琥珀色の口付け
その口付けは、星のきれいな夜降ってきた。
わたしは二十九。片想いの苦しさに押しつぶされそうになっている頃のことだった。
酒場で酔った挙げ句、男たちとけんかをしてぶっ倒れたわたしを、幼なじみの男がふわりと抱き上げた。
(おまえ、いつの間にそんな力持ちになったんだ?)
彼はわたしより一つ年上なだけで、子どもの頃には抱き上げられたような記憶はない。わたしは何だか不思議な気がしたけれど、抱き上げられている心地よさにそのまま包まれていたくて、眠っているふりをした。あまりの心地よさにふーっと意識が遠のきそうになったとき、ふいにそれは降ってきた。
それは、口付けと呼ぶにはあまりに淡いものだった。互いの唇が一瞬触れたかどうか、それくらいの口付けだった。
そんな口付けだったから、わたしは最初、空から雪が降ってきて、わたしの唇に当たったのかと思った。ただそれは、雪にしては温かで、わたしは
(ああ、空から口付けが降ってきたんだな。)
とぼんやりした意識の中で思ったのだった。
わたしを抱えながら幼なじみが言った。
「星がきれいだ……。このまま朝までおまえを抱いて歩くぞ。」
その言葉を聞いたら、なぜだか急に涙がこぼれてきた。そしてわたしは、そのまま意識をなくした……。
どのくらい時間が経ったのだろう。なんだかふわふわと雲の上をたどっているような感覚がわたしによみがえってきた。なんだろう、この感覚は? 温かくて優しくて安心できて……。ずっとこのままこの感覚の中に包まれていたい。薄ぼんやりした意識の中でそんなことを思っていると、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。次いで、柔らかな光が閉じた瞼の向こう側に差し込むのが感じられた。
「……ん……。」
ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた幼なじみの顔があった。
「ア…アンドレ……?」
「おはよう、オスカル。ようやくお目覚めのようだな。」
幼なじみの笑顔を見上げながら、ふとわたしは今、自分がどんな状況でいるのかに気付いた。
「お…おまえ、まさか一晩中わたしを抱いて歩いたのか。」
「うん、まあ、そのつもりだったんだけどね。さすがに一晩中ってわけにもいかなくて、途中途中休みながらようやくここまで来たってわけさ。」
「お…重かったのではないか。」
「まあ、それなりにはね。」
そう言うと、幼なじみはわたしに微笑んでみせた。
「というわけで、そろそろ降ろしてもいいかな?」
「あ……、ああ!」
わたしは慌てて幼なじみの腕から跳び降りた。
「んー! やっぱ、けっこう腰に来たな。」
そう言って向こうを向くと、わたしの幼なじみは大きく伸びをした。その後ろ姿をわたしは何だか落ち着かない気持ちで見つめていた。すると幼なじみが
「あれ?」
と言って空を見上げた。
空から何か降ってきたようだ。
「雪かあ。」
幼なじみの声に空を見上げると、綿菓子をちぎったような淡雪がひとひらふたひらふんわりと落ちてくるのが見えた。
しばらくそうして幼なじみと一緒に空を見上げていたら、淡雪のひとひらがわたしの唇に触れた。その瞬間、わたしは夕べの夢のような口付けを思い出した。
(あれは夢なんかじゃなかったんだ……!)
その証拠に、わたしの唇ははっきりと、その触れては消える淡雪のような感触を覚えていた。ならば、あの口付けは、一体何だったのだろう?
