黒髪   2

 

―そして、私は15歳になり、結婚の話が持ちあがっていた。
 毎日のように使者が行き来している。お父様とお母様が私の結婚相手として選んだコラール伯爵は私より7歳年上のはずだけれど、未だにお目にかかったことがない。どんな方かしら。目の色は?髪の毛の色は何色かしら?
 オスカルもアンドレもこの頃はぐっと身長が伸び、二人とも既に私を追い越していた。特にアンドレは目に見えて体が大きくなった。ばあやがぶつぶついいながらアンドレの服を直しているのをよく見かけたものだ。顔にはあどけなさが残るけれど、子供から大人に脱皮するように変化している。声も変わってきた。相変わらずよく透る声だけれど、それはもう子供の声ではなかった。かといって大人の声でもない不安定そうな声。一方のオスカルはどんどん背が伸びているにも関わらず、体には肉がつかず、今は棒切れのようだ。妹と思わなければ、本当に美しい少年に見える。顔にもシャープさが加わってきている。


「俺、髪を伸ばしてみようかな、っていったらオスカルのやつ笑い転げるんですよ。どう思います?ジョゼフィーヌ様。」
ある日、図書室で一緒に本を選んでいたアンドレが私に尋ねた。
「そうねぇ・・・、私もあなたが髪を伸ばしたところ・・想像できないわ・・・。ふふふ。」
「ああ、ジョゼフィーヌ様までお笑いになる。そんなにおかしいですか?」
アンドレにしては珍しくちょっと拗ねたような口ぶりなのがまたおかしくてたまらない。
「だって、急に髪を伸ばそうかなんて、どういう風の吹きまわし?」
「別に・・・ちょっと自分を変えてみようかと思っただけです・・・。」
「アンドレはアンドレのままが一番よ。何故変えようなんて思ったの?」
「俺だっていつまでも子供じゃないですよ。」
「まあねぇ、最近は私もあなたを見上げなきゃいけないし、すぐ洋服が合わなくなるってばあやが嘆いていたけれど、だからといってそんなに急に大人になれるものでもないと思うけど?」
私がそういうと、アンドレは不服そうな顔をこちらに向ける。私はその顔が更におかしくて笑いながら、アンドレが髪を伸ばしたところを想像してみた。あの深い色の髪がさらに深みを増し、柔らかなウェープが肩にかかる。もっと伸ばすと、リボンで結ばなくては。何色のリボンが似合うかしら。深い光沢のある緑なんてどうかしら。その頃にはまたずっと背も伸びて、肩幅も広くなって、広い背中に惜しげも無く黒い髪の束を散らすのね。そして、アンドレ、あなたも一人前の大人の男性になるのだわ。
 私は、目の前の長身の少年の将来の姿を思い描いてどきどきした。あの黒髪に縁取られた顔は今よりずっと男らしく精悍になるだろう。急に私は息苦しくなって
「とにかく、まだ髪を伸ばすのは早いんじゃないの。」
とアンドレの顔も見ずに部屋から出た。
「いやだわ、私ったら。何どきどきしてるんだろう。」
息苦しさから逃れるように、私は早足で図書室から遠ざかった。
 
 
 私の結婚が決まった。コラール伯爵とは今まで3回しかお目にかかっていないけれど、とび色の瞳がいたずらっ子のような明るさを宿していて、お目にかかるといつも私を笑わせてくださる。髪は・・・残念ながら黒髪ではなさそうだけれど(やはり髪を金髪に染めていらっしゃる。)・・・。それでも、明るい方で私はほっとしていた。

