フランスの民話より〜穀物商人 〜
第四話
じりじりと照りつけるような太陽が、ちょうど空のてっぺんにまで昇ったころ。
ひとりの男が目を覚ましました。
男はたいそう具合が悪そうで、その場で上半身を起こすと、両手で疲れたからだを癒すがごとく抱きしめました。
彼は寒かったのです。
こんなにも、そう、座っているだけでも汗がにじみ出てきそうな陽気の中で、彼は半ば凍えているのでした。
また、彼は飢えていました。
わけもありません。
彼は丸一日以上、何も口にしていないのですから。
ここは海岸。
といっても人の気配はありません。
焼けて熱くなった砂浜を仰げば、すぐ近くにうっそうとした樹木が支配を広げているのが見て取れます。
時々、獣たちの不気味なうめき声が辺りに響き渡り、
また男のいる砂浜には見たことのない虫どもが這いまわっているのでした。
皮膚から感じる太陽の熱と、内側のじわじわとした凍てつく血液、
生い茂る木々の中から聞こえる獣の声、あるいは足を歩く奇怪な虫、
それから例えようのない空腹感と疲労、化膿し始めた頭部やらをはじめとする全身の傷。
これらは衰弱した男の精神を蝕むのに十分すぎるほどでした。
そう、彼は遭難者なのです。
もっと言えば、航海中、嵐に襲われたあげく呪われた男によって海へ投げ出された…
しかも頭部やらなんやらをめちゃくちゃに傷つけられた気の毒な男。
嵐が過ぎてもおさまることのない大波によってこの不可解な場所へ流されてきた、哀れな商人です。
つまり、アンドレでした。
彼は生きていたのです!
しかし、彼はたったひとりでした。
たったひとりで、波の打ちつける熱い砂浜に取り残されているのです。
頭ががんがんと痛みます。
腹部は強烈な不快感にみまわれています。
寒いのに、肌は焼け付くように熱くて、痛くて。
気がついたときから、彼はひどい喉の渇きに襲われていました。
空腹だけれど、食べ物よりも水が欲しいと思いました。
目の前には一生飲み続けても飲みきれない量の水が広がっています。
しかし、飲むことはできません。
海水だからです。
塩水ならば、意識を失っているときに嫌というほど飲みました。
まるで残骸のようだ…。
彼は思いました。
波に運ばれ、流され、押しやられた小さな小さなごみくず。
自分はそれよりも小さくて、それよりも価値のない、どうしようもない肉のかけら。
樹木の中を生きるために歩き回る勇気もなければ、立ち上がってどうにかしようと考える気力さえありません。
空と海との境目すらわからないような雄大な…しかし今の彼にとっては無駄に広いだけの空間は、
ひとりぼっちの寂しさと恐怖とをただかきたてるだけ。
嵐は過ぎ去ったはずなのに、なぜ…?
彼は事実を知りません。
あの召使い、ジェローデルという男が自分を妬み、疲れて気を失っているところを一方的に攻撃し、
しかも海にまで投げ込んだことを。
なぜおれはここにいる?
なぜこんなにも怪我をしている?
わからない…わからない…。
彼は頭を抱え込んで自問しました。
答えは返ってきません。
当然です。全ては眠っている間に起こったことなのですから。
わからないと余計に恐くなります。
今にも死にそうな心地です。
いえ、むしろ、いっそのこと死んでしまいたい、
そうすれば何も考えなくてすむし、この全身の痛みからも逃れることができる…。
アンドレは思いつめた表情で、そんなことさえも考えるようになりました。
彼は今、まさに「生ける死体」だったのです。
突然、上空を大きな影がよぎりました。
一瞬でしたが、炎のような太陽の熱が遮られたので、アンドレは思わず顔を上げました。
まぶしいのをこらえて空を見上げると、円を描きながら飛んでいる、一羽の大きなカラスが目に入りました。
本当に大きいのです。
そのカラスはアンドレのすぐ側に降り立ったのですが、
砂に足をつける寸前の翼の大きさは、大の男が両手を広げてもほとんど足りないくらい。
また、陸上できちんと立ったときの背の高さは、アンドレの座高と同じくらいありました。
瞳がぎろりとしていて、くちばしは男の手より一回りも大きく。
尋常な精神状態であれば後退りして逃げたくなるような恐ろしさです。
しかし、アンドレは逃げませんでした。
すでに死んだ心地でいる彼は、這いつくばって恐怖におののくどころか、
