出逢い=ベルサイユへ=



 プロヴァンス地方は、パリやベルサイユでは滅多に見れない溢れるような明るい陽光に輝いている。
地中海に面した海岸線を擁するこの地方の人々はフランスの中でも最も親切といわれ、ラテンの血を
濃く受け継ぎ、気さくで明るいのが特徴だ。
 そのプロヴァンス地方の都市の一つで、中世の一時期に法王庁が置かれていたアヴィニヨンの、その
東に位置する自然豊かなゴルドの村では、今、一人の若い母親の葬送の典礼が執り行われていた。
ノエラ・グランディエが、事故で先だった夫を追いかけるように病に伏したのはわずか数ヶ月前だった。
彼女の夫は、普通なら余程の金持ちでなければ受けられない教育を平民の子弟たちにも「生きるための
財産」として与えた情熱溢れる人間だった。そのため村人の信望も厚く、人々は彼の家族に対しても温か
な気持ちで接していた。ノエラが未亡人になっても、村人たちの多くは常に彼女とその息子のアンドレを
心配し、何かと世話を焼いていた。夫を亡くした傷心のままノエラが病床につき、そのまま帰らぬ人となっ
てしまったことに村人も心を痛め、小さなアンドレの行く末に心を砕く人も多かった。
彼女が残した手紙や日記で、彼女の母親がベルサイユの貴族の屋敷に奉公していることを知った近所の
友人が、至急、ベルサイユまで知らせを出したが、何分ベルサイユとゴルドの村ではかなりの距離で、今
日明日に母親がかけつけられるはずもないため、村人だけで葬儀を執り行うことに決めたのだった。
葬儀の日は初秋にも関わらず、陽気がまぶしいくらいに輝いており、明るく優しかったノエラの旅立ちにふ
さわしいと考える村人も少なくなかった。
 8歳になったばかりのノエラの息子、アンドレ・グランディエは、母の死の床からしばらく離れることができ
ず、母親と引き離そうとすると、普段見せたことがないような激しさで泣き出すものだから、近隣の友人た
ちは困り果てていた。しかし、母の死の次の朝には素直に大人の言葉を聞き入れるようになった。その代
わり、感情を失ってしまったかのように、泣くことも笑うことも怒ることもやめてしまい、葬儀の最中もずっと
一点をみつめたままで、その様子が人々の哀れを誘った。
 ノエラの葬儀を取りしきった隣人のパルク夫妻が、ノエラの母親の到着までアンドレの面倒を見ることに
したのだが、ノエラが生きていた頃は、誰にでも臆することなくすぐになついていたアンドレが、母親の死
後、ずっと誰に対しても他人行儀な態度を崩さなかったことがパルク夫妻を不安にした。「あの明るい子
が・・・。心が壊れてしまったのではないか。」夫妻は、感情を見せないアンドレに困り果てた挙句、とりあえ
ずしばらく様子を見ようという事にした。