 「姉上、ちょっとよろしゅうございますか?」
私が部屋で婚礼衣装の仮縫いをしていると、オスカルが顔を出した。
「もちろんよ、お入りなさい。」
最近私も彼女とあまりゆっくり話しをすることはなかったため、久しぶりに妹の美しい瞳を眺めながら、耳障りの言いハスキーな声を楽しみたかった。オスカルはいずれオーストリアからお輿入れされる王太子妃殿下の護衛を任ぜられており、最近では、仕官学校から帰ってもアンドレと剣の稽古ばかりしている。そのオスカルが今は、仮縫いをする私をまじまじと見ている。なんだか私はくすぐったいような気持ちになってきた。
「なあに、オスカル、そんなにみつめないでちょうだい。」
「姉上、お幸せですか?」
突然の質問にびっくりしてしまった。
「何よ、突然に。」
「父上が決められた結婚相手に不満はないのでございましょうか。」
「不満も何も。これが貴族の娘としてのしかるべき人生でしょう。親の決めた方に嫁ぐ。私はお父様の決定を信じているわ。それに、コラール伯爵様はとても楽しい方なの。だから、私は何も不満はないわ。」
オスカルは少しばかり表情を緩めて
「そうですか・・・。それならば安心いたしました。姉上には幸せになっていただきたい。」
私の仮縫いも終わって、仕立て屋が部屋を下がると、オスカルと二人だけになった。オスカルは神妙な顔つきで私から視線をはずそうとはしない。
「どうしたの、オスカル。なんだかあなたらしくないわ。」
「いえ、ちょっと考えたのです。もしも、私が生まれなかったら、もしかして、姉上が私のように父上に男として育てられたのかも、と。」
「まあ、あなたったら突飛な考えを。残念ながら、私はあなたのように産声が大きくなかったのですって。だから、きっとお父様もきっと私を跡継ぎにするような考えは浮かばなかったと思うわ。ふふふ。」
オスカルも苦笑いを浮かべた。そして真顔になって
「姉上、お幸せになってください。姉上にはかわいがっていただきました。」
と私をその長く細い腕に抱きしめた。途端に、私は、嫁いだらこの美しい妹の顔を毎日みられないのだという現実に愕然となった。そう思うと、いままで感じたことの無い寂しさが体中を駆け巡り、居たたまれなくなってしまった。結婚するというのはこういうことなのだ。これまで当たり前と思っていたことに決別しなければならない。家族の顔を毎日みれない。お父様やお母様、オスカル、そしてアンドレやばあや・・・。みんなの顔を見ない生活なんて考えたことも無かったのに。私は心からの抱擁をオスカルに返した。
「オスカル、あなたも幸せになってね。あなたのその蒼い蒼い瞳が曇らないように。あなたは私の自慢の妹。いつもいつも光り輝いていてちょうだいね。」
オスカルは言葉少なではあったけれど、姉達がすべてこの家からいなくなることに寂しさを感じているのではないだろうか。その日から私の婚礼の日まで、オスカルは時間の許す限り、私のところに来ては、とりとめもない話をするのが日課になった。そう、まるで「普通」の姉妹のように、嫁ぐ姉にこまやかな気遣いをしてすごしてくれた。


そして、いよいよ私の婚礼の日。朝、ジャルジェ家の使用人たちが揃って私を見送ってくれた。ばあややほかの女中たち、執事、男の働き手、そして・・・アンドレ。初めてあったあの日と変わらず、黒い髪に縁取られた顔は微笑んでいる。
「アンドレ、今までありがとう。あなたが私のつまらない話を聞いてくれて、私とってもうれしかったわ。オスカルのようにはいかないけれど、私もあなたを大切な友人と思っているのよ。そして・・・、オスカルのこと、頼んだわ。あなた達二人を側で見てきたから、二人がどんなにお互いを大切に思っているか知っているわ。だからこそ、アンドレにしか頼めない。オスカルを守ってやって。」
アンドレは少し驚いたように目を見開き、そして真摯な面持ちで言った。
「もちろんです、ジョゼフィーヌ様。オスカルを守ること、それが8つのときからの俺の役目ですから。」
その言葉にうなづき、私は玄関に向かった。表に出る一歩手前で振り返り、もう一度アンドレを見る。
「アンドレ、あなたの美しい黒髪、そろそろ伸ばしてみてもいいんじゃない?」
アンドレは満面の笑みを浮かべた。その笑顔に送られて、私は新たな世界への一歩を踏み出した。

 ―それからいくつの春といくつの秋を迎えただろう。王太子妃付き近衛仕官として宮廷に伺候するオスカルに影のように寄りそうアンドレの姿を見かけるたび、私はあの幼い二人が寄り添って眠っていた姿を思い出す。アンドレは漆黒の髪を伸ばし、リボンで結んでいる様は、無理やり金髪に染めて化粧までしているその辺の貴族の若者を道化に見せてしまうほど目を惹く。結婚前の私が想像してどきどきした姿以上に均整の取れた美しい青年に成長していた。しかし、何よりも、子供のときと変わらず、何物にも毒されることの無い笑顔が、彼の周りを明るく照らし出しているようだった。実際、金髪の近衛仕官に寄りそう黒髪の従僕の噂をする貴族の夫人や令嬢をよく見かける。そして、オスカルは私の願い通り、輝ける武官の道を威風堂々と歩んでいるようだ。その姿があまりに美しく、現実離れしているため、私は本当に自分の妹かどうかわからなくなるときがある。蒼い目はいっそう輝きを増して冴え渡り、世の邪悪なものを凍りつかせる深さを感じさせる。二人は大丈夫だろう。きっと、この時代をしっかりと自分たちの足で歩むだろう。金と黒の髪をした美しい二人の子供の姿は、氷河の下に眠る化石のように永遠に私の記憶の中にしまいこまれた。

