瞳を閉じてもう一度 <4> 「音楽をかけようか」 山盛りのサンドイッチをすっかり平らげたふたりは、2本目のワインをあけていた。 「とはいっても、好きなのを3、4枚持ってきただけで、選べるほどないんだけど」 彼は立ち上がって、デッキの脇のCDを手にとった。 「何?」 「モーツァルトと・・バッハとか・・、ジャズや古いロックも好きなんだけど、どうしても選ぶとこっちになっちゃうんだ。こういうの、聴く?」 彼は、ディスクをトランプのように広げて見せた。 「私も・・私もバッハとモーツァルトばっかり」 ふたりは顔を見合わせた。 「ははは。なんだか君とはあれこれ話があうな。運命の出会いかもしれないな、これは」 「ふふ・・ほんと。なんだか兄弟みたい」 「兄弟か・・。俺は一人っ子だからよくわからないけど。えっと・・ヴァイオリンは好き?」 彼女は微笑んでうなずいた。 彼は、選んだディスクをプレイヤーに乗せて、彼女の斜め前に腰をおろした。 バッハの『2つのヴァイオリンのためのコンチェルト』2つのヴァイオリンが絡み合うように対話しながら織り上げる旋律。彼女の好きな曲だ。 彼はボリュームを低めにセットしていたが、ドラマティックな旋律は、午後からずっと熱にうかされているような彼女の胸にしみいって、とまどいと恋のあいだでゆれている彼女を感傷的にした。 「兄弟ってやっぱり好みなんかも似ているものなの」 「うーん、そう言われればそんなこともないな。同じ親から生まれても一人一人みな違う」 「君は、兄弟は?」 「笑っちゃうの、6人姉妹。女ばっかり。私は末っ子」 「へえ、それはすごいな」 「姉たちはみんな、さっさと相手を見つけてうちを出てしまったから、今はもう誰もいないんだけど」 「じゃ、次は君か。結婚・・しないの」 「すぐふられてしまって」 彼女はうす笑いをうかべてうつむいた。 「見る目のない男ばっかりだな。君をふるなんて」 彼女は、今自分に求婚している男のことを、ずっと忘れていたことに気づいた。 「あなたは?」 「俺?」 彼は答えず、あいまいな笑みをうかべて肩をすくめた。 「ご両親がうるさくおっしゃらない?」 「俺の両親は、俺がまだちいさい頃に亡くなったんだ」 彼女は意外だった。両親の愛情に包まれて、すくすくと育ったように見える人だった。 「あちこち親せきを転々として。どこでもそれなりによくはしてもらったんだ。だけどいつの間にか、自分を押さえて相手の求める自分になろうとするくせが身についてしまって」 「・・・」 「優等生を通したさ。そのうち自分が何をしたいとか、これでないとだめだとか、そういうものがだんだんなくなって。流されてるっていうか、まわりの求めるものに自分を合わせるみたいな生き方が習い性になってしまった。 求めても答えられなかったら・・つらいだろ。 こんな男、結婚相手に選ぶか?」 彼は自嘲気味に笑った。 「求めても・・答えられない・・」 ─ それは私のことだ。誰にも心を許せなかった。 どんなに大声を出してもはねかえってくる、決して開かない岩の扉のようだと男に言われたことがあった。どんなに愛してもとけない氷の花のようだと・・。 「答えられなくても相手を傷つけてもぶつけたいほどの熱いものが、俺にないからかもしれないな」 ─ 私と同じだ・・ 彼女は、ひざに置いた手に目を落とした。 「ごめん。こんな話。でも初めてだよ、人に話したのは。どうしてかな、君といると」 彼女はおどろいて顔をあげた。 「そんなこと・・初めて言われた・・」 「え?」 「冷たいって・・よく言われるけど・・。何考えてるかわからないって・・」 「君が?」 彼女はちいさく笑ってうなずいた。 彼は眉を寄せてうつむいている彼女を見た。 「そろそろ水をかえたほうがいいな」 彼はたたんだタオルに彼女の足を乗せて、水の入った洗面器を持って立ち上がった。 「俺にはそんな風に思えないけど」 「あ・・りがとう・・」 彼女は何か、ふんわりと暖かいものに身体全体がつつまれていくのを感じて目を閉じた。 ─ なぜだろう、この人といると・・冷えきっていた何かがとけていく・・ 彼は水を入れかえた洗面器を彼女の足元においた。彼女が足をつけると、ちゃぷんと小さな音をたてて水がゆれた。 「私も」 「ん?」 「なんだかいつも、芯のところが冷えてて・・」 「うん」 「だから・・革命なんかにひかれたのかもしれない。今の私に足りないものを見つけられるとでも思ったのかな・・」 「なんだか・・わかる気がするよ」 「私は母が嫌いだった。静かで・・穏やかで・・父に従順で良き母で・・。でも、自分の意志なんて何もない・・空っぽじゃない、って、そう思ってた」 今まで意識したことさえなかったことが、不思議と次々に言葉となって彼女の口をついて出た。長い間重く胸につかえていたものが、一言一言話すごとに軽くなって行くのを彼女は感じていた。ふと顔をあげて彼を見ると、黙って微笑むその唇が、もっと話してごらんと彼女をうながしているように見えた。 「でも・・研究を続けるうち、当時の市井の女たちの生き方に興味を持って・・。それで気がついた。空っぽなのは母じゃなく私のほうだったって。生活、というものが、ふつうとか平凡とかいう言葉でかたづけられるほど単純なものではないということさえ、私は知らなかった・・」 「どんなに平穏に見える人生にも、痛みも迷いもないなんてことはあり得ないからね」 「ええ・・ほんとに・・」 「“平凡な人生”ってよく言うけど・・そんなものほんとにあるのかな。似たように見えても、同じものなんてひとつもありはしないのに・・。 長い時を共に生きる夫婦でさえ、それぞれの人生はまったく違うものを・・」 彼のその言葉は彼女の胸にすっとしみ入った。自分はそのことをよく知っている気がした。しかし、それが何故なのか、彼女は思い出すことができなかった。 「6人の娘を育てあげるのは、並たいていのことではなかったと思うよ」 「ええ・・でも・・そんな風に考えてみたことなんてなかった。私は平凡に見える生活を支えている母の腕にかかっていた重さに気づけなかった。気づこうとしなかった。母はいつも静かに微笑んでいたから・・」 「いいお母さんだね」 静かに微笑んでいる人の思いにはなかなか気づかないものだということを、母以外にそんな人を知っていると、彼の顔を見ながら彼女は思った。 誰のことだったろうか・・それは・・。 「それなのに私は、まるでひとりで育ったような顔をして、ことあるごとに母につっかかって・・とげのある言葉で傷つけて・・」 「お母さんは君の気持ちをちゃんとわかっていてくださると思うよ」 「ありがとう・・だといいけれど・・」 「愛している人の心の内は、黙っていてもわかるものだよ」 彼女の目の前の男もまた、静かに微笑んでいた。その笑顔が母に似ていると、彼女は不思議な思いで彼に笑み返した。 「母が死んだ時、胸に大きな風穴があいた気がした。すごく不安だった・・。 ずっとあとで気づいた。私は母に甘えていたんだと・・。母の存在そのものが私の支えだったのだと・・」 「なくして初めて気づくものかもしれないね。あまりにもあたりまえに側にあるものの大きさには」 ─ あまりにもあたりまえに側にあるもの・・なくしては生きていけないほどの・・・・ 知っている、知っている私は・・。失ってしまったのだ。だから・・だから私は・・・ でも・・何を・・? 「親と子なんて、すごく近いようで遠い。遠いようでやっぱり近い。縁が深いのか薄いのか・・俺も時々よくわからなくなるよ」 「あ、ごめんなさい・・あなたはお母さまとは・・」 「いや、いいんだ」 「ほんとに・・ごめんなさい。私ったらどうしてこんな話・・。初めて口にした気がする」 「うれしいよ。話してくれて」 「聞き上手ね」 「そうかな。俺もそんなこと言われたのは初めてだよ」 彼は笑った。彼女も笑って彼を見た。ふたりの視線がからみあう。 ─ どうして・・こんなになつかしいのだろう・・。