『琥珀色の微笑み』



 その微笑みは、わたしをこの上なく幸せにするものだった。

  それはわたしが七つの年。おととい屋敷にやって来た子が見つからなくて、わたしは屋敷の庭を一人で探していた。
季節は初夏。庭のあちこちに白薔薇が咲き乱れ、甘い香りを漂わせていた。
(アンドレ、どこ行っちゃったんだろう?)
わたしがその子を探しあぐねていると、白薔薇の茂みの向こうで、ふと、かすかな声がした。
(……誰かが泣いている!)
 その泣き声は本当にかすかで、声を押し殺して泣いているのが幼いわたしにもわかった。
「そこで泣いているのは誰?」
 わたしが声をかけると、泣き声は驚いたようにぴたっと止んだ。
「そこにいるんでしょ?」
 わたしが泣き声の聞こえてきた白薔薇の茂みを覗くと、そこにはあの黒髪の少年がいた。彼は驚いてわたしを見上げたが、その黒い瞳には涙があふれていた。
「きみだったのか、泣いていたのは……。」
「あ、お、お嬢さま……、す…すいません……。」
「お嬢さまじゃなくてオスカルでしょ。」
「あ、そ…そうだった! ご…ごめん……。」
「別に謝らなくたっていいよ。それよりどうしたの? どこか痛いの?」
「そ…そうじゃないけど……。」
「じゃあ、どうしたの?」
「ちょ…ちょっと……いろいろあって……。」
「いろいろって?」
「ちょっと……悲しくなっちゃって……。」
「何が悲しいの? ぼくじゃ話せない?」
「そ…そんなことないけど……。」
「なら、話してごらんよ。」
「う…うん……。あ…あの……オ…オレ……この間、か…母さんを……な…亡くして……それで……あ…あの……やっぱり……悲しくて……。」
「それでこんなところに隠れて泣いてたの?」
「う…うん……。」
「アンドレ、隠れて泣くことなんかないんだよ。母上がおっしゃっていた。泣くときは誰かの胸で泣きなさいって。そうすれば、涙は苦くならないんだって。」
「誰かの胸で?」
「そう、誰かの胸で泣かなくちゃだめなんだって。だから、アンドレもこんな所で一人で泣いてちゃだめだよ。」
「でも、オレ、おばあちゃんは忙しそうだし、父さんも母さんも天国に行っちゃって、泣く胸なんてないもの……。」
「じゃあ、ぼくの胸で泣きなよ。」
「え?」
「ぼくの胸で泣きなよ。他にないんでしょ? 泣けるところ。」
「で……でも……。」
「もう、四の五の言わないの!」
 わたしはじれったくなってアンドレの頭を自分の胸に押しつけた。
「わっぷ!」
「ほれ、早く泣け!」
「オスカル、く……苦しい……。」
「あ、ごめん……。」
「もう、オスカルったら!」
 そう言って、アンドレが黒い瞳に涙をためたまま、にっこりと微笑んだ。その微笑みは、爽やかな初夏の明るい日だまりのようで、わたしは思わず顔を赤らめた。
「アンドレって、そんなふうに笑うんだね。」
「そんなふうって?」
「うまく言えない!」
 そう、わたしは幼すぎてうまく言えなかったのだけれど、アンドレの微笑みはわたしを本当に幸せな気持ちにさせたのだった。この微笑みをずっと見ていたい。アンドレの微笑みは、わたしにとってそんな種類の微笑みだった。

