急に降ってきた雨でずぶ濡れになってしまった。オスカルは忌々しげに張り付いた軍服を脱いでいた。と、その時。
「?」
背中にあるコルセットの紐を解こうとして手が止まった。何か挟まっている。それが紐を巻き込んでいるのか、雨で湿った紐は一向に解けない。
何が挟まっているのだろう、今日はいつも通り侍女に締めてもらった。いつもと変わったことといえば、今朝、白木蓮が咲いたことくらいだ。まるで、オスカル様のお肌のようでございますね。若い侍女がそう言って、まだ花びらが綻び始めたばかりの花をいくつか持ってきてくれた。まだ年若い侍女は、その花びらを一枚引き抜いてオスカルに見せたのを思い出す。そっと、紐の結び目に指を這わせる。その感触を読み取ろうとするが、よく分からない。オスカルは仕方なく、脱いだブラウスを胸元に当て、近衛の執務室の扉をそおっと開けた。
「…アンドレ?」
執務室の外にアンドレの姿はない。かわりに、近衛の副官が3人何やら話しこんでいた。オスカルは自分の姿をみた。本来なら人前、しかも男性に見せられる格好ではないのだが…
「アンドレはどこにいる?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、オスカルが扉から覗き込むような姿勢で顔と白い左肩を見せていた。胸元をブラウスで隠しているが、その姿に一同は仰天した。
「あ、アンドレなら、先程将軍に呼ばれていきました」
平静を装いながらジェローデルが答える。オスカルは舌打ちした。
「なら、いい。お前たちの中で手が器用な奴、ちょっと来い」
「は。手が器用な…ですか」
「そうだ、ぐずぐずするな」
そのまま、扉をぱたんと閉めた。訳が分からないながらも、困惑しながらジェローデルが部屋へと入って行った。
衝立の陰で、オスカルがコルセットだけ身に着けた裸の背中を向けていた。
「これ」
オスカルが自分の背中を指差して言った。
「何ですか?」
「雨で濡れてきつくなっているし、何か挟まっているみたいなんだ。お前解いてくれ」
ジェローデルはしばし固まった。解いてくれって、コルセットの紐をか?ここで?私が?
彼が狼狽していると、オスカルが重たげに髪を首の真ん中で分けて、肩越しに胸の方に垂らした。
「この方がやりやすいだろう、時間がないんだ。早く」
「は」
急かされて、仕方なく彼はオスカルのコルセットの紐に手をかけた。それほど絡まっているのかと懸念したが、思ったほど面倒ではなさそうだ。しかし、細い背中だな。どうしても意識は別の方へと引き寄せられるが、彼は必死に紐を解いた。
妙な沈黙が流れた。つい呼吸を気にしてしまう。何も、自分が女だということを失念しているわけではない、あくまで、軍の上司と部下という関係を信頼して、こんなことを頼んでいる。彼が紐を解くのに躍起になっているためか、時折背中が小刻みに引っ張られる。雨に濡れているためか、少し揺れるたびに自分の髪の香りが立ち昇るのが分かる。まずいな、これは…。互いに何となく、気まずい雰囲気が漂っていた。早く解いてくれよ…、オスカルは心の中で願った。
「もう少し、待って下さい」
あと少しで解けそうだ。彼は溜め息をついた。
全く、隊長は困ったお方だ。こんなこと、恋人でもない男性に平然とやらせて、男が誤解してその気になったらどうするんだ。ああ、でも、あれか。さっきアンドレを探していたということは、こういう場合、いつもは彼が解くのか?それも危ないな…男に頼むくらいなら、その辺の侍女にでも頼んだ方がいいのに。しかし、それだとどこかから話が漏れる可能性があるのか。噂好きな宮廷人たちのこと、連隊長はもともと目立つお方だし、そのお方のコルセットを解いたとなれば、おしゃべりな侍女が問われるままに言いふらすということもありえるか。でも、だからといって…
そんなことを考えながら、手を紐に集中させるのだが、どうしても目の前にある白い肩と首筋、うなじが気になってしまう。金色の髪も、こんなに近くで見たのははじめてかも。後ろ向きで胸元が見えないのが、せめてもの救いだった。
