ブルーグレイ

VOL..1


やはり、来るんじゃなかった。
むしゃくしゃしてたから、誘われるままに、ついてきてしまったけれど。
もともと、音楽なんて聞きたい気分じゃないのに。
「そんなに退屈ですか?」
仏頂面のオスカルに、隣にいるジェローデルが問いかけてくる。
私はそんなにあからさまに、つまらなそうな顔をしているのだろうか。
「ああ」
話すのも面倒くさそうに、ふん、とそっぽを向いた。
機嫌の悪いときなら何でも言える。
ああ、そうだ、今の私なんて鬼だ、鬼畜だ。フェルゼンの阿呆。お前が悪い。
が、しかし、とオスカルは隣の男を見る。それとこの男とは関係ない。
だけど、無性に誰かに八つ当たりしたかった。一種の甘えか。
うん、そうだ、そうに違いない。
しかし、そんな彼女の心配をよそに、彼は変わらず微笑を浮かべて演奏を楽しんでいるようだった。何だ、大丈夫みたいだ。この男はいつだって余裕だ、心配して損した。



――――数時間前のこと。
オスカルはいつもと変わらず軍務についていた。
フェルゼンは、恐らく今日の宮中舞踏会にもやって来るのだろう、胸がちくりと痛む。
きっとまた、今宵も二人は熱い視線を交し合うのだ。自分はただの第3者。そこは王妃とフェルゼンの世界。
彼は、私の気持ちに気付かない。だけど、ああ、私は苦しんでいるのだぞ。
じわっと瞳が潤んできた。
今、フェルゼンには会いたくない。
今日はもう、どうせ舞踏会の最後まで残っていなくともいいのだから、…部下の誰かに任せてしまおう。普段は任務をきっちりこなすオスカルだが、そう思って今日はそのまま私室に戻ることにした。どんないいわけをしようと考えながら、途中で会った副官にあとを任せて、オスカルは早々に退席した。
しかし、そのとき。
「オスカル!」
前方から屈託の無い微笑みながら歩いてくるのは、紛れも無いフェルゼン伯爵だった。
オスカルは、心の中で密かに片眉をひそめ溜め息をついたが、顔ではとりあえず取り繕った笑みを浮かべた。

その後、彼との取り留めのない話題を適当にあしらい、オスカルは私室に戻った。
疲れがどっと出て、つい大きな溜め息になる。
分かっている、彼は何も悪くない。素っ気無い態度を取って、大人気なかったかもしれない。彼はいぶかしんでいることだろう。
でも、あんな取り留めの無い会話。思えば自分とフェルゼンは、親友とは言っても、所詮、うわべだけの付き合い。心を割って話したことも、自分の醜さを曝け出した事も、ない。
お互いの清廉さだけを張り合って、何が親友か。
オスカルは深いため息をつくと、そのまま上着を脱ぎ捨てベッドに突っ伏した。
額をシーツに押し付けてぎゅっと目を瞑ると、脳裏にアントワネットとフェルゼンが浮かぶ。周辺に花が舞い、二人はくるくると軽やかに踊り、明るい笑みを振りまいていた。
オスカルは、脳裏に浮かぶアントワネットの姿を追っていた。彼女の女らしい柔らかいシルエット、小首を傾げる可愛い仕草、愛らしい唇。
どれを取っても私には無いものだ。
私、もし男だったのなら、…やはりアントワネット様やロザリーのような女性らしい女を好きになったのだろうか。やはり、こんな男のような女を好きになりはしないのだろうか。
オスカルは、おもむろにベッドから起き上がると、鏡を見た。
大きな鏡に、生まれたときから馴染んできた美しい顔が映った。
アントワネットのそれとは違うが、理知的な唇。細い首。鎖骨を辿ってそっと襟元を解いていくと、白い胸元が覗く。
オスカルは、じっと自分の胸元を見つめていた。白い形の良い膨らみは、肉感的ではないが、美しいと思う。自分で見ても、綺麗だと思う。
軽く指先で張りのある胸に触れると、オスカルの心に暗い翳りが射した。
“私だって、こんなに美しいのに”
誰に対して言うわけでもない思いが去来した。
男として生きることを拒絶しているのではない。フェルゼンが以前言っていたように、漠然とした寂しさがあるわけではない。むしろ、その逆だ。
目の前に、初めて愛した男性がいる。軍服で閉ざされてはいても、女として充分綺麗な自分がいる。フェルゼンに会った後に限って、いつもこんな虚しい気持ちになる。だからお前は嫌いなんだ……
オスカルは、裸の上半身を見つめながら、ぽとりと涙を流した。


が、オスカルがそんな感傷に浸っているのも、ほんの束の間だった。涙にくれて鏡の中の自分をじっと凝視していたが、考えれば考えるほど、だんだん腹が立ってきた。ああ、何か、無性に、……むしゃくしゃする。最高に気分が悪くて今にも爆発しそうだ。可愛さ余って憎さ100倍とはこのことだ。これが、世に言う逆ギレ……。
誰かにぶつけたい、誰かに……。ああ、今ならあの小憎らしいブイエのじじぃだってかっ飛ばせる自信があるぞ。いっそド・ゲメネとの決闘騒ぎをむし返したっていい。アンドレ、何でお前は、こういうときに限って部屋にいない。
中でオスカルが、湧き上がる何かをふつふつと煮えたぎらせているとは露知らず、ドアの前に立ったのはジェローデルだった。



