フランスの民話より〜穀物商人 〜


第五話


オスカルはおりました。
彼女のお城で、もっとも高い塔のてっぺんに。
ひざまずき、彼方に広がる海をじっと見つめておりました。

オスカルが涙を流さない日はありませんでした。
また、塔に登らない日もありませんでした。
かつての凛々しさはすっかり消え失せ、ただひざまずいて海を見つめるだけの彼女は国の後継者でもなんでもありません。
ひとりの「女」でした。
そう、愛する人を失った、ひとりの「女」です。

美しかったブロンドの髪は、その輝きを失いつつあるようでした。
まぶしかったサファイアの瞳には影が差し、雪のような肌はいっそう白く。
彼女が頬を紅潮させるときは、決まって涙を流すときでした。

彼女は三日のうちに結婚させられようとしておりました。
相手は、あのジェローデル。

彼は国王の目にはすばらしくふさわしい結婚相手に見えたのです。
気品があって、教養豊かで、婿入りすることをなんとも思わず、オスカルをただ一途に愛しております。
身分の低さなどどうでも良い、彼は「オスカルの命を嵐から救った」のです。
誰も否定するものはいません。
だって少しでも彼に刃向かえば、たちまちのうちに鋭い刃で切り裂かれてしまうんですもの。
それに、ロザリーが人質にとられているのです。
かわいそうに、あのほがらかで春風のようだったロザリーは今や捕らわれの身となって、
城下町の古びた館に閉じ込められていたのです。
かつての仲間であった船の乗組員たちが見張りをしていますので、逃げ出すこともなりません。


「すまんな、ロザリー」

申し訳なさそうに見張りを続ける乗組員たち。
ロザリーはそんな彼らに何も言えませんでした。

ここから逃げ出せば、彼らは必ず殺されてしまうわ。
わたしにはみんなを見捨てることなんて絶対にできない。
だって、今まで一緒に働いてきた大事な仲間なんですもの。
でも、でも…このままオスカルさまがあんな奴と結婚させられてしまうのを黙って見ていることもわたしにはできない。
ああ、あんなに愛し合っていらっしゃったのに、どうして、どうしてなの?
これが神の定めた運命だとでもいうの?
だとしたら、ひどすぎる…ひどすぎるわ…!

ロザリーは狭くて汚い部屋の中で、ただ涙をこぼしては嘆いておりました。
このままでは間違いなくオスカルはジェローデルと結婚させられてしまいます。

ジェローデルはこの知らせを聞いたとき、死ぬほど喜びましたが、
ロザリーやばあやをはじめとした事情を知る者たちは大いに悲しみました。
彼らはアンドレの死をすっかり信じておりましたので、ただ天に向かって海に向かって、祈り悔やむことしかできませんでした。
そして哀れな王女に心から同情し、神のご加護があらんことだけを願いました。


オスカルは塔の上で、すでに生きる気力を失いつつありました。
海を見ること以外に何かをしようという気持ちはなく、大好きなバイオリンにさえ見向きもしなくなっておりました。
食べることもできなければ、飲むこともできません。
彼女は日に日にやせ細っていきました。

遠くを見つめれば、青い青い海が広がります。
オスカルは思い出しておりました。
あの、胸がとろけるような日々のことを。

アンドレを見るだけで顔が赤くなりました。
アンドレと言葉を交わすだけで胸がどきどきと高鳴りました。
アンドレに触れるだけでからだが燃え盛るほどに熱くなりました。

オスカルはまだ、アンドレの胸の暖かさを覚えていたのです。

あの胸の中にいるだけで、その力強い腕に抱きしめられるだけで、
すべての悩みや不安は甘いくらいの心地よさと安心感に変わりました。
また、優しいくちびるも覚えておりました。
相手を敬い、慈しむような甘いくちづけ。
まるで夢の中にいるようでした。

「アンドレ…」

オスカルの瞳から、また大粒の涙がこぼれました。
そしてそのまま固い石の床にうずくまって、声を上げて泣きました。

アンドレ…アンドレ…
どうしておまえはここにいないんだ。
どうしてわたしが他の男と結婚するのを黙って見ていられるんだ。
わたしにはおまえしかいない。おまえ以外、考えられない。
おまえとでなければ、幸せにはなれない。
わたしは不幸者だ。世界一の不幸者だ。
もう生きていたくはない。
いっそのこと…死んでしまいたい。
死んで…おまえのそばに行ってしまいたい…!

