「愛の裏側」

アベイ牢獄から衛兵隊員が釈放された。
日が沈んだ後、ジャルジェ家へ帰る馬車の中で私は、疲労感と軽い興奮を覚えながら目まぐるしく動いた日々を思い出していた。
上官への反抗、父の怒り、そしてアンドレとの新しい関係―――。この二日間におこったことを私は忘れないだろう。
そこまで考えがいきつくと、なにか胸にあたたかいものがこみあげてきて、私は向かいに座る男の顔をそっと見つめた。向かい、といってもここはアンドレの左眼の方だ。彼には気付かれる心配なく見つめることができる。
この世で一番愛しい男、と自覚してから、まだ一晩しかたっていない。
私たち二人の間には、忘れた頃に香ってくる沈丁花の香りのように、たどたどしい空気が漂っていた。しかし、それにもかかわらず、私のアンドレへの想いは心の隙間から少しずつ湧き上り、今は大きな泉となって、私の心を潤してくれていた。

「どうしていままでこの想いに気付かなかったのだろう。」
私は小さくひとりごちた。
昔、と今となってはいえるだろう。私はフェルゼンを愛していた。
今の灼熱の愛に比べれば、乙女が夢見るような淡い愛ではあったが、初めての真剣な恋だった。しかし、彼の愛が自分には向かわない、と悟った時に別れを決意した。その決意をするのは辛かったが、フェルゼンの支えが無くてもいきていける。彼への想いが無くても自分の道を歩いていける、とわかっていたからできたのだろう。

そしてアンドレに手酷い告白を受け、黒い瞳を覗き込まされ、彼の苦悩と愛を知った夜。今まで知っていた包容力以外の、男の暴力も思い知らされ、私の中の女は金きり声をあげて恐怖にすくむ。アンドレを遠ざけないとお前は壊されてしまう、と凍り付いてしまった。
でも、フェルゼンとの別れような決意はどうしてもできなかった。反対にアンドレの誓いを信じることに全力を注いだ。

それにしても、フェルゼンとアンドレの思いやりは何と違うものだろう。
私の愛に応えれられない、と会わない決心をしたのがフェルゼンの誠意。
そして私が愛を返す事がなくても、側にいてくれたのがアンドレの誠意。
二人とも自分の誠意を見せてくれた。私の人を見る目はまだ確かだな。
それに比べ、私は一番の卑怯者だ。
アンドレが男の部分を抑えているのをいいことに、彼の愛を友情として見るようにしてきた。彼がいないとなにもできない、情ない自分になるのを知っていたから。自分の信念をもった人生を生きていけなくなるのがわかっていたから。
彼の愛を逆手に取り憐憫の情をかけて利用してきた、といわれても反論できない。

なぜなら、愚かな私は、女として生きる事と武官として生きる事が両立しないと思い込んでいたのかもしれない。彼の愛を一人の女として受け止めることは、フランスに尽くす、と決めた武官として生きていこうとする私には重荷でもあったのだ。

だが、いつの頃からだろう。アンドレの瞳を見ると、私の中の女が蠢くのを感じることがあるようになったのは。あの恐怖の夜に凍りついた女が、少しずつ薄氷を溶かしながら心の中にできた水鏡を掻き混ぜ、水紋を作りざわめかすのだ。水紋は揺れながら広がり、木霊のようなささやきが広がる。”どうしたいのか?何を求めてる?”
私の中の女を閉じ込めていた氷が、彼からの暖かい思いやりと懺悔の念で溶かされ、癒されても、あくまで、私が感じているのは友情だと信じていた。昨日父上の刃から守ってくれるまで。

「どうした、何を考えている?」
ハッと気付いた時、アンドレの顔は目の前に来ていた。いつの間に・・・。
「面白かったぞ。お前の顔。潤んだ目で俺を見たかと思うと厳しい顔をして、最後は
難しい顔になっていた。今日一日色々あったから疲れたのか?」
馬車の揺れに合わせてアンドレの瞳がゆらゆら揺れる。どんな光も飲み込む沼のように。こんな些細なことも初めて発見したように驚き、私は彼の瞳を吸い込まれるように見つめていた。

