瞳を閉じてもう一度 <7>



彼女に去られたあと仕事を続ける気にもなれず、アランはさっきまで彼女がかけていた石垣に腰をおろしたままぼんやりしていた。
「おまえでも物思いにふけることがあるのか」
からかうような声に顔を上げたアランは、うんざりした表情を浮かべた。
「なんだ・・おまえか」
よりにもよって・・という言葉をアランは飲みこんだ。
「ごあいさつだな」
片腕に冊子の束を抱えたアンドレが、苦笑しながらアランの脇に腰をおろした。
「あれ、撮影の下見か」
アランの手元のカメラに気づいたアンドレが、申し訳なさそうな顔をした。
「すまなかったな。二度手間かけて」
「いいよ別に。場所探しは嫌いな仕事じゃない。趣味みたいなもんさ」
他にやることもないしな、とつまらなそうな顔をするアランに、アンドレは再び苦笑いした。
「さっきここでおまえの先生に会ったぞ」
「え!?」
「驚くことないだろう。同じ宿なんだ。偶然会っても不思議はないさ」
まるで自分に言い聞かせているみたいだとアランはおかしくなった。
「は・・ん、おまえの物思いの原因はそれか。まるきりおまえのタイプだからな、彼女は」
「なっ・・!」
ずばり図星を指されて、アランはいたずらが発覚した子どものような顔を相棒に向けた。
「しかもおまえより年上だぞ」
アンドレは笑いながらアランの顔をのぞきこんだ。
「言っとくが、声をかけてきたのは向こうだからな。おまえに張り合うほどバカじゃねえ」
「何も言ってないよ、俺は」
「ふん」
むきになってそっぽを向くアランに、アンドレは含み笑いで答えた。
「それよりおまえが持ってきたこれ」
アンドレは脇に積んだ冊子に手を置いた。
「もしかしたら、ちょっとした掘り出し物かもしれないぞ」
「それが?」
アランは気のなさそうな顔を向けた。
「これを書いたのは、ベルサイユ常駐のフランス衛兵で」
アランははっとして相棒の顔を見た。しかしその表情に、記憶を取り戻したという片鱗は見られなかった。
「まだざっと目を通しただけだが、面白いことが書いてある」
「へ・・え」
「この兵士は、革命直前、命令に背いて放り込まれたアベイ牢獄から無条件釈放された中のひとりで、その後バスティーユ襲撃にも参加している」
─いったい誰の・・・文字を書ける奴なんてそう何人も。まさか・・・・
アランは落ち着かなくなり立ち上がった。
「それが、だ。その時彼らを指揮していた司令官が、なんと女性だったと書いてあるんだ」
アランは思わずふり返った。
「驚いただろう」
「あ・・ああ・・・」
「これを書いた男は一兵卒だが、どうやら貴族で士官学校を出ている。何かをしでかして降格されたらしいな。しかし後に、ナポレオンの配下でかなり高位まで出世しているようだ」
アランはすぐにその日記を書いた男が誰なのかに気づき、積み上げられた冊子に目を向けた。古びてはいるが、それらは確かに見覚えのあるものだった。
「所々途切れてはいるが、10年以上にわたってこの兵士は日記を書き続けていて、内容は史実にぴったり合っている。男の名も司令官の名も書かれてはいないが、嘘を書いているとは思えない細かい描写があちこちにあるし、信用できる資料だと俺は思う」
アランは黙ってうなずいた。
「それからこれは別の意味で興味深いのだが、この女隊長が自分の従卒である男と恋仲だったというんだ」
「許されざる恋・・か・・」
アランは横目でアンドレの顔を盗み見た。しかし彼は、表情を変えるでもなく小さくうなずいただけで話を続けた。
「たいした男だよ。自分の主人を落とすとはな。危険すぎる職場恋愛だな」
アンドレは笑いながら、軽く握った手でトントンと冊子をたたいた。
「火遊びじゃないのさ。純愛だろう。命がけだ。おまえとは正反対の男なんだよ」
─・・まったく・・同じ人間とは思えないよ・・
アランは相棒に気づかれないよう小さく肩をすくめた。
「どうやらそうらしいな。なかなかドラマチックだ。時代のせいかな」
「時代?」
かすかに眉を寄せてアランは言った。
「そういうことに今も昔もないさ。おまえはちょっと、その男の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいんじゃないのか」
「ああまた御進言か。聞き飽きたよ、おまえのその話は」
アンドレは顔の前でひらひらと手を振った。
「だったら後輩に意見されるようなことをしなければいい」
─もっとも・・じき、そうなるだろうがな・・・
あの頃の奴にたまらなく会いたくなって、自虐的とも見える女関係に説教じみた口出しをすることがよくあった。しかし、それが実に無意味で不毛なことだと言うことはよくわかっていた。奴がただひとり、真の愛を向ける相手は、その時そこにはいなかったのだから。
奴はそれでも、少々酒が過ぎた夜など、懺悔めいたことを口にすることがあった。
しかし奴は気づいてはいない。ないがしろにし傷つけていると思っている女の数だけ、自分にもまた深い傷を負わせているのだということに。
前の傷が癒えぬうちにまたざっくりと新しい傷を重ねる。流れ出す血と痛みだけが、あのひとをなくした耐え難い苦痛をまぎらわせる唯一の手だてだとでもいうように。
そんな奴でも仕事だけは完璧にこなした。求められるものの、必ず何段か上の結果を出す。
『義務と責任は果たす。食っていかなきゃならないからな』人の賛辞には、言った方がばかげて見えるほど冷たく言い放った。達成感も野望もそこにはなかった。
そんな奴を見ているのはつらかった。
熱い男だった・・下手にさわると火傷しそうなほどに・・・
『グランディエさんの今後の夢って何ですか』
奴に憧れる初な新入りが頬を染めてそんなことを聞いたことがあった。聞く相手を選べ。俺は心の中で苦笑した。
『夢?』奴は片頬で冷笑した。『そんな言葉は知らん』
しかし・・そんな日々も、もうすぐ終わる・・・
「ふふん。・・それにしてもおまえ、なんだか今日は・・」
「なんだよ」