 それから何年か経って、わたしたちが少し大きくなったとき、ギリシャ神話か何かの本をわたしの隣で読んでいたアンドレが「へー、そうなのかー。」と、言った。
「何? どうしたの?」
 わたしが尋ねると、
「あのね、この本にね、琥珀のことが出てきたんだ。」
と、アンドレが答えた。
「琥珀って、あの?」
「うん、そう。あの琥珀。」
それはわたしがアンドレに去年やったものだった。
「で、何て書いてあったの?」
「えーっとね、『大昔の人々は、琥珀を、太陽のエッセンスが凝集したものと考えていました。』って。」
「ふーん、そうなんだ。」
「ね? 知らなかったでしょ?」
「うん。」
「大昔の人ってロマンチストだよね。」
「はは。おまえとたいして変わらないよ。」
「ほっとけ!」
「……それにしても、太陽のエッセンスが凝集したものか……。」
「太陽の光がぎゅっと集まって固まったって感じかな?」
「うん。そうだね。」
「確かに、そんな気もするな。」
――太陽の光がぎゅっと集まって固まった石――。昔の人がそう考えた琥珀。ならば、アンドレの微笑みは琥珀色の微笑みだ。爽やかな初夏の明るい日だまりのような、見る者を
限りなく幸せな気持ちにさせる微笑み……。
「……アンドレの微笑みは何だか琥珀みたいだな。」
「え? どうして?」
「お日さまみたいな微笑みだもの。」
「そうなの?」
「うん、そう。少なくともぼくにとってはね。」
「そうなんだー。なんかうれしいなー。」
 そう言うとアンドレは、出会った頃と少しも変わらない初夏の日だまりのような微笑みをわたしに向けた。

 そんな微笑みが、ある日を境にアンドレから消えた。
 アンドレと出会って二十五年。アンドレはわたしのそばでずっと微笑んでいてくれたのに……。アンドレはずっとずっとあの頃のままわたしのそばで微笑んでいてくれると思っていたのに……。
原因はわかっている。わたしの結婚話だ。
一年ほど前、アンドレにわたしへの想いを告白されたとき、正直ショックだった。でも、だからと言って、わたしがアンドレを大切に思う気持ちは変わらなかったし、わたし一人では何もできないこともよくわかっていた。アンドレの気持ちをわたしが知っても、わたしたちはそのままだった。少なくともわたしはそう思っていたし、アンドレから微笑みが消えることもなかった。
それなのに、わたしの結婚話でアンドレの微笑みが消えた。ショックだった。アンドレの告白よりずっとショックだった。あの脳天気なアンドレが笑ってくれないなんて……。わたしに微笑みかけてもくれないなんて……。
さらに悪いことに、アンドレはわたしを避けている。話しかけても必要なことだけ答えてどこかへ行ってしまう。
アンドレがわたしを避けるなんて……。そんなことがあるなんて……。
わたしがイライラしてヴァイオリンのG線を切ったときもそうだった。すぐに駆けつけてはくれたけれど、手当てをしている間どうでもいい話をしただけで、そのうちいきなり、「後はおばあちゃんに見てもらえ!」
と言って、部屋から出て行ってしまった。
 この間だってそうだ。いきなり兵営内で発砲したというから、あわてて駆けつけてやったのに、注意するわたしを見もせずに突っ立っていた。
「聞いているのか、アンドレ!」
と怒鳴りつけたら、「空に向けて撃った!」
と叫ぶように言って、どこかへ走っていってしまった。
あのアンドレがわたしを見てもくれないなんて……!
わたしは今まで、アンドレの微笑みはずっとわたしのそばにあるものだと思っていた。あって当たり前のものだと思っていた。でも、違った。違ってしまった。
アンドレの微笑みを奪ったのは、他でもないわたしだ。そのことがわたしの胸を締め付けた。

