瞳を閉じてもう一度 <8>



ドアを開けたアランの胸ぐらを、アンドレはいきなりぐいとつかんで部屋の中へ押し込んだ。
「おまえ、彼女に何を言った」
「おい何だよおまえ、びしょ濡れじゃ・・」
「俺が聞いていることに答えろ」
「こういう乱暴なことをしていても声は静かなんだな。このギャップにしびれるんだろうな、女どもは」
アンドレは眉をつり上げた。
「くだらない冗談を言ってるひまがあったら、さっさと答えろ!!」
「何のことだ」
「とぼけるな!!」
アランはアンドレの手を払って乱れた胸元をなおしながら、クローゼットを開けてタオルを取り出した。
「彼女の質問に答えただけだ。おまえに怒鳴られる覚えはない。あーあ、オレまで濡れちまった」
「・・彼女の質問?」
「おまえの話を聞かせてくれと腕をつかんで懇願された」
アランはバスタオルをアンドレに投げながら言った。
「彼女が?」
「そうさ。必死な顔でオレのここを・・。アザになるかと思ったよ。ありゃ、言わなきゃ絶対離してはもらえなかったね」
「・・それで・・何を」
「何もかもさ。おまえがあのひとに隠したがっていることも全部な」
「おまえ!」
再びつかみかかろうとするアンドレを、アランは両手をあげて制止した。
「いいからまず髪をふけ。部屋中水びたしになる。オレを殴るのはそれからにしてくれ。シャワー使うか」
「はぐらかすな!!」
アランはふーと声に出してため息をついた。
「おまえでも熱くなることがあるんだな。怒鳴ったことなんてなかったろう、今まで。
どうした、おまえらしくもない」
アンドレははっとしてアランを見た。
「さては骨の髄まで彼女にやられたか。ま、わからんでもないが。あの人なら」
アンドレは、つきものが落ちたように傍らの椅子に腰を落とした。
「彼女と何かあったのか」
肯定するでも否定するでもなく、アンドレはひじをついた手を額にあてて小さく首を横に振った。
「夕立じゃ流せないぞ。おまえの胸につかえているものは・・。なーんてな」
アランは笑ってウィンクすると、アンドレが手に持ったままのタオルを取り上げ彼の頭にばさりとかぶせた。
「とにかく髪くらいふけ。風邪ひくぞ」
アランは景色のすっかりかすんだ外の様子を腰を折ってうかがいながら、相棒が話し始めるのを待った。雨足は衰えるどころか、ますます強くなっていた。急に部屋の温度が下がり、ひやりとした空気が肌を撫でる。
「・・すまない・・」
「ん?」
「まったくだ・・おまえが怒鳴られるすじあいはない。彼女に泣かれてすっかり動揺してしまった。おまえが嘘を言ったわけじゃない。やつあたりもいいとこだ」
「もう泣かせたのか、このろくでなし。ずいぶん急展開なんだな。もうそんなとこまで行ってるのか」
「女に泣かれてもうんざりするだけだった・・。それがこのざまだ。進展どころか・・」
「好きな女ができて、急に自分のしてきたことを後悔したな。違うか?」
窓ぎわに立ち外を見ていたアランは振り返った。
「・・まあ・・そういうところだ・・」
「だいたいぜいたくなんだよ。ふざけんなっての。あんな美人に想われて、いったい何が不足なんだ。どうなりゃ満足なんだ。ん?