そのカラスに話しかけようとしたのです。
「カラスよ、ここへ何をしに来た…?」
すると、どうでしょう。
カラスが返事をしたのです。
はっきりと、アンドレにもわかる言葉で。
現実なのか、それとも意識下でなのか、それは曖昧でわかりませんでしたが、
とにかくアンドレはカラスと会話をしたのです。
ここまで大きくなると、カラスも人の言葉を操れるようになるのでしょうか。
アンドレはカラスが返事をしたことに少しの驚きも見せず、淡々と言葉を交わしていきました。
「取引しな。黒い翼の上にこそ、おまえさんの救いがあるってもんだ」
カラスは言いました。
アンドレに、翼の上に乗れとでも言うのでしょうか。
まあ、たしかに異常なほど大きなカラスですし、乗ろうと思えば乗れるでしょう。
そうすればこの不気味で恐ろしいだけの場所から離れることもできますし、
うまくすれば愛するオスカルに再び会えるかもしれません。
しかし、「取引」という言葉がどうも気になります。
カラスとの取引なんて…あまりいいことはなさそうでした。
「取引だって?いったい、それはなんだ」
カラスはぴょんと跳ねるようにしてアンドレの側にくっ付くと、答えました。
「わけもない。おまえさんの最初の子供のことだ。子供が二歳になったとき、それをおれさまによこしな。そうすればおまえさんをあの美女のもと、王の城へ運んでやるからよ。子供はもちろん、王女の子供だぜ」
「カラスめ、なにを馬鹿げたことを言っている?おれはしがない商人、彼女は高貴な王族だ。子供など、もうけられるわけがない。たとえ彼女との間にできたとしても、おまえにやるくらいならこの場で死んだほうがましだ」
「おいおい、命を粗末にするな。王女は必ず身ごもるぞ。ここから無事に帰ったなら、おまえさんはきっと彼女と結婚するだろうよ」
たとえ天と地がひっくり返ってもあり得ることではないでたらめを並べ立てるカラスに、アンドレは嫌気がさしました。
たしかに帰りたい、オスカルに会いたい、くちづけたい。
そんな思いはありました。
しかし、たとえ戻ったところで叶う愛ではありません。
オスカルが他の男と結婚するのを見るくらいなら、いっそ死んでしまいたい、そう思っておりました。
アンドレはもう、引き返せないくらいにまでオスカルを愛してしまっていたのです。
もしもあの時、あの場所で、出会わなかったら…。
そうしたらお互いにお互いを知ることもなく、平穏な人生を歩めていたかもしれません。
あの時、急ぐあまりに森を通ってしまった自分を呪いました。
人質として死の淵に立たされていた彼女に心惹かれてしまった自分がやるせませんでした。
アンドレは今、かつてないくらいに後悔しておりました。
頭をふさぎこんでしまった彼に、カラスはそっと耳打ちしました。
「だがよ、おまえさんは知っているのかね?あの美しい王女がおまえさんの召使いの言いなりになっていることを。おまえさんを殴りつけ、海に捨てたのはあの男だ。おまえさんは愛する女をそんな男の手にゆだねると言うのかい?」
アンドレはばっと顔を上げました。
そして目を見開いて、カラスの二つの瞳をじっと見つめました。
黒々として、ぎょろりとした、カラスの大きな二つの眼。
動物の表情はわかりづらいと思われる方は多いでしょうが、このカラスは実に表情豊かでした。
まるで人間のようにも思われるほどです。
しかし、今は本当に、本当に真剣な面持ちで彼を見つめているのでした。
アンドレは、ごくりとつばを飲み込みました。
「ほ、本当なのか、それは…。あの男が…本当に…オスカルを?」
「もちろん。カラスに二言はない」
「あの男が…オスカルを手に入れようと…?」
「そうとも、奴は王女を密かに愛していた」
「信じられない」
「おまえが信じたくないだけだ」
アンドレは動揺しました。
彼はどうしてもあの召使いが好きにはなれませんでした。
たしかに優雅です。上品です。気品にあふれています。
知性も抜群だし、剣の腕も素晴らしいと聞きます。
しかし、どうしても彼と話をしたいとは思えなかったのです。
理由なんてわかりません。
ただ、からだの芯のほうがあの男を嫌うのです。
航海中は目を合わせるのでさえ嫌で仕方ありませんでした。
その男がオスカルを狙っている…!
