瞳を閉じてもう一度 <5>



ひとけのないホールを通り抜け外に出ると、昼間の熱気はすっかり消えて、空気はむしろひんやり
としていた。夜の闇と冷えた空気がふたりの距離を縮めていた。隣を歩くひとの体温が身体の片
側にかすかに感じられる。その安らげる感覚が、ふたりの身体の奥深くの何かをゆさぶっていた。
それは何か、泣きたくなるほどなつかしい遠い暖かな記憶のようでもあり、甘く狂おしい恋情のよう
でもあった。しかし、思い出したくても思い出せない夢のように、それははっきりとした像を結んで
はくれなかった。
「変なかっこう・・」
彼女は自分の足元を見ながらクスリと笑った。彼女はきゃしゃなサンダルのかわりに、いつものス
ニーカーをはいていた。
「だれも見ていないさ」
彼も笑って答えた。
ふいに海を渡って風が浜に吹き上がり、おろした彼女の髪を舞いあげ顔をおおった。
「あ・・」
あわてて両手をあげて髪を押さえようとしたひょうしに、痛めた足に重心をかけてしまった彼女がよ
ろめいた。とっさに彼が抱きとめる。
「よくずっこけるお嬢さんだな」
頬に息がかかるほど近くで彼が笑っている。
「でも、今度も俺のせいだな。ごめん」
「え?」
「俺のためにおろしてくれたんだろう、髪」
「あ、これ・・」
彼女は髪に手をやった。かすかな月明かりにさえ輝く金色の髪は、彼女の背をたっぷりとおおい、
風にゆれて彼の肩にふれ、そよいでいた。
髪をおろしたまま出かけたのはこれが初めてだった。
─ いつも洗いっぱなしでひっつめて・・。この髪が風に吹かれるままになっていたのはいつのこと
だったろうか。こんな風に髪が風にゆれて・・・・。
「だけどやっぱりこの方がいい。よく似合ってる」
彼が髪に顔をよせた。彼女はドキリとして反射的に身を固くした。彼がふっと笑った気がした。
彼の顔の向こうに見える細い月は、闇を照らしてくれるほどには明るくなかった。逆光になった彼
の顔がよく見えない。
目のきかない闇の中で、互いの息づかいと身体がふれあった部分の感触だけが妙に生々しく感じ
られる。うすい絹を通して、彼の体温が伝わる。
胸が苦しい、息が出来ない、身体が熱い・・・。
たまらず彼女は、彼の腕の中から飛び出して走り出した。
「あ、こら、走っちゃだめだ!」
あわてて彼が後を追う。
彼女はたどりついた岩場に片手をついて、はあはあと息をはずませた。肺に流れこんでくるひんや
りと湿った夜気が、熱くなった身体を冷やしてくれる。
「こら!だめじゃないか」
彼の声に笑ってふりかえった彼女に、こつんとげんこつが落ちてきた。
「このおてんば。ちょっとよくなるとすぐこれだ。すぐ走るんだな、君は。もしかしてジョギングが趣味
?」
「すみません。ドクター・グランディエ」
「そんなかわいい顔してあやまってもだめだ」
ふたりは笑いながら並んで岩に腰をおろした。たっぷり走ったせいか、笑いがおさまらない。笑い
止んだかと思うと顔を見合わせまた吹き出す。
─ ああ・・ずっと昔・・やっぱりこんな風に誰かと追いかけっこをして笑いころげなかったか・・・・
彼女の脳裏に花火のように一瞬だけ浮かんで消えた少年の面影は、今彼女に求婚している幼な
じみのものではなかった。
くるくると巻いたくせのある黒髪に、いつも潤んだようなつぶらな黒い瞳の・・・あの少年は・・・・・誰

