黒い瞳


       真夏の太陽が照りつける。朝もやが乙女の恥じらいのように密かに朝の空気を浄化
      していたと思ったら、あっという間に太陽が空を大地を、そして人間を光りと熱に包
      み出した。先ほどまでの可愛気はどこへいったのやら、今を盛りの女のように押しつ
      けがましいほどの光が溢れる中に、オスカルはいまだはっきりと目覚めぬまま身を晒
      した。いきなりの太陽光線が彼女の青い海のような瞳に突き刺さったため、オスカル
      は思わず両目を眩しそうに閉じた。いきなり目に飛び込んだ強烈な光に頭がくらくら
      となり、片目ずつゆっくりと開けてみる。恐る恐る、光のご機嫌を伺いながら薄目か
      ら瞼をすべて開ききってもまだ、空を仰ぐ勇気は持てない。
      「ああ、今日もいい天気だな。」
      オスカルの前方から、いつもの幼馴染の声がする。手を目の前にかざしてようやく視
      界を確保できたオスカルの目に映るアンドレは眩しそうな目をしながらも、にこやか
      に太陽に顔を向けていた。今のオスカルのように油断をすると視界が真っ白に光が溢
      れ出す様子もなく、アンドレは真っ向から太陽に向かって微笑んでいた。
      「アンドレ、お前、眩しくはないのか?」
      オスカルはやっとかざした手を引っ込め、それでも眩しそうに目を細めながらアンド
      レを見た。
      「え?ああ、眩しいが・・・、でも多分、俺の目の色はお前のよりも光を通さないか
      ら、きっとお前ほど眩しくはない。」
      オスカルは驚いた。目の色の違いで眩しさも違うのか?
      「そんなものなのか?」
      ようやくいつもの瞳の状態に戻ったオスカルが不思議そうに尋ねた。
      「ああ、多分、そんなものだ。」
      笑いながらアンドレが答える。アンドレは太陽の光を浴びて嬉しくてたまらないと
      いった風情で、訳もなく笑顔を振り撒きながらオスカルの瞳を覗きこんだ。子供の頃
      はほとんど変わらなかった身長が、今はアンドレの瞳がオスカルを見下ろす高さに
      あった。
      「お前のこのすごい青の瞳は、深い湖のようだから。透明の湖は湖底が見えるほど光
      を通すように、きっとこの太陽の光はお前の瞳の奥の奥まで届いているんだろうな。
      その透明度。その清冽さ。お前の瞳を見るたび、俺は何もかも真実を映し出されるよ
      うで怖くなるときがある。」
      「私の目が怖いのか?」
      「いや、そうじゃなくて・・・。」
      アンドレはまだ笑いながら、しかしオスカルの瞳を覗きこむのをやめた。背中を見せ
      ながら朗らかな声が返る。
      「お前のその瞳の前だと、身が引き締まる思いだ。お前には嘘が似合わない。そして
      俺もお前に嘘がつけない。全てを見通されるようだ。お前のその瞳は、いってみれば
      俺の羅針盤みたいなもんなんだ。」
      何気なくいう言葉には飾り気がないが、聴く人が聴けば彼のオスカルに対する恋心を
      窺い知ることができるほど艶やかさに溢れている。
      「そんなふうに思ってくれているのか。初めて知ったぞ。」
      「当たり前だ、初めて言った。」
      二人は笑い合った。
       久しぶりの夏の休日。気温が上昇しきらぬうちに遠乗りに出かけようと外に出た
      が、既に充分な暑さが二人を取り囲んだため、遠乗りは中止した。
      「これだけの暑さだと馬も私達もすぐにバテてしまう。遠乗りは中止にしよう。」
      オスカルがそう告げても、アンドレは相変わらず太陽の下にいることに充分な喜びを
      見出したかのような笑顔で準備していた馬を厩舎に戻した。
       オスカルも夏の太陽を体一杯受けながら、そのまま庭を散歩し始めた。馬を厩舎に
      戻したアンドレがオスカルに追いつき、二人肩を並べて歩き出した。
      「アンドレ、もうすぐお前の誕生日だな。」
      オスカルがわずかに見上げる。
      「ああ。」
      アンドレの明るい視線がオスカルに降り注ぐ。
      「夏の生まれだからか?」
      オスカルの突然の問いにアンドレは不思議そうに彼女を見た。
      「何が?」
      オスカルはいたずらっ子のように、くすくすと笑いながら答える。
      「お前は太陽がよく似合う。」
      「そんなこと言われたのは初めてだ。」
      「なんとなく思っていたが、さっき太陽を浴びて笑うお前を見て確信した。なんでそ
      う感じたかを。お前の黒い髪、黒い瞳ってこの真夏の強い光を跳ね返すほど力に満ち
      ているようだ。」
      目の前でオスカルがにこやかな笑顔を自分だけに注ぎながらそんなことを言った為、
      アンドレの鼓動はオスカルに気付かれるのではないかと思われるほど速さを増してい
      た。
      「贈り物、何がいい?」
      アンドレの気持ちになど、まったく気付かずオスカルは無邪気に尋ねた。アンドレは
      気持ちを立てなおすのに精一杯で、一瞬答えに窮した。
      「え?・・・あ・・・。」
      オスカルは相変わらず無邪気で楽しくてしかたないように笑いながら、アンドレの顔
      を覗きこんだ。
      「何でも言えよ。」
      「・・・本当に何でもいいのか?」
      「もちろん。」
      「じゃあ、俺の誕生日の夜、一緒に月を見てくれないか?」
      「一緒に・・・月見か?・・・そんなことでいいのか?」
      「ああ、今年はそれが一番の贈り物だ。」
      アンドレのその言葉をオスカルは不思議そうに聞きながら、わかったと答えていた。