オスカルは泣いて泣いて、ただアンドレのことだけを想いました。
自分もアンドレと同じところに行きたい。
アンドレはきっと自分がそこへ行くのを待っている。心待ちにしている!

オスカルは泣きながら立ち上がりました。
そしてガラスも何もはめこまれていない大きな窓に近寄り、息を止めて下をのぞき込みました。

そろそろ日も暮れます。
空と見分けのつかぬような青い青い海は徐々に藍色に染まり始め、
地平線にさしかかった太陽のオレンジ色の光が波紋を反射しておりました。
海を渡る鳥たちは影って黒く見え、今まさに消えんとする昼間の明るさは、死にゆく魂のようにも思えました。

オスカルは大きく深呼吸をしました。
ゆっくりゆっくりと息を吸い、そして吸ったよりもさらにゆっくりと息を吐くと、小さな口をしっかりと閉じました。
前方を見据えて、そう、ただ光る海だけを見つめて、片足を窓枠にかけました。
そして、そのまま、もう片方も…。
震える足元に勇みかけ、まっすぐ…背筋をぴんと伸ばして立ち上がりました。
そして、もう一度、深呼吸。
目を閉じ、オレンジ色に染まったブロンドの髪を風になびかせながら、愛しいアンドレの笑顔を思い浮かべました。
一瞬…彼女の口元に微笑が浮かびました。

彼女は飛びました。
小鳥のさえずりとともに。
青い瞳をぎゅっと閉じ、アンドレのもとに行ける嬉しさに…あるいは愛する父母やばあや、ロザリー、
全ての家臣や国民達への惜別に涙を流しながら、重力に逆らうことなしに。

彼女の美しい顔には笑みさえも見て取れました。
彼女のしなやかな肢体は夕暮れの冷たい風にあおがれ、背中に白い翼が生えているようでした。
ふわりと浮かんだ金髪は彼女の神々しさをいっそう際立たせ、宙に舞う涙が風に弾けては消えました。

白い翼は夕闇に紛れて赤みを増し、夜の暗がりに向けて色をさらに濃く染めました。
黒く黒く…そう…まるでカラスのように黒く…。

「オスカル!!」

彼女が宙で目にしたものは、真っ黒い大きな翼でした…。


その頃、ジェローデルはオスカルに会いに塔を登っておりましたが、
最上階にまでたどり着いても、一向に彼女の姿は見当たりませんでした。
彼はぐるりと辺りを見回し、歩き回り、固いレンガのひとつひとつから、柱の影や天井の骨組みまで探してまわりました。
しかし、それでも彼女の姿は見当たりません。

仕方なくため息をついて、彼はおもむろに窓枠へと近づいていきました。
そして、すでに日が暮れかけた彼方に目をやりました。
そう、海です。彼は海を眺めたのです。

本当は、このジェローデルという男、それほど呪われた心をもっていたわけではありませんでした。
主人であるアンドレを羨むあまり、彼を船から突き落としてしまったことを、実は少なからず後悔していたのです。
人は愛を知ると狂気に陥りやすいもの。
彼もまた、強く女性を愛したばかりに気を狂わせてしまった、ひとりの哀れな人間だったのです。

アンドレ…あなたは今頃この世にはいないでしょう。
私の心ない仕打ちにより大海原に身を放たれ、海の藻屑として消え去ってしまったのですから。
アンドレ、わたしはあの方と結婚します。
本来ならば、あなたが手にしていただろう幸せを、わたしは卑劣な方法で奪い取りました。
許してくださいとは言いません。
わたしは、あの方のためになら…どんな悪役にでもなってみせるのです。

彼は遠い彼方にいるだろうかつての主人を思い、そっと目を伏せました。

長くのばした柔らかい髪が、風に吹かれてはふわりと浮かびました。
優雅で整った顔立ちには、今は哀しみの色さえ見て取れます。
宵の入り口へと向かう冷たい空気が、ただただ彼の高ぶった心を冷ましてくれるのでした。

ふと、彼の耳に喜びに満ちた高い声が飛び込んでまいりました。
驚いて目を開くと、そこには思いもしなかった光景が広がっていたのです。

「オ、オスカル嬢!それに…アンドレ…!?」

彼は我が目を疑いました。
塔のふもと、誰も立ち入らないような草木の茂みで、愛しい王女と黒い髪の男が抱き合っているのです。
それはもう、うれしそうに!

