瞳を閉じてもう一度 <6>
「明らかな事前調査不足だな」
アンドレの部屋を出たアランは、カメラを下げ、さっそくロケハンティングを始めていた。ここに着いてすぐ、いつもの習慣でめぼしい場所はすでに下見をすませていたが、アンドレ同様、年配の女性を想定していた。彼女が相手となるとイメージがまったく変わってしまう。ロケーション探索はいちからやり直しだった。
「奴にしては珍しい。まあ今回の話は急だったからしかたないが。これも運命のいたずらか」
アランは、そんな自分らしからぬ思いつきに苦笑しながら、まだ見ていなかったホテルの裏庭に出た。
「へえ、イギリス風の仕立てか」
もっさりと繁るつる薔薇が、夏の日射しに青々とゆれている。野趣あふれる仕立ての庭の、見上げるばかりの丈まで伸びた薔薇のしげみが、近づいてみると野性的に見えて実はよく手の入ったものだと分かる。
「こんな海べりの潮風にさらされたところで、咲くのかな、薔薇なんて」
ふとアランは、ひとつの繁みの影に、ひっそりとぞうげ色の小ぶりの薔薇が一輪咲いているのを見つけて近寄った。
「なんだおまえは。残り咲きか?
いや、早咲きか。秋の花の季節にはまだ早いぞ」
アランはそっと手を伸ばして花の香りをかいだ。つきぬけるひんやりとした香りが、なつかしい人を思い起こさせた。
「薔薇の写真ですか」
声をかけられて振り向いたアランは、心臓が止まりそうになった。
「た・・隊長!!」
アランは、思わず敬礼しそうになった手を、やり場なく泳がせた。
金の髪をなびかせ微笑んで立つ人が首をかしげた。
「は?」
「あ・・いえ何でも。あの、失礼ですが・・、ジャルジェ先生では」
「え!?」
彼女は驚いて目を見開いた。
「<ル・デトゥール>のアラン・ド・ソワソンです。アンドレの相棒の」
「ああ、あなたが」
とたんに彼女はにっこりと微笑んだ。
「きのう彼と部屋で待ち合わせしていた・・」
彼女はアランの側に歩み寄って右手をさし出した。
「初めまして。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです」
─
初めまして、か・・声も姿も何もかも・・あの頃のままなのに・・・
彼女のさし出した手を握りながら、アランは胸が熱くなるのをどうしようもなかった。
「きのうはごめんなさい・・つい彼と話がはずんでしまって」
─ それはそうだろうさ・・
「しかも私が待ち合わせにすっかり遅れてしまったものだから。ずいぶん待ったでしょう」
「あ、いや、そんなことは」
「ほんとうにごめんなさい」
─
あの頃より・・ちょっとやわらかい感じだな。そりゃそうか、軍人じゃないんだから。それとも、奴に恋をしているせいかな・・
「薔薇がお好きなんですか」
「ええ、まあ・・似合わないでしょう」
彼女は微笑んで、「そんな」と首をふった。
─
あなたを失ってからオレは薔薇が好きになった。この花の姿と香りが、あなたを思い起こさせた・・・。
彼女と目を合わせていることがつらくなり、アランは足元に視線を落とした。
「ここは白い花ばかり植えてあるんです。白といっても株によって少しずつ色が違って・・咲きそろうとなかなか壮観ですよ」
彼女はアランに背を向けて、薔薇のしげみを見上げた。
「でも変ですよね。夏の宿なのに、夏のつぼみは皆摘んでしまうんですものね。まあ、この宿のそういうところが私は気に入っているのですけど」
彼女は首だけふり向かせて彼ににこりと微笑みかけると、また庭に目をやった。
アランはぼうぜんと目の前の人の姿を見つめていた。その人はあまりにも突然に、彼の前に姿を現した。
いつしか身体の奥底に芽生えていた淡い想い。それはやがて彼の中にしっかりと根を下ろし、想い人の死後なおますます深く大きく育ち、大輪の花を咲かせ続けた。
その忘れ得ぬなつかしい人が、長い時を超えて、今また、自分に声をかけてくれた。あまりにも唐突に、あまりにも自然に。まるでさっきまで練兵場で訓練をしていたかのような錯覚におちいるほどに・・。
