フランスの民話より〜穀物商人 〜

第二話


アンドレはうなだれたまま、お城を後にしました。

半年前、森であったことを丁寧にお話し、現在は父の家で何不自由なく無事で暮らしていることを告げると、
王様は舞い上がるような心地でお喜びになりました。
そしてアンドレの小麦を全部、それもかつてないほどの高値でお買い上げになり、
彼には金貨がたんまり入った立派な財布をお与えになったのでした。
それから、王様はアンドレに一言。
彼にとってはまさに地獄にでも突き落とされるような言葉でもって、
アンドレにお命じになったのです。

「行け、そして戻ってこい。おまえが早く戻ってくればくるほど、すばらしい財宝でもっておまえを迎えてやるだろう」

アンドレは何も言い返すことができませんでした。
国王の前では商人学校で学んだことなど、なんの価値もなかったのです。

「(おお…おそろしい身分の違いよ。おれは呪われている、呪われている!)」

アンドレは重い財布を腰に下げて、無我夢中で空っぽの荷馬車を走らせました。
どこをどういうふうに進んだのかなど、なにも覚えてはいません。
ただ頭の中は愛しい彼女のことでいっぱいで、それ以外はなにひとつ感じなかったのです。

気がつけば、彼は荷馬車を降り、町の中の広い通りに立っていました。


「(な、なんだ…この人だかりは…)」

町の真ん中を横切るメインストリート。
最初に来たときには人の流れも穏やかで落ち着いた雰囲気を保っていたのに、なぜか今はとても騒がしく見えました。
裏道・小道から人々が次々と駆け込んできます。
アンドレは何度も何度も彼らにぶつかり、よろけそうになりました。
騒ぎの原因はなんだろうと思いながら、
しかしそれでも沈んだ気持ちがどうにも浮き上がってこないので、彼はそのまま船に戻ろうとしました。
そして人の流れをかき分けながら通りをなんとか横断しようとすると、目の前に驚くべき光景が広がっているのです。

それは死人でした。
死人が通りをひきずられて、泥や泥水まみれになりながら通りを真っ直ぐに進んでいくのです。
その先は…ごみ捨て場しかありません。

「ちょっと、失礼!通して、通してください!」

アンドレは押しつぶされそうになりながらも、懸命に前へ出ていきました。
そして遠巻きになって様子を眺めている群集から飛び出して、一目散にその死体のところへ走り寄っていったのです。

「待ってください!その先はごみ捨て場です!なぜ教会へ連れて行ってやらないのですか?」

死人をひきずっていた男はまるで喧嘩を売るような口調で答えました。

「この男は大きな借金を背負ったまま死んだんだ!そして多くの人を破産させた!埋葬なんかされなくて当然だ!」
「もし誰かが借金の肩代わりをしたら、そうしたら埋葬していただけるのですか?」
「はっ、もちろんだとも!だがな、借金が多すぎる!利子だってついてんだ!それを支払うだって?いったい誰が払えるというのだね!?」

アンドレは男の借金の額が相当高いことを知りました。
しかし、だからといってごみと同じように扱われてしまうのはあんまりな話です。
アンドレは覚悟を決めました。

「わかりました。わたしが支払いましょう。さあ、これで足りますか?」

アンドレは強盗をやり込めたときと同じように、財布の中の金貨をすっかりぶちまけ、
そして男のほうに蹴り飛ばしてやりました。
優しいアンドレは、かわいそうな死人につい同情してしまったのです。
そして約束どおり、教会へ連れていって、きちんとした埋葬をしてもらうことに成功しました。
ただ、ありったけの金貨をすべて債権者に与えてしまったわけですから、アンドレの手元にはもう一文も残りませんでした。
またもや彼は、不幸な人を救うために船一杯分の小麦を台無しにしてしまったのです。
しかし、彼は後悔などしていませんでした。


家に着くと、この前と同じように父親が迎え出ました。
ただ、少し違うのは、父の後ろにいる母のさらに奥のほうに、おばあさんと美しい娘がいることです。

「おお、お帰り、アンドレよ!どうだい、小麦はうまく売れたかな?」
「この前よりずいぶんといい値で売れたよ、父さん」
「そうか、それではおまえの財布の中には大金が入っているのだね?」