 ジャルジェ家が用意した馬車でベルサイユからマロン・グラッセがゴルドの村に到着したのは、ノエラの葬
儀から7日後のことだった。娘が住んでいたはずの家の前には、アンドレを預かっている旨を書いた隣の
パルク夫妻の張り紙が張られており、マロン・グラッセは急いで、隣家に赴いた。扉をノックすると、亜麻色
の髪をまとめた愛嬌のある顔をしたパルクのおかみさんが顔を出した。
「あの・・・、わたしはマロン・グラッセと申します。ノエラの母親でございます。孫のアンドレがこちらでお世
話になっているとの張り紙を見て参ったのですが・・・。」
パルクのおかみさんは愛嬌のある顔にさらに愛嬌たっぷり笑顔をたたえて、マロン・グラッセを家の中に招
き入れた。
「長旅でおつかれでしょ。うちのダンナは今仕事に行っていて留守ですが、そのうち戻って参りましょう。・・・
アンドレはあいにく今家にはいなんですよ。いえ、なに、心配することたぁありません。毎日、ふらりと出てい
っては、夕方にはちゃんと帰ってくるんですから。」
おかみさんは、初対面のマロン・グラッセに対してもきさくに、そして立て板に水の如くしゃべりつづけた。
「ああ、アンドレがいなくてちょうど良かった。実は、前もってお話しといたほうがいいと思うんですけどね、
アンドレはノエラが亡くなって以来、ずっと泣くことも笑うことも怒ることもやめてしまったんですよ。
母親の死がよほどショックだったんでしょうねぇ。そりゃそうですよ、父親も亡くしたばかりで、二人肩を寄せ
合って生きていこうとしていた矢先ですからね。ええ、アンドレはそりゃあ、しっかりした子ですよ。
父親を亡くした後も必死で母親を守ろうとしてましたもの。あんなに小さな子供なのに・・・、その気概が伝
わってきて、あたしもダンナも、もう不憫で、不憫で。なのに今度は母親まで・・・。以前は明るくて、くったく
のない子だったのに、母親が死んでからは、同じ子供と思えないくらいの変わり様で。いえ、あたしもダン
ナもしばらくそっとしておこうって言ってるんですよ。だから、あの子に会っても驚かないで下さいな。」
今日初めて会った人間から語られる、娘ノエラの死。マロン・グラッセにはまだ実感がわかず、隣の家から
元気な顔を出すのではないかという錯覚さえ覚えた。しかし、娘は死んだのだ。
アンドレが帰ってくるまでに、ノエラの墓に花を手向けよう。そう思ったマロン・グラッセは、パルクのおかみ
さんに娘ノエラの病について話を聞いた後、彼女が眠る墓の場所を聞いて一人で訪れてみることにした。

 ノエラが葬られているのは、ゴルドの山並みが一望できる小高い丘の斜面で、そこからは向こうの丘の
上にそびえる16世紀に建てられた城や石造りの家並みが見える。
マロン・グラッセはふうふういいながら、丘にたどりついた。娘は彼女の夫の隣に葬られていた。
ノエラの墓碑を見た途端、マロン・グラッセは、娘が本当に遠いところに行ってしまったのだとやっと実感
することができ、涙が溢れ、その場に突っ伏して泣き崩れてしまった。
ここでは誰もくるまい、思いきり泣こう。そう思ったマロン・グラッセは今まで封じこめていた気持ちを爆発
させるようにさめざめと泣きつづけた。