─
あなたはいつも、一人でいるオレの背に声をかけてくれた。
何か悩み事か、班長・・
アランどうした、食事はすんだのか・・
アラン・・・・・・
アベイ牢獄から出た日、あらためて礼を言おうと司令官室をたずねたオレが、前と明らかに変わった奴と隊長の雰囲気にいたたまれず、そそくさと退室した後もそうだった。
練兵場で一人ぼんやりしているオレに、あなたは声をかけた。
「アンドレが・・」
あなたは息を切らしていた。走って追ってきたのか・・。
「アランが何か私に話したいことがあったんじゃないかって・・」
奴は隊長に一人でオレを追わせた。つい何日か前、オレを一人追ってきたこの人の唇を、むりやり奪ったオレを。
奴にはかなわない・・。
ふたりがついに想いを通わせあったのだと、この時オレは確信した。
「いえ、ただお骨折りくださったお礼を一言」
隊長は微笑んでいた。奴の深い愛に包まれ、全ての呪縛から解き放たれたようなその微笑みは輝くばかりだった。
あの微笑みが生涯忘れられなかった。聖母のようだった。
黙りこくっている男に彼女はふり返った。
「あ、ごめんなさい。おじゃましてしまったかな、写真を・・」
「ああ、そんなことは・・。ぶらぶらしてただけですから」
─
知らない男の人に自分から声をかけるなんて・・どうかしている・・
でも何故だか、この人の背中を見ていると無性に声をかけたくなった。
気づいたらいつの間にか・・・
「すみません。オレはどうも、奴みたいに気の利いたことのひとつも言えなくて」
言葉もなく彼女と向かい合っていることに耐えられなくなったアランが頭をかいてうつむいた。
「奴・・」
「アンドレ・グランディエ。会うなりあなたを誘った色男ですよ」
「色男?」
彼女は笑った。
「でも彼は、口は悪いけどあなたの方がずっと女性には優しいんだって言っていましたよ」
「そういうことを言うんだ、あの男は」
アランは口をへの字にして肩をすくめた。
「オレをほめているようで、言ってる本人の方がやっぱりかっこいい」
彼女は声を上げて笑った。
「でも・・あなたもとても素敵ですよ」
彼女は低い石垣に腰をおろしながら言った。
─
あなたも・・か・・。こんなことを隊長に言われようとは、な・・。世辞とわかっていてもうれしくなっちまう自分が情けねえや・・
アランは苦笑して彼女に背を向けた。
「彼は・・あの・・・」
言いにくそうに口を開いた彼女にアランはふり向いた。
「いつもあんな風なんですか・・つまり・・・」
「あなたを食事に誘ったことですか」
「ええ・・」
彼女はきまり悪そうにうつむいた。
─ ゆうべやっぱり何かあったな。
このふたりに何もないわけ、ないか・・
「初めてですよ」
「え」
「あいつが自分から女性を誘ったのはあなたが初めてです。あの通りの奴だから、誘われるのはしょっちゅうですが」
「それは・・」
彼女はとまどっていた。アランの言葉の意味をどう受け取ったらよいのか迷っている風だった。
─
あいつとどこまで・・何を話したんだろう。あの頃の記憶はまるでないようだ・・。
アランは思いきって言葉をついだ。
「あの男とパリの街を歩くと、女は三人に一人はふり返る。奴がつきあった女の数は・・たぶん両手にも余る」
彼女がかすかにつらそうな表情を浮かべたのを、アランは見逃さなかった。
「あいつは仕事もできるし、女にももてる。たいていの男はそれで満足するものですが・・」
アランは口ごもった。
─ 何を言うつもりだ、オレは・・・
「あ、いや、こんな話は・・オレが言うことじゃないな」
「聞かせてください」
アランは彼女を見た。彼女はまばたきもせずに彼を見つめていた。
─
ああ、この眼だ。あなたはいつも真っ直ぐにオレを見る。今も変わらぬそのまなざしで、奴の話を聞かせろと、あなたはオレに言うのか・・アンドレの話を隊長に?