「な、なぜだ…たしかにあの男は…わたしが海へ放り込んだはず。なのにどうしてここへ…!」

しかし、それよりも信じられないのは、二人のすぐ側で見守るように存在していた一羽の大きなカラスでした。
夜の闇よりも真っ黒な翼、岩さえをも砕いてしまいそうな鋭いくちばし、
にらみつけられたら誰でも石になるだろうメデューサのごとき恐ろしい瞳。
彼は恐れおののきました。
そして腰を抜かしてただ震え、神に祈るのでした。

ああ…ああ…なんということだ。
あの男…あの男は悪魔に魂を売ってまで、あの方に会いに来たとでもいうのか。
それほどまでにあの方を愛していたというのか。
神よ…我を守りたまえ。愛しきかの美女を守りたまえ。
そして悪魔に魅入られた哀れな男の魂を救いたまえ。
ああ…オスカル嬢、その男は死んでいるのだ!死んでいるのだ!

ジェローデルは思い立ったように震える足で立ち上がり、塔の長い螺旋階段を駆け下りていきました。
必死の形相で栗色の髪をなびかせ、一目散に走り出しました。

まだ…まだ大丈夫だ。
わたしにはロザリーという人質がいる。
あの娘がいる限り、誰もわたしに逆らうことはできないのだ。
何が悪魔だ、何が亡霊だ。
相手は死人、所詮わたしにかなうはずがない。
オスカル嬢はわたしの妻だ…!

ジェローデルは力の限り走りました。
少しでも速く、速く。
しかし、あまりにも焦っていたために、彼は致命的なミスをおかしていたのに気づきませんでした。
そう、彼の走り去る姿を見た者がいるのです。

「アンドレ、あれは…!」

それは彼ら…そう、運命的な再会を果たしたオスカルとアンドレ、そしてあのカラスでした。

「ジェローデルだ、間違いない!」
「あんなに急いで、いったいどこへ行くつもりだ?」
「そんなのおれの知ることか!ちくしょう、よくもオスカルを…!」
「アンドレ、おまえは黙ってな。王女さまよ、心当たりはないのか。あっちは城下町だぜ」

アンドレと再会したオスカルは、すっかり以前のような鋭い頭脳を取り戻していました。
冷静になって今までのことを振り返り、思い出し、考えました。
すると、ピンと浮かび上がることがあったのです。

「…ロザリー…?」
「どうした、ロザリーに何かあるのか?」
「アンドレ、わたしたちはきっとジェローデルに見られたんだ。大変だぞ、ロザリーが危ない!」
「い、いったいどうして…」
「説明している暇はない。行くぞ!ロザリーを助けるんだ」

アンドレは混乱したままで、しかし大きくうなずきました。
そしてオスカルの後に続き、ジェローデルを追って夜の闇の中を駆け出したのです。

オスカルの剣を握る拳は固く、またアンドレの大地を踏みしめる足も力強いのでした。

大きなカラスは彼らと共には行かず、ただ走り行く二人を見守っておりました。
闇に溶け込んでしまいそうな翼をぴくりとも動かすことなく。

がんばんなよ、お二人さん。
これはあんたらでどうにかすることだ。
おれはもう、何も口出しはしやしねえ。これでとうとうおさらばよ。
あとは二人で幸せにでも何でもなりやがれ。
おれさま、アランは帰るべきところに帰るからよう…。

そしてうっすらと笑みを浮かべると、二人に別れを告げることなくどこかへ飛び去っていきました。
ひとつの手がかりも…そう、黒い羽の一枚さえ残さずに。

あばよ、アンドレ…そして王女さま。せいぜい幸せに暮らすんだな。

カラスは誰に見とがめられることもなく、闇に消え去っていきました。


その頃、ジェローデルは城下町の館からロザリーを引っ張り出そうとしていました。

「出ろ、出るんだ!」

ロザリーは突然の恐怖に泣き叫んで、ただ「放して、放して」と繰り返しておりました。
乗組員の仲間たちは彼女をなんとか助けようとしました。
ですがそれがかなうはずもなく、彼らの後ろには負傷した男が数人伏せっております。
ジェローデルの手元には銀色に鈍く光る小さな刃。
その切っ先はうっすらと赤く染まっておりました。
ロザリーは後ろを振り返り、振り返り…。
そして見るたびに涙を流すのです。
ますますの恐怖に身を震わせるのです。
もう、気がふれてしまいそうでした。