「いつもと違うぞ。命がけの純愛、なんて言葉がおまえの口から出るとはな。熱でもあるんじゃないのか。さては恋でもしたか」
「オレのことなんかどうでもいい。それの話だろう。それからどうした」
「ああそうだ、“純愛”の話だったな」
アランの仏頂面に笑いをかみ殺しながらアンドレは言った。
「純愛に生きた男がもうひとり。なんとこの兵士もまた秘かに隊長に心を寄せていたようだ。よほど魅力的な人だったのだろうな、この隊長は」
─そういうことだ・・一度囚われたら生涯逃れられない。誰よりおまえが一番よく知っていることさ・・・
「案外、あの先生みたいな人だったんじゃないか?」
アランは揺さぶりをかけてみたくなった。
「彼女か?」
「あのひとならぴったりだ。軍服も剣も似合うぞ。ひらりとまたがるのは白馬ときた。戦の女神ってのは洋の東西を問わずいるもんだ。女隊長もまんざらじゃない。この国にはジャンヌ・ダルクもいたしな」
「おまえらしくないことを言う。やっぱり今日のおまえはなんだか変だ」
アンドレは笑った。
「しかし、彼女みたいなきゃしゃな人が、男ばかりの当時の軍隊でむくつけき男どもを率いて、と言うのは・・考えにくいな。貴族の姫だぞ」
「軍人になるべく育てられたんだろう。結局は人徳だしな」
「へ・・え。おまえ結構リベラルなんだな。おまえがこの兵士なら、『女の命令なんざ聞けるか』くらい言いそうなもんだが」
「ま、そういうこともあったかもしれねえな」
「で? やがて忠誠を誓い恋におちるわけか?」
「さあ、それはどうだか知らねえが」
「少なくともこの兵士はそうだったようだぞ」
アンドレは一冊をひざに置いてぱらぱらとページをめくった。
「はじめは淡い恋心だが、日を追うにつれて想いは深まっている。バスティーユで隊長が命を落として以降・・この直後から5年間も日記は途絶えているのだが・・彼女の死後ますますその想いはつのって、やがて彼の人生の道しるべのようになっていくんだ。
混迷を極め迷走を続ける国の行く末を見つめながら、彼女の志を胸に生涯妻をめとることもなく、頑ななまでに軍人としての生を全うしようとしている。もうとっくにこの世のものでなくなった隊長への断ち切れない想いが、彼をそう生きさせたのだろうな。まさに純愛だ。
まあ、男なんてものは本来こういう生き物なのかもしれないが」
─ふん、よく言うよ・・自分のことは棚に上げて・・・・
「たいした読解力だな」
つい口調が皮肉っぽくなる。
「そう・・・・妙なんだが・・・」
いきおいこんで話し続けていたアンドレが言葉をとぎらせ、ひざの上の冊子に目を落とした。
手を額にあてて黙り込んでしまった彼の表情に、アランはあの頃の記憶がゆさぶられていることを見てとった。
「知っているような気がしてくるんだ。読めば読むほどそこに書かれていることを・・」
「・・・・」
「だんだんと・・何かが姿を現して・・」
「おまえ・・」
「ん?」
「それを・・彼女に見せるのか」
「は!? おまえが渡せって・・」
「必ず一緒に読め。彼女にそれをひとりで読ませるな」
「ええ?」
アンドレは笑った。
「どうして」
「どうしてもだ。彼女がそれを読む時には、おまえが必ず側についていろ」
「そこまでしなくてもいいだろう。ひとりの方がゆっくり読めるだろうし、俺はこれを届けたらすぐ戻るつもりで・・」
「だめなんだ!!」
「アラン?」
「だめなんだ・・頼むからそうしてくれ。でないと・・」
「でないと・・?」
いつになく深刻な顔を向ける相棒を、アンドレはいぶかしげに見返した。
急に裏庭が暗くかげりだし、ふたりは上空を見上げた。真っ青な空が見る間に灰色の雲におおいつくされていく。遠くでかすかな雷鳴も聞こえる。
「夕立か」
「おまえがらしくない話なんかするから」
アンドレは笑いを含んだ声でそう言うと、みるみる空をおおう雲に目をやり、日記の束を抱え込んだ。
「それを届けるんだろう。もう行けよ。夕立が来れば彼女も部屋に戻るだろう」
「部屋にいないのか。出かけるって?」
「いや・・なんとなくそんな気が・・」
「変な奴だな。とにかく行くよ」
ぽつぽつと小さな雨粒が落ち始めていた。
アンドレは何か言いたげな顔を相棒に向けたが、降り出した雨に再び空を仰いで急ぎ足で建物に戻った。
その背中を見送りながらアランはつぶやいた。
「どういう巡り合わせだ・・」
回り始めた渦の中に、自分もまた飲み込まれ始めていることに、アランはかすかなめまいを感じた。
なぜ自分だけがこんなにも鮮明に、あの頃の記憶を取り戻していなければならなかったのか。何のためだ。
決して報われることのない想いに囚われて身動きできない自分の愚かさを思い知るためか!?
忘れられるものなら、忘れたままでいたかった。
─奴を憎めたら、もっと楽だったろうか・・
アランはずっと握りしめていた右手を開いて、血のにじむ、できたばかりの傷に目を落とした。
─ところがやっかいなことにオレは、奴にもぞっこん惚れちまってるんだ。
まったく・・つける薬のないバカ野郎さ・・・
長いため息が、湿り始めた空気に飲み込まれる。
─それを持っておまえは彼女の元へ行くのか・・
隊長はオレに向けたのとは全然違ったまなざしでおまえを迎えるのだろうな・・
ドアを開けたあのひとは奴の首に手を回して微笑むだろう。そして目を閉じてあいつのくちづけを受ける。
奴の手から日記の束がばさばさと音を立てて床に落ちてもふたりは気にもとめず・・・
「ふん!」
アランは濡れ始めた髪に手をやり自嘲した。
「オレに自虐趣味があったとは気づかなかったな。これじゃ奴のことをとやかく言えない。こりゃ笑える」
アランはゆっくりと歩を進め、戸口を入ったところで裏庭をふり返った。
─それは・・オレが書いたんだよ、アンドレ・・
雨足が少しずつ強くなっていた。薔薇のしげみが雨に濡れてゆれながら色を濃くしている。湿った土の匂いが鼻にまとわりつく。雨の匂いは、遠くなつかしい日々へアランを強引に連れ去ろうとする。
雨の降りしきる裏庭が練兵場と二重写しになった。そこに立つ、青い軍服をまとった長い金の髪の武官は幻か・・。