「アンドレ……。」
幼なじみに問いかけたくて、思わずわたしは呼びかける。
「ん?」
幼なじみはいつものようにゆっくりと振り返る。その変わらなさにわたしは問いかけの言葉をなくしてしまう。
「いや、何でもない。」
「そうか……。」
幼なじみはちょっと怪訝そうな顔をしたけれど、すぐにまた向こうを向いて、空から落ちてくる淡雪を見上げた。そんなおまえの後ろ姿を見つめながら、わたしは幼い頃おまえとした口付けの記憶を一つ一つたぐり寄せた。
まだわたしたちが子どもだった頃、おまえとわたしは何度もキスをした。頬に、額に、瞼に、そして、唇に……。
わたしの唇がおまえの唇に触れたことは何度あっただろう。ずっと「友情のキス」のつもりでいた。大好きな幼なじみへの「友情のキス」……。
だから夕べの口付けも、わたしをかわいそうに思ったおまえの「友情のキス」だったのだろう。少なくともわたしはそう思いたかった。でも、あれは……。あの口付けは……。
淡雪が空からゆっくり落ちてくる。静かに、密やかに……。そして、わたしの唇に触れたとたん、跡形もなく消えてしまう。
……気付けばいつか淡雪は止み、空が早春の太陽を取り戻す。まるで、さっきまで降っていた淡雪が幻だったかのように……。
「本当に雪だったのかな……。」
幼なじみが空を見上げてそうつぶやいた。
あの淡雪のような口付けの意味はわからない。たとえそれが友情以上のものだったとしても、他の男を恋い慕っている今のわたしに何ができよう。ならば、何もなかったふりをしていよう。幼なじみの腕の中、ずっと意識を失っていたことにしていよう。そうすれば、わたしたちの関係は何も変わらずに済むのだから……。
そして、二年後……。
その口付けは、雷のように落ちてきた。
その夜わたしは、幼なじみに性懲りもなく甘えていた。長い間胸を焦がした初恋が失恋に終わり、自分でもどうしていいかわからなくなっていたのだと思う。わたしは心配げな彼をろうそくの明かりもない暗い自室に招き入れた。
初めはたわいもない思い出話をして気を紛らわせていたのだけれど、そのうちわたしは失恋の辛さに耐えきれなくなって、とうとう彼の前で泣き出してしまった。けれどわたしは、そんなわたしでも彼ならきっと優しく受けとめてくれるだろうと自分勝手に思っていた。それどころか、あの星のきれいな夜のときのように、淡雪のような「友情のキス」でわたしを慰めてくれたらいいのにと、そんな虫のいいことすら考えていた。
けれども今度はあのときのようにはならかった。彼は自分の想いを嵐のようにわたしにぶつけ、雷のような口付けをわたしに落としてきたのだ。
そんなつもりではなかった。子どもの頃のように優しく肩を抱いてもらえると思っていた。涙を流すわたしをいたわるようにその腕に包んでくれると思っていた。あの星のきれいな夜のときのように、淡雪のような「友情のキス」をしてくれると思っていた。
でも、違った。淡雪のような口付けは、もうなかった。
わたしはおまえに何を求めていたのだろう。あの淡雪のような口付けが「友情のキス」なんかじゃないことくらい本当はわかっていたはずなのに……!
気付かないふりをしていればいいと思っていた。おまえの想いに答えられない以上、それがわたしにできる唯一のことだと思っていた。それが幼なじみのおまえに対する精一杯の思いやりだと信じていた。
でも、違った。気付かないふりはおまえのためじゃない。わたしのためだった。わたしがおまえの想いに気付かないふりをしていたのは、ただおまえに幼なじみの親友として甘えていたかったからだ。そうやってずっとずっとわたしにとって居心地のいい関係でいたかっただけだ。そんなわたしの自分勝手な甘えがおまえを追い詰めて、こんな雷のような口付けをさせてしまった。
そう、雷。もう淡雪なんかではない、雷のような激しい口付け……。おまえがわたしにこんな口付けをするなんて、そんなこと考えたこともなかった。
おまえがわたしにしてきたのはいつだって、限りなく優しい「友情のキス」だった。少なくともわたしはそう思ってきた。でも、違ったんだね。そう思っていたのはわたしだけで、おまえのほうは熱い想いを「友情」というベールで覆って、わたしに口付けていたんだね。
いつの頃からだったろう。おまえがわたしの唇にキスをしなくなったのは……。
おまえが自分の想いに気が付いて、もうわたしと「友情のキス」はできないと思い始めてからも、わたしはおまえに「友情のキス」と称して平気で口付けてきた。そんなわたしのたわいもない口付けがどんなにおまえを苦しめてきたことだろう。おまえにとっては拷問のような口付けだったに違いない。鈍感ということがこれほどまでに残酷なものだったということを、わたしは今ようやく知ったのだった。
ああ、だけど、どうしよう……。
おまえの想いは白日の下にさらされた。もう気付かないふりはできない。
おまえは明日からどうするだろう。そしてわたしはどうしたいのだろう。
今までどおりの二人ではいられないのだろうか。何もかもなかったことにして……。
今までどおりの二人でいてはいけないのだろうか。何もかもから目をそらして……。
何も気付かぬふりをして、おまえを追い詰めてしまった結果がこれなのに、そんなのは虫のいい話だろうか。きっとそうなのだろう。でも、そうしたい。少なくとも今は……。
そして、わたしの足は、アンドレの部屋へと向かう。
おまえのことだ。今ごろ屋敷を出て行こうと荷物をまとめているに違いない。そんなのはだめだ。止めなくては、わたしのこの手で。
「アンドレ、わたしだ。入るぞ。」
返事も待たず、わたしはアンドレの部屋のドアを開けた。
「オスカル!」
案の定アンドレは、荷造りの手を止めてわたしを振り返った。
「おまえ、どこへ行く気だ?」
「どこって、まだ決まってないけど、でも、とにかくおれはここにいちゃいけないんだ。わかるだろ?」
「……くな。」
「え?」
「行くな、アンドレ!」
「オスカル……。」
「今までどおりの二人ではだめか。わたしはおまえに今までどおりそばにいてほしい。」
「オスカル……。」
「だから、行くな。行かないでくれ。」
「……いていいのか? おまえのそばに?」
「いてくれ。頼む……。」
「……わかった。そうするよ。」
そう言ってわたしの幼なじみは静かに笑った。
そして、一年後……。
その口付けは、静かに美しく与えられた。
その瞬間、わたしはハッと我に返り、わたしの元部下を突き飛ばしていた。
「ち…ちがう……!」
その場から少しでも早く離れられるように無我夢中で走りながら、わたしはわたしの心に残る唯一の口付けを思い出していた。
(わたしの知っている唇は、熱っぽくて、弾力があって、吸うようにしっとりとわたしの唇を押し包み、忍び込み……。わたしの知っている口付けは……。)
ズキン……!
