瞳を閉じてもう一度 <3>
ふたりがその夜、逢う約束をしたレストランは、海を見晴らす小高い丘にぽつんと建つ一軒家であった。海辺の町らしい素朴な雰囲気と石造りの館の重厚さがほどよくとけあい、年月を重ねた落ち着きが訪ねる人をなごませる。館の壁一面をおおった蔦も、全体のムードをやわらかくしていた。
彼女は、夏ごとにこの町に滞在していたが、このレストランに入るのは初めてだった。一人のこともあり、町のマーケットで買ったものを部屋で食べるか、ホテルで軽くすませてしまうことがほとんどだった。
彼女は緊張していた。
久しぶりのあらたまった外食ということもあったが、何よりも、今夜逢う男のあの瞳を思い出すと、どうしようもなく胸が高鳴った。
そして、もうひとつ彼女を緊張させていたのは、今夜の装いにあわせてはいた5センチヒールのサンダルであった。
「背の高い女の方は、ヒールの高い靴をおはきにならない方が多いので、ふつうはこちらをおすすめするのですが」と、ブティックの女主人は、ペタンコのサンダルを指さしたが、「もしも相手の方がお背の高い殿方なのでしたら是非こちらを」と、この5センチヒールを尻込みする彼女に半ば強制的にはかせてしまったのだった。
あじさい色に染められたやわらかいカーフの細いリボンが、かかとに一本、甲に二本。それだけのシンプルできゃしゃなサンダルは、彼女の白い素足をますます美しく見せていた。やわらかく足のラインにそうシルクのパンツのすそからちらちらと見え隠れするその様は、これ以上はない見事なコーディネイトであった。
しかし、昼間はいたヒールのほとんどないサンダルでさえ、階段からころげ落ちそうになった彼女である。
「かかとを先につけてはいけません。ひざから下を軽くけり出すように歩いて、つま先から着地するのです。重心を後ろに残さないように」
女店主のアドバイスを守って、それでもなんとか彼女は、ここまで一度もつまずかずに到着することができてはいた。
入り口の扉の前で、彼女は胸に手をあて深呼吸した。
案内のギャルソンの後ろを、彼女は女店主のアドバイスを忠実に守り優雅に歩いた。客たちの視線が彼女の美しい姿にはりつく。
─
つま先から・・つま先から・・落ち着いて・・。
用意された席は、中庭に面した窓ぎわの奥まったところにあった。
それぞれのテーブルは、かなりゆったりとしたスペースをとって配置されていて、席につくと隣のテーブルの客の顔はほとんど見えなくなった。
彼女はホッと息をついた。
テーブルには飲みかけのベルモットのグラスがぽつんと残されている。
「お連れの方はもうおみえなのですが、まだ時間があるから中庭を散歩するとおっしゃって・・」
案内してくれたギャルソンが、窓の外を指した。
中庭にむけて開け放した窓から、かすかに潮のかおりが流れこんでくる。目をやると、彼がひとり、中庭のベンチに腰かけている後ろ姿が見えた。長身を持て余すように脚を組み、両ひじを背もたれに乗せて空を仰いでいる。砂色のサマーウールのスーツに身を包んだ彼は、昼間のラフなスタイルの時より大人っぽく見えた。風が彼の髪を揺らしている。
─こんなひなびた町ではなく、ここがパリなら、とっくに誰かに声をかけられて立ち去っているかもしれない。それとも、待ち合わせだからとクールに笑って誘いを断るだろうか。
そう、彼は私を待っているのだから。あの美しい男は私を・・。
甘いしびれが彼女の身体を走った。
その時、彼が立ち上がりふり向いた。そして、窓越しに彼女の姿を見つけると、手を上げて満面に笑みを浮かべた。
彼女は思わず窓から身をのりだしていた。
「待ってて。今そっちへ行くから・・」
彼女は、席のすぐ脇にある中庭に出るガラス扉をあけ彼にかけよった。ところが、彼のところまであと三歩というところで、敷石にサンダルのヒールをとられて大きくよろめいた。
─ 倒れる!