「黙れアラン! 黙れ!!・・・・・」

「 隊長・・・・・」
─運命がまた動き始める。
 長い長い時を越えてふたりはまた巡り逢い、そして・・・
アランは雨に打たれる地面に目を落とした。
─ そしてまた今度もオレはここにいる・・
雨が地面につけた水玉模様は、だんだんとその数を増やし、やがて地面を黒く塗りつぶした。
─何度生まれ変わっても、きっとこれがオレの場所・・変わることのない・・・
急な夕立にあわてて宿に戻った客達の声で、ホールが急ににぎやかになり始めていた。笑いあいながら互いの髪をふきあう浜着の客達を、アランはふり返ってながめた。それはひどく現実感のない、まるで映画の中のワンシーンのように見えた。
アランはゆっくりと手にしたカメラに目を移した。そこにほんの少しついた雨しずくを手の平でぬぐいながら、アランはその手触りに今この時代を生きる自分を探そうとしていた。そうしなければ、ル・デトゥールのカメラマンは蒸気のように消え失せ、フランス衛兵隊第1班班長がここに立つことになる。
棘の傷が手の平ににじませた血が、カメラのボディーをよごしていた。目を閉じてアランは両手で強くカメラを握りしめた。使い込んで手になじんだはずのその相棒はそっけなく、まるで冷たい金属の固まりのような手触りだった。