「いいや、お金は一文もないんだよ」

アンドレは一部始終を話しました。
ごみ捨て場に捨てられようとしていた哀れな死人を、いかにして大地に還してやったのかを。
アンドレの父は、熱心に彼の話に耳を傾けてくれました。

「うん、とても良いことをした、アンドレよ。おまえは誰よりも立派な心をもった人間だ。神もきっと満足しておられるだろう。しかし、アンドレ、おまえはまた学校に戻らなくてはならない。わかるね?もう半年、勉学に打ち込み、よき商人となるべくしっかりと学んでこなければ、おまえはいつまでたっても自立することはできないだろう」
「わかっているよ、父さん。しかし…その前に、もう一度だけおれをあの国へ行かせてくれないか。おれが救い出したあの娘…オスカルを城に帰す。そうとも、彼女は国王の娘なんだ!」

「なんと!!」

父親も母親も息をのみました。
そして、さっと後ろを振り返りました。
そこにはおどおどとしているばあやの姿と、それから青くなって震えているオスカルの姿があったのです。

「オスカル…おまえは…」

オスカルは青白く血相を変えたまま、俯きました。
どうやら必死で涙をこらえているようにも見えます。
固く握った拳が真っ白になっていました。

「やっぱり…やっぱり…戻ってこいと…父上はおっしゃったのか…」

アンドレはたまらなくなって、父や母をはねのけ、ばあやさえも突き飛ばそうという勢いでオスカルに触れようとしました。
しかし、オスカルは蝶のように軽く身を翻すと、あっというまにアンドレの腕をすり抜け、拒み、走り去ってしまいました。

「オスカル!」
「おじょうさま!」

叫び声もむなしく、オスカルは振り返ることなしに玄関から家を飛び出していきました。
悲しい残り香が、ふわりとアンドレの体を取り巻いて、霧のようにかすんでは消えました。
皆放心して、彼女を追おうとする者は誰ひとりとしていませんでした。


その後、夕食時になってもオスカルは戻ってきませんでした。
暗くなれば、町の郊外は大変危険です。
最近はどうも物騒になりましたから。
刃物を持った気違いが、その辺りをうろつくこともしばしばなのです。
アンドレは…いえ、父も母もばあやも、それからお手伝いさんたちも、皆オスカルを心配しました。

「おじょうさま…まだ帰っていらっしゃらないのかねえ。ああ、心配だわ。これ、アンドレや、おまえ、おじょうさまをさがしに行っておくれよ」
「お、おれが…?」
「当たり前じゃないの!あんたが行かなきゃ誰が行くっていうんだい!」
「でも…」
「ずべこべお言いでないよ!とっとと行きな!」
「わ、わかったよ…。まったく、しばらく会ってなかったくせに人使いだけは荒いんだから…」
「ん?なにか言ったかい?」
「な、なんでも!行ってきます!」

アンドレは慌てて駆け出しました。
そして玄関の扉をばたんと閉めると、大きくため息をつきました。

「オスカル…泣きそうだったな…」

本当のことを言うと、アンドレは今、オスカルに会いたくはありませんでした。
その美しい顔を見るだけで、ただ、細い肩に触れるだけで、涙が泉のように溢れてしまいそうだったからです。

「(財宝なんかいらない、ほしくない。おれがもっとも欲してやまないのはオスカルただひとりだけだ。他は何もいるものか…!)」

その場にうずくまって、泣き叫びたい気分でした。

アンドレは、オスカルに出会って初めて本当の愛を知りました。
初めて、何にも代えられない、かけがえのないものをほしいと思いました。
なのに、その人が、大切なその人が、まさか国王の娘だったとは!
一国の王女だったとは!
身分違いもはなはだしいではありませんか!

