瞳を閉じてもう一度 <9>




「オスカル! 君・・」
「怖い顔」
彼女は肩をすくめた。
「こんな時間にひとりでこんなところに! 危ないじゃないか!」
「ひとりよりふたりのほうが危険、てこともあるけど?」
悪戯っぽい上目遣いでそう言ったあと、彼女は足元に視線を落とした。
「・・・少しはまだ私のこと・・気にしてくれるんだ・・」
彼女は髪を風になびかせていた。初めての約束の夜、彼の願いに応えてはずしたピンは、あれからずっと彼女の部屋の鏡台の上に置かれたまま出番がなかった。
彼女のその姿が、控えめなメッセージを彼に伝えている。彼女の髪を揺らす風が、彼女の香りを含んで彼の頬を撫でて過ぎた。
「・・あたりまえじゃないか・・・」
絡んだ視線をふりほどくように、彼女は横を向いて闇に沈む海に目をやった。
「警告を無視して、深入りしちゃまずい男をわざわざ探して夜更けにこんな所に来るなんて・・私もあなたと一緒ね。どうかしてる」
返したのは、微かな甘えを含んだ皮肉。
甘えるのも恋の駆け引きも下手な私にしては、まあ上出来かな。少し困ったように笑う彼の気配に、彼女は微かに唇に笑みを浮かべた。
「それにしても」
彼女は腕を組んで彼に視線を戻した。
「私の足音にも気づかないなんて。よほど重大な考え事か、それとも何か悩み事でも? 私でよければ相談に乗・・」
言葉の途中で彼は彼女の手首に腕を伸ばした。組んでいた腕が、はらりとほどける。あっという間もなく彼の腕の中に抱きとられて彼女は息をのんだ。
忘れていた。危険な男なのだこのひとは。優位に立っていたつもりがたちまち形勢を逆転させられた。始めから素直に謝っていればよかった・・。こうなることを期待していたはずが、少し怖くなって彼女は彼の顔を見上げた。
「その通りさ。じゃあ俺の相談に乗ってくれ。夕立の中に俺を置き去りにして逃げていったシンデレラのことが、ずっと頭から離れない。どうしたらいい?」
彼の視線の熱に耐えきれず彼女は顔を伏せた。
「・・さっきは・・ごめんなさい私・・あなたにひどいこと・・・」
「君にひどいことを言われた覚えはないよ。あやまるのは俺の方だ」
「でも!」
「あんなに泣かせて・・まだ目が少しはれてる。ひどい男だな・・ごめん」
「それは私が・・」
開きかけた彼女の唇に、彼は人差し指をそっと押しあてた。
「・・もういい。そうだろう? だからここへ来た。危険を承知で」
眉を上げて軽く笑い顔になった彼に、彼女も思わず笑みを返す。ふたりの間にわずかに残っていた緊張がふわりとゆるんだ。
「うれしいよ。もう・・・逢ってくれないかと思った・・」
彼の彼女を抱く腕に力がこもる。胸も腰も、脚までも、彼の身体にぴたりと押しつけられて身動きできない。
彼女がうめきとも吐息ともつかないかすかな声をあげた。
「俺に・・・逢いに来たんだろう。それが君の答え。そう思っていいのかな」
彼女は小さくうなずいた。そう、もういいのだ。想いのまま在ればただそれだけで。
彼女を見つめる黒い瞳が静かに微笑む。それだけでもう、膝がくずおれそうな陶酔に身体がさらわれそうになる。
彼はずっと低く静かにささやいていた。耳元に唇を寄せられた者だけが聞き取ることのできる吐息のようなさ
さやき。重ねられる言葉の数だけ陶酔が深くなる。その憎らしい唇に、自分から唇を押しつけたくなる。
「俺の眼を見て」
身体を撫であげるような彼の声。
