雨の午後


 ほんの10分前は輝くような夏の空が広がっていたのに、とオスカルは木の枝々の間を縫って落ちてくる雨粒を恨みがましく見上げた。雨粒を睨んでみたところで、一向に降り止みそうに無く、さらに雨脚は強くなっていくばかりだった。
 休日の午後、気分が良かったため近くにある同じ衛兵隊将校の屋敷に、散歩がてら、と称してほんの些細な用事で歩いて一人で出かけたときのこと、帰宅途中で急に暗雲が空を覆い、空の水を一気に地上にひっくりかえしたような大雨に出会ってしまった。急を凌いで近くの大木の枝の下に身を寄せると、雨に煽られて、木の葉が一斉に瑞々しい匂いを放ち始めていた。爽やかなその匂いは、一瞬、雨に降られたことを忘れさせたが、次第に大きくなる雨粒と雨音が彼女のひとときの安らぎをも奪っていく。
 雨は一向にやみそうにない。さて、どうしたものかと思案していたところに、彼女の右手前方から、上着の前をかき寄せるようにしながら走ってくる人影が見えた。その人影がどんどん近づいたかと思うと、オスカルが雨宿りしていた同じ木の枝の下に飛び込んで幹に身を寄せた。みると、オスカルよりわずかに背が高くがっしりとした壮年の男だった。
「いやはや、参りましたな。」
男はロクにオスカルの顔を見ようともせずに、ただ人影があることだけを見止めながら、独り言ともつかぬ言葉を発し、オスカルも、同じように突然の雨に降られた哀れな者のよしみで、ふと微笑んだ。
「そうですね、先ほどまであんなに晴れていたのに。」
彼女の深く、芯のある声に魅惑されたのか、男はやっと顔を上げてオスカルの方をまじまじと見、そしてその美しさにしばし言葉を失った。
「・・・や、これは・・・。あ・・突然、失礼した。あなたの雨宿りの邪魔ですかな?」
なんとか言葉を繕いながら、男は改めてオスカルに見入ってみる。男の言葉にゆっくりと首を横に振ると、雨粒が金色の髪を伝わって肩に滴り落ちた。着ている上着は嫌味な豪奢さがない一方、程よく人の目を引く趣味のよいもので、貴族であることは間違いないが、あまりに儚い体格だった。いくら優雅さが売りの貴族の子弟といえども、もう少し肉をつけねばならないと男は余計な心配までしてしまっていた。しかし、そんなことよりも、ブラウスの襟元から覗き見える白い喉元と、それに支えられる顔は、こんなに美しく作られた男が世の中に存在するのかと、その造形美を神の奇跡と思わせ、男の視線をくぎ付けにしていた。普段なら、こうした不躾なまでの視線を疎ましく感じるオスカルだが、今日は雨がそれを遮り、大木の下の濡れそぼる者同士として、男に心行くまで彼女の容姿を堪能させていた。
 雨は依然としてやまず、先ほどまで太陽に照り付けられていた大地に、したたかに雫を叩きつけている。木の葉の匂いがまた強くなり、緑が雨雲に解けて曇って見えた。
「昔・・・。」
突然オスカルが口を開いた。
「え?何かおっしゃいましたか?」
男の無粋な返答を聞いているのかいないのかといった風情でオスカルは話を続けた。雨の中に置いてけぼりを食ってしまった自分自身を慰めるつもりなのかと思いつつも、彼女は話を続ける。
「昔・・・幼馴染と、やはりこうして木の下で雨宿りをしたことがあります。」
彼女の形のよい唇が語り始めると、男はまたもやその唇の動きを凝視してしまっていた。美しい唇で、口角が引き締まり、上唇と下唇の厚さのバランスも絶妙で、思わず男は年甲斐もなくどぎまぎしてしまう自分に慌てながら、彼女の言葉尻を取った。
「幼馴染・・・とは、その方も貴族なんですか?」
男は無粋ではあるが言葉遣いは決して無礼ではなく、自分よりも随分年若い“貴公子”にも丁寧な言葉で返答していた。
「いいや・・。」
と、オスカルが遠くを見つめながら首を横に振る。
「私より一つ年上で、幼いときに両親を亡くしたのだが、いつも明るく、まっすぐな瞳で私を見ていてくれた。そう、兄のようであり、時には喧嘩友達でもあり・・・。ふふふ・・・退屈ですか?こんな話は。」
ふと漏れた笑顔にもまた見とれながら、男はオスカルの話に耳を傾け始めていた。やまない雨の音が妙にリズムよく昔語りを引き出す役目をかってくれている。
「幼馴染との雨宿りの思い出、ですか。聞かせてください。どうせこの雨はしばらくやみそうにありませんよ。」
男がそういうと、オスカルも彼を振りかえってにっこりと笑った。
