月への願い

視線を感じて私は目を開けた。
随分眠ったつもりだが、まだ真夜中のようだ。
蝋燭はとうに燃えつき、闇になれない目には家具も 壁も見分けがつかない。
ただ、シーツの照り返しで愛しい男の姿ははっきりと見える。愛を交わしたあとの深い眠りを貪る横顔。激しい愛の行為に似合わぬ少年のような寝顔に、黒い髪が闇の延長のように滲んで広がる。
その姿に見惚れていると、又視線を感じた。それは開け放たれた窓からだった。
窓を額縁にして、月が静かな光を放っている。
今夜は愛に夢中で窓は閉めれなかったのだ。
その窓の違いで、ここは自分の部屋ではないことを思い出した。ここは恋人の部屋なのだ。

愛を知り、肌を合わすまでは当然としていた孤独な私の部屋。しかし、ひとたび彼の腕に絡め取られてからは全てが変わってしまった。一人ですごす時間には色が無い。冷たい風に取り囲まれ凍えてしまう。それでいて、身体の内は彼を求めてたぎるようになっている。
彼を求める気持ちは懐慕ではなく欲望となり、彼を、夜の訪れを待ち続ける。
しかし、今夜は初めて恋人の部屋を自ら訪れた。
そして捨てられかけた女のように愛を強請する。彼の胸に縋りながら、私の指が、唇が、目が訴える。「優しくしなくてもいい。お前が求めてきた愛をぶつけて。」
お前の指が、唇が、目が私を 蹂躪し、思うがままにする。
愛撫が通った後の感官は、お前しか捉えられない。
お前の睫毛、爪、伸びかけの髭。いつもなら気にとめない部分にまで感応する自分がいる。私はおまえにわが身のすべてをさらけ出し落ちていく。
ただひとつの抱懐を別にして。

私は月を見返し、半身を起こした。私は月に魅入られたのか?
違う、月は呼んでいるのだ。仲間を。私を。
私は夢遊病者のように恋人のシャツをはおり、窓辺に立った。
ここは、私の部屋より上階なので、樹木に阻まれず月に近付ける。
雲も、風も、空気さえも私たちの間には存在しないようだ。
人は私のことを太陽の神、アポロンに例えるが、それは私のうわべしか見ていない。
私は一人では輝けない。全てをさらけ出せない。
私は月の分身なのだ。
恋人の黒い髪があるから輝ける。いつも夜空に抱かれる陰見な月。
月は私を見ている。私が生まれた夜もお前は輝いていたはずだ。
あの夜から、私は月を従え、月は私を見ている。
ならば、私はお前に秘密をさらけ出そう。

私は生命の源をこの手に受けた。
咳嗽の疼痛の後現われた、命の色の赤い色。
それが何かわからず、うろたえる私。生臭い匂いが現実をつきつける。
喀血したと理解できたとき、恋人の顔が脳裏に浮かんだ。
死よりも死を感じる心が辛い。
愛してることよりも、愛が伝わらないことが恐ろしい。
隠疾は、私の脆弱な部分を的確に突いてくる。

私は月に向かい飲泣し、手を伸ばした。
月をつかもうとする幼子のように。
望みに手が届かぬことを思い知るように。
愛しい人の幸せを祈るように。
想いが指先から溶け出していく。

月よ、私の分身よ、私の影が彼に添えなくなったとき、愛しい人に伝えておくれ。
春は夜鳴鶯と共に。
夏はこぬか降る雨と共に。
秋は役目を終えた枯葉と共に。
冬は音もなく舞う雪と共に。

私は幸せだったのだと。
お前と巡り合えた運命に感謝していると。
お前の為だけに生きる夢も秘めていたのだと。
わたしに与えられた骸が塵となってもお前を愛しつづける、と。

月よ、清廉な夜の女神よ。
お願いだ。愛しい人に伝えて欲しい。


                     FIN



懐慕(カイボ)=思慕。したわしく思う。なつかしみしたう。
強請(キョウセイ)=むりにたのむこと。
感官(カンカン)=感覚器官。
抱懐(ホウカイ)=考えを心のなかにもつこと。又、その考え。
陰見(インケン)=みえかくれすること。
陰疾(インシツ)=他人に見えない病気。
飲泣(インキュウ)=極度の悲しみで声を出さずに泣く。