「オスカルの苦しみ」

《1》

オスカルは走った。
今聞こえた言葉から逃れようと。
しかし、彼の声は耳の奥で反響し段々大きくなってくるようだった。

階段を二段抜かしで駆け下り、扉から飛び出し、生け垣を抜け・・・。ジャルジェ家の塀もできれば飛び越えたかったが、馬ではない身には無理な相談だったので庭園のはずれにあったベンチに腰掛ける。思い起こせば、ここは幼い二人、オスカルとアンドレが大人達の目を逃れこっそりと秘密の遊び――宝物を埋めたり、基地を作って戦争ごっこをしたり―――した場所だった。あれからどれくらいの年月が経ったのか。自分たちの友情は変わらなかったが、ふたりは大人になり人生のワインのような芳醇も、アブサンのような苦みも味わった。
そして、とうとうオスカルは自己の人生に一番必要なものに気付き、昨夜、長い間自分に愛を捧げてくれていたアンドレに愛を告白したのだ。
「私だけを愛し抜くことを誓うか!?」と。
アンドレは驚いた顔をしながらも・・・不器用な彼女の告白に優しく微笑み、抱きしめてくれた。
「愛している・・・。生まれてきてよかった。」
 それは確かな感触を伴って梅酒のような甘く自分の中に入ってきた言葉だったのに・・・。
確かに昨日の誓いは本物だったのに・・・。
「なぜ、なぜ、どうして。」

その日、オスカルは休暇で二階にある自室の、庭に面した窓の側で本を読んでいた。
ふっと本から目を逸らすと逸らすと、アンドレが御者のジャンと庭を横切りこちらにやってくるのが目に入った。
こうやって改めて「恋しい男」として彼を見たとき、その身体の均整がとれているところ、鼻筋が通っているところ、声が好ましいことに気付かされてしまう。オスカルは思わず頬を赤らめてしまい、誰も見ていないのにカーテンの影に身を隠した。だが、彼の声だけはオスカルの耳に届いてしまう。
うっとりとその響きに耳を峙ててしまうオスカルの頬は自然にばら色に染まった。

まさか、女主人が自分たちの話に神経を集中しているとは思いもしないジャンがアンドレに話しかけた。
「・・・・お前、どんな美人の女中が言い寄ってきても適当にあしらうだけだよな。よっぽど女の理想が高いんだなあ。」
「そんなことないよ。ささやかな望みしか持ってないぜ。」
「またまた、そんな奴に限って贅沢を言うんだよな。たとえば・・・。」
「・・・たとえば?」
オスカルもカーテンを身体に巻き付けながら身を乗り出す。まさか、アンドレ、私達の仲をいくら親友のジャンが相手とはいえ話すんじゃないだろうな。誰かに惚気たい、それは私も同じだ。だが、それを耐えに耐えてこそ恋愛のスリルもあるのだぞ。
ところが、アンドレとジャンの話はオスカルの思いもよらない方向に進んでいく。

「アンドレ、もしかしてお前って年上の熟女タイプなんかが好みなんじゃないか?」
「・・・う・・ん。まあ悪くはないか・・な・・。」
「尻は適当にボリュームがあって、それでいて胸はむっちりで手触りがもう・・。って身体の女とかさ。」
「そ・・うだな。」
「俺も実は熟女ファンなんだよ。あの包容力がたまらん。」
「でも俺はそこまでは・・・。」
「じゃ、どんなタイプが好みなんだ?たとえば?」
「え?え〜と。急に言われてもなあ。」
「あ、わかった。藤原海苔香なんかいいんじゃないか?」
「あ、まあ、そうだな〜。」
「な〜んだ。やっぱり理想たかいじゃん。」
はしゃいだ様子のジャンと一緒に、そのままアンドレは通り過ぎていく。
誰が聞いてもアンドレはジャンに話を合わせているだけ、とわかるのに、恋に落ちたばかりのオスカルにはそんなことを考える余裕は無い。

アンドレは熟女がお好き・・・?
むっちりした胸・・つまり巨乳に憧れている・・・?
藤原海苔香がタイプだと・・・?

オスカルは全身から力が抜け、思わずその場に座り込んでしまった。
藤原海苔香は、滅多に女優に興味を持たないオスカルでも知っているほどの人気女優だ。ラテン系の情熱的な顔立ちで、異国のタンゴとかいうセクシーな踊りが得意だったはずだ。立ち姿からも色気が匂うスタイル抜群の女性。そういえば、先月父上の代理で仕方なく行ったギリチョン侯爵の舞踏会で、アンドレは生の藤原に会ったはずだ。

アンドレへの愛に気付くまでは、オスカルは彼の女性の好みなど歯牙にもかけなかっただろう。だが、彼や今は「私のアンドレ」なのだ。そのアンドレが他の女性に目を向ける可能性があるなんてこれまで考えたこともなかった、とはなんと自分はおめでたい人間なのだろう。
彼女の頭の中で藤原海苔香の色っぽい笑いと巨乳がぐるぐる回る。

「どうしたんだ、オスカル。そんなところに座り込んで。」
オスカルを悩ます張本人が目の前に現れた。いつもの穏やかな微笑みを浮かべて。黒曜石の瞳には、情熱がちらちらと見え隠れしていた。
その眼差しと視線を交差させたとたん、オスカルはアンドレの愛が自分に向いていることが千の言葉よりも感じられた。

なんて、わたしは幸せなのだろう・・・。

その気持ちを表したくて、子供のように彼に手を伸ばす。暖かな指がオスカルの剣を扱うにしては華奢な指を捕らえ、そのまま肘に、肩に温もりが移り、気付くとオスカルはそのままアンドレの胸に巻き取られていた。
自分のものではないゆっくりとした鼓動が聞こえる。
いつも、この音は自分の隣にあった。気付いたときから、静かに見つめる瞳と共に。
彼と引き合わせられた運命に感謝すると共に、急にオスカルの胸にまたもや不安が広がる。

私は、お前の一生を捧げるに相応しい女なのか・・・?こんな、女らしさの欠片もないような女が・・・?