「そう、確か私が9歳であいつが10歳だった。遊び盛りの子供達にとって、夏の太陽は遊び仲間と同じです。あの日も、今日みたいに朝から青空が広がっていて・・・。私達は大人たちに黙って二人だけで屋敷の外に出たのです。見つかる前に戻ってくれば大丈夫だと、とめるあいつをごり押しして外に連れ出した。私のわがままに、もう既に慣れきっていたあいつは、仕方がないといった表情で私についてきました。まるで、保護者を気取るように。だが、時間を忘れた遊びの果てに、今日のような大雨に見舞われたのです。私達は慌てて近くにあった木の枝の下に走り込み、今と同じように幹に身を寄せた。なかなか止みそうに無い雨粒を恨みがましく見上げて、さてどうしたものかと二人で顔を見合わせても、たかだか9歳と10歳の子供に妙案が浮かぶはずも無く・・・。ふふふ・・・。」
突然、オスカルが遠い記憶を辿りながら笑いを洩らした。
「あのときのあいつの顔といったら。年上といっても、わずか1つ違いだったし、体だってそんなに差はなかったのに、あいつは妙な使命感を小さな体一杯にたぎらせて『大丈夫だよ。』と、雨に濡れてシャツが張り付いた私の肩をぎゅっと抱きしめた。あいつに抱きしめられたのはあのときが初めてだったのかもしれない。」
そこで言葉を切ったオスカルの横顔は、隣に男がいることなど完全に忘れ去ったように、見えない思い出の場面に向かって優しく微笑んでいた。男は不思議な気持ちのまま、その横顔を見詰めていた。目の前にいる人間は、実態なのか、それとも雨が見せた幻なのか。現実の男がこんなにも優しい風情で笑うことがあるのだろうかと思いながらも、それでも目をそむけることなど到底できないほど美しい横顔をさらに見入っていた。
「仲が良かったんですね、あなたとその幼馴染殿は。」
男の問いに、わずかに眉を丸く上げ加減にしながら、オスカルがちらりと男の顔を見て、そしてまた、ふふふと笑って遠くを見詰めた。
「仲が良い・・・という言葉で表現すべきなのかどうか・・・。いつも寄り添って生きてきた・・・。いや・・・最初はあいつが私に一生懸命寄り添ってくれたのです。私はちょっと変わった育ち方をしたものですから、似た年頃の子供と遊ぶといつも彼らを振りまわす傾向があったようで・・・。もちろん、そのときはそんなことに気づいていなかったのですけれどね。」
もう2度と会うことはないだろう一人の男だからこそ、オスカルは気がね無く己の思い出話しを語って聞かせることができた。
「あいつはそんな私が初めて持った友達なのです。」
「ほお・・・。」
男は既にオスカルの語る思い出話しに引き込まれ、見たことも無い“幼馴染殿”の偶像を勝手に作り始めた。これほど美しい貴族の子弟に添える幼馴染とは、普通のそこら辺の悪ガキでは勤まることがないのは容易に想像できたし、話の内容からも忍耐強さと責任感のある思慮深い子供だったのだと推察し、さらに二人の思い出話に興味が湧いてきた。そんな男の心の内など知る由もないオスカルはさらに静かな声で思い出話しを続ける。
「あいつは特別なことをわざわざ口にするようなことはなかったが、ふと顔を上げるといつも私を見てはにこにこと笑っていた。そんな風に、何時の間にか静かに私に寄り添ってくれていた。そして私もあのまっすぐな瞳に導かれるように自分で意識しないうち、正面からあいつに向き合うようになったのです。もちろん喧嘩をすることもありましたが、まっすぐにこちらを見て自分の意見を言い放ってくれたものです。ははは。手応えがある奴でしたよ、子供の頃からずっと。」
男は自分の想像と“幼馴染殿”の輪郭がさして離れていないことに満足しながら、さらに話に耳を傾けた。
「そう、手応えのある奴。同じ年頃の人間で、そう感じたのはあいつが初めてだし・・・もしかしたら・・・これまでの人生の中で唯一人かもしれない。喧嘩をしていてもどこか心地好い。そんな相手はなかなかいないのではないでしょうか?」
「ええ、確かに・・・。」
男は話の次を聞きたくて、短い答えを返した。一方のオスカルは見ず知らずの男に語って聞かせる思い出話を辿りながら、自分の言葉を反芻していた。
「喧嘩をしていても、どこか心地いい。」
アンドレの存在そのものが、彼女にとっていつも心地よかった。それは馴れ合っているからだとか、何も言わずにお互いの考えが分かるからだとか、そんなこと以前に、本人達は、少なくともオスカルは意識しないうちに、お互いがお互いの分身として生きてきたためだと、しみじみと思い返した。笑っているときも、悲しんでいるときも、苦しんでいるときも、アンドレが傍らで同じように笑い、悲しみ、苦しんでいた。魂を寄せ合う・・・。かつてジェローデルに二人の関係をそう表現したことがあったが、今はさらに実感を持ってそう思える。何か特別なきっかけがあったわけでもないが、時間とともに、二人の魂が強く結びついていったのなら、二人が愛し合うのは自然のことだったのだとオスカルは考えていた。