ようやっと見上げた彼の顔の向こうに、今夜も細い月が見えた。
「いいんだな。どうなっても知らないぞ」
風が彼女の前髪を吹き上げる。彼は首を折って彼女の額に自分の額を押しあてた。近づいた唇と唇が同時に笑みを浮かべた。
「・・望むところ・・・」
彼の鼻筋が頬を撫でていた。かすれた声で彼女は答えた。
「・・オスカル・・」
顔を上げて彼女の瞳をのぞきこんでいた彼の眼が、ゆっくりと彼女の唇に視線を移す。彼の長いまつげが頬に落とす影を見ながら、彼女は瞳を閉じた。
─伝えたかったのは、ただ一言・・・
「・・愛してる・・・」
唇にかかる熱い吐息とともにこぼれた彼の言葉が、重い扉に手をかける。扉の奥にのぞく遠い夜の記憶のかけら。
遅い初夏の夜の、月明かりに浮かびあがる掃き出し窓のシルエット。夜風に揺れるカーテンのすれる音。ひんやりとした空気が、庭の土と植物たちの呼吸する匂いを含んで、しっとりと部屋に流れこんで・・。
ここは、夜の浜辺、それとも・・。
「オスカル・・・・・俺のオスカル・・・」
彼の心臓に重く絡みつく鎖が音を立てて砕け散る。胸を突き破り、ついに耐えきれずあふれ出す想いをささやく唇の何という熱さ。
その火のような唇は、じらすように彼女の耳たぶをかすめ、彼女のまぶたに降り頬を撫で、鼻筋をなぞりながらゆっくりと唇におりていった。
唇と唇がかすかにふれた時、声なく「私も・・」と彼女が答えるのを、彼は唇で感じた。
深く静かに忍び込むくちづけ。押し込めていた熱情を注ぎ込むようなそのくちづけは、これ以上はあるまいと思ったゆうべのくちづけより尚熱く彼女の身体を灼いた。
その唇に酔いながら彼女は甘い予感にふるえる。くちづけだけでこんなに女を酔わせるこの男に抱かれたら、私は一体どうなってしまうのだろう・・。
気が遠くなるほど深く長いくちづけの途中で、彼がついと身体を離した。
不安げに見上げた彼女に片腕だけを残して彼は、視線を彼女の足元に落とした。確かめるようにゆっくりと視線が彼女の身体を這い上がる。彼女は着ているものを全て剥ぎ取られ、彼の手で身体を撫で上げられているような錯覚におちいった。
─闇色の髪に夜色の瞳。あなたは夜がよく似合う。
 それなのに何故。あなたのまなざしはいつもそんなに熱い・・。火傷しそうなほど・・。
再び視線が絡んだ時、ぞっとするほど艶めいた瞳で彼が唇にうっすらと笑みを浮かべた。
彼女がくっと息をのんだ。
罠にかかった獲物を満足気に見おろす狩人の眼のようだ。この人が私を拒んだのは、もしかしたら私を虜にするための策略だったのではないのだろうか。はじめから罠をはって・・。身体を溶かす媚薬のようなくちづけが獲物を引き寄せる極上のエサ。それともあなたの無意識の、女を惹きつけて止まない危ない眼差し・・。
絡め取られた視線に身じろぎも出来ない。身体の奥から這い上がってくる熱い塊が、胸で砕けて身体中に飛び火していく。
─私を愛した、美しく危険な男・・
 私を灼き尽くす、灼熱の真夏の太陽・・
 あなたの熱に灼かれて私は・・生まれ変わる・・
彼が再び強く腰を引き寄せた。彼女の細い首ががくんと折れて髪をなびかせる。唇が触れる間際まで顔を寄せて彼が言った。
「誰にも渡しはしない。君が出会う男は俺が最後だ」  
吐息と吐息が重なりとけあう。髪を乱して重ね合う唇が、もっと熱く、もっと深く、と互いを求める。