ふん、ばかげてる・・・
彼女は立ち上がって、眉を寄せて黙ってしまった男の腕をつかんだ。
「知りたいんです。聞かせてください」
思い詰めたようなその声に、アランは「わかりました」と答えながら彼女に笑いかけた。
「だからこの手を・・」
「あ、ああ・・ごめんなさい」
彼女は後ろに一歩飛びのくようにして、男の腕から手を離した。
「ではもう一度そこへ。長くなります」
笑いながらアランは彼女に座るよううながしてから、小さなため息と共に口を開いた。
「たいていの男はそれで満足する。しかしあいつはそうじゃない。深い喪失感をいつも身体の奥底に抱えている」
「喪失感・・」
彼女はその時、ずっと自分を苛(さいな)んできたものもまた、深い喪失感であることに気づいた。
─ 私は・・何を失ったのだろう・・・
「それは・・ご両親の・・」
「それもあるでしょう。まだ幼い頃に家庭をなくして、いきなり社会に放り出された。人に甘えたり頼ったり期待したり、そういうことをずっと自分に禁じて生きてきたのでしょう。妙にクールなところがあって・・。人によってはそれが投げやりに見えることもあるだろうし、冷たいとか変わり者だとか受け取る人もいる」
「ええ」
自分と似ている・・彼女は思った。
「しかしあいつはそんな男じゃない。温かくて強くて熱い・・」
この人はどうしてこんなにも彼のことを理解しているのだろう。彼女は不思議な気がしたが、問いただすことはせずうなずくだけで男の話をうながした。
「あいつの人生に何か欠けているものがあるとするなら・・いや、それこそがあいつに必要なただひとつの・・他の何を失おうと、なくしてはならなかったものなんだ」
「他の何を失っても・・・」
「そうです。魂の片割れを失ったまま彼は生きてきた」
彼女はひざに置いた手をにぎりしめた。胸がざわついていた。
─ 魂の・・片割れ・・・・・
喜びも苦しみも・・青春のすべてもわけあって・・・・・・
「あなたも・・・そうだったのではありませんか」
彼女はおどろいて顔を上げた。
「美しく優秀な若き助教授。何の不足もない人生と人は思うかもしれませんが・・」
─ 何!? 何を・・
「彼がずっと探し続け求め続けていたのは・・」
─ 何を言っているのだ、この男は・・
「あなたなんだ。あなたと会える日をあいつはずっと待ち続けていた」
─ 私・・を?
「あなたは、」
─ 頭が・・いた・・い・・
「この世でただ一人の・・」
─ 割・・れ・・そう・・だ・・・
「彼の・・運命の人だから。
アンドレ・・グランディエの・・」
「黙れアラン! 黙れ!!
おまえにそんな・・!」
彼女は眉をつり上げ仁王立ちしていた。
─ ああ! 隊長・・・!!
「申し訳ありません!