彼に愛を告げた。
アンドレは涙を流して口づけを求めたが、それからは、ただ、髪を、肩を撫でてまるで覆い被さっている私の疲れを取り払おう、としてくれているようだった。
事実、彼の胸の中で私は自分の行うべき事を、力を見出せた。
彼の胸での安らぎがなければ、ベルナールを説得できたかあやしいものだ。
それからは、ベルナールのアジ演説、アベイ牢獄への民衆デモ、釈放と目が回るくらいの忙しさでアンドレと一緒にいたはずなのに、向かい合うのは久しぶりの気がする。
アンドレとの時間、いや、恋人との時間を持つのは。
私は長い間、数限りなくアンドレを傷つけた。それなのにずっと耐えてきてくれた愛に感謝しなければ。そして私も彼を深く愛していることを彼にわかってほしい。
でも、どうやって・・・?

とたんに私は自分が緊張し、額に、手に汗が滲むのを感じた。彼に愛を捧げたい、それは心からの願いだ。だが、私は自分に自信がもてない。
自分のものになったとたん、相手との恋に意味を持てなくなるの話は宮廷中に転がっていた。
アンドレは、自分の上に私の心がある、と知っても想いを変えないでいてくれてるだろうか。
贅沢だが、一方的に彼から愛されてるときは、彼の愛を無条件で信じることができた。ところが、私も彼を愛している、と確信した瞬間にその信頼は呆気なく崩れ去ってしまった。脆い砂の上に建つ城のように。
彼は、恋愛をゲームととらえる男ではない。けれど、長い間かかって手に入れた虹のかけらがみるみる色あせる、そんな気持ちを抱いているのではないだろうか。
私は、お前が人生の大部分をかけてまで手に入れる価値がある人間ではないのだ。
アンドレ、お前を愛し始めたとたん、愛の裏側の不安や嫉妬に囚われてお前を疑う愚かな人間なのだ。


アンドレは、まだ心配そうな表情を浮かべている。
「疲れたのか?」
ううん、違うんだ。私は・・ただ・・私が口を開きかけたとき、御者台からのんびりとした声がした。「もうすぐお屋敷ですよ。」
その声に彼はハッと顔を離した。
嫌だ。こんな気持ちで屋敷に帰れない。こんな不安な気持ちでは・・・。
「ア、アンドレ・・・。」
「何だ?」
「アンドレ、私のことどう思っている?」
「え、どう・・って・・」
「今の気持ちをはっきり聞きたい。」
ああ、なんて可愛くない言い方だろう。
私は床をじっと見つめた。まるで失いたくない、彼の心がそこにあるように。
「どうして?まさか、万の誓いを聞きたいって言い出すんじゃないだろうな。」
俯いている私に彼のからかい気味の声が追いかけてくる。笑っているのだろうか。
しかし、私は今は真剣なのだ。
「だって、私は女らしくないし、お前に頼ってしかも傷つけてばかりだ。本当にお前の心が私の上にあるか解らない。自信が無いんだ。」
最後の言葉は掠れた、小さな声であったが、いつまでも私たちの間に漂ってるようだった。
私は思わず目を閉じた。こんなこと、言わなければよかった。こんな女々しい私にアンドレは呆れているのではないだろうか。それとも、自分の愛が信じられないのか、と怒っているのではないか。ますます嫌われたのではないだろうか。穏やかに満足したはずの女がギリギリと手足を捩り、泉をざわめかせる。
ああ、なんて悪い予感に似た風が体を吹き抜けるのだろう。
その時、私は頬にアンドレの手を感じた。その暖かさに思わず泣きたくなり、彼の手の上に自分の手を重ねる。彼は何も言わない。それ以上何もしようとはしない。でも、それで充分だった。無限の暖かさを感じる手。子供の頃の子守唄のように、悩みも悲しみも苦しみも忘れさせてくれる、この確かな存在。心地よい香りが鼻をくすぐる。
悪い予感に似た風は、ただ手を重ねるだけで、子供の頃の懐かしい香りの微風に変わり、私の不安を宥めてくれる。私の心に残ったのはアンドレへの愛だけだった。
このままの時間がもう少し続いて欲しい。
もうすぐ私は目を開ける。そうすれば、彼の瞳が心地よい天鵞絨のように私を包み込んでいるのを見つけるだろう。

月を抱く夜の空のように。

そして、私はやっとその瞳に贈れるのだ。
恋人としての初めての笑顔を。