フランスの民話より〜穀物商人 〜
第三話
嵐は完全に消え去りました。
雨は止み、波はもとの落ち着きを取り戻し、風はずいぶんと穏やかになりました。
太陽は地平線にすっかり沈み、代わりに青白く光る月と、幾千、幾万もの星たちが夜空を支配しています。
あたりは不気味なくらいの静けさを保っていました。
オスカルが目を覚ましたのは、それからしばらくたってから。
夜も深く、そろそろ日付が変わる頃でした。
「う…うう…ん…」
毛布を二枚も三枚も重ね、目覚めぬオスカルを甲斐甲斐しく世話していたばあやは、
彼女のそのかすかなうなり声を聞き逃しませんでした。
濡らしたタオルを絞る手がぴたりと止まり、そして慌ててオスカルの側にくっつくようにして寄り添いました。
「おじょうさま、おじょうさま!」
青い顔をして眉間にしわを寄せながらしばらくうなっていたオスカルですが、
ばあやの必死の呼びかけもあってでしょうか、ようやく白いまぶたを開いてくれました。
「おじょうさま!」
ばあやはオスカルの手をしっかりと握って、よかった、よかった、と呟いてはさめざめと泣きました。
オスカルはまだぼんやりとした目で、何が起こっているのか理解できずにいるようです。
オスカルはぎゅっと自分の手を握って泣くばかりのばあやをぼうっと見て、
しわしわだけれど、でもとても柔らかくてあたたかいその手を力なく握り返しました。
そして、少しばかり染みのある天井を仰ぎ見て、ただぼんやりとしていました。
いつもの光が宿ったような強い眼差しはそこにはなく、青い瞳はまるで曇りガラスのよう。
ほとんど魂を抜かれた抜け殻同然でした。
一筋の涙が頬を伝います。
瞬きをすることもなく、また声を上げることもなく、ただ涙を流します。
青い瞳は豊かな水源となって、先に出た涙を押し上げるようにして次々と溢れては頬を伝い、
美しいブロンドの髪に吸い込まれてゆきました。
何も言わないのです。何も。
聞こえるのはばあやのしゃくりあげる声だけです。
オスカルは彫刻のようにぴくりとも動かず、話さず、ひたすら涙を流すだけ。
瞬きもせず、声もあげず、ただ涙を流すだけ。
仰向けになったまま、ずっと、ずっと…。ずっとです…。
一方、ジェローデルはようやく手に入れるであろう幸せを、まさに天にも昇る心地で喜んでいました。
金銀財宝、うまくすれば出世だって可能なのです。
おまけに憎き主人は海の中。
愛しい王女はすぐ目の前に。
ジェローデルは王女を口説き落とす自信がありました。
悲しみに打ちひしがれて弱っている女ほど手に入れやすいもの。
そして王様から高い役職を授かって、または手に入れた財宝で自力で買い取り、
存分に出世した後で婿入りでもなんでもしてやろうと企んでいたのです。
ジェローデルの目がきらりと光りました。
しかし、王様がそう簡単にアンドレに与えるはずであった褒美を自分にくださるわけがありません。
国に着く前に、なんとか対策をとらなければなりませんでした。
等身大の姿見を見つめながら、ジェローデルはふむ…と考えました。
「(仕方あるまい…、これもすべては愛しいあなたとわたし、二人の幸せのためだ)」
「あの〜…ジェ、ジェローデルさん…」
ぎいぃと遠慮がちに扉を開ける音が聞こえたかと思うと、
そこにはひょっこりと頭を覗かせているひとりの少女の姿がありました。
彼女の名前はロザリー。
アンドレの家で最近働き始めたばかりのかわいらしい使用人です。
ロザリーはとても優しい少女でした。
いつも春風のようにあたたかくて、ほがらかで、明るくて…。
アンドレが学校で家を留守にしている間、ロザリーはオスカルの良き話し相手となり、
そしてオスカルの寂しさをなんとか紛らわせてあげようと、一生懸命尽くしておりました。
