春嵐
―雨の音が聞こえる―。
シャラシャラと小さな金鎖が擦れ合うような音をたてて降る春の霧雨。そして静かな夜の平安を破るようなざわざわとした風の音。冬の吹雪とも夏の嵐とも違う、
人の心をもてあそぶような風が、木々の枝と葉をこすり合わせている。
「こんな夜は嫌いだ。」
オスカルは、眠れなくて居間に灯りを点して読んでいた本から目を離してつぶや い
た。その彼女の耳にさきほどから春の嵐の音が届き、彼女の心を不安の淵に誘い
んでいた。不安になる理由など何もないのに、窓の外で奔放に駆け巡る風の音が彼女
に例え様もない孤独感を与えた。まるで春の嵐が彼女を見知らぬ世界に連れ去るため
に誘いに来たように思え、窓に小さな音をたててふきつける激しく小さな雨粒が助け
を求める彼女の声さえも消し去るようなように思えた。家族も、そしておそらくは屋 敷の
使用人たちも、もうとっくの昔に床についたため、その静けさが彼女の孤独感は ます
ます募っていった。
こんな夜は、苦しかった恋の記憶が蘇る。一人で苦しみを隠しつづけたあの
「恋」。自分の中の「女」が初めて「男」の仮面をはずしたあの「恋」。だが彼 女は
その男性の前では「男」の仮面を完全に取り払うことができなかった。なりふり 構わ
ず「女」になってその人を追いかけることができなかった。それは彼女自身が自 分に
かけた箍といってもいい。
その男性の愛する女性の護衛が自分の勤めだったから?
―いや、違う。
オスカルは無意識に自問自答していた。
―例え、フェルゼンがアントワネット様以外の女性を愛したとしても、そして そん
なフェルゼンを私が愛したとしても、私はあの時と同じようにフェルゼンの前で 男の
仮面をはずしきれなかっただろう。
その恋は彼女に苦しみしか与えてくれなかった。
―あのとき、私はどうしていいかわからなかったのだ。「女」を忘れて生きて きた
私の前に、突然「女」の私が立ちはだかった。それまで「女」を殺して、男の世界で
がむしゃらい生きてくるしかなかった私は、自分の中に姿を現した「女」の私に どう
対峙していいかわからなったのだ。
オスカルは「ふふっ」と笑いを漏らした。自分は案外不器用な人間なのだと今更 なが
ら気付く。自分の中の女を自身で持て余し、挙句の果ては「女の姿形」に身をや つし
てその男性の前に立つという方法でしか気持ちをあらわせられなかった。そして 、自
分で自分の気持ちに無理矢理決着をつけた己の不器用さが今は懐かしく感じられ る。
―今、考えてみると、あのときの私の恋は、自分一人で勝手にフェルゼンに恋 し
て、勝手に悩み、悲しみ、そして最後は自分自身で気持ちを整理して終わった、 実に
一人よがりのものだったのだな。
「恋は一人ではできぬものを。」
オスカルは読みかけの本を椅子の上に置き、窓辺に歩み寄った。カーテンの隙間 から
外を覗くが、暗闇の中から小さな雨粒だけが彼女の前のガラス窓に飛びかかるの みだった。
かつての恋は、己の真実の姿を相手にぶつけることさえしなかった。自分の置か れて
いる立場、状況などが彼女を「女」に返す障害となっていたのだ。
―かつての恋は苦しかった。だが今は・・・。
彼女に、恋する歓び、愛する幸せを与える男がいる。共に育った幼馴染の彼が彼 女に
もたらした幸福。その男の前だけでは、彼女はなんの迷いもなく自分の中の「女 」を
さらけ出すことができた。オスカルは途端にアンドレが恋しくなった。恋しくて 、恋
しくて、今すぐにでも彼の腕に抱きしめられたい衝動に駆られた。その思いを確 かめ
るように、オスカルは自分で自分の肩を抱いていた。
「アンドレ・・・。」
アンドレは春の嵐の中を歩いていた。
彼は寝入りばなに、ジャルジェ家の馬丁であるラザールが妻が産気づいたので 、医
者にいくのを手伝ってほしいと起こされたのだ。荷車にラザールの妻を乗せ、運 ぶの
を手伝った。医者の診療所についてからも、ラザールは落ちつかず、椅子に座っ た
り、何かに衝かれたように立ちあがったりを繰り返していた。出産は長引きそう だ。
あとは新しい命を待ちわびる若い父親と母親の仕事だ、自分の居場所はここには な
い、と感じたアンドレはだまって一人、屋敷に戻っていった。
その帰り道、アンドレは雨に打たれながらオスカルを思っていた。オスカルが 自分
のことを愛していると告白したあの日から、彼は新たな苦しみを抱えていた。オ スカ
ルを腕に抱く―それは彼が十数年間思い続けたはかない夢だった。しかし、その 夢が
現実のものとなった今、彼の中の貪欲な「男」が頭をもたげる。彼はオスカルを 腕に
抱きながら、彼女が自分を求める以上にオスカルを求める自分との葛藤を繰り返 して
いた。ともすると、オスカルの胸に顔をうずめて全てを手中にしたくなる。だが ・・