アンドレはとぼとぼと歩き出しました。
もちろん、オスカルをさがすためです。
しかし、心のどこかではこのままどこか遠くへ行って消えてしまいたい、そんなふうにさえ思っていました。
足取りはすこぶる重いのに、家が小さくなるのに時間はかかりませんでした。
アンドレは何も考えず、ただ本能の赴くままに歩みを進めました。

町を抜け、林を抜け、森をさまよい…、いつしか彼は小高い丘を登ろうとしていました。
そこではっと我に返ったのです。

気づけばいまだ見知らぬ土地にいるものですから、アンドレはひどく驚きました。
そして、帰り道がわからないかも…と思いました。
しかしそれならそれで結構。
もうアンドレは、半ば自暴自棄になっていたのです。

そして、なだらかな丘陵を乱暴に駆け上がりました。
半分ほど登ったところで、アンドレはぎょっとして我が目を疑いました。
開けた丘の上で、うずくまって肩を震わせている者がいたのです。
柔らかそうな金髪の長い髪が、宵の入り口にきらきらと光っておりました。

「オスカル…!」

アンドレは思わず声をかけました。
はっとして振り返ったその美しい顔立ちは、間違いなくオスカルのものでした。
かわいそうに、泣きはらした青い目が痛々しく、頬には涙の伝った跡がありました。

気丈なオスカルは急いで袖口で涙をぬぐうと、いまだ元に戻らない震えた声で返事をしました。
一生懸命に、ただ見晴らしの良い景色の一点を見つめ、アンドレの目を見ようとはしません。
アンドレはオスカルのそばに駆け寄ると、その隣にゆっくりと腰を下ろしました。
そして美しい横顔を間近でじっと見つめ、彼女が振り向いてくれるのを待ちました。
何も言わずに。

しんしんとした夜の冷ややかな空気の静けさが、二人の身にしみてゆくようです。
遠くのほうでふくろうが鳴き始めました。
うっすらとだけ残されていた太陽の光も、もはや届くことはありません。
時間が…止まったようでした。

「……」

目をつむって、ふう…とひとつ息をつくと、オスカルは固く閉じた赤いくちびるをゆっくりと開きました。
アンドレはその一言一言さえも聞き逃すまいと、息を止めて耳をそばだてていました。

「アンドレ…お別れだ…」

アンドレは息をのみました。
そしてきわめて冷静になろうと、拳を握る手にますます力をこめました。

「ハンカチを渡したときに…もう大体の決心はついていた。わたしは…国へ帰らねばならない。…父の後を継ぐのだ」

オスカルの男装の理由はもう明らかでした。
彼女は男児に恵まれなかった自らの国のために、女としての性を捨てたのです。

まだ物心つく前からオスカルの部屋には剣やら鎧やらが飾られていましたし、
彼女の部屋の本棚には軍学書や武勇伝なんかしかありませんでした。
その上剣を持てる背丈に成長したならば、すぐに稽古の毎日。
それから勉学にいそしんで、また稽古。
少女たちが好むような草花はいっさいが遠ざけられ、
また目もくらむような美しいローブの数々は彼女の目に触れることもありませんでした。
口紅をひいたこともなければ、髪を結い上げたこともありません。
女性としてのすべてが追いやられ、いつしか彼女自身もそういった類のものに敬遠な態度をとるようになっていったのです。

父王はそれを喜びました。
しかし、母や五人の姉たち、それからばあややなんかの、心からオスカルを慕ってくれる者は皆悲しみました。
彼女らはオスカルに女としての幸せや喜びを知ってほしかったのです。

しかし、半年ほど前でしょうか。
オスカルにある事件が起こりました。

それは、まるで生まれたての赤ん坊のように柔らかで、ふんわりとしていて、しかし時には痛みを伴うものでした。

オスカルははじめ、その変化を恐れました。
自分の中にもうひとりの自分がいる、そう思いました。

ですが、どうしてでしょう。
アンドレの優しい瞳を見るたびに、また見つめられるたびに、からだの中で少しずつ恐れの部分が消え、
ふわふわと熱っぽくて甘い疼きが全血流を支配するのです。

これが人を愛する気持ちなのだと気づいたのは、ごく最近のこと。
自分でもわからないうちに交わしてしまったくちづけが、オスカルの中の「女」を完全に目覚めさせたのでした。

