出逢い=序章=
その日、ジャルジェ家は慌しい時間の中にあった。家事一切を取り仕切っている女
中頭のマロン・グラッセが不在だったため、屋敷の女中たちはいつもと同じ仕事でも
なかなかスムーズにはかどらないため、ヒステリックな緊張感が使用人の間に漂って
いた。御者のいない4頭立て馬車の馬のように、各人が動いていても、マロン・グ
ラッセがいないと屋敷内の運営はまとまりがない様相を呈していた。女中頭代理をし
ているニコルは若い女中達に指示を与えながらも、ため息とともにマロン・グラッセ
の帰る日を指折り数えていた。
当主のジャルジェ将軍とその妻は使用人たちの喧騒をよそに、マロン・グラッセの
到着とともにこの屋敷の新たな住人となるはずの少年に思いを馳せていた。夫妻がマ
ロン・グラッセから彼女の孫の少年について相談を持ちかけられたのは、まだほんの
1週間前だった。夫妻はそれまで、長年屋敷に奉公し、しっかりものの器量を生かし
て彼らの娘6人までも育て上げたマロン・グラッセの縁者について詳しく知らなかっ
た。娘が一人、南の町で暮らしていることくらいしか知らなかったず、彼らにはそれ
で十分だった。
寡婦になったマロン・グラッセが屋敷に奉公にあがったのはジャルジェ将軍がまだ
結婚前の青年時代だった。血気盛んな年頃のレニエ・ド・ジャルジェにとって、新た
な使用人の氏素性などまったく興味のないことだったが、ただ身元がしっかりしてい
たために雇ったことは彼の両親の話で知っていた。真面目で、機転が利くマロン・グ
ラッセは屋敷内の仕事を勢力的にこなし、いつの間にやらジャルジェ家にとってなく
てはならない使用人になっていたのだ。思えば、夫妻は結婚当初からこの働き者の小
柄な明るい夫人に世話になり通しだった。若い”奥様”が新しい生活に慣れるまで、
親身になって仕えたのも彼女だし、次々に生まれた娘達の世話を一手に引き受けてく
れたのも彼女だった。若奥様は当時の貴婦人としては珍しく、派手なことが嫌いな奥
ゆかしい女性で、たおやかさの中にも強さを秘めた美しい女性だったことがマロン・
グラッセにとっても嬉しかったのだ。彼女は、屋敷に時々やってくる、派手で取り澄
ましたほかの貴婦人とは趣を異にした若奥様が大好きだった。夫妻にとって、既にマ
ロン・グラッセは使用人といえども、家族のような大切な存在だったのである。
そのマロン・グラッセが珍しく相談があると1週間前、ジャルジェ夫人の部屋を尋
ねてきた。屋敷の運営についての相談事はこれまでにもあったが、どうやら今回はそ
うした種類のものではない雰囲気がマロン・グラッセの苦渋の表情から読み取れた。
夫人がマロン・グラッセのほうに向き直るや否や、今まで見せたことのない涙が彼女
の目から滝のように溢れ出したものだから、夫人はすっかり動転してしまった。いつ
も明るく、何事も笑い飛ばしながら屋敷を切り盛りしてきた彼女の涙に夫人はただ事
ならぬ事情を読み取った。
「どうしたのです、ばあや。何があったのです、あなたが泣くなんて。」
「お許し下さいまし、奥様。たった今、知らせを受け取ったのです。娘のノエラが亡
くなったと・・・。」
最後のほうは声にならぬ声で、マロン・グラッセはその場に泣き崩れてしまった。夫
人は彼女を抱き上げた。「娘の死」・・・それは母親として考えたくもない出来事で
あり、同じ様に娘を持つ母親としては、胸の痛む知らせだった。聞くところによる
と、マロン・グラッセの娘ノエラは、プロバンス地方の田舎町で平民の子供達を集め
て小さな学校のようなものを開いていた男と結婚したものの、事故で夫に先立たれ、
そのあと女で一つで息子を育てていたというのだ。まだ、娘の夫が生きていた頃、娘
夫婦は一緒に住まないかと何度となく手紙を寄越していたが、娘の幸せを邪魔するつ