・。アンドレの中の古い傷が痛んだ。激情に任せて自分の十数年の思いを吐露し てし
まったあの夜。彼は力で彼女を陵辱しようとした。あのときのオスカルの涙をア ンド
レは忘れられなかった。
―俺は二度とオスカルに無理強いをしないと誓ったのだ・・・。あいつが望む ま
で、俺は待つと決めたのだ・・・。だが・・・、こんな夜は俺の決心が乱れる。
アンドレの黒い髪が風に乱される。厳しい冬から一気に空気が緩み、柔らかい 春の
風が一時の宵に荒れ狂う。まるで人の心をかき乱すように。
屋敷に戻り、アンドレは自室に向かう階段を静かに上っていった。部屋の前に 人の
気配。廊下が暗くてはっきりと見えないが、その気配から発せられる甘やかな香 りで
それが誰か彼にはすぐにわかった。
「オスカル、どうしたんだ。こんな時間に。何かあったのか?」
「アンドレ・・・。」
オスカルはアンドレの胸にするりと忍び込んだ。
「どこに行っていたのだ、アンドレ。お前をずっと待っていた。」
「どうした、眠れないのか?」
オスカルは何も言わずにアンドレの胸の中で頷いた。
「ラザールの奥さんが急に産気づいたとかで、医者まで送ってやったんだ。オス カ
ル、俺は雨にぬれているから、そんなにくっつくとお前までぬれねずみになるぞ 。」
「いやだ、離れたくない。」
アンドレは愛しさで胸が苦しくなった。オスカルの顎をとらえて、軽く唇を重ね る。
「眠れないのなら、寝酒を持って行ってやる。だから俺に着替えさせてくれ。俺 もこ
のままじゃあ、風邪をひくよ。」
優しく響くアンドレの声にオスカルは不安を残したまま体を離した。
「では、すぐに来てくれ、アンドレ。」
「わかった。」
オスカルは居間に戻っても、わずかに点されたろうそくの灯りを心もとなげに見つめ
ていた。ドアをたたく小さなノックの音。普段なら「入れ」と一言でいうのだが 、オ
スカルはドアに近づき、自分でそっと開けた。そこにはろうそくの優しい灯に照らさ
れた愛しい男の姿。アンドレが促されるままに部屋に入る。
「ワインでは寝つけないかと思って、強めの酒を持ってきたぞ。」
「ああ、ありがとう」
アンドレは持ってきたカルバドスとグラスをテーブルにそっと置いた。
「カルバドスか・・・。甘くて、刺激的な酒だ。」
オスカルがうつろな声でつぶやく。ろうそくの灯が揺れて彼女の美しい顔に影を つくった。
「どうした、オスカル。もっと部屋を明るくしてやろうか?」
「いや・・・、このままでいい。アンドレ。」
オスカルはアンドレに近づき、そのまま自分の体を彼の胸の中にうずめてしまっ た。
「アンドレ、私を一人にしないでくれ。私はお前の前だけでは素直になれるのだ から。」
「俺がいつお前を一人にした。」
「さっき、私がお前を探しに行ったのに、いなかったではないか。」
「・・・すまなかった・・・。」
アンドレは静かに、そして優しくオスカルの髪を撫でていた。しかし、彼の心の 中で
は己を抑制する闘いが始まった。
―そんな声を出すな、オスカル。そんな瞳で俺を見つめるな、オスカル。俺は・ ・・
俺は自分を抑えられなくなってしまう。
「アンドレ・・・お前が欲しい・・・。」
アンドレの胸の中でオスカルがくぐもった声で言った。オスカルの髪を優しく撫 でて
いたアンドレの手が止まった。
「オ・・スカル・・、今・・・なんと?」
オスカルがアンドレを見上げた。静かな瞳が奥に彼女らしい情熱を秘めて彼を見 つめている。
「アンドレ・・・、私は知ってしまったのだ。お前の前だけでは、私はなりふり 構わ
ず女になれることを。他の誰でもだめだ。お前じゃないとだめなんだ。私はお前 に
よってのみ、自分の中の女を解放することができる。私を女に戻してくれ、アン ドレ。」
アンドレは驚きのあまり言葉が出てこなかった。
「お前は・・・私を・・・欲しくないのか・・?」
消え入りそうな声でオスカルが視線を落としながらいう。アンドレは気持ちを声 に出
すことが出来ず、精一杯力強くオスカルを抱きしめた。
次の瞬間、オスカルは自分の体が宙に浮くのを感じた。アンドレがオスカルを抱 き上
げた。熱い視線が絡み合う。そして二人は愛の褥に激しく堕ちて行った。
二つの魂が絡み合う。熱く、そして強く。
二つの吐息が混ざり合う。激しく、そして甘く。
静かな波が、ゆっくりと、そして力強く高まりながらオスカルを翻弄する。止 めら
れない思い。春の嵐がオスカルを狂い咲かせる。甘いめまいの中、彼女は自分の 中に
鮮やかに存在する「女」を認めた。その実感がさらに彼女を熱くする。
薄れ行く意識の中で、彼女は春の嵐の音を聞いていた。荒れ狂う風、吹き付ける 雨・・・。
―アンドレ、お前の髪、雨の匂いがする―。
Fin