闇に沈んで見えない海の、寄せては返す波の音だけがひびいている。細い月の淡い光に時折浮
かび上がる足元の波頭と波音だけが、ここが海であることを伝えていた。しかしどんなに目をこらし
ても、その姿は見えない。
「ずいぶん走ったな、この不良患者」
後ろをふり返りながら彼が言った。見ると、ホテルの灯りがはるか彼方に小さく見えた。
「ほんとだ・・灯りがあんなに遠くに・・・」
ふたりが笑い止むと、聞こえるのは時々ひびく波音だけになった。急に闇がのしかかるようにふた
りを包み込んだ気がして、彼女は自分の肩を抱いてほんの少し彼に身体をよせた。
「なんだか、地球に俺と君だけしかいないような気になるな」
「ほんと・・」
「ホテルに戻ったら誰もいなかったりして」
「ふふ・・SF映画」
空を見上げると、ゆっくりと流れるうすい雲が月にかぶさりその輪郭をあいまいにしている。しばし
彼女は、刻々と姿を変えるおぼろ月に見とれた。
「太陽の光を映しているのね、月は・・」
─ 照らしてくれる太陽を持たない月は、ただのあばたのちっぽけな星・・・
「きれいだな・・」
「ええ」
月を見上げたまま彼女は答えた。彼は小さく笑った。
「月じゃない、君だよ」
「・・え」
やっとおさまった動悸がまた速くなる。
「きれいだよ、とても」
彼も月を見上げた。いつの間にか雲が流れ去り、ちらちらと瞬いていた星が数を増やし、みるみる
空じゅうをおおいつくした。頭上に広がる星空を仰ぎ見ていると、どこが海でどこが空なのか、だん
だんとわからなくなってくる。腰かけた岩がいつの間にか浮かび上がり、闇の中にぽっかりと浮か
んでいるように思える。
「ずっと・・・このまま・・」
そこまで言って彼女は口をつぐんだ。その先を口にするのがなんだかこわかった。
しかしまるで彼女のそんな思いを見透かすように、空を見上げたまま彼が低くささやいた。
「朝が・・・来なければいいな・・」

─ このままずっと、朝が来なければいいのに・・
─ そうだな・・
ろうそくの炎がゆれる暗い部屋で、同じ言葉を交わしたことがある・・。私に答える声は、私が頬を
よせる胸から直接耳にひびいていた。
夢?・・違う、夢じゃない。でも・・いつ・・誰と?

彼女は頭がぐらりと揺れるようなめまいを感じて、手をこめかみにあてた。
「俺たち・・・ほんとに今日初めて会ったのかな・・・」
「え?」
「ふふ、だめだな・・俺が言うとどうも安っぽい口説き文句にしか聞こえない」
彼は苦笑してうつむいた。
「あなたに一度でも会っていたら・・私決して忘れたりなんかしない」
彼はおどろいた顔で彼女を見た。
「あなたにもし会っていたなら私絶対・・」
彼女も彼を見た。
「そ・・うだな・・俺もきっと忘れない・・忘れられない・・・」

─ どうして忘れられるだろう、この声をこの瞳をこの香りを・・
誰もかわりになんかなれはしない・・

「オスカル・・」
「アンドレ・・・」
ふたりはその夜、初めて互いの名を呼び合った。かみしめるように。
その名を口にした時、痛いほどの切なさがこみあげふたりの胸を焼いた。つうっと涙が一すじ彼女
の頬を伝った。
「いやだ・・なんで涙なんか・・」
小さな声でつぶやいて泣き笑いの表情を浮かべ、あわてて涙をぬぐおうとする彼女の手を彼がそ
っと押さえた。
「俺が泣かせた?」
彼女は大きく首を横に振った。今夜初めておろした髪が、はらはらとゆれて彼の肩と腕をなでた。
「私・・泣いてなんか・・」
彼が少し首を傾けて彼女の瞳をのぞきこんだ。その時、彼女の青い瞳から、星のしずくのように涙
がほろほろと次から次へとこぼれ落ちた。
「泣いてるじゃないか」
彼は笑って彼女の頬をぬぐった。
「ほんとだ、笑っちゃう・・」
─ そんなに優しく微笑んだりしないで・・涙が止まらなくなる・・・・
風が吹き流した彼女の髪が彼の肩を抱いた。かすかに薔薇の香りが立ちのぼり、潮の匂いにとけ
て消えた。
「キスしても・・・いい」
彼のやわらかな低い声に、彼女は伏せていた目をゆっくりと上げた。ふたりを包む闇よりまだ黒い
瞳がぬれてきらめき「答えは Ouiだけだ」と彼女に告げている。
─ 熱い・・・。このひとのまなざしはこんなに熱かったろうか。闇の中でさえなお狂おしく燃える真
夏の太陽・・・なつかしい私の・・・・・
彼女を見つめたまま、彼がゆっくりと顔を近づける。
─ とける・・・・・・
くずれるように目を閉じてたおれこむ彼女をふんわりと彼が抱きとめた瞬間、ふたりの唇はひかれ
あうように重なりとけあっていた。
闇に何もかもがとけて消える。残るのは、熱い唇からこぼれ落ちる吐息と、よみがえる陶酔の記憶
だけ。
─ 吸うようにしっとりと・・私の唇をおし包み・・・しのびこみ・・・・・
私は知っている・・この・・くちづけを・・・
もう・・他には何も・・・・・いらない・・・・