とんでもないことでした。
あんな男にオスカルを取られたくはありません。
仮にも彼は貴族なのです。
うまいこと出世をすれば、万が一…ということも考えられます。
一方で自分は平民。
いくら商人として名を広めたとしても、所詮は平民です。貴族ではありません。
自分には、彼女と結婚する一分の望みもないのでした。
だからこそ、嫉妬してしまうのです。
そう、実は、ジェローデルがアンドレを羨ましがったのと同じように、アンドレもジェローデルを羨ましく思っていたのです。
お互いにお互いのないものを相手に見出してはそれを妬む。
なるほど、彼らは同じ人間でした。
ジェローデルが…オスカルを…?
いやだ、そんなこと、絶対に嫌だ!
オスカル…おまえは今、どうしている?
おまえは無事でいるのか?
ジェローデルの言いなりになって、苦しんではいないか?
ああ、おれがいればそんなつらい目には合わせないのに。
すべての災厄からおまえを守ってみせるのに。
オスカルを本当に愛しているのはこのおれだ。
オスカル、頼むから無事でいてくれ。
あいつなんかを、黙って受け入れないでくれ!
ああ、愛している、愛している。
この気持ち、叶うならばもう一度だけ彼女に会って伝えたい。
今どこにいるんだ?
会いたい、会いたい…。ああ…会いたい…!
アンドレはどうしようもなくオスカルに会いたくてたまらなくなりました。
そして、ジェローデルをどうにかしてオスカルから離さなければ、とも思いました。
しかし、そのためにはなんとかここを脱出しなくてはなりません。
今できうる限りの方法は、このカラスの背に乗り空を飛ぶ、それだけでした。
けれども、もしも連れて行ってほしいのならば交換条件として子供を渡せと、カラスはそう言うのです。
正直なところ、王女との間に子供ができるのか、アンドレには想像もつきません。
しかしカラスはできると断言しました。
そして、結婚をするとも。
ならば、それを信じるしかありません。
疑わしいけれども、信じるしかないのです。
それに、もしも真実であれば、これほどに喜ばしいことはありません。
しかし、子供を…本当に…?
アンドレは大いに悩みました。
そして、悩んだあげくに言いました。
「カラスよ、子供だけは…子供だけはやめてくれ!」
切羽詰った表情を見て、カラスはどもりました。
そしてしばらくうんうんと唸っておりました。
さすがのカラスも、少しかわいそうになったのです。
「わかったよ。子供については、おまえさんにチャンスをやろう。もしも女の子だったら、この約束はなかったことにする。だが、男の子だったらおれさまのものだ。さて、これでどうだい?」
アンドレは何度も何度も思い直しました。
女の子であれば、何も気にすることなく平穏で幸せな家庭を築くことができる。
しかし、万が一男の子が生まれようものなら、大事な息子は二歳になった時にこの化け物カラスに奪われてしまう…。
固く握りこぶしをつくっては、歯で噛み、砂浜に打ちつけ、ずいぶんと長いこと悩みました。
そろそろ高かった陽が傾いてきます。
潮は満潮を迎えつつあり、アンドレの足元には海水が浸入しておりました。
このまま海の藻屑となって死んでしまうか…、それとも大事な子供を賭けてでもオスカルの愛に生きるか…。
アンドレはうなだれました。
そして、カラスの顔を見ないままに、とうとう身振りで承知を示したのです。
アンドレの脳裏によぎったものは…未来の幸せな家庭ではなく、いまの凛々しくて何よりも美しいオスカルの姿でした。
そう、あの召使い…裏切り者の手に落ちた、世界中で一番大切な彼の恋人の姿です。
カラスは自分の羽を一本抜き取りました。
それから自分の皮膚のどこかをむしって、紙のようなものを用意しました。
そしてアンドレの腕をつついて血を取り、羽の先につけました。
さて、これで契約をするためのペンと紙、それからインクがそろいました。
「ここにサインを」
文書にはカラスもアンドレも署名しました。
アンドレの手は、緊張のためか、それとも子供を失うかもしれない恐怖のためか、始終震えておりました。
「ようし、いいだろう。さあ、出発するぞ、愛しい王女のもとへ!」
アンドレはおぼつかない足取りでカラスの背に乗り込みました。
すると、どうでしょう。
みるみるうちにアンドレの傷が癒えていくのです。
それと同時に、途方もない疲労感も消え失せ、喉の渇きも、それから空腹感も…とにかくアンドレを煩わす、すべての不快な心地がすうっとなくなっていったのです。
カラスは飛びました。
大きな翼をさらに大きく広げて。
早馬よりも速く、空を駆け抜けました。
雲を分け、突き破り、海岸、畑、野原に森…。
あらゆるところを一瞬のうちに飛び去りました。
アンドレの心臓は常にどきどきと高まっておりました。
オスカル、愛しているよ。
待っていてくれ、おれはすぐに行く。