と思った瞬間、彼女は彼の逞しい腕の中に抱きとられていた。長いまつげにふちどられた黒い瞳が、大きく見開かれて彼女を見つめていた。彼の胸元から立ちのぼる香りが彼女を包む。
「危ないなあ。そんな靴で走ったりしたら」
彼が少し首をかしげて微笑む。
「ご、ごめんなさい!」
彼女はあわてて立とうとした。
「いたっ!」
「ああ、足首をくじいたかな。どれ」
彼は彼女を抱えるようにして、さっきまで座っていたベンチに腰かけさせた。それから彼女の前にうずくまって足首に手をやった。
「痛い!」
彼はすばやくサンダルのまま彼女の左足を自分のひざに乗せて、パンツのすそをめくりあげた。
「こっちをねんざしてる。骨は大丈夫そうだけど。急いで冷やさなきゃ。俺の部屋に湿布薬があるから、すぐ行こう」
彼はうずくまったまま彼女を見上げて言った。
「え、でも・・」
「ちょっとここで待ってて」
そう言って彼は、店にかけ戻った。
しばらくして戻って来た彼は、彼女のバッグと一緒に、手にワインを一本ぶらさげていた。
「お見舞いだって」
彼は、バッグとワインを彼女に持たせると、ひょいと彼女を抱き上げた。
「だ、大丈夫です。自分で・・」
「何言ってるの。けが人がよけいな遠慮なんかしなくていい!」
あわてて言う彼女の言葉をさえぎって、強い調子で彼は言った。
「足首のねんざは、くせになりやすいんだ。無理に歩かないほうがいい」
「すみません・・ごめんなさい・・」
叱られたことになのか、抱いてもらっていることになのか、手間をかけてしまったことになのか、ディナーをおじゃんにしたことになのか、きれいに筋の入った薄色のズボンを泥で汚してしまったことになのか・・何がすまないのか、何から謝っていいのかわからぬままに彼女は言った。
「どういたしまして」
情けない顔の彼女に、彼は笑いかけた。
「君は何も悪くないよ。大人しく席に座って待ってなかった俺が悪いんだから。痛い思いをさせちゃって、ごめん」
「そんな・・・」
逆に謝られて、彼女は返す言葉を見つけられず、ただうつむいた。
「事情を説明してキャンセルしたいって言ったら、どうぞどうぞって。キャンセル料はいらないから、また来てくれってさ」
彼はむしろ、このハプニングを楽しんでいるようだ。声がはずんでいる。
「ワインまでもたせてくれて。これじゃ、また来ないわけにいかないよ。商売上手だな」
彼が歩を進めるごとに、彼の身体から伝わる振動が心地よい。
「だけど」
笑いながら彼は、彼女の顔をのぞきこんだ。
「見かけによらず、そそっかしいんだな」
「はずかしい・・せっかくのごちそう、食べられなくなっちゃうし・・」
彼女は身を縮ませて、小さな声で言った。
「俺はこっちの展開の方がうれしいけど」
冗談めかした彼の言葉に、彼女は頬を染めた。
「別に、場所やメニューなんかどうだっていいんだ。君に逢いたかっただけだから」
さりげない口調で言う彼の声が、彼の胸から直接身体にひびく。
「君はどう?」
いつの間にか、笑いを含んだ明るい声は消えて、彼の声は低く艶めいて、彼女の身体の芯をふるわせた。はっとして上向くと、思いのほか近くにある彼の顔に目を奪われる。
肌のなめらかさ。鼻すじの流れの品の良さ。端整なのに女をそそる唇。美しいひとだとは思っていたが、近くで見ると、視線をはずせなくなるほどだった。
─ ボルゲーゼのマルス・・・・
ルーヴルで見た彫像が頭に浮かぶ。
「私・・は・・・」
彼女の声に、彼が下を向いて彼女を見た。その瞳の色の、あまりの深さにめまいがする。彼女は、ワインのびんを取り落としそうになった。
「おっと」
彼が器用に彼女の背にまわしていた手でワインを受け止めた。
「見かけによらず、そそっかしい。よく覚えておくよ」
身体をゆすって、彼はくすくすと笑った。
「ごめんなさい・・」
「またあやまる」
今度は彼は、大口をあけてハハハと笑った。
彼女をどぎまぎさせた、つい今しがたまでの彼は、もうそこにはいなかった。
彼に気づかれないよう、ホッと小さく彼女は息をついた。
ホテルのロビーにもフロントにも、幸い人はいなかった。さっさと階段をのぼろうとする彼に、彼女は思わず、わかりきったことを聞いてしまう。
「あの、あなたの部屋・・に行くんだっけ・・」
「心配?」
「いえ、あの」
「大丈夫、ふたりきりじゃない。残念ながらね。昼間待ち合わせてた同僚が、今夜は俺の部屋に泊まることになってるんだ。口が悪くてセクハラ発言炸裂の奴だけど、ほんとは俺なんかより、ずっと女性に優しい男なんだ。」
彼女は微笑んでうなずいた。
しかし、彼の部屋には鍵がかかっていた。ノックしても返事がない。
「食事にでも出たのかな。悪いけど、ここで待ってて。鍵をもらってくるから」
彼は、部屋の前のベンチに彼女を座らせフロントにむかいかけたが、2・3歩行ったところでふりかえった。
「患者さん、逃げないでくださいよ」