 ---ガサッ。草を踏みしめる音がして、振り返ったマロン・グラッセの目には、ノエラのきらきらとした黒い
瞳と美しい黒髪をそのまま受け継いだ男の子の姿が飛び込んできた。・・・アンドレ。生まれたばかりの頃
しか知らないが、紛れもなくその男の子が孫のアンドレだとすぐにわかった。理屈などない、伝わる血の
温かさ・・・・・。一方のアンドレは自分の母親の墓に泣き崩れる老婦人をいぶかしく見つめた。
「アンドレかい?ノエラの息子の・・・。あたしゃ、あんたのおばあちゃんだよ。
ごめんよ、来るのがすっかり遅くなっちまって・・・。」そこまでいうと、マロン・グラッセは矢も立てもたまらず
アンドレを捕らえて抱きしめた。驚いたのはアンドレのほうだ。母親の墓で泣き崩れる見も知らぬ老婦人に
いきなり祖母だと名乗られて、突然に抱きしめられたのだから。怖くなって、アンドレがどうにか老婦人の腕
を振り払おうとしたその時、いつも母が髪に巻いていたリボンと同じものをその老婦人の首周りに見止め
た。
「かあ・・・さん・・・」
途端に母の美しかった黒い髪を思い出し、母がなくなって以来押さえ込んでいた感情が予告もなしに噴出
した。老婦人の首周りに巻かれたリボンを指でなぞりながら、アンドレはその胸の中で泣き叫んだ。
そのアンドレを胸に抱きながら、マロン・グラッセも悲しみの只中にあった。
「ああ、ああ、このリボンなら、もうずっと前にあたしがノエラのために作ったものと同じものをいつも首に
巻いていたのさ。こうすれば、いつもあの子といっしょにいられるような気がしてさ・・・。」
二人でさめざめと泣き、気がついた頃にはゴルドの山並みがオレンジ色に染まりかけていた。
「あ・・あの・・お、おばあ・・ちゃんなの?本当に?・・・・・ごめんね、俺、かあさんを守りきれなかったの。
とうさんが死んで、俺がかあさんを守ろうと思ったのに、ダメだった・・・。ごめんね、ごめんね。」
涙をいっぱに目に貯めて、必死で謝るこの小さな魂。マロン・グラッセは居たたまれなくなり、「この子が望
めば、手元で育てよう。」と思った。ベルサイユからの道中、ずっと悩んでいた奥様からの申し入れ。
「アンドレをジャルジェ家に住まわせるかどうか」の結論を出さないままゴルドに到着した。だが、マロン・グ
ラッセは思った。ノエラの墓でアンドレと再会したこと、リボンでアンドレが全てを理解したこと、すべてはノ
エラの引き合わせではないかと。娘はこの子を私に託したのだ。娘の意に反して、この子を他人に預ける
ことなどできない。それに、血のつながった孫をどうして一人ぼっちにできようか。これまではジャルジェ家
に迷惑がかかるからと、そのことだけに気を揉んできたが、それが馬鹿げた考えであったことが今ようやく
わかった。この子と別れることなどできない。使用人の分際で身のほど知らずといわれようが、旦那様と奥
様の言葉に甘えさせてもらおう。そのかわり、これまで以上にジャルジェ家に誠心誠意お仕えしよう。
マロン・グラッセは一旦決心すると、アンドレと手をつないでパルク夫妻の家に向かった。
 
 バルクのおかみさんと仕事を終えて帰宅していたダンナは、アンドレがマロン・グラッセとしゃべりながら
帰ってきたのに驚いた。
「いやー、やはり血は水より濃し、ということかねぇ。」など二人顔を見合わせてうなづきあった。
アンドレは7日ぶりに母と暮らした家に戻った。その夜はバルク夫妻の心くばりでバルクのおかみさんが
作った手料理をノエラの家で、祖母と孫の水入らずで食べることにした。食事を終えて、マロン・グラッセは
アンドレに尋ねた。
「アンドレ、お前、おばあちゃんと一緒に暮らす気はないかい?もし、おばあちゃんと一緒に暮らすなら、お
前は慣れないベルサイユのお屋敷暮らしをしなければいけなくなる。ゴルドの村にもそうそうは帰ってこれ
ない。これまでのように自由な生活じゃなくなるかもしれない。それでも旦那様や奥様はすばらしい方々
で、そのお嬢様方も美しく、優しい方たちばかりだ。しかも、旦那様と奥様が、お前をお屋敷に引き取りた
いとおっしゃっておられるのだよ。身分不相応なお心遣いに、あたしゃ甘えようと思う。あたしはあんたと暮
らしたい。これまでなかなか顔も見に来ることができなかった孫のお前とこれからずっと一緒にいたいん
だ。でも、お前がとうさんやかあさんの思い出が詰まったこの村にいたいというのなら、あたしゃあきらめる
よ。窮屈なお屋敷暮らしなどいやだというのなら、それも仕方ない。お前がここに残るというのなら、お前の
めんどうはパルクさんたちが見てくれるという。ここでのびのびと暮らすか、それともあたしと一緒に暮らす
か。お前自身が選んでおくれ。」
「ベ・・ルサイユ・・・、お屋敷?・・・あの・・・おばあちゃん、俺・・・想像がつかないよ・・・。ここを離れるの?
父さんや母さんは?俺がいなくなったら、誰が父さんと母さんを守るの?・・・行けないよ・・・俺・・・。」
両親をなくしたばかりの8歳の少年に、酷な選択を強いているのかもしれない・・・、マロン・グラッセは、
ふぅーと溜息を漏らした。
「アンドレ、今、答えなくてもいいんだよ。よぉく考えておくれ。ただね・・・、あんたとあたしを、あの場所で
会わせててくれたのはノエラのような気がしてしかたないんだ。それにね・・・。」
マロン・グラッセは涙を浮かべながらアンドレの顔に手をやった。温かい手だった。仕事をしている手、
苦労をしている手。手に触れただけで、祖母の血のぬくもりと、人生の重みが8歳の少年に迫ってきた。
「あたしもこれまで家族との縁が薄かった。亭主はノエラがまだ小さいときにあの世にいっちまったし、
残されたノエラを他人預けてベルサイユのお屋敷に奉公にいっちまった。手紙のやり取りをしていたけど、
手元で自分の子を育てられなかった辛さを身にしみているのさ。この上、孫のお前までも人様に預けると
なっちゃあ、亭主とノエラに顔向けできないよ。」
そういうと、マロン・グラッセはポタポタと涙をテーブルの上に落とした。アンドレはおろおろした。
祖母を泣かせてしまったのは自分なのかと。
「おばあちゃん、泣かないで・・・。俺・・わかんないよ・・・。これからどうすればいいかなんて・・・。」
みるみるアンドレの漆黒の瞳にも涙が浮かんだ。母をなくしたわずか8歳の少年。その心の傷も癒えぬ
まま、今、人生の選択を迫られている。
「いいんだよ、ゆっくりお考え。あたしゃ、お前と一緒に暮らしたい。でも、それを無理強いするつもりはない
からね。」
その夜は、祖母も孫もノエラに思いを馳せ、それぞれの将来を思い不安な気持ちのまま、まんじりともしな
かった。