雨の音に混じってかすかに声が聞こえた気がして、彼女は目を開けた。
「なんだかここにいるような気がした・・」
雨粒は彼女の長いまつげを打ち、瞳の中にも落ちてきた。彼女は何度か目をしばたたかせながら、目の前に立つ人影に視線を合わせた。
「濡れるよ・・」
降りしきる雨の中で、長身の男がかがみ込んで彼女を見下ろしていた。彼女はゆっくり起き上がって男を見上げた。ふたりの顔が近づく。起き上がった彼女の身体から立ちのぼる熱が男を包んだ。
ふたりはしばらく言葉もなく見つめあった。
濡れて冷え始めた身体の奥に、ふっと温かい灯がともる。
「濡れるよ」
男が再び言った。
「あなたの方がずっと濡れてる・・」
男の髪は芯まで水を吸って、ぽたぽたと雫をたらしていた。前髪が落ちて左目を隠している。
彼女は突然はっとして立ち上がり、彼の顔に手を伸ばした。彼が少しおどろいた顔をする。彼女は右手の指先で、彼の左目にかかっている前髪をせわしない仕草でかき上げた。
「何?」
「あなたの眼・・」
彼女は手を彼の額に置いたまま、とまどったように答えた。
「眼?」
「なんだか今ふと・・・」
─ふと?何だったろう・・
 私は何を確かめようとしたのだろう・・・
彼女はきまり悪そうに手をおろして下を向いた。男の髪に、何のちゅうちょもなく触れた自分が不思議だった。
雨足はだんだんと強さを増していた。雷鳴がさっきより大きく聞こえる。
水平線の向こうに目をやると、時々はっきりと、線で描いたような雷光が見えた。
「ゆうべは・・ごめん」
「・・え」
彼女はいぶかしげな表情を浮かべて男を見上げた。
「会ったばかりの君にあんな・・ゆうべの俺はどうかしていた。すまない」
彼女の顔がゆがんだ。
「・・・それは・・・どういう意味」
胸にともった灯が、ふいに吹き込んだ風に吹き消され、急に肩を濡らす雨の冷たさがしみわたるように身体を冷やす。彼女は肩を抱いて小さく身震いした。
「意味?」
「ゆうべのことは遊びだから・・・忘れろ・・ってこと」
低くひびく彼女の声が、どうしようもない失言を吐いてしまったことを彼に思い知らせる。
「な・・にを」
「それともゆうべのことはほんの出来心で、私はあなたの遊びの相手にもならないってこと。数え切れないくらいたくさんいるあなたの・・!」
─奴がつきあった女の数は・・・・
彼女は姿の見えない女達の影に、臓腑が煮えるような嫉妬心が沸き立つのを感じていた。
思いがけない彼女の言葉に、彼の頭の芯がじんと痺れた。
「アランに聞いたのか・・」
彼は彼女の両腕をつかんで顔をのぞきこもうとした。彼女は身を固くして顔をそらした。彼の眉が曇る。
「女に・・自分からベッドに誘い込ませるなんてわけないことさ・・バカンスの宿で出会って、ろくに顔も見ないでやることやったらそれで終わりだ。パリで会っても知らん顔さ」
「やめて!! そんな話聞きたくない!!」
「遊びだったら君をあのまま帰したりしない!」
彼は彼女の腕をつかんだ手に力をこめた。
「じゃあ、なぜあやまるの・・」
彼女は彼の腕から逃れてよろめくように後ずさった。
「そんな大人のつきあいができる相手じゃなかったってわかって後悔した? なかったことにしてほしい?」
「後悔・・だって!?」
「ここで・・・ゆうべ同じ想いだったと思ったのは・・・私の思い上がり・・だったわけ。
ふふ・・まぬけな話・・」
取り返しがつかなくなる。まだ間に合う。瞳の奥に互いの本心を探るように、胸の奥の自分の想いを確かめるように、ふたりは視線を合わせた。
雨はとうにふたりの身体の芯までしみていた。
ごく薄手の白いシャツは、彼女の身体にぴたりと張りついて、雨にかすむシルエットは裸身のようであった。
胸元には、シャツの下の淡いラベンダー色のレースの薔薇模様が、それだけしか身につけていないのかと見まごうほどくっきりと浮かび上がっている。