       その年のアンドレの誕生日の夜。二人は揃ってジャルジェ家の屋敷の近くにある小
      高い丘まで来ていた。アンドレが先に丘に上り、後に続くオスカルに手を伸ばす。何
      のためらいもなく、彼女はアンドレに手を預け、ひょいと飛びあがるように丘の上に
      達した。
      「ああ、今日は星がよく見える。よかった。」
      オスカルは天を仰いだ。夜空に満天の星。天にミルクをこぼしたように白く輝く星の
      群れ。それを跨るように白鳥座が輝き、わし座、こと座とともに夏の大三角をつくっ
      て、天上に大いなるロマンを繰り広げている。そして星空の中に煌煌と輝く月。アン
      ドレも夜空を見詰めていた。二人、天に顔を向けたまま、しばしその天上のキャンバ
      スに広がる世界に見入っていた。
      「なんで、今年に限って、一緒に月を見ようなどと言い出したのだ?」
      空を見上げたままでオスカルが尋ねた。アンドレも視線を落とそうとしない。
      「今、俺達が見ている月は19年の周期で同じ位置に戻るそうだ。今、俺達が見てい
      るこの月は、19年前、俺が生まれたときと同じなんだ。その月をお前と二人で見た
      かった。」
      「いい話だな・・・。」
      オスカルはやっと顔をアンドレにゆっくり向けた。上を見たままのアンドレの瞳が星
      の光を受けて輝いていた。
      「アンドレ、お前の瞳は不思議な光り方をするな。」
      「え?」
      アンドレがやっと顔を下ろした。
      「お前はこの前、私の瞳の前で嘘がつけないといったな。私の瞳が清冽だと。」
      「ああ。」
      「だが、私はお前の黒い瞳の美しさに憧れともいえる気持ちを持ってきた。」
      「オスカル・・・。」
      「お前の瞳は不思議だ。太陽に真っ向から迎える強さを秘めている。それだけでな
      く、こうして夜空のように、時に私を優しく包む。考えてみれば、私はお前のこの黒
      い瞳をみるだけで、何度くじけそうになる心を救われたことか。」
      「オスカル・・・。」
      「お前のその黒い瞳、大好きだ、アンドレ。」
      アンドレは泣きそうになる気持ちを押さえ、極力努めて柔らかな笑顔をオスカルに向
      けた。
      「そんなこと言われたのは初めてだ。」
      「当たり前だ、初めて言った。」
      そういうと、二人は見詰め合って笑いあった。そして、こっそりワイン蔵から持って
      きたワインを、おなじく持参したグラスに注いだ。オスカルが杯を少し高めに持ち上
      げた。
      「19年前、お前が生まれたことに乾杯。そのときと同じこの月にも乾杯。」
      チンと軽くグラスがあわさった音が夏の夜空の下に響いていた。