しかし、気づいたからといって、どうにもなりはしません。
オスカルの中にある、後継ぎとしての責任が逃げることを許さなかったのです。

アンドレにハンカチを渡し、王様に謁見することを勧めたのも、
そのハンカチを見れば王様がすぐに自分の存在に気づくことを計算に入れてのものでした。
アンドレが旅立った後、オスカルはひとりで、それはもう一生分の涙を流し続けていたのです。

「わかってはいたのに…つらくてつらくてたまらないんだ。本当は…離れたくなんかないんだ!」

そう言うと、流してもまだ流し足りない涙が一気に押し寄せてきて、
そのままオスカルはアンドレの胸の中になだれ込むようにして泣きじゃくってしまいました。

アンドレはいっそう細く、頼りなげに見えるオスカルの背を抱きしめ、自らも涙を流しました。
そして何度も何度も愛をささやき、ただ、その柔らかな髪をなでていてやるのでした。


次の日、やはり出発は決定しました。
悲しみと別れる寂しさを胸に抱きながら、二人は淡々と準備を進めていきました。

アンドレの父親は、彼にビロードの立派な服と、それから妙に気取った召使いをひとり与えました。
ビロードの服はもちろん、王様と謁見するときのためのもの。
それから栗色の…やっぱりどこから見ても妙な召使いは…、
う〜ん…たしかに品がありますし、王様の前に一緒に出るにはぴったりなのだと思って雇ってくれたのでしょうか。
しかし…アンドレとはどうも気が合わなそうです。
先程からちらちらとオスカルのほうを見ては、優雅な微笑みを浮かべています。
正直、アンドレは不愉快でした。

そしてオスカルとそのばあやを連れ、アンドレはフランスを出発しました。
もちろん、あの召使いも連れて。

父も母も彼らを見送りました。
いつまでもいつまでも手を振って。
二人の表情は…どことなく寂しげに見えました。


フランスの港を出て早10時間。
順調に行けば、あと半日のうちに到着するでしょう。

しかし、突然の悲劇が彼らを襲いました。

嵐です。
それも半端ではなく大きな嵐!

強い風、どしゃぶりの雨、雷が鳴り響き、空は一瞬にして暗闇に閉ざされました。
幾度となく大波が船を襲い、甲板を洗い流し、今にもひっくり返ってしまいそうでした。

しかしアンドレは、それでも冷静をなんとか保ち、できうるすべての手段を尽くしました。
大した勇気です。
オスカルは自分も何か役に立ちたいと申し出たのですが、アンドレは彼女を危険にさらしたくはありませんでした。
なので、まるで無理やり押し込めるようにして船内の一室に隠れさせたのです。
もちろん、ばあやも一緒に。

アンドレの判断は適切でした。
乗組員も負けじと働きました。

おかげで船は無事。
怪我人も出ることなく、嵐は通り過ぎました。
しかし、あまりにも疲れ果ててしまったアンドレは、船の安全が保障されるやいなや、
そのまま甲板の隅のほうで倒れこみ、ばたんと気を失ってしまったのです。

一方、彼の優雅な召使いのほうは、嵐の間に大事な髪型が乱れるのを恐れてか、
卑怯にも船内に隠れて身を震わせておりました。
しかし揺れがだんだんと和らいでくるのを感じると、あたかも今まで働いていたそぶりを見せつつ甲板へ上がってくるのでした。
そして一番先に飛び込んできたのは、倒れて気を失っている主人の姿。
なんと、彼はこのとき、とても恐ろしいことを思いついてしまうのです。

この男は、実は出発のときから心の奥底のほうでアンドレに対する羨望の念に身を焦がしておりました。
アンドレがこれから手にするであろう財宝の数々、王の賛辞、それから英雄のレッテルもなにもかも!
まったく羨ましくて仕方ありませんでした。

彼は貴族でしたが、身分はあまり高くはありませんでした。
そう、彼は自分だけは違うのだと、こんなみじめなままの生活で生涯を終えるものかと、はっきり信じていたのです。