  やっと見つけた・・ずっとおまえを探していた・・・
 
  待っていた・・おまえに再び会える日を待ち焦がれていた・・
  ずっとずっと寂しかった・・もう・・ひとりにしないで・・・・・・

唇を重ね身体を寄せ合ったまま、もつれ合うようにふたりは砂の上に倒れ込んだ。
唇にひとつ、額にひとつ、頬にひとつ、もう片頬にひとつ、軽いキスを落としたあと彼は、ゆっくりと惜しむように顔を上げて彼女を見おろした。怖いとさえ思わせるほどの熱は穏やかな埋み火となって、限りなく暖かく、
慈しみと優しさに満ちて彼女を包み込んでいた。彼は幼子を抱くように彼女を胸に抱き寄せた。
小さく彼女の名を呼びながら髪に顔をうずめる彼が愛しい。彼女も彼の名を呼びながら、彼の肩を抱いた。
ただそうして長い間ふたりは、互いの肌の温もりと香りに、飽くことなく身体をひたしていた。
目を閉じて頬と頬をふれあわせる度こぼれ落ちる想いと愛おしさ。なつかしい香りが、心地良い安息と痛いほどの切なさでふたりを満たす。互いの名を呼び合うごとに浮かんでは消える何かが、その切なさをいや増していた。
こうしてずっと闇の中で抱き合っていたなら、もしかしたらこのもどかしい何かが、もつれた糸がはらはらとほどけるように姿を現してくれるのではないだろうか。
根拠のない期待ではあった。しかし、それはもう、すぐそこまで頭をのぞかせているようにも思えた。
ただ、ふたりが抱き合った手をゆるめないのは、そのためばかりではなかったけれど。
長い時を越え寄り添った魂が、また一つになりたいと、その手をかたく握りあって離せずにいたせいだったかもしれない。
「夜が・・」
「ん?」
「嫌いだった。ずっと。寂しくて寂しくて。眠れなくて・・」
「ん・・」
「夜中に目が覚める。何度も。いつも同じ夢を見て」
「夢・・」
「私は・・泣いていて。石畳に身体を投げ出して。たまらなく悲しくて。怖くて。のどが痛いほど泣き叫んでいるのに声が出ない」
「・・」
「走っていることもある。不安と恐怖で足が震えて、手にした一杯の水を一刻も早く届けなければならないと焦っていて。それなのに、走っても走ってもたどり着けない。走るたびコップから水がこぼれて」
「悲しい夢だ・・」
「だから私はずっと・・・」
彼女は彼の頬に手を伸ばした。
「夜がこんなに優しいものだなんて・・知らずにいた・・。あなたが教えてくれるまで・・」
その手を取り、彼は唇を寄せた。
「闇が降りている間だけは、愛しいひとを腕に閉じこめてしまえる。闇が全てをおおいかくして、秘密を優しく包んでくれる。
 夜は優しいよ。ふたりなら」
目を閉じて彼女は彼の首筋に頬をすりよせた。
その肌の香り、うなじにくちづけながら私を呼ぶ声、手のひらを押し返す肩の弾力。
泣きたくなるほどなつかしく愛しい。
母の胸によりはこの胸に、いつも私は包まれて・・。
「ずっと、ずっと遠い昔・・あなたとこうやって・・闇にまぎれ人目を忍んで逢瀬を重ねていた・・そんな気がして
ならない・・」
耳元で名前を呼ぶと潤む青い瞳、俺の名を呼び返すその唇、胸に抱くと喉元を指でなぞる癖。
胸痛むほどなつかしく愛しい。
母の温もりよりはこの温もりが、いつも傍らにあった。
「秘密だった。誰にも。夜を待って君を腕に抱いた。そうだ。そんなことがあった気がする」
がたがたと揺れる馬車の車窓からのぞく弓張り月。
生け垣の陰の闇に浮かびあがる白薔薇の蕾。
兵舎の厩の裏手にいつも出来る水たまりに映る菩提樹の葉むら。
くちづけながら後ろ手にかける鍵音。
すれ違いざま絡めてすぐほどいた指と指・・。
秘密。交わす瞳に押し込めた秘密・・。
そう・・。確かにそんな日が。でも・・それはいつ・・?
もどかしさに眉を寄せ、ふたりは目を合わせた。
「許されない想いだと・・なぜだか思えて仕方なかった」
「何故・・?」
「愛してはいけないひとだと。求めればおまえは取り返しのつかない罪を犯すと」
「・・・」
「胸の奥深くでそうささやく声が俺を迷わせた」
「・・・何故・・・・」
「それでも、君を愛さずにはいられない」

  愛さずにはいられなかった・・・
  報われない想いでも、許されざる恋でも、おまえを傷つけても・・

おまえに愛されたから生きられた・・おまえに愛されたから私は私でいられた・・・

「バカだな俺は。君がいれば怖れるものなど何もありはしないのに」
「何故そう思うの・・。私のこと、まだ何も知らないのに・・・」

  知っているよ。誰よりもおまえのことを・・・

「そうだな。何故かな」
「ほんとに何故・・どうしてこんなに・・」

  私の命だから・・・

「俺はもう迷わない」
  
  おまえが、俺のたったひとつの居場所・・
  
「迷わせない。もう二度と」
「ああ、そうだな。君がこうして俺の腕の中にいてくれるなら」
「あなたが嫌だと言っても私はもう決してこの手を離さない。もう何処へも行かせない」
「何処へ。ここより他に俺の行く所など在りはしない」
「・・・・」
「オスカル?」
「・・・・・今日まで・・私は一体どうやって生きて・・・あなたなしで」
「泣かないで。オスカル・・」

  俺はここにいる・・もう二度とおまえの側を離れないから・・・

「もう一度呼んで。私の名を」

  何度でも呼ぶよ・・あの頃のように・・・

「オスカル・・・オスカル・・・」
「私の・・アンドレ・・・私の・・・。もう離さない・・」

  誰も・・・かわりになんかなれはしない・・・
  
細い月を雲がおおい隠す。
そうだ。このほうがいい。
雲よ、今しばらくここから全ての光を消して。
闇の中でならかすかな光も捉えられる。この胸の、溢れんばかりのなつかしい宝物たちの、わずかな輝きでも見落とすことがないように。
愛しい恋人の囁きを、一言も聞き逃すことのないように。
今日までの、孤独な幾千の夜を越えてようやく迎えたこの夜が、今まででもっとも優しい夜になるように。
「もう一度聞かせて・・・アンドレ。・・私を・・」
「・・愛しているよオスカル・・。君に・・会いたかった。ずっと・・・。たぶん、この世に生をうけたその時から・・」
重なるふたりの心音が、同じリズムを刻み始める。月の光も、星の光さえ届かぬ闇に沈む砂浜で、鼓動と呼吸と波音だけが命を刻んでいる。
くちづけは深く熱く、いつまでも終わることなくくり返された。別れ別れに長い時を過ごした魂が、また一つに重なるまで。




つづく