「そこまでだ、ジェローデル」

しかし、突然事態は急変しました。
ちょうど建物の外に出たときでしょうか、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたのです。

あれだけの力でロザリーを引っ張っていたジェローデルの動きが急に止まりました。
ただ彼女の腕を掴む手はそのままに、じっと立ち止まって声の主を見据えております。
ロザリーも目を見開くことしかできずに、驚きのあまり、気づけば涙はとまっていました。
様子をうかがいに負傷した体をかばいながら這い上がってきた乗組員の仲間たちも、皆、息を飲みました。
皆が目の前の光景に息もできずに動けなくなっておりました。

ゆっくりと近づいてくる声の主は彼ら皆がよく見知った者。
美しい黄金の巻き毛、白くすんなりとしたしなやかな体つき、それにぴりぴりとした凍りつくような鋭い眼差しはまさしく彼女。
そう、オスカルです。悲しみに打ちひしがれていた、あのオスカルです。
しかも、それだけではありません。
彼女の側には、寄り添うようにしてアンドレが立っているのです。
夜の闇にそれよりも黒い瞳を真っ直ぐこちらに向けて。
彼はまったくの無傷でした。
そして、どうにも衰弱しきっているようには見えず、今は炎のように熱い生気がじんわりと感じられるのです。
彼らは卒倒してしまいそうでした。

「ジェローデル、よくも今まで好き勝手してくれたな。今度はロザリーを連れて、いったいどうするつもりだ!」

オスカルの迫力ある声音にほとんど怯むことなく、ジェローデルはあの不敵な笑みを浮かべてみせるのでした。
そしてロザリーを無理やり抱え込み、すでに赤く染まりかけた銀のナイフを彼女の喉に押し付けたのです。
そう、あの時、船の中でオスカルを脅迫した、あの時と全く同じように。

「ロザリー!」

乗組員たちが叫びますが、状況が変わることはありません。
ジェローデルはますます刃物を握る手に力をこめて、低い声で申し立てるのでした。

「オスカル嬢…わたくしはあなたを傷つけるつもりはありません。ただわたくしは、そこにいる悪魔にこの世を去っていただきたいだけなのです。なぜ彼が悪魔に魂を売ってまでしてあなたのところに戻ったのか、わからないわけではありません。しかしオスカル嬢、目をお覚ましください。彼は死んだのです。そこにいる男は彼の形をした亡霊。あなたには相応しくありません。彼があなたのもとを離れ地獄にその身を潜めるとき、わたくしはこの娘を放すといたしましょう」

オスカルは彼に何か怒鳴りつけようとしましたが、それをアンドレはゆっくりと制しました。
そして、自ら彼に近づいていきました。
そう、ゆっくり、ゆっくりと。
口を堅く結んで、表情をひとつも変えることなしに。
黒い瞳には生命の揺らぎが感じられました。
なにか、強い意志がそこには宿っておりました。
ジェローデルをはじめ、ロザリーも乗組員たちも皆動けずに、背筋に冷やりとしたものを感じました。

「ジェローデル」

ジェローデルはごくんとつばを飲み込みました。
気が遠くなりそうでした。
心臓が早鐘のようにドクドクと鳴り響き、どんなことにも動じない強靭な精神は今にも崩れてしまいそうです。

「こ…この悪魔め、地獄に落ちろ!」

そう叫ぶのが精一杯でした。
それ以外にはどうすることもできなかったのです。

「ジェローデル、おれは悪魔ではない。本物の人間だ。生きているのだ。信じられないかもしれないが、これは事実だ」

彼は何も答えませんでした。
ただアンドレの姿だけを凝視して、その言葉ひとつひとつに耳を傾けるだけしかできなかったのです。
彼の言う通り、ジェローデルどころか、ロザリーや乗組員たちでさえもその言葉が信じられませんでした。

「ジェローデル、もうよせ。ロザリーを放してやるんだ。さもなくば、おれはこの薄汚い行いをみんなに打ち明けるぞ。おまえはそのナイフでロザリーの喉を掻き切り、乗組員たちを八つ裂きにし、おれを刺し殺すがいいさ。ただし、そんなことをしてみろ。その時こそおまえはもうこの国では生きられまい」

