい、何だよそれは。オレがわざわざパリから持ってきてやった資料は見ないのかよ」 「すまない、あとで。あの丘の上のレストランで会うんだ。着ていくものが何もない。GパンにTシャツってわけにはいかないだろう。じゃな」 「なんだよあれ。やってられねえ。自分がとてつもないバカに思えてきたぜ」 アランはグラスのワインを一気にあけると、またソファーに寝ころんだ。 ドレスがずらりとかかったブティックの棚の前で、彼女はため息をついていた。 今夜着ていくものが何もないことに思い至り、あわてて飛びこんだまではよかったが、かといって、どんなものを選べばよいやら、色とりどりのドレスの群れを前に途方にくれていたのだ。 「お客様、どういったものをお探しですの」 五十がらみの品のいい店主が声をかけてきた。 「ああ・・今夜レストランで食事を。私はこんなものしか持ってきてなくて」 彼女は手を腰にやり、自分の胸元に目をやった。 「なるほど。それもとてもお似合いですけれどね」 店主は微笑んだ。 実際、白いシャツにGパンは彼女によく似合っていた。 「お相手は女性ですか、それとも?」 「ええ・・男性、です」 会ったばかりの男に胸をときめかせてしまった心の内を店主に見透かされているようで、彼女はうつむきながら答えた。 「わかりましたわ。では・・・」 店主は、棚のハンガーに手をかけ振り向いた。 「わたくしが見つくろってもよろしいの?」 「ええ助かります。実は、途方にくれていました」 店主は笑いながら、迷いもせず一枚の品を取り出した。 「お客様にはこれがおすすめですわ」 それは、やわらかなシルクのパンツスーツだった。真珠のようなおさえた艶、色はごく淡い紫がかったグレーである。 「飾りも模様もありませんの。こういう品は、お客様のように上背のある方がお召しにならないと映えません。試着なさいません?」 着てみると、とろりと落ちるなめらかな絹地が、しなやかに彼女の身体になじんだ。えりのないストンとしたジャケットに、一見するとロングスカートに見えるほどゆったりとしたパンツは、動くたび、彼女の身体のラインをひかえめに主張した。 「いかがです?」 店主は目を細めて満足げにうなずきながら聞いた。 「とても軽い。すごくやわらかくて、まるで何も着ていないみたいだ」 「そうでしょう」 「ただちょっと・・胸元があきすぎていないかな」 上着の下のキャミソールの胸元を彼女は手でおさえた。 「あら、そうでもありませんわ。夜ですもの。それくらいは」 店主は微笑んだ。 「それから・・」 店主は彼女の後ろにまわった。 「こういうやわらかいお召し物の時は・・・」 そう言って彼女の髪をまとめあげていたピンをはずした。 「こうやって髪をおろしたほうが、タイトなヘアスタイルより合いますのよ」 彼女の背中に、ブロンドの髪が滝のように流れ落ちた。 部屋にもどった彼女は、買ってきたばかりの服に身を包み、鏡の前に立った。 髪はおろしたままだった。 ─ その美しい髪を・・・ 男の声を思い出すと、胸が甘く疼いた。 ─ 笑顔のすてきなひとだった。意味もなく甘えて泣いてみたくなるような・・ 彼女は、そんなことを思っている自分に苦笑した。 ─ こりない女だな、私も。 彼女は、もうひとつの小さな包みから、リップグロスを取り出して唇にのせた。 この服に似合う口紅を、と言ったのに、化粧品売り場の店員は、彼女に透明なグロスをすすめた。せっかくのそんなにきれいな薔薇色の唇を口紅でかくすのはもったいない、と店員は言った。 ─ そんなものかな・・ 彼女は、グロスをのせた唇をとがらせて鏡をのぞきこんだ。玉虫色のパールが光の加減でかすかに色を変える。 「そうだ。おまけをもらったんだった」 それは、手の平に乗るくらいの小さな香水だった。