「私達は・・・魂の片割れ同士か・・・。」
「え?何とおっしゃいましたか?」
「あ、いいや・・・。」
あの9歳のときの雨宿りから、アンドレの魂はずっと自分を抱きしめていてくれたのかもしれない、そう思い直してオスカルはそのまま口をつぐんでしまった。雨の音とともに、「魂の片割れ」という言葉がしっとりと彼女の全身に染み渡った。午後の雨は彼女の内なる声を導き出す役目をかってくれている。一方の男は、せっかく興味を抱いた話半ばになったため、不完全燃焼な気持ちに見舞われていた。
 雨脚が多少和らいだ気がしたが、まだやむ気配は感じられない。すると、雨粒が幕となって視界を遮断する向こうから、何かの影が近づいてくるのが見えた。やがて馬の蹄の音とともに、それが馬車であることがわかったと思ったら、オスカルの前で鈍い音を立てて止まった。馬車の扉が音もなく開くと、中から長身の男が降りてきて、オスカルに笑顔を振り撒いた。黒い髪を惜しげもなく雨に晒しながら。
「やっと、見つけた。ここにいたのか、オスカル。」
その男の顔を見るや否や、これまで静かな声で思い出話を語っていた“貴公子”が、途端に破顔一笑して声を弾ませてその長身の男の名前を呼んだ。
「アンドレ!」
木の下で雨宿りをしていた男は、今現れた若者こそ、この“貴公子”の“幼馴染殿”に間違いないと思い、自分の想像をはるかに超える清々しさに包まれているような彼の風貌に、半ば妙な満足を覚えながらまじまじと見入った。
「お前がなかなか帰ってこないものだから、きっとどこかで雨に降られているのだろうと、慌てて迎えにきたんだ。かなり濡れているな。着替えも持ってきたから馬車の中で着替えろ。」
そういうと、当たり前のように彼はオスカルに手を差し伸べて場所の中に導いた。その言葉に頷きながらオスカルは雨宿りをしている男を振り返り、「お送りしましょう」と誘った。男は躊躇したものの、この雨の中を一人で木の下に残されるのは忍びないと感謝しながらその言葉に甘えることにした。
「あ、だが・・・。申し訳ないが、私が着替える間、もう少々馬車の外で待っていてください。アンドレ、着替えを手伝ってくれ。」
そう言い残して、二人は馬車の中に消え、窓のカーテンが閉められた。外に残された男は、さすが貴族の御曹司は、着替えるときも人の手を借りるのかと関心しながら雨の滴る枝の下である種の感慨に浸っていた。友人の行動を読みとってすぐさま行動できるあの黒髪の男と、それまで静かな語り口で雨の中に佇んでいた“貴公子”が二人揃ったときのあの空気感。彼はこれまで初対面の人間にさして興味を抱いたことなどなかったが、あの二人には想像を掻き立てられていた。儚げに見えた“貴公子”が黒髪の“幼馴染殿”の登場で強い輝きを放ち始めたことからわかる様に彼らが「二人で完璧を形成する」のだということを、男は驚きと畏敬をもって感じ入っていた。
 馬車の中では、アンドレがオスカルの髪に滴る水滴をすばやく布で吸い取っていた。その手際の良さを心地良いと思いながら、オスカルはアンドレを見上げた。
「アンドレ、よくここが分かったな。」
「ん・・・どうやら俺はお前のことになると本能的に何もかも察知してしまうようだ。」
まじめな顔をして、本気とも冗談ともとれることを言うアンドレに、オスカルがふふふと笑って見せた。オスカルは濡れた服を脱ぎながらよどみなく言葉を紡ぎ出す。
「アンドレ、憶えているか?昔、お前と二人でこうして木の幹に身を寄せて雨宿りをしたことがあった。」
「ああ、憶えている。」
「さっき思い出したのだが、あのとき初めてお前に抱きしめられた。」
「・・・そうだったか?」
「そして気づいた。あの時から、私はずっとお前の魂に抱きしめられて生きてきたのだと。」
「・・・オスカル、ただでさえ、着替え中のお前を目の前に、なるべく体を見ないようにと視線を逸らしながら濡れた髪を乾かしている俺の身になってみろ。心の準備ができていないときにそんなことを言われたら、外に人がいることも忘れて、また雨の中、お前を抱きしめたくなる。」
深いため息とともにアンドレが言った言葉をオスカルは笑いながら受け止めた。
「では抱きしめればいい。そうしていることが、私達には自然なのだから。」
 雨の午後、馬車の外で上着の前をかき合わせながら男は、なかなか開かないカーテンの揺れを不思議に思いながら、降りしきる水滴を見上げていた。

Fin