ジェローデルはわなわなと震えました。
鋭いナイフがゆらゆら月の光を反射して、彼は低くうなっておりました。
悔しさのためか、下くちびるを強く噛みしめ、今にも真っ赤な血がこぼれてきそうです。
ロザリーは震える彼の必死の形相を垣間見ました。
しかし、その直後、彼はナイフを投げ捨て、ロザリーを突き飛ばし、すらりと長い剣を抜いたのです。

「悪魔め…こ、このわたしがおまえを成敗してやる!」

そう言うやいなや、彼はものすごい形相で彼に切りかかりました。
ロザリーが息をのみ、そして乗組員たちは声も出ずに叫びました。
小さな銀のナイフは地にその身を打ちつけ、カンカンと無機質な音をたてて転がります。
青白い月の光は恐ろしい光景を煌煌と映し出し、固唾を飲んで見守っていたフクロウがバサバサと飛び立ちました。
ジェローデルの鋭い刃は月明かりを反射して、金属の固い音とともにそこで止まっていました。

「オ…オスカル嬢…」

ああ、そうです。オスカルなのです。
彼女が自らの剣で、愛する男を守ったのです。
アンドレは瞬間的にオスカルに弾き飛ばされて地に尻をつき、その美しくも勇ましい姿を凝視しておりました。
まるで時間が止まったみたいに皆が息をするのも忘れていました。
ジェローデルをにらみつけるオスカルの瞳には、剣よりも鋭い光が宿り、彼の心を惑わすのに十分でした。

「ジェローデル…この国を去れ」

いつもよりも格段に低い声でオスカルは申し付けました。
ジェローデルは整った顔を青くして、その瞳から目を逸らすことができずにいました。

「もうここにはおまえの居場所などない。わたしは父上にこのことを報告するつもりだ。そうすればおまえもただでは済まされまい。そうなる前にこの国から出ろ」

重なり合わせた剣もそのままに、オスカルは言いました。
ジェローデルは自らの手が震えていることに気がつきました。
この震えは…オスカルのところにまで届いていたのでしょうか。

「どうあがいても、もうあなたをわたくしのものにすることはできないとおっしゃるのですね?」
「そうだ」
「彼よりもわたくしのほうが立派な紳士だと知っていても?」
「おまえは紳士などではない。ましてや男でもない」
「冷たいことをおっしゃるのですね。では、せめてあなたの手でこの命を絶たれたい」
「……」

オスカルは息をつきました。
そしてゆっくりと剣を引くと、鞘の中にすらりとしまいこみました。
ジェローデルは剣を支える腕の力が抜けたかのように、だらりと両手を下げました。

「ジェローデル、わたしの言うことが聞こえなかったか。早くここを去れ」
「剣を抜いてください、オスカル嬢。あなたの愛が得られないと知った今、わたくしにはもう生きる望みも何もありません」
「わたしは無駄な殺生などせん。おまえならばこれからいくらでもやり直すことはできる。せいぜいそのすばらしい知恵を働かせるんだな」

オスカルは口元だけで笑いました。
そしてジェローデルを仕草で促すと、もうそれ以上は何も言いませんでした。
ジェローデルは悲しそうな笑みを浮かべました。

「わかりました。あなたがそこまでおっしゃるのなら…」

ジェローデルは剣を鞘に収め、向きを変えると暗い夜道を歩き出しました。
しかし、何歩も進まないうちに彼女のほうへ振り返り、つらそうな声で言うのでした。

「オスカル嬢…最後にもう一度だけ、言わせてください」

ジェローデルはゆっくりと目を伏せ、そして静かに言いました。
今まで誰も聞いたことがないくらいの、穏やかで、悲しそうな声でした。

「愛しています…心から…」


草木のささやきも聞こえそうな静かな闇の中、彼は去っていきました。
その後ろ姿は、ただ恋に溺れ、恋に墜ちてゆくひとりの哀れな男の姿に他なりませんでした。
オスカルも、それからその場にいた皆も、彼の姿が小さくなって消えてゆくまで見守っておりました。

ジェローデル…おまえは本当にわたしを愛してくれていたのだな。

オスカルはそっと瞳を伏せると、少しだけ目頭がじんわりとしてくるのを感じました。
そして、彼女の本当に愛する人がその細い肩を抱き寄せたとき、こらえることもできなくなった涙が一気に溢れ出しました。