「解けましたよ」
ひときわ大きな溜め息がこぼれた。彼は、人差し指と中指で、一部がやや茶色くなった白い花びらを摘みあげた。
「これ、紐に絡んでましたよ」
オスカルはその花を見た。やっぱり、今朝のあの花か。何でこんなところに挟まってるんだ。ふいに、あの年若い侍女の顔が浮かぶ。彼女は悪戯好きだったな。全く、何がオスカル様のお肌のようでございますね、だ。オスカルは溜め息をついた。
「ああ、ありがとう。悪かったな、もう戻ってよいぞ」
「この花はどうしますか?」
何でそんなこと聞くんだ?オスカルが怪訝な顔を向ける。ジェローデルは苦笑いした。
「どうって、別に。その辺に捨てておいてくれればよい」
「捨てるのですか?」
「そんなもん、持ってたって仕方ないだろう!」
ジェローデルの問いに、オスカルはぷっと吹き出した。何を当たり前の事を聞くんだか、この男は。でも、何となく、さっきの気まずい雰囲気を脱することが出来て、ほっと一安心していたオスカルだった。
「なら、私が頂戴しても宜しいですか」
「は?」
「お手伝いをしたご褒美に。それとも隊長、他にご褒美を下さるのですか?」
「そんなもの無い」
「それなら良いでしょう。頂きますよ」
ジェローデルはそう言うと、白い花びらをひらりと指に挟んだまま振って、笑顔で執務室を出て行った。何だ、あいつ、あんなの貰って嬉しいのか。変な奴。オスカルは解せなかったが、とりあえず紐が取れたので、胸を押さえていたコルセットをそっと外すと、着替え始めた。

暫くして、アンドレが執務室に帰って来た。
「ただいまオスカル、すまないな。旦那様に急に呼ばれて、ちょっと用を言いつけられていたんだ。思ったより遅くなった、お前、雨、大丈夫だったのか」
「大丈夫じゃないさ。全身ずぶ濡れで大変だったんだからな。コルセットの紐に白木蓮の花びらが挟まってて、なかなか解けなくて」
「え、そうだったのか。それで、どうしたんだ。侍女でも呼んだのか」
「いや、そんな時間無かったし、ジェローデルに解いてもらった」
「……」
「あいつ、変なんだぞ。挟まってた花びら、ご褒美に頂きますよって。あんなの、どうするんだか。本当、変な奴だよな」
オスカルは、楽しそうに笑いながら事の顛末を聞かせたが、反対にアンドレは、話の流れを理解するに従って、どんどん不機嫌そうな顔になっていった。
「どうしたんだ、アンドレ」
「オスカル、お前な…」
「ん?何だ?」
「…いや、何でもない」
「…?」
アンドレはそのまま執務室を出ると、なぜか段々と腹が立ってきた。
全く!あいつときたら、自分が女だって自覚あるのかよ。いくら中身は男として育ったって言ったって、身体は女なんだぞ。そんなの、もし襲われても文句言えないじゃないか、相手によっては、誘ったと思われたって不思議じゃないことだぞ、コルセットの紐を解かせるなんて。何も、ジェローデルじゃなくても、侍女でも何でも呼んでやらせればよかったんだ。ああ、それに、白木蓮。
花びらがコルセットの間に挟まってたって、それをあいつがご褒美に持っていったって。オスカルの奴、本当に分かってないのか。馬鹿じゃないのか、きっと今頃、あの男、その花びらに口付けでも頬擦りでもしてるぜ。いや、いっそのこと、乾燥させて一生とっておくかもしれない。もっと悪くすると夜…、いや、もうやめよう。きりがない。こんなこと考えてる俺も変態だぜ。でも、あいつはきっと今はもっと変態だ…。ふ、あの伊達男に変態なんて失礼かな。ああ、でも…
考えれば考えるほど無性に腹が立つ。きっとジェローデルにとっては、オスカルの肌に直に触れていたものに触れることで、あいつの肌に触れた気にでもなっているに違いない。そう思うと余計にむかむかしてくる。
「全く、それもこれも、お前のせいだからな」
アンドレは窓から覗く厚い雲を睨んだ。雨を降らせた張本人。すでに泣き止んだその灰色の雲は、その隙間から徐々に白々しい陽射しを見せているところだった。