このひとの声も笑顔も。泣きたくなるほどに。 ずっとこらえていたものが流れ出してしまう。この思いのままその胸に飛びこめたならどんなに・・。きっとそこは、限りなく暖かい・・・。 ─ 胸が熱いのは何故だろう。ずっと忘れていた・・こんな気持ちは・・。 胸の奥深くからこみあげてくる何かが、俺に何かを伝えている。 今ここで君をこの胸に強く抱きしめたら・・君は・・・ しばらく黙って見つめ合っていたことにふと気づき、ふたりは同時に目をそらした。 「そろそろ・・いいかな。湿布しようか」 彼は荷物の中から包みを取りだした。中からは、鎮痛薬や胃腸薬、絆創膏などが出てきた。 「すごい。持ち歩いてるの、いつも」 「出張が多いからね。かばんに入れっぱなしなんだけど」 彼がかがんで彼女の足に手をかけた時、彼女の身体がびくりとふるえた。 「あ・・大丈夫・・自分で・・」 「あ・・ああ・・」 足首に包帯を3巻きしたところで、彼女は残りの包帯の束を取り落とした。 「あっ」 「やっぱり俺がやるよ」 彼は転げ落ちてほどけてしまった包帯を手早く巻き取ると、見る間に彼女の足首に巻きつけた。 「じょうず・・」 「手先だけは器用なんだ。他に取り柄はないんだけど」 「そんなこと・・」 バッハの最後の曲が終わり、会話がとぎれた。 それまで気づかなかった波の音が、静かになった部屋にしみ入るように流れこんできた。いつの間にか部屋は、夜の闇に包み込まれていた。 彼は立ち上がり、テーブルのそばのスタンドを灯した。白熱灯の黄色い光は、かえって部屋の夜の気配を濃くした。 「あなたと・・」 「君と・・」 ふたりは同時に声をあげた。 「あ、ごめん。何?」 先に聞いたのは彼だった。 「あ・・ううん・・」 ─ あなたともっと早く会いたかった・・ あなたは・・今何を言おうとしていたの・・・ 海に向けてあけた窓から、ひんやりとした夜気が入りこみ足元をはっていった。 ふたりは言いかけた言葉をのみこんだまま、整理のつかない胸のざわつきを持て余していた。部屋を包む沈黙が、互いの胸の奥の思いをだんだんと形にして行く。それを今ここではっきりと見きわめたいような、こわいような、そんな思いが彼女に沈黙をやぶらせた。 しかしその言葉は、その時彼女をとらえていた切ない思いとは裏腹なものだった。 「私・・・もう、行かないと・・・」 彼女は足元の白い包帯に目を落とした。 「ああ・・・そうだな、もう・・。部屋まで送るよ」 「大丈夫。ひとりで帰れる」 小さな声でそう言う彼女に答えず、彼は黙って彼女がぬいだサンダルを手に立ち上がり手を差し出した。 「歩ける?」 「大丈夫」 「でも、これをはくわけにはいかないな」 「いい。裸足で」 「ん、そうか」 彼女が立ち上がると、彼はそっと手を引っこめた。そして先に立って部屋を出た。ドアの閉まる音が、誰もいない廊下にひびく。 ふたりは黙ったまま歩いた。時々彼が、彼女の足の具合をうかがうように視線を落とす。階段にさしかかると彼は、すいと彼女を抱き上げ、階段が終わるとまた、そっと彼女をおろした。 「ここ・・私の部屋」 「ん。痛くない?」 「もうほとんど。ありがとう、いろいろ・・」 「こちらこそ」 彼女はサンダルを受け取りながら、ぎこちない笑みを浮かべた。しかしその微笑みは、口元にかすかに浮かんだだけで、今にも泣き出しそうな目元はそのままに、すぐに消えてしまった。 「楽しかった、今夜は・・。ほんとに・・。私・・・・」 彼女は彼の顔を見上げた。彼も彼女を見返した。 ─ 何か・・何か言いたいのに・・言葉にならない・・・ 彼女は目をそらし眉を寄せた。 「それじゃ・・・おやすみ」 そう言って彼が背を向け歩き出したとき、彼女はちいさく叫んだ。 「待って!」 彼が立ち止まる。うす暗い廊下に浮かび上がるシルエットが彼女の胸をしめつけた。 ─ 行かないで! まだここに・・・側に・・・・ 「浜に出ようか・・」 ゆっくりとふり返った彼が、ささやくように言った。 つづく |