 翌日から、マロン・グラッセにはしなければならないことが山のようあった。ノエラの夫が始めた平民の子
たちのための学校を教会の神父に託し、娘夫婦が世話になった家々に挨拶に回った。
アンドレは、母が逝ってから彼の日課になっている、両親が共に眠る丘で一日を過ごすため、行く道で花を
手折りながら歩いていた。
 もし、ベルサイユに行ったら、この道を歩けなくなる。初夏になると斜面いっぱいに広がる紫の絨毯のよう
に色づくラベンダーの香りも楽しめなくなる。夏の太陽そのものの向日葵の花の間を友達とかけっこできなく
なる。黄金色の秋に実る葡萄のあまやかな香りを忘れてしまう。風が家の窓をたたく冬も・・・。アンドレは自
分を育んだ故郷の自然をいとおしむように、一歩一歩丘を目指した。丘の上からはいつもと同じ、ゴルドの
美しい町並みが眼下に広がった。胸一杯に初秋の空気を吸い込んだ。少しずつ緊張感をまとっていく秋の
空気が体中を満たした。途端にアンドレの緊張感がゆるいだ。母が逝き、孤独と絶望に苛まれた少年の前
に、突然肉親が現れたことで「ひとりぼっちではない」という安心感がアンドレの緊張感を解いていった。
丘の下から吹き上げる涼やかな風に、母親譲りの黒髪をなでられると、父の大きな手で頭をくしゃっとつか
まれたことを思いだし、目を閉じて体一杯に風を感じながら草むらにごろんと横になった。目を閉じたまま、
もう一度胸一杯に空気を吸い込むと秋の草の匂いが胸一杯に広がる・・・。このまま大地に溶けていきそう
な感覚だった。あまりに心地よく、緊張から解き放たれたアンドレはそのまま深い眠りに落ちていった。