出過ぎたことを申しました!」
アランはかかとを鳴らして敬礼した。
彼女ははっとしてアランをぼうぜんと見返した。
「すみません・・・私・・今、何を・・・」
彼女の瞳に、ほんの一瞬宿ったかつての光はもう消えていた。
「自分で・・聞きたいと言っていながら・・」
彼女はすとんと腰を落とした。
「彼とはきのう初めて・・あなたとだって今・・」
彼女は両手で顔をおおい首をふっていた。恋い焦がれたブロンドの髪が、夏の日を受けて光りながらゆれるのを、アランは切ない思いで見つめた。
「それなのに・・・どうして・・そんな・・・・」
彼女の腕をつかんで激しくゆさぶって、今一瞬目の前に鮮やかによみがえったなつかしい人を呼び戻したいという強い衝動にアランは耐えていた。
─
隊長・・隊長・・・声を限りにあなたを呼べたら・・・・
両のこぶしを白くなるほど強くにぎりしめ、アランはしぼり出すような声で言った。
「何も・・思い出せませんか・・・隊長・・」
彼女の身体がびくりとゆれた。はじかれたように顔を上げた彼女は、目を大きく見開いてアランを見つめた。
おまえのような男に会いたかったからかも・・・・・・・・
彼女の頭の中で、焦点の合わないこまぎれの映像と、言葉にならない声の洪水がぐるぐると渦を巻いていた。
「ごめんなさい・・私・・・」
彼女はふらりと立ち上がったが、足元がぐらついた気がしてかたわらの樹の幹に片手をついた。
「大丈夫ですか、顔が青い」
アランがかけより手を差し出そうとした時、
「失礼します・・」
小さな震える声を残して彼女は走り去った。その後ろ姿を見送って、アランは立ち尽くしていた。
─
オレは何をやってるんだ・・このままふたりが逢い続ければ、いつかきっとふたりとも何もかも思い出す。オレがどうこう言うことはなかったんだ。
たぶん、会った瞬間から彼女の心をかき乱したであろう相棒の顔を、アランは思い浮かべた。
─
記憶など戻らずとも、ふたりは強く惹かれ合い・・求め合い・・
いつも寄り添っていたかつてのふたりの姿が、ことあるごとに視線を合わせ微笑みあっていたふたりの姿が頭をよぎる。
─
ふん、そんなことはあたりまえじゃないか・・腹いせのつもりか、アラン・・
アランは立ち上がって、一輪だけ咲いた薔薇に手を伸ばした。
「摘み残し・・か・・。早咲きじゃない、おまえは・・狂い咲きだ」
アランは自嘲的にふっと笑った。
─
また・・隊長をいじめてしまったことになるのかな。
まったくオレって奴は・・どうしようもない。
過ぎ去った遠い過去と思っていた。
しかし、自分の相棒の男が彼女に会ったことに気づいたとき、アランの胸は激しくざわついた。そして、こうして今その人を目の前にして、もう終わってしまったと思っていたものが、今なお変わらぬ強さで自分の中でひっそりと息づいていたことを、アランはいやと言うほど思い知らされていた。
青々と盛り上がる薔薇のしげみを、アランはぐっとつかんだ。無数の細い棘が手の平を刺した。アランは目を閉じて痛みをこらえた。
しかし、痛んでいたのは手の平ではなく胸だった。薔薇の刺より太く鋭い棘が、彼の胸を裂いていた。
裏庭を飛び出した彼女は海岸に出た。呼吸が苦しくなるほど混乱した頭が、まぶしい太陽の光を欲していた。浜は水着姿のバカンス客でにぎわっていた。何もかもがのんびりとスローモーションのように動いている景色に彼女はほっとしていた。一人になると、何かに押しつぶされそうな気がした。
歩くたびざくざくと足元で鳴る砂の音が、どこか遠くから聞こえるように思える。だんだんと希薄になっていく現実感をつなぎ止めようと、彼女は額に手をかざして、雲ひとつ無い空のぎらつく太陽に顔を向けた。
「わけがわからない・・」
まぶしさに耐えきれず閉じたまぶたの中にまで太陽の光は入りこんで、彼女の視界を真っ白にした。
─ 運命の人? 魂の片割れ?