二人はすぐに仲良くなり、まるで姉妹のようだとアンドレの両親からもよく言われたものです。
別れに際して、ロザリーがあまりにも悲しむので、
アンドレの父が、かわいそうに思い彼女を特別に同行させてやったのでした。
「ロザリー、ジェローデルさまと呼べと言ったはずだ。今からこの船ではこのわたしがもっとも尊いのだ。前の主人のことは忘れろ」
ジェローデルが厳しい口調でたしなめます。
本当に主人のような振る舞いでした。
実際、彼は召使い用の地味な衣服ではなく、
アンドレの父がアンドレのために用意した、あのビロードの服を着込んでいたのです。
ロザリーは言うことをきかなければ海に落とすと、そう脅されておりました。
他の乗組員たちも同じです。
束になって襲い掛かろうとも、
ジェローデルの剣さばきは実に鮮やかですぐにやり込められてしまうために、誰も手が出せませんでした。
今や彼は、絶大なる権力でもって、この船を支配していたのです。
「ふん、まあ、ちょうど良い。来なさい、ロザリー。オスカル嬢のところへ参ろうではないか。もう目を覚ましてもよいころだ」
ロザリーは当初の用件も忘れて、くやしさに下くちびるをぎゅっと噛み締めながら、彼の後について行きました。
ジェローデルの本当の目的など、何も知らずに…。
そのころ、ばあやはやはり涙を流しながら、ただオスカルの手を握っておりました。
ばあやの涙には愛する孫の突然の死と、それから何もできない自分の不甲斐なさ、
さらには残された王女への哀れみがこめられていました。
ばあやはもうとっくに二人のことに気がついていたのです。
もちろん、はじめは反対しました。
しかし、二人の気持ちがあまりにも純粋で、またあまりにも深くて、
ついにはばあやも黙認せざるをえなくなってしまったのでした。
口ではああだこうだと文句をぶつくさ言ってはおりますが、本当は誰よりも二人を祝福していたのです。
アンドレの突然の死は、オスカルだけでなく、ばあやの心の奥深くにも深い深い傷を刻み込んだのでした。
『コンコン』
突然、扉を叩かれる音が聞こえ、ばあやは急いで真っ白なエプロンで涙を拭うと立ち上がりました。
そして、静かに扉を開きました。
「ま…あ」
目の前にいたのはジェローデルでした。
その後ろには今にも泣き出しそうなロザリーもいます。
ばあやが何よりも驚いたのは、召使いであったジェローデルがアンドレのビロードの服を着込んでいることでした。
「あ、あんた、いったいなにをやっているんだい!こんなときに冗談はおよし。さあ、早くその服を脱いでしまいなさい!」
仮にも自分の孫が着るはずであった衣装が他の人間の手に渡るなど、ばあやにとってはとんでもないことです。
たとえ一度も袖を通していようとなかろうと、このビロードの服は大切な形見、人に譲ることはできません。
ああ、なんてずうずうしい男なんだろうね。
この服はアンドレのものなんだよ。
誰も着ることは許されないんだ。
そうとも、これはオスカルさまこそが持つべきもの。
あんたなんぞはお呼びでないよ。
いったいなんだってこの男は主人の服を着ようなどと思い立ったのだろう。
まさか、まさか、アンドレの財産を横取りしようなんて思っているんじゃあ…。
ああ、まさか…。
「ふふ、ばあや。あなたも少し、口の利き方を学んだほうがよろしいようですね。いいですか、今からこの船での主人はわたしです。ああ、逆らおうなんて考えずに。少しでも変な素振りを見せたなら、わたしは何にも構わずにあなたを大海原へ放り込みますよ。わかりましたね」
ばあやは真っ青になってジェローデルの恐ろしい言葉をのみこんでいました。
この男は…本気でアンドレの財産を奪おうとしているんだ。
ああ、なんて恐ろしいことだろう。
わたしはいったいどうすれば…。
おお、おじょうさま、おじょうさま…!