それから幾日か経ったある夜、アンドレが最近にしては珍しく、わたしの部屋にワインを持ってきてくれた。
その時、わたしはジャン・ジャック・ルソーの『ヌーベル・エロイーズ』を読み終えたところだった。以前、そう、わたしがまだ十五、六のころ、大人ぶってこの小説を読んだときは、ちっともいいと思わなかった。それなのに、今日、ふと読み返してみたら、なぜだか胸が締め付けられて、涙がこぼれてこぼれて止まらなくなってしまった。そんなところをおまえに見られるのが恥ずかしくて、なんとか笑ってごまかそうとしたのだけれど、涙はどうしても止まらなかった。 
アンドレはそんなわたしを見て、ちょっと驚いたようだったけれど、暗い表情は相変わらずで、その端正な顔にわたしの好きな微笑みはなかった。
そんなアンドレを寂しく思いながら、しばらく問わず語りに思い出話をし、ワインを飲もうとしたその時だった。
アンドレがいきなり「飲むな、オスカル! 飲むな、飲むな、飲むなーっ!」
と言って、わたしの手からワイングラスをたたき落としたのだ。
 その勢いでわたしに馬乗りになったアンドレをわたしは驚いて見上げた。すると、アンドレの黒い瞳から大粒の涙が一粒ぽたりとわたしの頬に落ちた。
「アンドレ……?」
 わたしの問いかけにアンドレが
「あ…悪かった。近寄るな。ガラスで怪我をするぞ。すぐ床を拭くから……。」
と、言った。見ると、割れたグラスの破片をかき集めるアンドレの手から血が流れ出ていた。
「アンドレ! 手が……!」
 言ってわたしが近寄ろうとすると、アンドレが
「近寄るなっ!」
と、怒ったようにわたしを制した。そして、
「す…すぐ代わりのワインを持ってきてやる……。」
とだけ言い置いて、部屋から出て行ってしまった。
再びワインを持ってわたしの部屋に現れたアンドレは、しかし、先ほどのような暗い表情はしていなかった。何と言えばいいのか。何かを吹っ切ったようなそんな顔をしていた。
その表情にわたしは少しほっとしたけれども、以前のような琥珀色の日だまりのような微笑みが戻ったのではないことにも気付いていた。アンドレがあの微笑みを取り戻すのはいつのことなのだろう……。

それからアンドレは、変に荒れたり、わたしを避けたりすることもなくなり、すっかり元通りになったように過ごしていた。そればかりかわたしに微笑んでくれるようにもなった。でも、違う。これはアンドレのあの微笑みじゃない。
どうすればアンドレは元のように微笑んでくれるのだろうか。一体どうすれば……。
そんなとき、わたしたちはパリで暴徒に襲われた。助けてくれたフェルゼンに思わず言ったわたしの言葉……。
「わたしのアンドレ!」
 そしてわたしはフェルゼンを窮地に残し、アンドレと共に逃げたのだった。
 前はこんなではなかった。フェルゼンをあんな所に残し逃げられるなんて……。今は……、あ…あ、今は……。
 今は、アンドレのほうが大切だった。わたしのためにあの初夏の日だまりのような微笑みをなくしたアンドレのほうが……。
わたしは思う。アンドレが笑えないなら、わたしも笑えない。アンドレが不幸せなら、わたしも不幸せだ。わたしはアンドレにもう一度笑ってほしい。あの爽やかな初夏の日だまりのような微笑みを、わたしに見せてほしい。わたし自身が幸せになるために……。
だから、ああ、だから、その微笑みを取り戻すため、わたしは一歩を踏み出さなくてはならない。

傷が癒えるとわたしは、ジェローデルに話があると伝えた。会って話したいことがある。
そう伝えた。
満月が明るく照らすジャルジェ家の庭で、手元にあった萩の一枝を手折りながら、わたしは言った。
「ジェローデル少佐……。ここに一人の男性がいる……。彼はおそらく……わたしが他の男性のもとに嫁いだら、生きてはいけないだろうほどにわたしを愛してくれていて……もし彼が生きていくことができなくなるなら……彼が不幸せになるなら……わたしもまたこの世で最も不幸せな人間になってしまう……。」
「アンドレ……グランディエですか……? 彼のために一生誰とも結婚はしない……と?」
 わたしはコクンとうなずいた。
するとジェローデルは、真剣な瞳をわたしに向け、
「愛して……いるのですか……。」
と、静かに尋ねた。
「……わからない……。そのような対象として考えたことはなかった。ただ兄弟のように……いや……たぶんきっと兄弟以上に……喜びも苦しみも……青春の全ても分け合って生きてきた……。そのことに気付きさえもしなかったほど、近く近く魂を寄せ合って……。」
そう、わたしには自分がアンドレを愛しているのかどうか今はまだわからない。ただ、アンドレが笑えないのは嫌なのだ。あの初夏の日だまりのような微笑みが見られないのは嫌なのだ。あの微笑みが失われてしまうのは嫌なのだ。それだけではだめだろうか。
わたしの答えを聞いて、しばらくしてからジェローデルは言った。
「……彼が不幸になれば、あなたもまた不幸になる。それだけで十分です……。納得しましょう。わたしもまた……あなたが不幸になるなら、この世で最も不幸な人間になってしまうから……です。」
 そうしてわたしの手の甲に恭しく口付けると、ジェローデルは去っていった。