 「アンドレ。また、こんなところで眠って・・・。ほら、風邪をひくわよ。」
懐かしい声がした。
「ん・・・、かあ・・さん。」
アンドレは飛び起きた。そこにはまぎれもなく大好きな母の姿が。
「かあさん、かあさん、かあさん!」
叫びながらその胸に飛び込み、夢中でしがみついた。もう二度と放さないと思った。懐かしい母の匂い。
母は息子の髪をなでながら
「ごめんなさいね、アンドレ。かあさんはお前を守りきれなかった。ずっと側にいてあげることができなかっ
た。お前を一人ぽっちにしてしまった。」
「ううん、ううん、かあさん、俺のほうこそ母さんを守りきれなかった。ごめんよ、ごめんよ。」
ノエラは優しい目をして息子を見つめた。
「アンドレ、かあさんは大丈夫よ。とうさんと一緒のところにいるから、大丈夫。だから安心して。
わたしの愛しいアンドレ。お前を一人置いていく私を許して。かあさん、一生懸命生きたわ。一生懸命お前
のとうさんを愛して、お前を愛して。お前のこと一生懸命育てようと思ったけれど、病気に勝てなかった。
悔しいわ。だから、お前は強くおなりなさい。愛するものを最後まで守り通せる強さを、人の辛さや弱さがわ
かる強さを、そして、人を信じる強さを身につけて、そして一生懸命自分の人生を生きるのよ。かあさんはと
うさんと一緒にいつもお前をみているから。」
彼女は息子の頬に手をやってじっと深い瞳で見つめながら微笑み、言い含めるように続けた。
「アンドレ、ベルサイユに、おばあちゃんのところに行きなさい。そこにお前の人生がある。ベルサイユで
お前は一番大切なものを見つけられるわ。だから行くのよ、ベルサイユに。」
そう言うとノエラは息子に勇気を与えるように胸の中にアンドレを抱きすくめた。アンドレは母の香りに包ま
れ、幸せな気分になって目を閉じた。

 しかしその香りはアンドレを包み、そしてすぐに消えてしまった。幸せな夢は少年の心を一瞬満たし、そし
て絶望を味わわせた。アンドレは気が付くと草むらに膝を抱えて座り込んでいた。あの母は幻?それとも
夢?しかし、しがみついた母の胸の柔らかさ、髪をなでる指のやさしさはなつかしく、それだけで優しい気持
ちになれた。そして、母がもう自分とは同じ世界にいないのだということがやっと実感できた。アンドレは泣い
た。泣いて、泣いて、そして大きく息を一つ吐いて、彼はすっくと立ち上がった。
「俺のそばにはとうさんもかあさんもいないんだ。」
8歳の少年には重すぎるほどの現実だった。
彼の眼下には、故郷の景色が広がる。なつかしいこの景色こそ両親そのものだった。共に暮らした村の全
てが両親の思い出につながっている。城壁も、鐘楼も、いつも両親とともに見た風景だ。そして、空を仰い
だ。
「とうさんが言っていたっけ。」
王様の住んでいるベルサイユもとなりのイタリアやスペインも、そのずっとずっと遠くまで、空は一つなのだ
と。世界は空でつながっているのだと。だとすれば、この村の空とベルサイユの空はつながっているのだ。
「ベルサイユはどの辺だろうか・・・。」
母が言う、自分の大切なものがあるというベルサイユ。
「例え俺がこの村を離れてもいつでも、空を見れば心はこの村に帰って来れるよね、とうさん、かあさん。
俺、もう泣かないよ。」

「ベルサイユに行こう。」
空を見上げて、アンドレはもう一度胸一杯にプロヴァンスの風を吸い込んだ。

 その夜の夕食のとき、アンドレはまっすぐ祖母の顔を見つめていた。昨日までの両親を亡くして不安げな
子供はどこにもいない。
「おばあちゃん、俺、ベルサイユに行くよ。そうしなきゃいけないっていう気がするもの。そうしなきゃ、かあさ
んが悲しむような気がするもの。ベルサイユの貴族のお屋敷の暮らしって俺には想像つかないけれど、俺
、おばあちゃんを助けて一生懸命やるよ。」
マロン・グラッセは孫の言葉を聞いてまた涙が溢れてきた。やはり、あの場所でアンドレとめぐり合わせてく
れたのは、ノエラなんだと確信した。これは運命だと、そう思えた。