鋭い胸の痛みと共に、一つの口付けが思い出される。
それはあのときの雷のような口付け。あのときのおまえの唇の感触、口付けの仕方、それらを思い出して、体中が熱くなるのをわたしは感じていた。
(あ…、だれ…か…だれか……! なぜこんなに体中が熱くなるのだ……? 溶けてしまいそうに……。 なぜ……? この甘い疼きはなんだ……。)
わたしはそのまま庭を横切り、いつか厩舎の前に出ていた。すると厩舎の中から
「よしよし、今、飼い葉をやるからな。」
と、馬に優しく話しかける懐かしい声が聞こえてきた。
その瞬間、収まりかけていたわたしの胸の鼓動がまた高鳴った。
(アンドレ……!)
わたしが舞踏会で起こした騒ぎも、まだここまでは届いていないようで、アンドレは何も知らぬまま客たちの馬に飼い葉を与えているらしかった。
「ふーっ……。」
アンドレの長いため息が聞こえる。思わず厩舎の中をのぞき見ると、そこにはわたしがいまだかつて見たこともないほど辛そうな顔をしたおまえがいた。
ズキン……!
ああ、まただ! 何かがわたしの胸に突き刺さる。
この胸の痛みは何だろう。わたしは一体どうしてしまったのだろう……。
ただわかるのは、わたしがもうおまえに淡雪のような「友情のキス」を求めてはいないことだけ……。
それから、半年……。
この頃わたしは何だか変だ。おまえとできるだけ目を合わせないようにしている。そのくせ何かをしているおまえを目で追っている。そうしておまえが振り向くと、目をそらしている自分がいる。
この気持ちはなんだろう。なんと呼べばいいのだろう。
今日だってそうだ。
雨でずぶ濡れになって、司令官室に入ろうとドアを開けたら、おまえが上半身裸になって体を拭いていた。慌ててドアを閉め、
「ぶ…無礼者――っ! し…し…司令官室をなんと心得ておるかーっ!」
と叫んだけれど、顔は真っ赤になるし、胸の鼓動は早まるし、自分でもおかしなくらい動揺してしまった。
おまえの胸があんなに広くてたくましいなんて……!
そう言えば、子どもの頃からずっと一緒だったのに、おまえの裸の胸なんて一度も見たことがなかった。わたしが目にしてきたのは白いシャツに包まれた優しい胸。わたしを優しく受け止めてくれる穏やかな胸。そんなおまえの胸にわたしは今まで何かあるたび平気で顔を埋めてきたのだ。
正直、おまえの裸の胸を見たくらいでこんなに動揺している自分にわたし自身が一番驚いている。今まで何とも思わなかったものに、こんなにも心乱されるなんて……!