ばあやはわなわなと震えながら、ふとロザリーのほうをちらりと見やりました。
一瞬でしたが、目が合いました。
ロザリーの大きな瞳は、やはり、くやしさと悲しさを十分すぎるほどたたえておりました。
ばあやは初めて、今この船に起こっている出来事を知ったのです。
「あ…ああ…」
ばあやは我慢ならずに、その場にへたり込んで顔を伏せり、泣き出してしまいました。
思わずロザリーは駆け寄り、ばあやをしっかりと抱きしめて、
こらえていたものが溢れ出したようにぼろぼろと涙をこぼしました。
ジェローデルはそんな二人を見ることなく、真っ直ぐにオスカルの寝かされている寝台に近づいていきました。
オスカルは自分のすぐ側で信じられないやりとりが繰り広げられていたにも関わらず、
やはりぴくりとも動かないで涙を流しておりました。
ジェローデルは、なぜかそんなオスカルにひどく見とれてしまったのです。
オスカル嬢…なんとあなたは美しいのだ。
このように無心に涙を流す姿さえもが神話のようにも思える。
夜風でいっそう艶やかに輝く金髪も、憂いを秘めたサファイアの瞳も、
それから潮風に吹かれて消え去ってしまいそうな白い肌も、何もかもが完璧だ。
わたしはあなた以上に素晴らしい女性を見たことがない。
あなたこそがわたしの全てだ。
ああ、なんとしてでもあなたがほしい!
あなたを妻として迎え入れたい!
…待っていてください、オスカル嬢。
わたくしは必ずたくさんの財産を手に入れて、あらゆる貴族の役職を我が物とし、
そして近いうちに必ずあなたのお父上にわたくしを認めていただけるよう、神に誓いましょう。
そう、必ず近いうちに、です。
ジェローデルはオスカルの手をしっかりと握り締め、そっとささやきました。
「愛しています、美しい方。これからはこのわたくしがアンドレの代わりです。いつまでも、いつまでも命ある限りわたくしはあなたをお守りいたしましょう。そうです、彼のようにあなたを残し、逝ってしまうような残酷なことなど、決してわたくしはいたしません。誓って、生涯、あなただけをわたくしは愛し続けます」
オスカルは何も答えず、また彼を見ることもなく、ただ天井だけを仰ぎ見て涙を流していました。
もちろん、彼の手を握り返すこともしませんでした。
「ただし、わたくしたち二人の幸せのために、あなたにはお守りいただきたいことがあるのです」
ジェローデルは不敵に笑ってみせました。
そして彼がとんだ策略家である事を知らしめるような言葉を二言三言、彼女に言い聞かせたのです。
自分が何を言っても、それを絶対に嘘だとは言わないこと。
嵐のことを聞かれたら、必ず自分に救われたと答えること。
アンドレの代わりに、自分に褒美を与えるよう取り計らうこと。
ばあやもロザリーも、息をのんでジェローデルの悪魔のような姿を見つめておりました。
この人は呪われている、呪われているんだわ。
ああ、オスカルさま、お願いです。
この人の言うことを絶対に聞かないで、聞かないで下さい。
お願いです!