オレを見ろ。たまにはそういうことで気をもんでみたいよ」
「ぜいたくか・・そうだな・・」
「おまえ片想いなんてしたことないんだろう。おまえのその眼で10秒見つめられて落ちない女はいないからな」
「・・・・いや」
「え・・?」
「俺は知ってる・・。長い・・長い片想いだ・・。歓喜と絶望が交互に顔を出す・・。時に込み上げるものを抑えきれずに・・・」
「・・・アンドレ?・・」
「あ・・いや・・・」
アンドレは戸惑ったように目を泳がせた。
「何を・・俺・・は・・」
─そうだアンドレ。思い出せ。長い長い片想いだったはずだ・・・。
 身を焦がして想い続けたそのひとが、今おまえを求めて泣いているんだろう。
「ま、いいさ。おまえにも一つくらい片恋の甘く切ない思い出があったって、まあ不思議はない。おまえだって生まれたときからタラシだったわけじゃないんだろうしな」
「嫌みはかんべんしてくれ。充分まいってる」
「は・・ん、なるほど。オレが言ってもどこ吹く風だが、彼女にやられるとさすがにこたえる、ってわけか」
力なくアンドレは笑った。
「それにしても・・おまえが取り乱した姿を初めて見たよ。やっと人間らしくなったか」
「人間らしく? ふふん」
「これでやっと、おまえはおまえに生まれ変われる。彼女のおかげだな」
髪をふこうとした手を止めて、アンドレは目を見張ってアランに顔を向けた。
「自分の想いに素直になれ。おまえがするべきことはそれだけだ。過ぎたことでぐだぐだ言って彼女を悲しませるな」
タオルに半分隠れた顔をゆがめてアンドレは苦笑した。
「全部お見通しか・・おまえにはかなわないな」
アランは両手を広げて、大げさにため息をついた。
「やれやれやっぱりそうか。軟らかすぎるかと思うと妙なところで硬すぎるんだ、おまえって奴は」
「・・・初めて愛しいと思ったひとだ」
「ああ・・」
─おまえがそう思える相手はこの世にたったひとりだ。
「幸せになって欲しい」
「そりゃそうだな」
─そして、そのひとを幸せにできる男もおまえだけだ・・・。
「しかし・・彼女が雨に打たれて泣き叫んでいるのは誰のせいだ。遊びなのか、なぜ誘ったと問われて何も答えられなかった。俺が彼女を愛することが彼女を苦しめることでしかないのなら俺は・・」
「バッカ野郎・・」
「え」
「アホか、おまえは。惚れた相手のことを知りたくなるのは当然だし、知れば妬きもする。彼女が泣いて怒ったのは、ぞっこん惚れた男がそうやって煮え切らないからだろうが。
ゆうべ一晩中星を見てたって間に何があったか知らないが、その時おまえたちは互いの想いを確認しあったんじゃないのか。何なんだ今更。レシート持って『すみません、ゆうべ一晩考えましたがやっぱり返品します』ってなもんだよ。そんなこと言われて怒らない方がどうかしてる」
「そんなつもりはない!」
「おまえがどう思おうと、おまえのやってることはそういうことなんだよ。
おまえが彼女を愛することが彼女を苦しめるだと? それが言い訳か? ばかな・・。彼女を一番苦しめることが何なのか、わからないのかおまえは。
彼女をこれ以上泣かせたくないんだろう。だったらしっかり受け止めてやれ」
黙り込んでしまったアンドレにアランはいたわるような眼差しを向けた。少し言い過ぎたか・・。
「いやはや、手だれの現世のカサノヴァがこんな初歩的な恋のABCもわからなくなるとは。はは、こりゃかなりイカレてる。重症だな。深刻な状況だぞ、これは。緊急入院が必要だ。もっとも効くクスリはないかもしれないがな」
沈鬱な表情のままのアンドレに、アランはいつもの調子で話しかけた。普段ならこれで空気が変わる。
しかし相棒はいつものように笑顔を返しては来ない。投げかけたジョークが受け手を見つけられず戸惑って宙に浮いている。黙ったままの相棒を、アランは、まったく・・とつぶやいて見下ろした。
激しい雨音がふたりの間に落ちてくる。地を転がるような雷音が響いて部屋の灯りがまたたくように一瞬消えた。
「彼女を愛して苦しんでるのはおまえの方じゃないか・・」
アランは相棒の肩をつかんだ。
「おまえは自分が幸せになることに臆病すぎる。欲しいものは欲しいと言えばいい。ようやっと愛しいと思えるひとに出会えたことをどうして素直に喜べないんだ。何を恐れてる。惚れたんだろうが、心底、彼女に。だったら答えはひとつだ。簡単なことだろう」