ブレンドしたものの方が人気があって、こういうプレーンなものはあまり出ないのだと店員は言った。 「すみません。売れ残りで」 そう言って店員は、笑いながらこの小びんを彼女の手に乗せた。 ─ 売れ残り・・か。私と同じだ。 彼女は苦笑しながら、バラをかたどったすりガラスのふたをあけた。 「なんだか・・懐かしい香り・・」 彼女は、びんの裏のラベルの小さい文字に目をやった。 「ブルガリアン・・ホワイトローズ」 彼女は、左手の中指に香水を落として、耳たぶの裏にそっとつけた。 そのひんやりとした香りは、彼女の胸の奥深くにしみて、ずっとしまいこまれたままの何かを揺さぶった。その何かは、まだそのふたを開きはしなかったが、胸をざわつかせて彼女を落ち着かなくさせた。 ─ なんだろう・・薔薇の香りに思い出なんて、何もないはずなのに。 彼女は、問いかけるように、鏡の中の自分に目をむけた。 ベルサイユの実家には、かなり大きな薔薇園があった。彼女の母が、丹精こめて仕立てたものであった。完璧な主婦であった母の、唯一の趣味が薔薇づくりであった。 しかし彼女は母を疎んじ、その母の愛した薔薇園をも疎んじていた。 母が手をかけて咲かせた薔薇たちが美しく咲き競う春と秋の花の頃には、薔薇園の外にまで香りがあふれた。だから彼女はその季節には、特にそこへは足を向けないようにしていた。 鏡から目をそらし、彼女は長いため息をついた。 嫌っていた母をやっと理解できるようになったのは、その母が亡くなった、ずっと後であった。 彼女は時計に目をやった。約束の時間が迫っている。最後のチェックをするために、再びあわただしく鏡に向かう。おろした髪のせいで、鏡の中の女は別人のように見えた。 もう一人の自分・・・そんな思いが、ふと頭をよぎった。 アンドレの部屋で一人、ソファーに寝ころんでいたアランは、はたとある予感にとらえられて飛び起きた。 ─ あいつが自分から誘ったって?まさか・・・じゃあ、相手の大学の先生ってのは・・ アランは立ち上がり、早足でドアに向かいかけたが、ノブに手をかけたところで思い直し、またソファーに腰をおろした。 ─ 行ってどうするつもりだ。自分の目で確かめるのか。アンドレのこれから会いに行こうとしている女が隊長だと・・・ アランは、相棒の、たぶん初めて見たであろう、楽しげにいそいそと出かけていった後ろ姿を思い出した。 ─ アンドレにあの頃の記憶はまるでない。しかし、どこかで彼女との出会いを待ち続けていたのかもしれない。 自分に秋波を送ってくる女と次々つきあって、かといって、誰にも執着も愛着も持っていなかった。どんな時でも女に求められるままに応える、むしろ“やさしいひと”と言われる部類の男なのだろうが・・。 しかし、女たちはことごとく失望して去っていった。 どの女だかがオレに言ったことがあったろう。「誘えば必ずいいよと言ってくれる。でも、電話するのはいつも私。彼からは一度もなかった」と。 あいつはどの女にも優しかった。しかしどの女にも惚れなかった。本気で愛した女は一人もいなかった。女に会いに行く時にはいつも、まるで気の進まない親戚の集まりにでも行くような顔をしていた。そりゃそうだろう。あの男は、運命の女との出会いだけを待ちつづけていたんだ。 そして、ついに出会った。 予感は確信に変わっていた。そしてそれは、また苦しみの日々が始まることでもあると、アランは知っていた。アンドレの運命の女は、アランにとっても運命の女であった。 ─ 今夜は早々にこの部屋から退散したほうがよさそうだな。 わかりすぎるほどわかっている結末に、アランの胸はやはり痛んだ。 「今度もまた、遅れてきた年下の男の役まわりか・・。まあ、どっちにせよ、結局は同じだろうがな」 アランは立ち上がり、部屋を取るためフロントへ向かった。 つづく |