気がつけば、二人は剣を投げ出して抱き合っておりました。

「アンドレ…アンドレ…!」
「オスカル…」

二人の流した涙は再会の喜びの涙なのか…それとも哀れな男に対するはなむけの表れなのか…。
それは彼ら自身もわかってはおりませんでした。
ただ、今は目の前にいる存在のみが愛しくて、仲間たちの暖かさに囲まれ何度もくちづけを交わしました。
想いの丈をこめ、喜びと愛の深さにうちひしがれながら、夜を通して二人は抱き合っておりました。

「ああ、愛している、愛している…」

オスカル、おれは今この時ほど幸せだと思ったことはない。
この輝く黄金の髪も、宝石のような青い瞳も、それから芳しい白い肌も、吐息も、声も、すべてがおれを満たしてくれる。
おれの髪も、目も、くちびるも、爪の先でさえおまえがほしいと叫び声を上げている。
おれは言おう…。
陛下に申し上げよう…。
おれがほしいのは…唯一手に入れたいと願って止まないのは…あなたの娘…オスカルですと…。


さて、この後、アンドレは本当に王様に自分の気持ちを打ち明けました。
オスカルも隣に従い、二人で頭を下げて結婚の許しを請いました。
王様はたいそう驚かれましたが、いったいどうしたことでしょう、二人の結婚をお許しになったのです。

王様は感動しておりました。
アンドレは遠い遠い海の向こうから、オスカルのためだけに戻ってきてくれたのです。
なんという忠誠心!なんという愛情!
二人は再会して九日目にして、とうとう式を挙げることができたのでした。

美しい王女の初めて着るドレス、それはウェディングドレスでした。
オスカルの瞳のような青と、彼女の美しい肌をいっそう際立たせる白、そして銀色の鮮やかな刺繍が品のよさを物語る…、
そうです、アンドレのお父さんがオスカルのためにつくってくれた、あのドレスなのです。

アンドレや彼のご両親は質素なことを恥じて反対しておりましたが、オスカルにとっては大事なドレス。
だって愛する人のご両親が初めて自分のために用意してくださったものなのですからね。

さあさ、わたしも愛し合う二人のために、お祝いの言葉を贈るといたしましょう。

おめでとう、王女さま!そして新しい王子さま!いつまでも末長くお幸せに!


え?その後ジェローデルはどうしたかって?
ああ、皆さん、お気になさらずに。
大丈夫です。彼は今頃、故郷フランスで家族と仲良くやっているのですから。

彼は気づきました。
自分が恋して止まなかったのは、オスカルのあの晴れやかな笑顔だったことに。
愛する人を傷つけ、悲しませることは、この世で一番の罪だと知ったのです。

もう彼は道を踏み外すことなどありません。
だって本当に大切なものを知ることができたのですもの。
懐かしいフランスで、きっと幸せに暮らしてゆけることでしょう。


ああ、そうそう、あのカラスのアランですが、一応彼の正体をみなさんにだけこっそりお教えしておくといたしましょう。

彼はその後、一度も二人の前にあらわれることはありませんでした。
なぜかって?
みなさん、覚えていらっしゃるでしょうか。
アンドレが絶望の孤島でカラスと交わした契約を。
二人の子供が二歳になったとき、男の子ならば彼を引き渡すという、あの約束です。

カラスのアランの予言どおり、式から九ヵ月後、二人には本当に子供が生まれました。

黒髪の柔らかい巻き毛に黒い瞳がたいそうかわいらしい…そう、女の子だったのです。

アンドレよ…、おれはわかってたぜ、二人の間に生まれる子供が女の子だってこと。
あの時…あの場所で…もしもおまえさんが「子供はやめてくれ」と言わなかったら…
自分が助かりたいばかりにおれの取引にすぐ乗っていたら…
そうしたらおれは本当におまえさんたちの子供を奪っていたよ。
なあ、アンドレ、おまえは本当にいい奴だったぜ。
さすが、おれさまをごみ捨て場から救ってくれただけのことはある。
死人だって、恩返しくらいはするもんだぜ。なあ…。

さあ、察しのいいみなさんはもうおわかりですね。
彼がいったい何者なのか。
なぜアンドレを助けたのか。


そしてオスカルとアンドレは、かわいい子供と一緒に、いつまでもいつまでも幸せに暮らしていきましたとさ。


お話は、これでおしまい。