「簡単・・。そうだな・・俺が俺でなければな・・」
アンドレは、ジーンズの裾から滴り落ちた水が床に作ったしみに目をやった。
「傷つけることを恐れているのか・・」
アランもアンドレの視線の先に目をやった。無垢の床材にしみこんだ雨水はゆっくりとまた空気に吸い上げられ、しみの輪郭だけを残して消え始めていた。
「傷つけあわずに愛しあう事なんてできやしないさ。いいじゃないか。泣かせても苦しませても。回り道しなければ手にすることのできないものがあるだろう。それがオレたちの<ル・デトゥール>のテーマじゃなかったっけか、先輩?」
アンドレがゆっくりと顔を上げた。
「求めることは許されない、愛すればこそ。そう思った。人の心を弄(もてあそ)んできた俺が、あんなに真っ直ぐで清廉な想いを向けられていいはずがないとも思った」
「うん・・」
「突き放そうとした。しかしそんなことは・・到底できそうもない」
「ばかなことを・・そりゃ泣かれるよ」
「いや、もしかしたら・・彼女を思うふりをして・・開き直って彼女の想いを試したのかもしれない。つくづく卑劣な男さ。
期待しなければ絶望もないが・・一度手にしたものを失ったら・・なんていじましく考えていたのかもしれない。情けない話だが」
「彼女は去らないよ。おまえのもとを決して。何があっても」
「ああ・・そうかもしれない。まぶしいくらいまっすぐなひとだ・・。
彼女に側にいて欲しいと切望しているのは、むしろ俺の方かもしれない」
アンドレはタオルをはずして首にかけ、目を伏せたままごく微かな笑みを浮かべた。
「後悔も傷も失敗も、そんなものはおまえたちには何の障害にもなりはしないさ。むしろ絆はより深まる・・。
おまえは自分をとことん追いつめることを恐れない男だ。どん底に落ちても決して逃げ出さない熱さ、ゆっくりと長い時を焦れることなく待てる大きさ、あらゆるものを包み込んで赦(ゆる)す強さ。それがおまえだよ。どうしたってかなわなかった・・・」
「・・アラン? おまえ・・それは・・・」
「心配するな。今までのおまえはおまえじゃない。おまえが誰も愛せなかったのは、おまえが彼女しか愛せないからさ」
アンドレがぴくりと肩をゆらした。相棒を目の端に見てアランは目を伏せた。
「・・他の奴じゃだめなんだよ・・・。あのひともおまえもな」
─ふたりで一つの魂を持つ・・おまえと隊長は離れては生きられない・・・
永遠の別れの前日、死にに行くようなものだと懸命に止めようとした自分たちに、こぶしを握りしめて『笑いたければ笑え・・』と肩を震わせていたこの男の姿がふいに浮かんだ。愛してはいけないひとを、その全存在をかけて深く静かに愛し抜いた男。
─出来ないことは出来ないと、叶わないものは叶わないと、知ることが、諦めることが大人になるということなのだと、多かれ少なかれ大抵の人間は思い、そしてそんな風に生きている。オレだってそうだった。もっともオレはまだ“ケツの青いガキ”だったから、諦めきれず悪あがきしてはいたが。
しかしおまえは何かが違っていた。
そんな“あたりまえ”を望めない人生を、幼い頃から歩んできたことがおまえをそんな男にしたのか・・。そして隊長もまた・・。運命、とは、きっとこういうもののことをいうのだろうと、ふたりを痛々しい思いで見つめた日もあったが。おまえも隊長も、背負ったものの重みを恨むでもなく、つぶされるでも流されるでもなく、むしろ誰より自由に見えた。それは不思議な矛盾だった。
目ざわりだったのは、ちょっかいを出さずにいられなかったのは、そんなおまえの・・ふたりの在りように、かき乱される胸の内を支えきれない若さ故だったろうか。
おまえがまぶしかった。そのゆるぎない強さはどこから・・不思議だった。
おまえと別れて何年も経って、おまえの年をすっかり追い越してしまった頃、やっと少しわかりかけた気がした。おまえと酒を酌み交わしながら話をしたくなった。おまえは微笑みながら黙ってオレの話に耳を傾けるだろう。言葉少なに歩むべき道を探すオレの背を押してくれただろう。
その時初めてオレは、おまえというかけがえのない友を永遠に失ったことを実感した。