「おい、もうとっくに昼すぎてるぞ」
アランの声に、ベッドの中でアンドレは不機嫌なかすれ声を上げた。
「うるさい。何時まで寝ようが俺の勝手だ」
「はん。その様子じゃ、ゆうべはだいぶお楽しみだったようだな。別に部屋をとって正解だったよ」
「どういう意味だよ」
アンドレはうつぶせになったまま、顔だけをアランに向けた。
「どういう意味って、そういう意味だよ」
「ばかな。きのう初めて会ったんだぞ」
アンドレはあきらめたように起きあがり、くしゃくしゃの頭をかきまわした。
「へえ、おまえにはそういうことは関係ないと思ってたがな」
─ 隊長は特別、ってわけか・・
アンドレは上半身に何もまとっていなかった。男の目にも美しく均整のとれたその身体が彼女を抱
く様が一瞬頭に浮かび、アランは思わず目をそらした。
「そんなかっこうでノックの音にも気づかないでこんな時間まで寝てたら、当然そうだと思うだろうが

「ノックしたのか」
「何度もしたよ」
「だからって、勝手に入ってきてたたき起こすことはないだろう」
「勝手に入られてまずけりゃ、鍵くらいかけろよ。となりに金髪美女が寝てたらどうしようかと思った
ぜ」
「じゃ、入らなければいい」
「仕事の打ち合わせに来たんだよ。のぞき趣味はないぜ」
「ちょっと待てよ。なんで金髪って知ってるんだ」
「勘だよ。おまえ、細身で背の高いブロンドの女がいると必ずふり返って見るだろう」
「それはおまえの方だろう。しかも、年上が好みなんだっけ?」
「ちぇっ。で、どうだったんだよ、彼女とは」
「どうって?別に」
「うそつけ。じゃなんで今頃まで寝てるんだよ」
「ずいぶんそのことにこだわるな。浜に出たんだよ、夕べは」
「浜ぁ?何してたんだよ、そんなとこで」
「明け方まで星を見てたさ」
「星を見てたって?いい年こいた男と女が?一晩中?」
「そういうこと」
「しれーっとした顔で、平気でうそをつけるんだな、おまえって男は」
「うそじゃないさ。さあもういいだろ。仕事の話で来たんじゃないのか、おまえは。何だよ」
「写真だよ。撮るんだろ、そのブロンドの彼女の」
アンドレが担当する記事に添える写真は、ここ二年すべてアランが撮ったものだった。アランが写
真を始めたのは今の会社に入ってからだったが、腕はよかった。企画のテーマを的確につかみ、
黙っていてもアンドレの意図をくんだいい写真を撮る。ことに、被写体となる相手の緊張をときほぐ
し警戒心をといて、他のカメラマンには撮れない表情をとらえる術は一流であった。キャリアが長く
ても、通り一遍のきれいなばかりの写真しか撮れないカメラマンをアンドレは使いたがらなかった。
アンドレはアランの写真の腕には一目置いていた。今では業界でも、編集者というよりカメラマンと
いう方が通りがよかった。
「ああ、そうだったな。忘れてたよ」
「で、どうする。パリでも撮るつもりだが、せっかくだからこっちでも撮ってみたいんだが」
「写真のことはおまえに任せるよ。いいようにやってくれ。希望があれば伝えるよ」
「ついては彼女と一度ゆっくり話したいんだが。いつ紹介してくれる」
「そうだな・・」
「オレとふたりきりで会わせたくないってんなら、おまえも立ち会ってくれていいぜ」
「そんなことは言ってない。わかった。相談して日程を立てるよ」
うなずいてアランが帰りかけたのを見て、アンドレはバスルームに向かった。
「あ、そうだ、もうひとつ」
シャワーの水音にかき消されないよう大声でアランが言った。
「編集長から預かってきた資料にも目を通してくれよ。おまえが見てから彼女に渡してくれってさ」
シャワーの水音が消え、バスルームからアンドレが頭から水をしたたらせながら顔をのぞかせた。
「彼女に渡すのか?何なんだ、モノは」
「くわしくは知らねえ。封がしてあるからオレは見ていないんだ。なんでも懇意の古物商のおやじか
らゆずり受けたものらしい」
「古物商の?」
「引き取った古い書机を修理していて、隠し底に入っていたのを見つけたそうだ。革命前後の頃の
兵士の日記らしい」
「へえ」
「あとで持ってくるよ。じゃ、日程調整よろしくな」
大きな音を立ててドアが閉まった。
「兵士の日記か・・」
アンドレは再びシャワーの栓をひねった。