もりもなく、ジャルジェ家を放り出せるはずもないマロン・グラッセは遠く離れたベ
ルサイユで娘家族の幸せを祈っていたのだ。それなのに、夫に先立たれ、それを追う
様にその娘までもが病で・・・。初めて聞くマロン・グラッセの家族の話に、夫人は
初めて、彼女がジャルジェ家では見せたことのない、彼女のもう一つの表情、母親と
しての思いを知った。いつもは愛嬌あるマロン・グラッセの顔が涙でくしゃくしゃに
なっている。
「奥様、わたくしのようなものの個人的な事情ではありますが、しばらくおヒマを頂
戴したいのです。急いで娘のもとに行ってやりたいのです。もう、娘に逢うことはで
きませんが、せめて墓に花を供えてやりたいのでございます。なかなか顔をみること
のできなかった親子ではございますが、せめて花を手向けてやりたいのでございま
す。」
「もちろんです、ばあや。一刻も早く出発なさい。旅支度はジャルジェ家でいたしま
す。」
「そんな、もったいない、奥様。わたくしはなんとか一人で行けますので。」
「何を言っているのですか、ばあや。あなたの年でどんなに急いでも10日以上はか
かるでしょう。今は遠慮しているときではありません。」
いつになく押しの強い夫人の物言いに、マロン・グラッセは素直に従うことにした。
何故なら、彼女には娘の死という悲劇とともに、大きな心配事があったからだ。
「それではお言葉に甘えまして。実は孫のアンドレの身の振り方も早く決めてやらな
いと、今ごろは他人の家で母親の死に打ちひしがれていると思いますので。」
夫人は、母親を失った少年を思いやっていたたまれない気持ちになった。
「ばあや、そのアンドレは何歳になるのですか。」
「はい、8つになったばかりでございます。」
「なんですって、それではオスカルと1歳しか違わないではないですか。そんな小さ
な子が・・・。誰か面倒をみる人はいるのですか?」
「いえ、おそらくは誰も。ノエラに姉妹はおりませんし、アンドレの父親も天涯孤独
の身だったので。養育費はわたくしがなんとかするとして、誰か育ててくれる人を探
して参ります。」
「待ちなさい、ばあや。レニエの許可を得なければいけませんが、是非そのアンドレ
を屋敷に連れていらっしゃい。」
マロン・グラッセは思ってもいなかった夫人の言葉に仰天した。
「とんでもございません。これ以上旦那様や奥様にご迷惑をかける訳にはいきませ
ん。」
夫人はなだめるようにマロン・グラッセの両腕をとって言い聞かせた。
「ばあや、娘さんとおまえが顔を合わせることの少なかったのは、おまえが我が家に
仕えていたからです。私たちはおまえの事情など知りもせず、長い間ずっと甘えてき
ました。これまでどんなに助かったか。娘達を育ててくれたおまえに言葉では語り尽
くせないほど私たちは感謝しているのです。そのおまえの孫が独りぼっちになったと
聞いては、これまでおまえをノエラさんから引き離して、娘を育ててもらった私達の
気がすみません。レニエはわたくしが説得します。アンドレを連れていらっしゃい。
それにオスカルにステキな友達ができるではありませんか。オスカルはレニエが男と
して育てているせいか、子供らしいところが欠けています。アンドレがあの子の友達
になってくれることで、あの子に子供らしい笑いを与えられるのではないかと思うの
です。これは私からのお願いです。アンドレをオスカルの友達として、この屋敷に住
まわせてください。」
「奥様・・・。」
夫人の多少強引な説得にマロン・グラッセはどうしたものか逡巡した。果たしてこの
ままお言葉に甘えていいものか、どうか・・・。とにかく、出発しよう。マロン・グ
ラッセは、悩むより先にするべきことがあると、夫人の申し出にとりあえずの承諾を
示し、出発準備にとりかかった。「旅の途中で考えてみよう。今は気が動転して、奥