容赦なくたたきつける雨で呼吸もままならない。彼女は唇をわずかに開いて、下着の透けて見える胸を上下させて息をついている。濡れて光る薔薇色の唇がかすかに開いて荒く息をつく様は、夜の彼女の姿をたやすく連想させた。
ちらと情欲が頭をもたげる。彼は視線をはずし、嫌悪に眉を寄せた。
「奴に聞いたろう。こんな男なんだ俺は・・。半端者さ。女をその気にさせるのがうまいだけの・・。口から出るのはでまかせばかり。生きがいもなければ希望もない。愛とか真実とか情熱とか・・そんなものとはまるきり無縁の・・」
─何を言ってるんだ俺は。どうぞお助けくださいと、彼女にすがってでもいるつもりか。
彼は下を向いてふっと笑った。
「こんな男は君のような人にふさわしくない・・。俺なんかに関わったらろくなことはない。だから深入りする前に・・」
「じゃあなぜ誘ったの!? 遊びじゃないなら何? ふさわしくないってどういうこと!!
そんなことを言うためにわざわざここへ来たわけ!?」
逢いたかった。声を聞きたかった。抱き合ってくちづけを交わしたかった。
それなのになぜ自分たちは今、雨に打たれてこんな話をしているのだろう。
違う・・こんな話をしたかったわけじゃない。言いたいことがあった。伝えなければならない言葉があった。
しかし、一度すれ違った言葉と言葉は、重ねれば重ねるほど想いとは遠くかけ離れた場所で暴れ回りふくれあがり互いを傷つけた。
「君のような人って・・あなた私の何を知ってるの? あなたがどんな人でも、知らない私はそんなこと! 傷つけたくないとでも言うつもり? ふさわしくないなんてあやまられる方がずっと傷つく!!」
彼女は泣いていた。
しかし、滝のように顔を洗う雨のせいで、彼女は自分が泣いていることに気づいていなかった。
─俺のせいで泣いているのか・・・君は・・
初めて会った時の、花のように微笑んでいた彼女の顔が浮かんだ。
─俺なんかと出会ってしまったばかりに・・・
雨はますます激しく、ゴーーっと音を立ててふたりのまわりの景色を灰色にかすませていた。声をはりあげて叫ばなければ、たちまち雨音に言葉はかき消される。
声を限りに叫んでいるのが、悲しみのせいなのか怒りのせいなのか雨のせいなのか、彼女にはわからなかった。
こんなに激して人に言葉をぶつけたことが、果たして今まで一度でもあっただろうか。
今の仕事を失いそうになった時でさえ彼女は何も言わなかった。根拠のない醜聞は、信じられない速さで学内に広まった。誰もが見たことのように噂を食事時の話のたねにした。自分の居場所にさえ彼女は執着を持ってはいなかった。
なくしたくないものなど何もなかった。
そんな自分が、今こんなにも必死につかんで離すまいとしているものは何なのだろう。拒まれても求めずにいられないこの想いはどこから来るのだろう。
彼女は自分の前に立つ男の姿を見た。その熱く悲しげな眼の色に見覚えがあった。
─失いたくない、このひとだけは・・・!
「ふさわしいとかふさわしくないとか、そんなことは私が決めることであなたが決めることじゃない!!
勝手にひとりで答えを出さないで!!」
それは彼女の悲鳴だったろうか、懇願だったろうか。
遠く遙かな甘い記憶の肌触りが、ほんの一瞬彼をかすめた。全身全霊で彼を求める最愛の女の声とまなざし。差し出される手を取った瞬間、奔流となって押し寄せる愛おしさ・・・・・
─離したくない・・失いたくない・・・このまま君を連れ去って俺だけのものにしたい・・・!
 ・・・・・・しかし・・それはできない・・俺は・・・・・・・・
彼は、手を伸ばせばかろうじて届く距離を置いて立つ彼女の姿を見つめた。
どんなにたたいても開かない扉の前で、彼女は為すすべをなくして立ち尽くしていた。
─ああ・・そんなに濡れて・・そんな悲しい眼をして・・・
 まるでふたりして、暗い海の底にいるみたいだ・・・・・
彼女が、足元に落としていた視線をふとあげて彼を見上げた。
─君が濡れていたいなら・・俺も濡れていよう。せめて今だけは・・君の側で・・・・
 それがたとえ・・・許されないことだとしても。