 それからの数日は、ノエラとアンドレが住んでいた家をたたむため慌しく過ぎていった。アンドレは幼馴染
達や近所の優しくしてくれた大人たちと別れを惜しんだ。そして、父親が独学で身につけた学問の、その教
科書となった教会から譲り受けた古ぼけた本の中から、数冊だけを荷物にいれ、あとは父が教えた子供達
に分け与えた。そして、カバンの中につめられた小さな箱には、母の髪の毛の一房が入っていた。

 ベルサイユに向かう馬車の中で、アンドレはゴルドの村から連なる空を見つめていた。
空はずっとつながっている。これから向かう新しい世界に。
「ベルサイユでの生活はどんなものか想像もつかない。おばあちゃんの話によると、俺より1歳年下のお嬢
様の遊び相手兼護衛が役目らしい。貴族の屋敷とはどんなところなんだろう。ベルサイユは・・・、たしかとう
さんが、『昔、昔、太陽のような王様が作ったすばらしい宮殿』だと教えてくれた。もしかしたら、その宮殿を
見ることができるのだろうか。そして、母のいう俺の大切なものを見つけられるだろうか。」プロヴァンスの明
るい太陽は遠のいていたが、アンドレの瞳はまだみぬ未来に向けてきらきら輝きを放っていた。

 ガタンと馬車が大きく揺れて止まった。
「アンドレ、さあ、着いたよ。」
マロン・グラッセは「やれやれ、腰が痛かった。」と小さく漏らしながら馬車を降りた。それに続いたアンドレの
目にまず飛び込んできたのは、今まで見たこともない豪奢な建物。前庭にはゴルドの村とはまったくちがう、
人工的に刈り込まれた木が立ち並び建物に誘っている。乳白色の建物は目にまぶしい。裏に回って使用人
用の出入り口から建物の中に入ると、何人もの人間が忙しそうに動き回っていた。
「ばあやさん!!」
一人がマロン・グラッセを見止めると後の全員が動きを止めて振り返った。
「あ〜〜〜、待ってたんだよ〜〜〜。」
「帰りが遅いじゃないか。このまま帰ってこないんじゃないかとひやひやしたよ。」
「疲れたでしょう?」
使用人達は口々にマロン・グラッセに話しかける。彼女が留守中、女中頭代理を務めていたニコルは「これ
でやっとお役免だ〜」と躍り上がった。
「あれまあ、この子があんたの孫かい。また随分とかわいい子じゃないか。すごい黒髪だねぇ。
この辺じゃ珍しいくらいの。」
「坊や、いらっしゃい、よろしくね。」
女中たちのかまびすしい挨拶が続いた。アンドレは一瞬にして女中たちの関心を集めてしまった。
「ばあやさん、旦那さまと奥様が今か今かと帰るのを待ちわびていらっしゃいましたよ。」
「早く挨拶しておいでよ。そうだ、誰か執事さんに、ばあやさんが帰ったと伝えておくれよ。」

 執事の取次ぎで、マロン・グラッセは当主夫妻の居間に入っていった。
「だんな様、奥様、長い間留守にしまして、大変申し訳ございませんでした。先ほど戻ってまいりました。
私のことで長い間皆様にご不自由をおかけしました。」
「ばあや、疲れたであろう。」
当主が次の言葉を言い始める前に、当主夫人が待ちきれないとでもいうように
「それで、ばあや、アンドレは?連れて戻ったのでしょうね。」
マロン・グラッセは部屋の外で待たせていた孫を呼び入れた。アンドレは別世界の建物に圧倒されながら、
何やらいい匂いのする部屋に入っていった。そこには威厳と堅実さをたたえた青い目の男性と、たおやかな
がら目の奥にどこか茶目っ気を含んだ美しい女性が座って、自分に視線を注いでいた。


「出逢い=開かれた扉=」に続く