「わかりました、ドクター。大人しく待ってます」
彼女は笑って答えた。
彼の背中を見送ってから、彼女はため息をついて痛む足に目をおとした。
─
だからヒールの高い靴はイヤだと言ったのに・・
女店主のいたずらっぽい笑顔が浮かぶ。
「足もとが少々あぶない方が、いろいろいいこともありますのよ」
なんだか、あの店主にはめられた気がしないでもなかったが、レストランの中庭で彼に抱き上げられた瞬間のことを思い出すと、知らず頬が熱くなる。
─ いろいろいいことも・・か・・・
さっきの彼の、ドキリとするような眼と唇が浮かぶ。彼女は深呼吸した。
そこへ彼が、手に鍵を握ってかけ戻ってきた。
「お待たせ」
ずっと走ってきたのだろう。息をはずませている。笑顔がまぶしい。
「フロントに行ったら、連れが別に部屋をとったっていうんだけど」
彼はそう言いながら、入り口のドアをあけた。
「いい?」
「え・・あの」
聞きはしたものの、彼女の返事を待つでもなく、彼はさっさと彼女を抱き上げ部屋に入ると、彼女をソファーにおろし、ぬいだ上着をベッドに投げて、ネクタイをゆるめながらバスルームに入っていった。
水をはった洗面器を持って出てきた彼は、手早く彼女のサンダルをぬがせて、パンツのすそを折りかえし、足を水にひたした。
「まず冷やしたほうがいいんだ。腫れがひいたら湿布するから、しばらくそのままで」
彼は肩に引っかけていたネクタイをドレッサーの鏡にかけた。
「ネクタイ、濡らしちゃったよ。慣れない格好をするもんじゃないな」
「ほんとに。でもねんざよりまし」
彼女が肩をすくめて洗面器から足をあげた。
「ははは。確かに。お互いドレスアップは性に合わないらしいな」
笑いながら彼は、冷蔵庫をあけた。
「今サンドイッチつくるから」
「あなたが?」
「これでけっこう上手いんだ。レストランのシェフにはかなわないけど」
「でも悪い・・」
「一緒に食事する約束だろ。もう腹ぺこでがまんできない。すぐだから」
そういうと、あっという間にナプキンを敷いた皿にたっぷりのサンドイッチを作って、グラスと一緒に彼女の前に運んできた。
「ほんとにはやい・・」
「だろう」
彼はにこにこしながら、もうワインの栓を抜きにかかっている。
「フルボディだ。サンドイッチにはちょっと重いけど」
「私、平気。どんなメニューでもフルボディ」
彼女は笑って答えた。
「さては、いける口だな。俺はなんでもOKだけど」
ふたりはグラスを軽く合わせた。
「何に乾杯?」
「君の足をくじかせてくれたサンダルに」
「もう!意地悪」
「ははは。俺たちの出会いに。どうぞ、よろしく」
「よろしく。私たちの出会いに乾杯」
ふたりはもう一度、グラスを鳴らした。
アランはベッドに寝ころんで、レストランで食事をしているふたりのことを考えていた。
─ どんな話をしているんだろう。
隊長とアンドレが、何も知らずに世間話をしてるなんて・・妙な図だな・・。
アランにあの頃の記憶が戻ったのは、大学を出て間もなくの頃であった。ある朝目覚めると、はっきりとあの頃のことがすべて彼の脳裏によみがえっていた。
どこの職場にもなかなかなじめず仕事を転々と変えて、4年前にたどり着いたのが今の職場であった。配属された編集部で付いた先輩編集者がアンドレだった。
─
紹介されたのがあいつだったのには驚いたが・・。
「アンドレ・グランディエだ。よろしく」
忘れもしない、その顔、その声、その名前・・。
ただ、あの頃と違っていたのは、片眼ではなかったことだった。そのせいか、あの頃の哀愁を背負った静かなイメージよりは、いくぶん明るい印象の男だった。
静かな面の奥に、燃えるような情熱を抱いていたあの男・・。
紹介されて自分の名を告げたアランは、思わず彼女の姿をさがした。ふたりはいつも一緒だった。彼がひとりでいるのは、何か不自然に思えた。
しかし、彼のそばにそのひとは居なかった。
─
今夜・・思い出すだろうか、奴は。隊長はどうなんだろう。やっぱり何も覚えてはいないのだろうか・・。
アランはむっくりと起きあがり、バーに飲みに降りようとしたが思い直した。食事を終えたふたりとはち合わせするかもしれない。今夜はまだ、ふたり一緒のところに登場するのはさけたかった。
─
こんなところ、さっさと引き払ってパリに戻るべきかな。
しかし、これからあのふたりがどうなるか、ここに居て見てみたいような気もしていた。
─
オレも物好きだな。いや・・悪趣味というべきか・・。
アランは立ち上がって窓辺に寄った。ふたりが逢っているであろう丘の上のレストランの、暖かいオレンジ色の光が闇にこぼれ落ちているのが見える。
彼はしばらく、その灯りを見つめていたが、小さく息を吐いて窓辺を離れた。
つづく
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