 ―私が4人目の子供を出産した後、久しぶりにジャルジェ家を訪問したとき、アンドレの姿が見えないのを不思議に思い、ばあやに尋ねてみると、目をケガして臥せっているというではないか。驚いてアンドレを見舞おうと、彼の部屋に行った。アンドレは薬で眠っているようだ。そして、髪が・・・。あの長かった髪が少年時代のように短くなっていた。いったい彼の身に何が起こったというのだろう。こうして臥せっているアンドレの寝顔を見るのは2度目だ。幼かった少年は、立派な青年となったが、今は顔の半分を白い包帯が覆っている。いったい、どんなケガなのだろう。まさか・・・。その時、オスカルが任務を終えて帰ってきた。彼女は着替えもそこそこにアンドレを見舞うため、部屋にやってきた。
「姉上、いらしてたのですか。ご機嫌いかがでごさいますか?」
「オスカル、そんな挨拶なんてどうでもいいわ。アンドレのケガはいったいどうしたの?」
詰め寄る私の質問に、オスカルは苦しげに目を伏せた。
「私が・・・、私が悪いのです。私の無理な作戦が、アンドレをこのような目に逢わせてしまった。」
「それは違うぞ、オスカル」
私の背後からアンドレの声がした。振りかえると、上半身を起こしながらただ一つの瞳でまっすぐにこちらを見るアンドレがいた。
「ジョゼフィーヌ様、違うのです。この目は俺自身の失態。オスカルに何の責任もありません。」
「アンドレ、何をいう、これは私の・・・。」
「いや、オスカル、あの時、俺が油断したからだ。スキを見せた俺の失態だ。お前が責任を感じることは何も無い。」
「・・・アンドレ・・・。」
そういうとオスカルの蒼い目には涙が浮かび、そして部屋から出て行ってしまった。私は彼女を追いかけた。
「オスカル、待って・・・。」
廊下で立ち止まったオスカルは、涙を流しながら私をみつめた。
「姉上、悔しいのです。私は・・・。武官としての作戦の失敗などはどうでもいい。私の大切な友であり、兄であるアンドレを巻きこんでしまった自分のおろかさが悔しくてならない。」
そういって、オスカルの目からは涙が途絶えることが無かった。私は彼女の涙を初めてみた。それは私が初めて目の当たりにする、妹の感情のほとばしりだった。

 ―革命の嵐が激しく吹きすさび、夫が子供達を田舎の領地に逃がす段取りをして東奔西走していたときだった。オスカルの率いるフランス衛兵が市民側に寝返り、バスティーユ牢獄が陥落。パリは市民達に占拠された。革命の危機がいよいよベルサイユまで押し寄せようとしていた。ジャルジェ家から内密の使者がやってきた。使者が持ってきたお母様からの手紙を読んで、私は呼吸の仕方を忘れるほどのシヨックを受けた。オスカルとアンドレが・・・。ここで倒れてはならないと、使用人に勘ぐられないよう平静を装い、私はジャルジェ家に向かった。国王にたてついたジャルジェ准将の親戚であることが子供達の将来に影響を及ぼすのではないかと心配した夫は、私にしばらくジャルジェ家に行かないようにと言っていたからだ。
 ジャルジェ家に到着すると、若い女中が目を真っ赤に晴らして、私を二人の元に案内してくれた。お父様は椅子に座って頭を抱え込んだまま、私に気づきさえしない。お母様は、ただ、だまってオスカルの頭を撫で付けていた。横たわるオスカルの髪はいきいきと美しい黄金色に輝いている。私はまだ信じられない。二人が既に旅だってしまったとは。二人を家に連れ帰ってくれたのはロザリーとその夫、そしてオスカルの部下のアラン・ド・ソワソンという衛兵隊士だった。私は、その時初めて、オスカルとアンドレが愛し合い、壮絶な時代の中でお互いを求め合っていたことを聞かされた。知らせを聞いてかけつけたお姉様方は、オスカルとアンドレの激しい愛の物語を信じられないとおっしゃったけれど、私にはまるでそれが当たり前のことのように受けとめた。私は側であの二人を見ていたから。あの二人がどれほどお互いを大切に、思い合っていたかを知っているから。
「オスカル、あなた、やっと勝利を得たのよ。あなたの人生の中で最大の勝利。それはアンドレとの愛の成就よ。」
私は止まらない涙をどうしようもなく、オスカルの瞳のように青く澄み切った空を見上げた。