彼女は歩みを止めて、遠くに見える岩場に目をやった。
─ けれど・・・・
身体がとけあってしまいそうなあの安息に・・他の何を失ってもかまわないと思うほどのあの陶酔に・・これ以上ぴたりとあてはまる言葉があるだろうか・・・・。
彼女は眉を寄せて、いらだった表情を浮かべた。常にちらちらと見えているのに、焦点を合わせようとすると姿を隠す何かをとらえられない自分がもどかしかった。
─
そういえば・・最初の長いくちづけの後、私たちははっとしてお互いの顔を見つめあったのだ。
初めてのはずなのに、それは何度も交わしたくちづけのようにしっくりとなじんで・・そして髪の先まで波紋のように広がって、私の身体の奥の何かをゆるやかに目覚めさせた。
互いの唇からもれる吐息が、言葉にならない想いを伝えていた。問いかけて応える・・そしてまた問い返す・・。
何も・・思い出せませんか・・・・
─
そうだ、何かを思い出そうとしていたのだ。あの時・・彼も私も・・。
くり返すくちづけに、その答えはあるような気がした。おぼろげに浮かんでは消えるものを必死でつかもうとしていた。
彼女はいつの間にか、ゆうべの岩場にたどりついていた。影さえないほど日の光に照らされたそこは、闇に包まれていたゆうべのふたりの秘めやかな場所とはまったく違って見えた。
─
逢いたい、彼に逢いたい。逢って確かめたい。ゆうべのことが夢ではなかったと。あのくちづけをもう一度この唇に・・・・・
熱く焼けた岩に腰をおろし、彼女は目を伏せた。
─
男といても、すぐ一人になりたくなった。
初めてだ・・こんなにも強く熱く誰かを乞い求めるなんて。あの瞳が声が腕が唇が恋しいと、私の中で誰かが叫んでいる。
いつも側にいて欲しいと、離れたくないと。
自分の中に、こんな熱が秘められていたなんて思いもしなかった。いつも冷めていた。
空虚な心を仕事に没頭することで埋めようとした。皮肉にも、それが私を異例の若さで助教授にした。やっかみや妬みが聞くに堪えない噂を流したけれど、そんなことで傷つくほど、もともと人を信じてはいなかった。世間なんてそんなものと、シニカルにものを見る癖が、いつの頃からか身についていた。
あなたも・・そうだったのではありませんか・・・・・
─
いつも生きにくさを感じていた。半身が欠けたような不自由さが常につきまとって、バランスのとれない自分を持て余していた。何をしても満たされない身体の奥の底無しの空洞をのぞきこんでは、たまらない寂寥感に苛まれる。
それが、魂の片割れを失ったまま生きてきたせいだと、いうのだろうか。
でもなぜ彼が・・アラン・・アラン・ド・ソワソン・・・彼はいったい・・
あの時、一瞬立ち現れたもう一人の私。
あたりまえのように名を呼んで、会ったばかりの男をどなりつけていた。黙れ、などと・・学生たちにさえ言ったことがないというのに。
あの瞬間、まわりの景色まで違って見えた。目の前の男が違う男に見えた。
いきなりどなりつけた私に、彼は敬礼を返していた。
何かが姿を現しかけている。
あと少し、もう少しで・・。
急に空気がひんやりしたかと思うと、ひゅうひゅうと音を立てて風が吹き始めた。地面を焼いていた太陽が、みるみる黒い雲におおわれていく。あれだけ人があふれていた浜が、あっという間に無人になった。ぽつりぽつりと落ち始めた水の粒が、熱い砂に吸い込まれる。
彼女は空を見上げた。始めは薄かった雲の層が、見る間に厚くなって夏の空を暗い色にぬりかえていく。空を仰いだまま、彼女は岩にもたれ込んだ。岩のかかえこんだ熱が、薄いシャツを通して彼女の背に伝わる。
─ 抱きしめられているみたいだ・・
彼女は目を閉じて、両腕で自分の肩を抱いた。顔に腕に落ちる雨粒が、少しずつ彼女を濡らしていく。