パリの粗末な部屋のベッドでひとり男泣きに泣いた夜の自分の姿がありありと目に浮かび、アランの胸を切なさが突き上げた。
─しかし、オレはおまえを永久に失ったわけではなかった。あの頃と違ってしまったおまえではあったが、こうしてまた出会い、そしてまたおまえも隊長と・・・
とらわれそうになる遠い日の記憶を振りきるようにアランはくるりと背を向け、両手をぐいと上げて頭の後ろにまわした。
「あーあーばかばかしい。やってられねえ。好きあってるならさっさとくっつけばいいんだ。おまえたちはいつもそうだ。どうでもいいことでぐずぐずと・・。まったく見ちゃいられねえ。あの時だって・・」
「あの時? いつも、って・・」
「ああ何でもない。とにかくおまえはさっさと帰って熱ーいシャワーでも浴びて、バカな考えは排水口に流しちまうことだな。だいたい例の資料はどうした。その様子じゃ・・」
「ああ、そうだった。フロントに預けたままだ・・」
「おいおい、しっかりしてくれよ。おまえの仕事のフォローはオレには無理だからな」
「ああ、わかってるよ」
「まあ、そうだな。少なくともこれで、夜中に女からの電話でたたき起こされることもなくなるわけだ。恋に身を焦がす男にやつあたりされることはあってもな」
アランのおどけた口調につられて、アンドレも笑顔を浮かべた。
「オスカルは・・」
相棒が彼女の名を口にするのをアランは初めて聞いた。思わずびくりと身体が反応する。
「ずっと・・長い・・長い間・・逢える日を待っていたひとのような・・探し続けていたひとのような・・そんな気を俺に起こさせる」
「・・・」
「やっと出逢えた・・・俺の・・運命のひと・・・」
「!」
「なぜだかそう思える」
「・・ああ」
「彼女といると、出会う前からずっと彼女を愛し続けていたような気さえする。
ふふ・・ばかげた幻想だな・・知りもしない女を愛し続けているなんて」
「アンドレ・・」
巡り巡る時のなかで、終わらない、変わらない、そんな・・。永遠というものがあるならば・・・。ひとの想いとはそんなにも・・命尽きてさえ尚・・・。
アランはふいに目の前の男を抱きしめたくなった。抱きしめて大声で泣きたかったのかもしれない。それとも、この大バカ野郎と殴り倒したかったろうか。
「ふふ・・何を言ってるんだろうな・・俺は・・」
「いや・・・あるかもしれない。そんなことも。何しろこの世は謎だらけだ。信じられないようなことが簡単に起きる」
ふたりは目を合わせた。
ふとその時アンドレは、微笑っているのにどこか哀しげな色をたたえるアランの瞳に見覚えがあるような気がした。身体の奥底に濃く染みついて消えないのに、ふだんは決して姿を現さない昔見た夢のような、それはそんな記憶であった。
記憶の奥を探ろうとした時、アランが何かを隠すように目を伏せた。
「運命のひと・・・か・・そうか・・・」
「ふん。可笑しいだろう。まったく自分の口から出た言葉とは思えないが。・・そうとしか・・言いようがない・・」
「ああ」
「どうやらおまえの説教ともおさらばできそうだ」
「年上のおまえに説教なんかしねえよ、オレは」
「そうか?」
「そうだよ」
ふたりは声なく笑み交わした。
「俺が俺に生まれ変われる・・か。そうかもしれない、もしかしたら」
「いや・・・・ずっとおまえはおまえのままだった・・だからこそ・・」
「・・え?」
「ああ、いや・・。さあもう帰ってさっさとシャワーを浴びてこい。男同士でくだまいててもしょうがねえや。
しょうもないこと考えて、これ以上彼女を泣かせるなよ。オレがもらっちまうぞ。花のパリでもなかなかお目にかかれねえ金星(きんぼし)だからな」
「ふふ・・」
「もう二度と泣かせるな。ここで約束しろ」
「おまえにか?」
「そうだ。オレに、だ」
笑みを浮かべて見上げたアランは、いつになく真剣な面持ちだった。さっき探ろうとして手をさしこんだ記憶の奥の何かがうごめいて、アンドレに微かなめまいを感じさせた。
「・・ああ・・約束・・するよ」
アランに気圧されるようにアンドレは答えた。アランが小さく、しかし彼の答えを胸に刻むようにうなずいた。
「その言葉、忘れるなよ。生涯な」
「坊さんみたいなことを言う。まるで結婚式だな」