わたしがもう誰とも結婚しないことをわたしは早くアンドレに伝えるべきだった。それなのにわたしは相変わらずアンドレに何も言えなくて、そのままにしてしまっていた。
だから、アンドレも相変わらず昔のようには微笑んでくれない。やはりどこかできちんと言わなければならないのだ。でも、どこで?
そんなある日、激務続きの職場から自分の部屋に戻ると、わたしはソファーの肘掛けに腰掛けていたアンドレの胸に頭をもたせかけて、ついうとうとしてしまった。夢と現の狭間でわたしは思った。あ、今なら素直に言えるかもしれない……。
アンドレの心臓の音が聞こえる。頬に触れるアンドレの胸のぬくもりが心地よい。さあ、言うなら今だ。
「アンドレ…。」
わたしは目をぱちりと開ける。アンドレのはっとしたような顔が目の前にあった。
「もう…どこへも嫁がないぞ……一生…。」
 わたしが勇気を振り絞ってそう言うと、アンドレはひどく驚いた顔をしてわたしを見た。その視線を受け止めるのがなんだか照れ臭くて、わたしはふふっと笑い、瞳を閉じた。
そうして、驚いた顔のアンドレをそのままにして、わたしは再び眠りの中へと沈んでいった。
果たしてわたしの一言で、アンドレにあの微笑みはよみがえるのだろうか。

それからアンドレは寂しそうな顔はしなくなったけれど、でも、子どもの頃のような微笑みはやはり返らなかった。
まだ、何かが足りないのだろうか。アンドレの微笑みを取り戻すための何か大切なものが……。
あの時幼かったアンドレが微笑んでくれたのはなぜだ? あんな微笑みを見せてくれたのは?
 わたしはアンドレの微笑みを初めて見た日のことを思い返す。あの日、幼いアンドレは母を慕って一人で泣いていた。だからわたしはアンドレにこう言ったのだった。

(じゃあ、ぼくの胸で泣きなよ。)
(え?)
(ぼくの胸で泣きなよ。他にないんでしょ? 泣けるところ。)
(で……でも……。)
(もう、四の五の言わないの!)
(わっぷ!)
(ほれ、早く泣け!)
(オスカル、く……苦しい……。)
(あ、ごめん……。)
(もう、オスカルったら!)

その瞬間だった。アンドレの、初夏の日だまりのような微笑みを見たのは……。
……そうか! わたしか……!
あっは……。そういうことか。わかったぞ、アンドレ。おまえの微笑みを取り戻すには、わたしが足りなかったのだ。ならば……。
「愛してい……る……。」
 意を決してわたしは告げた。
 ああ、わたしの想いはおまえに十分伝わったろうか。おまえと同じくらい、わたしもおまえを愛しているのだと、おまえはわかってくれただろうか。そうしておまえは再び、あの初夏の日だまりのような微笑みをわたしに見せてくれるだろうか。
わたしにはしなければならないことが山のようにあって、ようやく手に入れたおまえのぬくもりをもこうしてすぐに手放さなければならないのだけれど、それでもわたしがおまえを心の底から愛していると、どうしたらおまえに信じてもらえるのだろうか。
そんな切ない想いで胸がいっぱいになって、馬車の用意をするために部屋を立ち去りかけたおまえを、わたしはつい呼び止めてしまう。わたしが何も言わずにじっとおまえを見つめていると、おまえはふいにわたしを引き寄せ、口付けしてくれた。
そうしておまえはわたしに微笑みながらこう言ったのだ。
「すぐにしたくする。降りてこい。」
 ああ、これだ。わたしが失いたくなかったのは。
琥珀色の微笑みが、今、わたしのアンドレによみがえる。