彼と別れて部屋に戻ってから、彼女はなかなか寝つけなかった。着替えもせずベッドに横になった
まま、ぼんやりと長い時間を過ごした。しばらくうとうとしたが眠りは浅かった。夢の中でずっと波音
がひびいていたような気がする。
眠るのをあきらめて、昼前に彼女はカフェテラスに降りた。どこかで彼と会えるのではないかという
期待があった。彼女は奥まった席におさまり、ともかく何か食べようと軽い食事をとった。しかし、
食後のコーヒーを飲んでもまだ落ち着かない気分はそのままだった。
部屋に帰る気にもなれず、かといって出かける気分でもない。空になったコーヒーカップを前に彼女
はいつまでも席を立てずにいた。
─ まだ出会って丸一日もたってはいないのに・・
彼女は初めて会った時彼が座っていた窓ぎわのテーブルに目をやった。昼食を終えた客たちが散
り、空席が目立ち始めていた。
─ 何故こんなにもあの人に心をとらわれてしまっただろう・・
突然目の前に現れた男は、竜巻のように強引に根こそぎ彼女の何もかもを巻き上げ翻弄(ほんろう
)していた。冷えきっていた彼女に火をつけ、固く閉ざしていた何かを強い力でこじ開けようとする。
優しいかと思うと怖いような、穏やかなようでいて激しいような、会ったばかりなのになつかしいよ
うな、そんなつかみきれない彼の実像が、のぞいても見えない彼の本心が、彼女をひどくとまどわ
せていた。フラッシュバックするきのうの彼の表情のひとつひとつが、彼女に甘いしびれと同時に
たまらない不安を呼び起こす。
それでいて今朝別れたばかりのその人に、彼女はもう会いたくなっていた。彼のことを思い返すだ
けで、彼女の心臓はしぼりあげられるように痛んだ。
─ 部屋をたずねれば・・でもまさか・・そんなこと、できない。
彼女はひじをついて手で顔をおおった。ゆうべのくちづけの記憶が生々しくよみがえる。身体の芯
が焼けるようだった・・闇も波も風も何も感じられなくなった・・彼の唇以外のものはすべて・・・・
あんなくちづけを受けたことはなかった。身体中が衝撃と陶酔にふるえた。
─ なのに何故・・知っていると・・私はあの時・・・・

「俺たち・・・ほんとに今日初めて会ったのかな・・・」

波音だけがひびく夜の闇の中で言葉もなく交わしたくちづけ。交わしても交わしても足りない。ひと
つくちづけが終わるたび、またすぐ次のくちづけが欲しくなった。お互いの唇の感触にそのわけをさ
がすように、ふたりは抱きあい見つめあい、くちづけをくり返した。
やがて闇が薄れ始め、少しずつ顔を出す朝の太陽のまぶしい光が、再び彼と彼女の距離をひらか
せた。ふたりはふと夢からさめたように、ぼうぜんと互いの顔を見あった。
夜の間ふたりを押し流していた嵐のように激しい波は、いったい何だったのだろう。飢えた獣がや
っとありついた獲物にむしゃぶりつくように激しく求め合っていたふたりが、はたと我に返り自分に
問いかける。しかし答えは聞こえてはこない。ただ、何か大切なことを言わなければならないので
はないかという焦燥だけがつのる。形にならない思いばかりが苦しいほど胸にうずまき、伝える言
葉はかけらさえ出てはこなかった。
そしてそのまま、彼と彼女はホールで別れた。別れぎわに彼は「おやすみ」と彼女の肩をそっと抱
き寄せた。それだけだった。なんの約束もしなかった。
─ なぜあの時彼は私を帰してしまったのだろう。求められれば私は迷わず抱かれただろう。そうす
ればきっとこんなには・・・・
彼女は唇をかんだ。別れぎわの彼の顔が浮かぶ。影のさした悲痛とも思える表情、あれはいった
い何だったのか・・。
「オスカル・・」
一度だけ彼は彼女の名を呼んだ。
─ あの人が私の名を口にした時、私も思わず彼の名を呼んだ。初めてだった。
それなのに、なぜか何度も呼びかわした名のような気がした。

アンドレ・・・・オスカル・・・・・・アンドレ・・アンドレ・・・・・

胸に痛みを感じて彼女は強くまぶたを閉じた。
ゆうべ彼の部屋で聴いたバッハの旋律がよみがえる。2本のヴァイオリンが奏でる時に激しく時に
甘いメロディーが、いつしか彼と彼女に重なっていく。
─ この恋が、これからどんな道をたどることになったとしても・・
彼女は目を開けて、テラスの外のまぶしい光のあふれる海岸に目をやった。
─ 私はもう彼しか・・愛することができなくなるのではないだろうか。
たとえゆうべの出来事がすべて・・ひと夜限りの夢だったとしても・・・・



つづく