      「これが、お前の目でなくてよかった。お前のためなら、片目くらいいつでもくれて
      やるさ。」
      アンドレのその言葉にオスカルは耐えきれなくて、廊下に走り去った。オスカルは溢
      れる涙を押さえることができない。あの美しい黒い瞳を潰したのは自分だと、彼女の
      胸もまた潰れそうなほど己を責めていた。直接手を下したのが黒い騎士だったとして
      も、アンドレを危険に晒し、あのような事態を招いたのは明らかに自分であると、オ
      スカルは自力で立つことさえままならず、廊下の壁に寄りかかった。
      ―片目くらいいつでもくれてやるさ。―
      苦しさの一方で、アンドレの言葉が優しく彼女の後悔に震える心を押し包んだ。「片
      目くらい・・」自分を守ってくれるアンドレの心の声のように感じた。それまで、ア
      ンドレの心の声などに留意したことはないが、いつも温かく彼に守られているのを感
      じていた。だが、今日はあの言葉がオスカルの心を直撃した。
      「アンドレ・・・。」
      オスカルを包む黒い瞳の一つを自分が奪った。オスカルは不安と後悔が入り混じる思
      いでその場に泣き崩れていた。


       1789年7月13日、パリ・・・。オスカルの目の前に横たわるアンドレが手を
      伸ばし、オスカルの顔を指先で確認しはじめる。
      「お前の目・・そして鼻・・・ああ、そうだ・・・くちびる・・・。」
      オスカルは最初、アンドレが何をしているのか解らなかった。目はしっかりと開いて
      いるのに・・・まさか。
      「み、見えていないのか?!何故言わなかった??!!何故ついてきた、このバカヤ
      ロー!!」
      いつもきらきらと少年の頃と変わらずに濡れたように輝いていたこの黒い瞳が、既に
      光を失っていたとは。何故自分が気付かなかったのだろうとオスカルは押しつぶされ
      るような気持ちになった。一番側にいた自分が。いや、それよりも・・・。光を失っ
      てさえも、自分の身を案じ、自分を守ってくれたこの黒い瞳にオスカルは限界点を超
      えるような愛情を実感した。この黒い瞳に再び生命と光を取り戻すためなら、自分の
      命など惜しくないとさえ思った。
      「アンドレ、愛している、愛している、愛している。」
      オスカルの魂の叫びのような言葉を聞いて、黒い瞳がさらに輝いた気がした。オスカ
      ルは神に祈った。―神よ、どうかアンドレを救いたまえ。アンドレは私の命。どう
      か、彼を救いたまえ。―
       だが・・・。オスカルの祈りは聞き遂げられず、オスカルの愛して止まないアンド
      レの黒い瞳は永遠に閉じられてしまった。
       オスカルはアンドレの体を抱きしめ、二度と開くことのない両の瞼にくちづけた。
      いつも自分を守り、力づけたこの黒い瞳。今は閉じられてしまった黒い瞳。それなく
      して、どうして生きて行けよう。
       オスカルは魂が抜け去ったような体を引きずりながら、たった一人で過ごすその夜
      に、涙で溢れる目で空を仰いだ。空には星。アンドレの19歳の誕生日に、二人でみ
      たあの夏の夜空。漆黒の空に輝く星々と月の光がアンドレの瞳のように優しく輝いて
      オスカルを包んだ。
      「アンドレの瞳のようだ・・・。」
      オスカルの瞳からさらに涙が溢れだし、月がぼやけて一層優しさを増したように見え
      た。アンドレが側にいなくても、夜空がある限り、あの黒い瞳に守られているようだ
      とオスカルは思った。
       オスカルの体中に力が蘇った。愛しい人の瞳を思わせる夜空が彼女に力を与えてい
      く。そして、夜が終わり、太陽が昇っても、再び黒い瞳の面影は消えることはないと
      確信できる。太陽にまっすぐに向かうアンドレのあの瞳のように、私も太陽に向かっ
      て立ちあがろうと、オスカルは空に誓っていた。太陽と夜空がある限り、自分はいつ
      もあの黒い瞳に守られているのだと、オスカルは体全体で空の優しさを受けとめてい
      た。
      ―お前の黒い瞳、大好きだ、アンドレ。―


                              Fin

        月が19年のサイクルで回っていることを教えてくださったA君ファン同志、プ リン様に
        感謝を込めて・・・。