「許されざる恋・・か・・」

─そうだ・・なぜ気づかなかったろうか。許されないのだ。俺がこのひとを求めることは・・・
いつか君は出会うだろう。与えられた生の限りをかけた愛を捧げてくれる男と。あの日記の隊長の恋人のような男と。
愛と真実と情熱と・・・命がけの純愛・・・君を真に幸せにできる男。
・・・そんな奴が君にはお似合いだ・・・・もう孤独に泣く夜は君には訪れない。
彼は哀しげに笑って目を伏せた。
─しかし・・それは俺じゃない・・・
そう思った刹那、彼の胸を焼くような激痛が走った。はっとして彼は顔を上げた。
「あなたは・・優しすぎる・・・」
小さくつぶやいたはずの彼女のその言葉が、なぜかはっきりと彼の耳に届き、彼の胸を刺した。
「そうじゃない・・違う・・・俺は・・・・・」

  俺はいつもおまえを傷つける。光を闇に引きずり込む・・・

  おまえが私を傷つけたことなど一度もない・・・
  傷ついたのはおまえの方だ・・・

  おまえのいない日々が俺を変えた。いつか俺はおまえを不幸にする・・・

  変わったのはおまえだけではない。
  それとも変わらぬと誓った愛まで変わってしまったというのか・・・・

  俺の愛は変わらない。どれだけ時が巡ろうとも・・

  ならば応えてくれ。何故拒む。私がおまえを呼ぶ声が聞こえないか・・・・

  人を傷つけることで生きる重さをまぎらわせてきた男だ。
  愛せるのか・・・そんな男を・・・・・・

  愛している・・・おまえがどんな場所にいようとも・・・・
  だからおまえも引き上げてくれ。この寂寥の海底から私を・・アンドレ・・

  ・・・・・・オスカル・・・・・・・・・・

雷鳴はだんだんと大きく近くなっていた。
どうしても思い出せない気がかりなことを思い出そうとしている時のもどかしさに似たいらだちが胸をかきむしる。突き上げる切なさを伝える言葉を見つけられないまま、ふたりは苦しげに視線を絡み合わせた。

  失いたくない もう二度と・・・・!

「たとえあなたが悪魔だとしても私は・・」
その時近くで、雷の落ちるごう音がひびきわたった。
「私はあなたの側にいたい・・・!! あなたしか・・愛せない・・・!!!」
彼女はそう叫んで、くるりときびすを返して走り去った。しかしその叫びは落雷の音にかき消された。
「オスカル!!」
のどを焼いて彼女の名を叫ぶ彼の声もまた、もう彼女の耳には届かなかった。







つづく