アンドレはいつものように軽く返したつもりだったが、結婚式か・・、と小さくつぶやいて眉を寄せたアランの表情は変わらなかった。
石畳に身体を投げ出し、声を殺していつまでも泣いていたひとの姿が、その傍らで為すすべもなく立ち尽くす自分の姿が、アランの脳裏に浮かんで消えた。
「・・おまえがもし約束を破ったらその時は・・・・・」
声がいつもと違う。胸が波立つ。その理由を知りたくて、アンドレは身体を起こして相棒の顔を見返した。
しばらくふたりは黙ったまま目を合わせていた。
─初めてじゃない・・アランのこの顔・・おまえは・・・
アランがふっと笑って視線をそらした。
さっきの思い詰めたような表情は何だったのだろう。しかし、そこにその真意を探ろうにも、アランの顔からはもうすっかりそんな表情は消えていた。
─気のせいか・・いつもと違うのは俺の方だった・・
アンドレは頬に落ちた髪に指を入れた。
「その時は覚悟しろよ。今度こそ一晩中、たっぷり説教かましてやるからな」
笑いを含んだ声で、いつものようにたたく軽口。たいていはそれは、沈み込みかけたアンドレを引きずり上げるためのものだった。気づかぬうちに何度も救われた。
アンドレは改めてそのことに思い至り、いつになくやわらかな思いで相棒のぶっきらぼうな物言いに感謝した。かけがえのない相棒だった。
「すまなかったな。・・・ありがとう・・アラン」
アンドレは笑いながらバスタオルをアランに投げた。
「お、珍しくしおらしいこと言うじゃねえか。夕立にあたって、多少はひねくれた根性がまともになったか」
「おまえもあたってきたらどうだ。アクがぬけるぞ」
アンドレは笑いながら立ち上がった。
「うるせえ。大きなお世話だ。アクなんかねえよオレは。こんな爽やかな青年をつかまえて」
「ははは、これは失礼」
その時窓から光が差し込み、ふたりは同時に外に目を向けた。激しい夕立を降らせた気まぐれな夏の雲はすっかり姿を消し、浜にはまた熱い日射しが戻っていた。
「・・答えは出たんだな」
独り言のようにアランが言った。アンドレは窓に目を向けたまま黙って微笑った。
「早く仲直りしろよバカヤロー!」
そっぽを向いたまま、アランがやたらと大声を張り上げていった。
アンドレは空に目を向けた。目を射る光が心地良かった。彼は目を細めて、真っ直ぐに太陽を見上げた。



シャワーの吹き出し口に顔を向けた時のどを突いて出た嗚咽(おえつ)で、初めて彼女は自分が泣いていたことに気づいた。身体を打つ水しぶきの音が、まるで泣き声のようにバスルームにひびいた。
閉じた目の奥に、雨にかすむ彼の悲しげな瞳が浮かぶ。
─悲しませて・・傷つけた・・・。私に会いに来てくれた人を・・。
 あの雨の中を・・・・あんなに濡れて・・・・・。
深い後悔があふれるようにこみ上げてのどを突く。
カーテンも引かずに彼女は水栓を全開にしていた。勢いよく吹き出す湯は肌を痛いほど打ち、みるみるバスルームの床を水浸しにした。
─危険な香りと哀しいまなざしをあわせもつ男・・・
ゆうべの彼の熱情を思い起こして、彼女は仰向いたまま肩と腰を強く抱いた。
─嫉妬したのだ私は・・・彼の肌に触れた女たちに、あの瞳を見つめ返した女たちに。
 あのくちづけに吐息をもらし、あの胸に頬を寄せ・・
 あの唇が・・あの指が・・・・・・・・
彼女は頭を強くふってシャワーの湯を熱くした。バスルームが湯気で白くかすむ。
─ふん・・いい年をして小娘みたいに・・
無理に声を立てて彼女は笑ってみた。しかしその笑い声はすぐに小さくなり水音に吸い込まれて消えた。あとには濃い後悔だけが漂うように残った。
─魂の片割れを失って・・深い喪失を抱えて彼は生きているのだと・・あの人は、アランは言っていた。
 誰だってもがきながら生きている、甘えるなと人は言うかもしれない。
 でも私にはわかる。
 耐え難い寂寥。身体の奥の埋められない深い空洞。執拗に全身をとらえる憂鬱。誰と居ても消えない孤独。
 私が“遊び”となじったことが、それを埋めようとする彼の空しい悪あがきだったとしても、
 どうしてそれを責めることなどできようか・・・。
 私とて似たようなものだ。
 それなのにあんな・・追い打ちをかけるような言い草・・。ひどい女だ。
 ひとの生き方をとやかく言える人間か、私が。