「オスカル、ワインを持ってきた。入ってもいいか。」
突然、わたしの心をかき乱す張本人の声がした。
「……ああ。」
わたしは胸の鼓動の高鳴りを必死で抑えながら返事をする。
「オスカル、あの、昼間はごめん。ちゃんと更衣室で体を拭くべきだった。」
「あ…、いや…、わたしこそ怒鳴ってしまって悪かった……。」
そう言いながらわたしは、目の前にあるおまえの胸をつい見てしまう。
おまえの白いシャツに包まれた優しい胸……。広くてたくましいおまえの胸……。それはいつも、わたしがほんの少し手を伸ばすだけで触れられる場所にある。
手を伸ばしてはだめだろうか。触れてはいけないのだろうか。
今までどおりの二人でいたいと思っていた。何もかも気付かないふりをして。
今までどおりの二人でいられると思っていた。何もかもなかったことにして。
けれど、それは不可能なことだった。これだけいろいろなことがあったのに、今までどおりの二人でいることなんて、できるはずがなかったのだ。
この手を伸ばしてはだめだろうか。その胸に触れてはいけないのだろうか。
今までどおりのふりをしているのが辛いのは、おまえよりむしろ……。
「オスカル? どうかしたのか?」
急に黙り込んでしまったわたしを幼なじみが心配そうに見つめる。
「いや、なんでもない。」
幼なじみの視線を避けながら、わたしは答える。
そしてようやく気付くのだ。自分の気持ちに……。自分が本当に望んでいることに……。
数日後……。
その口付けは、唐突にやってきた。
わたしはその口付けに必死で抗ったけれど、その男の手から逃れることはできなかった。
「は…な…せ…!」
わたしが何とかそう言いながら抵抗していると、突然わたしを戒めていた手がわたしから離れた。見るとそこには幼なじみの男が怒りを露わに立っていた。そして、今にもそいつめがけて拳を振り下ろすところだった。けれども幼なじみは、すんでのところで拳を止め、わなわなと小刻みに震えるその拳を降ろしたのだった。幼なじみはそのまま何も言わずにしばらくじっとそいつが去っていくのを見つめていた。そして、そいつの姿が見えなくなると、わたしを振り返り、
「怪我はなかったか。」
と尋ねた。わたしが気まずそうに
「ああ。」
と答えると、
「そうか。」
と言って、わたしを一人残し、立ち去ってしまった。
その日の仕事を終え、屋敷に戻ると、わたしは一人自室にこもった。
(よりによって、おまえにあんなところを見られるなんて……!)
だけどそれはおまえのせいではない。あいつのせいでもない。悪いのはわたしだ。気付けなかったわたしのせいだ。
よくよくわたしは鈍感な女だ。三十三にもなって、わたしのすぐそばにいる男の気持ち一つ気付けない。そうして男の心を追い詰めて、ついにはあんなことをさせてしまうのだ。
わたしは、わたしの唇にそっと触れてみる。昼間、別の男の唇を押しつけられたわたしの唇は、何だかわたしの唇ではないみたいだ。
鈍感なわたしが男の心を追い詰めて、強引にさせてしまった口付け……。そんな口付けがまた一つ増えてしまった……。
「オスカル、ショコラを持ってきた。入ってもいいか。」
考えにふけるわたしのもとに幼なじみがやってきた。
「……ああ。」
わたしは心の動揺を悟られないように努めながら返事をする。
おまえは、わたしが気まずいだろうと思いつつも、それでもやはり気になって様子を見に来たに違いない。おまえとはそういう男だ。
「……雨に濡れて平気だったか。」
「ああ。」
「なら、良かった。」
「アンドレ……。」
「ん?」
「いや、何でもない。」
「……そうか……。じゃあ、おれはこれで……。」
「ああ。」
「おやすみ、オスカル。」
「おやすみ、アンドレ。」
子どもの頃はこうしておやすみを言いながら互いにキスをした。
いつの頃からだったろう。わたしたちがおやすみのキスをしなくなったのは……。
なぜだろう。おまえと今おやすみのキスをしたくてたまらないのは……。
わたしが鈍感だったのは、どうやら自分を想う男の気持ちに対してだけではなさそうだ。
わたしはわたしの気持ちに対しても恐ろしく鈍感だった。
けれど、さすがにいつまでも鈍感ではいられない。いてはいけない。それは罪作りなことだから。
わたしを踏み切れなくしているのは、身分の違い? いや、そんなものじゃない。では、何? 今までどおりの関係を失うこと? そうかもしれない。多分わたしは恐いのだ。二十六年もの間築いてきたものを失うことが。
でも、それは果たして失うことなのだろうか。もしかしたらそれは……。
そして、数日後の今日……。
幼なじみの万感込めた口付けが嵐のようにわたしを駆け抜ける。わたしは幸福に酔いしれる。
そう、何も恐れることなどなかったのだ。わたしは失ったのではない。得たのだ。この嵐のような口付けを。わたしの望んでいたものを。それは、ほんの少しの勇気さえあれば、こうして得ることができるものだったのだ。
嵐のような口付けを受け止めながら、わたしの脳裏に浮かぶのは、琥珀に結晶したような昔の口付け。淡雪のような、雷のような、思い出せばほんのり苦い琥珀色の口付けたち……。
そんな琥珀色の口付けがわたしの唇の上で今甘やかに溶けていく。