 ―それから、何年が経っただろう。私は夫の領地に引きこもり、宮廷の華やかな生活を離れて、それでも穏やかに、革命に翻弄されることなく日々を過ごしていた。田舎といえども、革命を避けた貴族の別荘やらがあり、時折、質素にではあるが、夜会が開かれることもあった。革命がどんどん姿を変え、私達は時代に取り残されており、そんな自分たちを慰め合うように、私達は昔話に華を咲かせるのだった。ある午後のお茶会でのこと、私の目に懐かしい黒髪が映った。一瞬、アンドレかと思ったが、そんなはずはない。聞くと、イタリアの音楽一家の息子だという。ヨーロッパを演奏旅行の途中で、革命のおよばないこの田舎に立ち寄ったというのだ。彼は年の頃なら21―22歳くらいだろうか。青春真っ只中の輝きに溢れている。私は無性に懐かしくなり、彼に声をかけた。彼はバイオリン奏者だという。バイオリン・・・、オスカルが奏でていた楽器。彼は初対面の私にも臆することなく、楽しそうに音楽の話に花を咲かせる。聞けば父親も滞在していて、その日の夜に開かれる小さな夜会でクラブサンを演奏することになっているそうだ。私もその夜会にいく予定にしていたので、再会を約束して、その青年と別れた。
 その夜、青年が私に紹介してくれた彼の父親は、黒髪が半分ほど美しい銀髪に変わり、人生の深みを感じさせる美しい紳士だった。アンドレがこの紳士くらいまで生きていれば、このような銀髪を蓄えた髪になるのだろうか。そう思うと切なくなった。この紳士のように、人生の滋味をにじませているアンドレに会いたい。そしてその傍らにはオスカルが・・・。もっと生きていてほしかった。二人でもっと穏やかで幸せなときを紡いで欲しかった。思想や、歴史やそんなことと関係のないところで、ただ、自分達の幸せなときを共に生きる二人を見たかった。
 黒髪の親子の演奏が始まった。父親のクラブサンに合わせて息子のバイオリンが優しい音色を奏でる・・・。親子の黒髪に刺激されたのか、私の心の奥底にしまわれていた美しい子供達の記憶が蘇る。
 金と黒の髪の子供。その姿が封印された氷の下から融解して、そして私の記憶の中でどんどんと成長する。子供から少年少女に。少年少女から大人の男と女に。オスカルとアンドレが共に歩いた短い人生は、なんと過酷で美しく、そしてなんと幸せなものだったのだろう。私自身、平穏で穏やかな人生に満足しているけれど、もし、生まれ変われるのなら、私もあの二人のように激しく人生を生きてみたい。いつかオスカルが言った様に、もしも彼女ではなく、私がジャルジェ家の跡取りとして育っていたら・・・私の人生もオスカルのように激しいものだったのか。いいえ、きっと違っていただろう。オスカルにとってのアンドレという存在が私にはいないのだもの。
 夫は私を大切にしてくれるし、私も彼を愛しているけれど、あの二人のようにお互いの存在を求め合う関係とは到底いえない。そんな関係を紡ぐのは、私のような女では無理だ。自分の人生と向き合い、自分自身を燃焼させて生をまっとうできる、そんな人間だけができる行き方。
 思えば、あの二人の出逢いは運命だったのだ。オスカルがあんなにも心を許した初めての人間。求め合い、大切に思い、そして愛し合い。オスカルとアンドレ、それぞれが見つけた、自分の一番大切なもの。二人の人生に思いを馳せれば、二人が愛し合い、そして共に銃弾に倒れたのが最初から運命付けられていたように思えてならない。二人はあれで幸せだったのだ、短い人生だったけれど。今の私にはそう納得するしかない。そして、天の園で、穏やかで幸せな時を紡いでいるに違いない二人に、私は心からの祝福を送ろう。

 親子の演奏は続いている。彼らが生み出す明るく穏やかな旋律に身をゆだねると、私の記憶の中の美しい二人の子供の姿が一層鮮やかになっていく。どこからか、子供だった頃の二人の笑い声が聞こえたような気がした。