 彼を閉ざしてしまったのは、他でもない、この私だ。
夕べはどうかしていたと言われて逆上してしまった・・。
夢のような一夜だった。
 干からびてひび割れた心が潤い、凍りついていた胸が熱く燃えた。
 生まれて初めて感じた穏やかな安堵、そして狂おしいまでの熱情。
 それがみんな嘘だったと言われたような気がして・・。
 遊びなどでは決してないことは、ゆうべの彼の瞳を見ていればわかること。
 愛したからこそ傷つけることを彼は恐れたのだと・・どこかで気づいていた・・。
 本心ではないと信じたい。私を突き放そうとしていたのは・・。だから、
 彼の胸の奥、一番深いところにある想いを知りたかった・・。
 もしかしたら・・開き直って追いつめて、彼が後ろめたく思っていることを直截に責めれば、
 いっそあっさりと白旗を揚げておちてくれるとでも・・浅はかにも思ったのだろうか。
 算段違い・・ってわけか・・・。
 所詮私に、恋の駆け引きなどできるわけがない。
 ますます追いつめたあげくに私が先に耐えきれず逃げ帰ってしまうなんて・・。
 まったく・・どうしようもない・・・・。
 最低だ・・・。
うつむいた目に、頼りなげに立つ女の白い足がうつった。
─・・ただ一言でよかったのに。彼に告げる言葉は・・。
彼女は肩をゆらして大きくため息をついた。
─自分の思いに素直に向き合えない・・。私はいつも・・。母を喪ったとき、あんなに悔いたのに。
 こうしてまた、同じことをくり返している。
 本当は胸に飛びこみたいくせに、それができずに・・つっかかって、駄々をこねて困らせて、傷つけて。
 まるでこどもだ。泣いてわめいて甘えているだけの・・。
 キスしてというかわりに悪態をつく。抱きしめてというかわりにそっぽを向いて、
 愛してというかわりに大嫌いと叫んだ。
髪を伝って落ちる涙のような水滴が、次々と落ちて排水口に吸い込まれていく様を彼女はしばらく見つめていた。 
─悲しい眼をしたあのひとの背に腕をまわして、この胸に彼を抱きしめればよかった。
 もう自分を責めないで苦しまないで。あなたはもうひとりじゃない。私がいるから、と。
 あなたの心配は杞憂だと、私はそんなに弱い女じゃない、と。
 そうだ、私から・・・そうすべきだった。
 待っていたって扉は開きはしない。
 散々傷つけて、やっと今頃気づくなんて・・・。
うつむいたまま腕を伸ばして、彼女はシャワーの栓をしぼった。
「・・・バカみたい。・・バカだ私は・・」
彼女はろくに髪もふかず、バスローブをはおってベッドに飛びこんだ。
「お母さん・・」
永遠の別れの後初めて彼女は母に呼びかけた。
「私・・どうしたらいい・・・」
彼女の抱えていた枕が、温かくやわらかな母のひざに変わった。なつかしい香りが彼女を抱きしめる。
『どうやらやっと出逢えたようね、あなたの黒き瞳のナイトに。
 何を思い惑うことがあるというの。
 あなたらしく真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに飛び込んでいけばいいのよ。
 その胸の想いに忠実に。
 よく耳を澄まして。彼があなたを呼ぶ声が聞こえるでしょう。
 あなたが彼を求めるように、彼もあなたを求めている。熱く。強く。深く。
 あなたは、もうひとりじゃない』
彼女は目を閉じ、微笑んでうなずいた。
掛布を頭まで引き上げてひざを抱え小さく彼の名を呼ぶと、胸のしこりがうそのように散って消えた。
─魂の片割れを探してさまよう・・私によく似た寂しいひと・・。
 熱い瞳の・・初めて会ったのになつかしいひと・・・。
 あなたを見た瞬間、たぶん私は恋におちた。
 傷つくことなどなんだろう。あなたの側にいられるのなら。
あのくちづけを永遠に与えられるのなら。
 私こそがあなたの探し求める魂の片割れ。私があなたの暗い淵に降り注ぐ慈雨になる。
 だからどうか・・・心を開いて・・・。
 私はあなたの・・運命の恋人・・・。
いつしか雨に濡れて心地よくだるくなった身体が、沈み込むように彼女を眠らせていた。



抱き合うふたりを照らしたゆうべの細い月は、今夜いっそう細く、糸のようになって暗い空にぶら下がっていた。
その月の下の、ゆうべと同じ場所に、彼はひとり腰かけて空を見上げていた。