それから彼にはもうひとつ、ある野望がありました。
それは、オスカルです。

彼は一目見ただけでオスカルを愛してしまったのです。
あの美しいブロンド、気高いサファイアの瞳、無垢なくちびる…どれをとっても天下一品ではないか!
彼はそう思っておりました。
そして当然、出発の準備のときから船に乗っている間までずっと甘い視線をちらちらと交し合っている二人が許せませんでした。
怒りの矛先は、自然、アンドレのほうに向けられていきます。

「こんなふうになったのも、すべてが偶然なのだ。この穀物商人がしたこと、金貨をばらまいてオスカル嬢を助けたこと…死人を埋葬したこと…そんなこと、このわたしにだってできたというもの。それが偶然あなただっただけだ。もしも森へ行っていたのがわたしだったら…財宝も、オスカル嬢も、皆わたしのものだったのに!」

召使いは壊れてひびの入っていた木の柵をめりめりと引きちぎると、
すっかり気を失って一向に目覚める気配のない主人の頭に、したたかに打ちつけました。
そう、何度も、何度も…。
そして血まみれになった彼を抱きかかえ、そのまま大海原へ投げ捨てたのです…!

「これで…これで…すべてはわたしのものだ…!!」

召使いは高らかに笑い声をあげました。

この恐ろしい行いを見た者はいません。
誰ひとりとしていません。
美しい満月も…いいえ、空を飾る万の星たちも、今は分厚い雲に覆われて姿を隠しているのですから。

いまだ荒い波模様は、アンドレを少しの間でも水面に留めてはおきませんでした。


その後の彼の行動は迅速でした。
主人を葬り去ると、すぐに船内に入り、オスカルとばあやのいる部屋の扉をノックもせず開け放ちました。

二人は部屋の隅のほうで抱き合うようにして寒さに震えておりました。
嵐の恐怖と身にしみる寒さとで腰を痛めてしまったばあやに、オスカルは自分の上着をかけてやっていました。
そこへ召使いの登場です。
オスカルもばあやもぶしつけなこの男の行いに思わず目を丸くしました。

召使いは入るときとはうって変わって、紳士らしく優雅に扉を閉めてみせると、つかつかと部屋に入り込んできました。

「おかわいそうに、マドモアゼル…。あの方は…主人は波にさらわれ海の中。もう今頃は…きっと…」

そうして彼はおもむろに瞳を伏せるのです。

この男の言葉を聞いて、ばあやは声にならない叫びをあげました。
自分の孫が死んだのです。
これ以上の悲しみがありましょうか。
大体、この知らせを聞いたなら、フランスで息子の帰りをひたすら待っている彼の両親はいったいどうしたらよいのでしょう。
考えただけでも恐ろしいことばかりで、もう目の前が真っ暗になりました。

ばあやは瞳にいっぱい涙を浮かべて、ふとオスカルのほうを見ます。
オスカルはただ震えていました。
そして声をかける暇もないまま、急速に血の気が失せていったかと思うと、すぐに気を失ってその場に倒れこんでしまったのです。

「おじょうさま、おじょうさま!?」

アンドレが海に落ちたって…?
うそだ…そんなのうそだ…うそに決まっている。
ああ…きっとこれは夢なんだ…。
そうだ、悪い夢に違いない。
きっと目を覚ませばまた、あの優しい瞳でわたしを見つめてくれる。
早く目を覚まさなければ…早く…。

「ああ、おじょうさま!しっかりなさってください!おじょうさま!」

真っ青になってしまったオスカルを、ばあやはただ何度も何度も声をかけ、目を覚ませようとしました。

「あんた、なにやってんだい!早く毛布をもってきておくれ!おじょうさまが大変だよ!」

召使いの男は不敵に笑ってみせました。

「では、そういうことは他の乗組員たちにやらせましょう。わたしはこれで失礼。いろいろと準備があるのでね。オスカル嬢にはくれぐれもお大事にとお伝えください」

そして扉を開けて、彼は出ていってしまいました。

ばあやは呆気にとられた顔で彼の後ろ姿が部屋の扉に変わるまで、ずっと眺めておりました。

この栗色の髪の優雅な召使い。
その端整な顔立ちの裏に燃えるような情熱があることを知る者は、まだ誰もいません。

美しく、野望を秘めたその男。
名は、ジェローデルといいました。