雨の音に混じって、かすかに声が聞こえた気がして彼女は目を開けた。
アランが置いていった兵士の日記を脇に積んだまま、頁を開くでもなく、彼は部屋の床に腰をおろしていた。片方だけ立てた脚にひじをかけ、壁にもたれて彼は天井を見上げた。
─
逢わない方がいいのだろうか・・・彼女とはもう・・・
彼は額に手をあてうつむいた。
─
あの瞳が香りが髪が声が、俺の胸をかきむしって、覚えのない古い傷口を開く。そこから流れ出す血が俺を押しとどめる。
何もかも忘れてしまえるほどの激しさで彼女を抱いて抱いて・・・もっと熱く彼女を感じたいと、もっと深く彼女と融けあいたいと、そう声なく叫ぶ俺を・・
くちづけをくり返すほどに俺の中にわき上がる何かが、彼女にそれ以上触れてはならぬと厳命する。
何故だ。彼女と俺の間に何があるというのだ・・。出会ったばかりのひとと・・
彼は顔を上げて、ゆうべ彼女が腰かけていたソファーに目をやった。
─
彼女が、伏せていたまなざしをふとあげて俺を見る時の、ときめきとしか言いようのない青い感情。
そんなものがまだ自分の中にあったのかと、とまどいあざ笑いながらも酔った。
俺はこの女に囚われる。逃れようもなく深く。その予感は心地よく俺を安息へと導いていた。
言葉を交わすごとに、瞳を見交わすごとにこみあげるもの。それは今まで感じたことのない確かなもののように思えた。
大事にしたい。今までの何を棄てても護りたい。今この胸の奥に生まれようとしているものを、この人を、と、確かにあの時俺は思った。
浜で、彼女にくちづけるまでは。
彼は、ゆうべその腕に抱きとり、狂おしく唇を求めた人の名を小さく呼んだ。
─
俺のこの腕の中で、すがるようにくちづけに応えていた。どれだけ抱きしめても、どれだけくちづけても足りなかった。
愛しかった。
帰したく・・なかった・・
それなのに、何故俺は・・・
・・ほんとに今日初めて会ったのかな・・・
─ どうしてあの時そう思えたのか。
くり返すくちづけに、その答えはあるような気がした。おぼろげに浮かんでは消えるものを必死でつかもうとしていた。
かすかに見えているのに、追うとその姿をくらます何かを、彼はゆうべからずっと追い続けていた。しかし、追えば追うほど迷路に迷い込むだけのその試みに疲れ果て、彼は考えるのをあきらめた。
そしてようやく、積み上げた古いノートの一冊を手に取り頁を開いた。
「そ・・うだ、これを・・彼女に届けねばならなかった・・」
─ 連載だって始まったばかりだ。
彼女に逢わないって?
これから半年、まるで何もなかったような顔をして、仕事だけのつきあいを続けるのか、彼女と。
「ははっ」
笑ったつもりの彼の声は、部屋にむなしく響いて、窓の外の海岸のざわめきにかき消された。
─ できるのか、そんなことが。
今すぐ逢いたいと、抱きしめてくちづけたいと叫び続ける心に封をして。
彼女は・・オスカルは・・俺の初めての・・・そしてたぶん最後の・・・・
開かれたまま、いつまでも読んでもらえない古い日記が、彼のひざの上で、窓からの風に吹かれてぱらぱらと頁をめくっていた。妙に乾いた明るいその音が、また迷路に迷い込みかけた彼を引き戻した。
彼は顔を上げて、窓から見えるまぶしい夏空をしばらく見やった。
彼がこの世に生を受けた季節。しかし、夏にまつわる記憶はどれも苦かった。
彼はふっと笑って手元に視線を戻すと、両手で髪を乱暴にかき上げ、手にした冊子に意識を集中させた。
それは、革命の2年前の日付で始まっていた。
つづく
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