「さあ、よろしいですね。もしもこれが守れないとおっしゃるならば…」
ジェローデルはくるりと向きを変えると、ロザリーをじっと見つめました。
ロザリーの背に、一瞬冷やりとしたものが流れました。
やがて、カツカツという足音とともにその主がこちらへ向かってくると、思わず彼女は後退りして、
ばあやはといえば、おろおろとした表情で両手を握り合わせているだけです。
「ひ…っ!」
ジェローデルはロザリーを抱きこむと、すばやくその細い喉元にナイフを突きつけました。
金属の冷たい感触がロザリーの恐怖をいっそうかきたてるようです。
そう、ジェローデルは、ロザリーを人質とするためにここへ連れてきたのでした。
「もしもあなたが約束を守れないとおっしゃるならば、わたくしはこの刃物で彼女の喉を切り裂きます。さあ、どうなさいますか?わたくしの言うことをお聞きに?それとも国王陛下に告げ口でもなさいますか。わたくしはどちらでも構いませんよ」
オスカルはやっと首を少しだけ傾け、そしてジェローデルと人質にとられたかわいそうなロザリーを見つめました。
ばあやは涙を流すのも忘れ、ただ呆然とオスカルだけを見ています。
ロザリーの顔は真っ青でしたが、何かを決意したようでもありました。
「やめて…やめてください、オスカルさま。こんな人の言うことを…聞く必要なんてありません…!」
必死で何度も何度も繰り返しました。
ぎゅっと目をつむり、いつでも殺される覚悟はできています、というふうにも見えるのです。
オスカルは何も言いませんでした。
相変わらず表情は全く変えずに、ただその光景を見つめているだけ。
今のオスカルには、まるで生気がありませんでした。
「お願いです…オスカルさま…」
ロザリーは懇願するように、涙を流しながら訴えました。
とうとう痺れを切らしたジェローデルは、オスカルに急かすようにして申し立てました。
鋭利な刃物が、ぐいとロザリーの柔らかい肌に押しつけられて、あともう少しでも力をこめたならば、
間違いなく彼女の喉元から鮮血がこぼれ落ちましょう。
ロザリーは気が遠くなりそうなのを必死でこらえておりました。
「誓うのか、誓わないのか、どちらなのです!?さあ、はっきりとおっしゃってください!いったいどちらですか!?」
オスカルは考えるような素振りも何も見せませんでした。
ただ、時間だけが刻一刻と流れていくように思えました。
空気を取り入れるために開け放たれた窓から、冷たい夜風潮風が流れ込んできます。
悲しみすら覚える潮の香りと、寒々とした月の淡い光がオスカルの横たえられたからだを幻想的に映し出すのでした。
やがて、オスカルは涙で濡れても美しさを失わないその顔をそっと仰向けにして、力ない声で言うのでした。
「誓おう…」
…ああ、アンドレは死んだのだ。
この冷たい海の中に放り出され、投げ出され、打ち付けられて、その暖かい魂は天に昇っていった。
アンドレはもういない、いないのだ。
これ以上に重要なことがあるだろうか。
ばあやもロザリーも、あっというまに泣き崩れました。
声を上げ、床に伏せって、もうひとつ海ができるくらいの涙を流しました。
オスカルは静かに瞳を閉じ、そしてまぶたの中におさめきれなかった涙は一筋の川となって頬を伝いました。
部屋の中は、まるで地獄への門前のようでした。
ただ、ジェローデルだけは勝ち誇ったような顔をして、その場に立っていました。
彼女たちは思い知ることになります。
一旦誓いを立ててしまった以上は、もう彼の意のままであることを。
逆らうことなどできません。
ロザリーが人質に取られているのです。
彼女は死んでもいいと思っていました。
しかし、ばあややオスカルがそれを許すわけがありません。
第一、国の後継者として育てられてきたオスカルは、
たとえどんなものであろうとも誓いを破るなどという不道徳なことはしないのです。
しかし、どんなにつらいことも歯を噛み締めて乗り越えようとするオスカルでしたが、
今度だけは乗り越えられそうもありませんでした。
愛する人が死んだのです。
彼女にとって、いや、全世界の全人民にとって、これ以上に苦しいことがあるでしょうか。
あるわけがありません。
オスカルは今、かつてないほどの苦しみになす術もなく打ちひしがれ、
さらには理不尽な誓いまで立てさせられて、絶望のどん底に突き落とされているのです。
ばあやも、それから人質として捕らわれているロザリーでさえも、
この世界一かわいそうな王女の身を案じずにはいられませんでした。
いかがでしたか?
ジェローデルが本当に悪役になってしまいましたが、あくまでもこれは原作とは別物ですので…。
どうぞ、お見逃しください。
牡丹