そんなわけで、今夜この演奏会に来たのである。
何かを察しているのか、ジェローデルは何も言わない。
オスカルは、自分のつっけんどんな態度も、何だか強がっているようで恥ずかしくなってきた。子供でもあるまいし。
「なぁ」
オスカルが声をかけた。
「はい?」
ジェローデルは紳士的に微笑んで答えた。それを見て、オスカルはなぜ自分がついてきたのかが分かった。
彼の自分に向けられる笑顔は、いつも自分を女性として見ている顔だったからだ。
彼は、恐らく私のことを好いている。愛しているのかもしれない。
そのことに、うすうす気付いていた。
どちらにしても、私は女として自信がなくて、……惨めで、虚しかった。
君は女として魅力的だ、と、誰かに言って欲しかった。この男が、丁度よかったわけだ。そう思うと、何だか人を利用してるみたいで気が引けた。
「どうしました、黙りこくって」
「…なんでもない、やはり、そろそろ帰ろうと思って―」
そこで終われば、全て丸く収まり、何も起きないはずだった。
が、しかし、言いかけたオスカルの視界の端に横切ったのは、他ならぬフェルゼンだった。
「?」
思わずジェローデルを押しのけて、じっと凝視する。
黒っぽい鬘を被って変装してはいるけれど、あれは間違いない、彼だ。
何でこんなところに?今夜は舞踏会だろう。
しかし、比較的目立たない、後方の見通しの悪い席にいる彼に、皆は気付かない。オスカルとて、ジェローデルに顔を向けていたから、気付いたのだ。
それと、もう一つの信じられない事実。
その横に、これも普通の貴族の娘のドレスを着てはいるものの、見間違えるはずもない、茶色の鬘を被ったアントワネットの姿が。
王妃様!!
オスカルの脳裏に一瞬、王妃を安全な場所に…、という近衛連隊長としての考え浮かんだが、すぐに掻き消された。
扇で顔を隠して、何やら仲良く喋りあう二人の姿に、オスカルの中の何かが切れた。
むくむくと、妙な提案が湧き上がってきた。
もはや、歯止めはきかない……
幸か不幸か、二人はオスカルたちのすぐ後方に居た。
さっき、オスカルが彼らを見つけたとき、顔は見えたはずなのに、フェルゼンもアントワネットも周りが目に入らないのか、一向に自分に気付かない。
それとも、ここに来る前、私が、いつもの軍服から、私服のブラウスとキュロットに着替えたからだろうか。
全く、恋は盲目。
ふん。
オスカルは、彼らが動き出すのを待った。
案の定、フェルゼンとアントワネットは、幕間にこっそりと席を立った。
いまだ、そう思ったオスカルは、おもむろに、ぐいっとジェローデルの腕を掴むと、何事かと驚く彼をずりずりと引き摺って、フェルゼン達の後を追った。
劇場のすぐ横、森の中へと入っていく二人。
暗いので、お互いに見つかる心配は無い。
オスカルは、事情を飲み込めないジェローデルを黙らせて、気付かれないようにそのあとを追った。アントワネットのドレスの色が見えた。足を止める。
「どうしたんですか、一体…」
それには答えず、10mくらい先の、木立の間のじっと二人を見た。
ふわりと広がった面積の大きいドレスは、明るい色のせいもあって暗闇でも容易に見分けがついた。反対に、男物のフェルゼンの渋い色の服装は、目を凝らさないとほとんど見えない。
と、いうことは、あちらからもこっちは見えにくいわけだ。
こちらは二人とも男装だし。
思えば、つたない思い付きだった。それでも、オスカルは何もせずにはいられなかった。
「しっ、静かに…」
それだけ言うと、オスカルはいきなり、がばっとジェローデルに抱きついたのだ。
いや、倒れこんだというべきかもしれない。
オスカルに押し倒されるかたちになったジェローデルは、目をぱちくりさせながら彼女を見た。
倒れこんだ身体の重みに、落ちていた細い枯れ枝が、ぱきぱきっと音をたてる。
その音にはっとして、口付けを交わしていたフェルゼンとアントワネットはこちらを見遣った。

「口付けをしろ」
「え」
「聞こえなかったか、口付けをしろと言っている」
出来る限り囁き声で怒鳴る。
「命令だ」
言うが早いか、ジェローデルはオスカルの両腕を掴むと、オスカルの身体を地面に押し込むようにして、その唇に食いついた。
「ん、んむ…」
予想外に強烈な彼の反応に、オスカルは怯んだが、今だけなのだから、と自分に言い聞かせ、彼のするがままに口付けさせていた。
「誰か、いるのか?」
アントワネットを後ろ手に隠すようにして、フェルゼンが探りに来た。
そこで彼らが見たのは、地面に倒れこみ、部下と熱い口付けを交わす、見慣れたブロンドの親友の姿だった。