様のお申し出に甘えていいものかどうか考える余裕がない。孫のアンドレも長い間顔
をみていないから、お屋敷の生活に順応できる子供かどうかもわからない。ノエラが
育てたんだから単なる悪がきでないことは想像できるけど、田舎者がこのベルサイユ
の貴族の館の生活ができるかどうか、不安だし。とにかく、アンドレに逢ってから
だ。」胸が破れるほどの傷心と、アンドレに対する不安を抱えて、彼女は娘の眠るプ
ロバンスに向かった。
夫人の申し出に、夫のレニエ・ド・ジャルジェはあっさり快諾した。マロン・グ
ラッセに対する恩返し、という点では夫婦意見が合致したようだ。普通の貴族なら
ば、使用人の個人的なことなど、意に介さないのだろうが、そこは生真面目なジャル
ジェ家の血で、レニエも妻の申し出を快く思ったのであった。夫があまりにあっさり
と承諾したため、夫人は嬉しくなってついついもう一つの彼女の思いを打ち明けた。
「ばあやへの恩返し、オスカルの遊び相手ということ以外に、わたくしがアンドレを
引き取りたいと思った理由がもう一つあるのです。あなた、何かおわかりになります
か?」
・・・ほかに何があるというのだ・・・、彼女の夫は妻の表情からその理由とやらを
読み取ろうとしたが、考えつかなかった。妻は楽しそうに言葉を続ける。
「わたくしは6人の子供を産みました。6人ともかわいい娘達。末のオスカルをあな
たは息子としてそだてていらっしゃるかもしれませんが、わたくしにとっては、やは
りあの子は娘なのです。かわいい、かわいい、わたくしの娘。ちょっと風変わりでは
あるけれど、娘以外の何者でもないのです。」
夫人はふふふと小さく笑いながらさらに続けた。
「娘たちを産んだことをわたくしは誇りに思っております。普通ならば、後継ぎの息
子を産まなかった女は当主の妻として失格なのかもしれません。でもわたくしは娘6
人を生んだことを何よりの幸せと考えているのです。でも、一度男の子を育ててみた
かったのです。娘とは違う、どんな行動をするのだろう、どんな風に遊び、どんなこ
とに泣いたり笑ったりするんだろう、どんな風に大人になっていくのだろう、と常々
想像しておりました。もちろん、アンドレを息子として育てることはできませんが、
我が家に小さな男の子が住むということを想像するだけでわたくし楽しくてしかたあ
りませんのよ。」
「ふむ、わたしにしてみれば、小さな男の子は2人になる、ということだが。まあよ
い。そなたがそう思うのなら。」
レニエ・ド・ジャルジェは、「女の考えることはわからん」とひとりごちながらも、
妻の楽しそうな期待を台無しにするつもりもなく、だまって妻の話に耳を貸してい
た。
「それから、あなた、お願いがありますのよ。アンドレがどのような子供かはわかり
ませんが、オスカルの遊び友達として、それなりの教育も必要と思いますの。オスカ
ルとまったく同じというわけにはいかなくても、オスカルの話し相手として十分な教
育をアンドレにも受けさせたいのですけれど。」
「ああ、オスカルは同じ年頃の子供に比べてかなり利発で大人びている。アンドレが
オスカルの友達になれる少年なら、教育は必要だな。わかった、考えてみよう。」
それから10日程経った。ジャルジェ家が当主も使用人たちも女中頭の不在に不自
由な日々を送りながらも、夫妻がまだ見ぬ少年に思いを馳せていると、執事がばあや
が帰ったと知らせてきた。その後、すぐに部屋をノックする音が聞こえ、マロン・グ
ラッセが入ってきた。
「だんな様、奥様、長い間留守にしまして、大変申し訳ございませんでした。先ほど
戻ってまいりました。私のことで長い間皆様にご不自由をおかけしました。」そし
て、彼女がドアの外から孫を呼び入れた。遠慮がちに入ってきたのは見事な黒髪と、
きらきらとした黒い瞳を持つかわいらしい少年だった。
「出逢い=ベルサイユへ=」につづく