彼女に届けるはずの日記は、フロントに預けたままだった。
「一緒に読むどころか、届けることさえできやしない」
彼は笑って、手元に目を落とした。
閉じたまぶたの奥に、雨にかすむ彼女の悲しげな瞳が浮かぶ。
─悲しませて、傷つけた。ただ一言でよかったのだ。彼女に告げる言葉は・・
昨日の朝、彼女とこの町のホテルで会うためにパリのアパルトマンを出たのが、遠い日のことのように思えた。

  ・・・どうしてあやまるのだ。
  おまえが私にあやまらなければならないことなど、何一つない
  あやまらねばならないのは、私の方だ・・・・・・

─誰だったろう。俺にそう言ったのは。
ふとよみがえった女の声は、彼女の声によく似ていた。
─俺はいつも女たちにあやまってばかりいたような気がする。
 ごめん、と言うと、女たちは皆、悲しそうに笑って去っていった。
 行き場のない焦燥を、差し出されるもので埋めようとした。女はそれを愛と勘違いする。
 肌を合わせるのは多くても三度まで。それ以上は重くなる。
 頃合いをみて女に自分から別れを切り出させる。そして俺があやまる。
 それでよかった。あとくされなく何もかもが終わった。
 その繰り返しだった。
 名前も、顔さえ思い出せない幾人もの女たち。街ですれ違っても気づかないだろう。
 不実であったことをわびていたのか、想いを返せないことをわびていたのか。
 許されたいと願ったわけでもなく、悪いと思ったわけでもなく、
 それはただの合図でしかなかった。これ以上話すことは何もない、消えてくれ、という・・。

『私はあなたの遊び相手にもならないってこと?
 数え切れないほどたくさんいるあなたの・・・・・』

─愛してもいない女を抱いて、そして捨てて。
 遊び・・・そうかもしれない。趣味の悪い遊びだ。まともな人間のすることじゃない。
彼を通り過ぎ去っていった女たちの悲しみに、自分の仕打ちに、彼は初めて思いを寄せ胸を傷めた。人を愛することを知って初めて思い至る、それは遅すぎる悔いであった。
せめて、そのことに気づかせてくれた真に愛する人だけは、もう決して悲しませてはならないのだと彼は思った。それが、今まで人を傷つけ続けてきた自分にできる唯一の償いであり、希望であり人生であるのだと今は思えた。
そこにはなくした夢があると。
─たぶん、彼女に初めて会った瞬間、俺は恋におちた。
 手を伸ばして髪を解いて、こぼれ落ちる髪に指を絡ませたかった。
 細い腰を引き寄せて、薔薇の唇を奪いたかった。
 君が笑うのを見たくて冗談を言った。俺を見つめる瞳に胸がときめいた。
 ずっとあのまま君を見つめていたかった。
 そんな自分が可笑しかった。
 けれど、
 こんな日が来ることを俺は、ずっと前から予感していたような気もした。
ゆうべ彼女がいた場所、彼の左隣の岩肌に、彼女の温もりを探すように彼は手を伸ばした。
─この胸の想いのままに彼女をこの腕に受け止めて、
 命尽きるその日まで側にいてくれと、
 彼女に求めることが許されるのだろうか、本当に。
 俺と生きてくれと、後悔はさせない、幸せにする・・と、
 告げることが許されるのだろうか。
 求めるものを何も持たず生きてきた、今まで誰も愛せなかったこの俺に。

『ふさわしいとかふさわしくないとか
 そんなことは私が決めることであなたが決めることじゃない!!』

─オスカル・・・俺の闇を照らす光。俺の運命の恋人よ。
 こんな俺でも君は求めてくれるのか。そんなにも真っ直ぐに。
 もしほんとうに共に生きることが許されるなら・・
 夢を見させてくれ。とどまることを知らぬ人の世に、変わらぬものがあると。
 君となら・・・
彼の瞳の裏に映る彼女が微笑んだ。彼も笑みを浮かべて再び夜空に目をやった。
「すごいな・・」
パリの空を見慣れた目には、まるで空全体が銀河のように思えた。
「世の中は謎だらけ、か。まったくだ。これがパリと同じ空とはとても信じられない」
ひとりごとをつぶやきながら、彼は岩に寝ころび目を閉じた。
─見ているつもりでも見えていないものがある・・・。
「ふふ・・やっぱりここにいた」
声に目を開けた彼は驚いて立ち上がった。彼女が小首をかしげて微笑んでいた。




つづく