オスカルは顔を上げ、アンドレの黒光する右目を見つめた。彼に聞きたい。こんな自分をどうして愛しているのか。愛せるのか。
しかし、恋愛に不器用なオスカルにはとても直接言葉にできない内容だった。

それなら、まず、藤原海苔香が好きか聞いてみよう。

オスカルはごくっと何かを飲み込み必死に口を動かした。
「ア、アンドレ・・・。ふ、ふじ・・・。」
「どうした?ああ、藤の花か。もうとっくに終わってしまったよ。」
「そ、そうか。来年は一緒に藤棚の下で酒盛りをしたいな。ははは。お前の好きな酒を準備しておくからな。」
「”アンドレ”ワインはいらないぞ。あれは甘くて。」
「そうかあ。ははは。じゃ、やっぱりブランデーかな。ばあやの目を盗んで瓶ごと持ち出そうか。」

ち、ちが〜う。アンドレが好きな酒じゃなくって好みの女性のタイプを聞きたいんだ!
熟女でもなく海苔香でもなく、私が好みだ、と絶対にいわせたいっ!

 「アンドレ!の・・・りか・・りか・・好き?」

初なオスカルにとっては精一杯『海苔香より私が好きか?』と言ったつもりだったがアンドレにはそうは聞こえなかったようだ。オスカルを抱く手にいっそう力を込め抱きしめてくる。
「どうしてお前が知ってるんだ?」
「え?」
「リカにキスされて抱きつかれたこと。部屋に押し掛けられて”好きなの”と告白されたけど、あれはちょっとした・・・。」
リカは、愛くるしい笑顔に似合わない豊満な肢体がロリに絶大な人気を誇っている美少女小間使いだ。いい年になっても「リカちゃ〜ん」と一緒に遊ぼうとする大人は後を絶たない。

そのロリ少女にまで迫られた、キスされた、だってえ!?

オスカルの頭の中は 真っ白に、いや、嫉妬で真っ赤になりアンドレを突き飛ばして庭へ飛び出してきた、というわけだ。


怒りのあまり飛び出してはきたものの、幼い頃の思い出を手繰り寄せていくうちにオスカルの心は冷静さを取り戻してきた。

よく考えてみたら、アンドレがリカに手を出したのじゃないし・・。
いや、私という者がありながら巨乳好みと公言するのは許せない!
だが、私を愛している、と抱きしめてくれた・・・。
しかし、ロリから熟女、女優まで守備範囲が広すぎるのではないか!?

そのとき、オスカルは以前、アンドレがこのベンチに座っていた姿を思い出した。
寂しそうな後ろ姿だった。オスカルの声に振り向いたときに一瞬見せた切なそうな瞳。
思えば、あれは私がまだフェルゼンに片恋をしているときだったのではなかったのだろうか。
今ならわかる。
彼は私への押さえがたい思いに悩んでいたのではないだろうか。悩んでいたんだろう。いや、悩んでいたに違いない。
あれから長い年月、彼は辛抱強く待ち続けてくれて、私に公私にわたり尽くしてくれた。次は私が彼のために生まれ変わるべきなのではないだろうか。
彼好みの女性に。
sぷなれば・・・。
美しく変身した彼女の姿に恋人が歓ぶ顔が目に浮かびオスカルは勢いよく立ち上がった。



オスカルは今、パリに立ち尽くしている。
彼女の頭の中ではアンドレの好みの女性の姿は際限なくふくらんでいた。
「えーと。包容力があって、色っぽくて可愛らしくて・・・。おっと忘れちゃいけない、巨乳だったな。」
ところが今まで男として育ってきたオスカルにはどうやれば女らしくなれるのか、一体何処に行けば変身できるのか、誰に相談すればいいのか全く見当がつかない。色っぽく微笑んでアンドレに甘える想像だけは先走るだが・・・。

これからどうしよう・・・。

オスカルはあてもないまま、馬を進ませた。不穏な空気に包まれたパリだが、その中でも街を歩く楽しそうな恋人達の姿は頃を和ませるものがある。彼女も恋人達の後ろ姿を見送った後胸に暖かいものが残るのを感じ、しばらくその後ろ姿を見送る。
ふと、その視線は「本屋」という看板に止まった。

そういえば、アンドレはいつも、攻めるには情報が大切だ、と言っていたな。

オスカルは馬を下りて本屋の薄暗い店内に入ってみた。中には各部門に分けられた有象無象な本の陳列台がある。オスカルは「週刊文秋」を何気に手をとったふりをしながら、奥の女性雑誌のコーナーをちらちら覗いてみる。すると、「あなたも十日間で、今よりずっとスリムに!」「バストアップで彼の心をわしづかみ」などのビューティー雑誌が所狭しと並べられているのが見えた。

まったく、女ってのは痩せたり、肉を付けたり大変だな。それよりも、この国の官僚のだらしなさはどうだ。

政治記事を夢中で立ち読みするオスカルはどこから見ても品の良い、青年貴族である。本屋のオヤジもオスカルの威厳に「立ち読みお断り!」とハタキを持って追い払う訳にもいかず、ただ何か買ってくれることを祈ってオスカルの動きを一挙一動見守っていた。そういう視線は気になるものである。オスカルも小うるさくてオヤジを小さくにらみ返したが、とたんに当初の目的を思い出した。

ああ、あの女性雑誌コーナーのビューティー雑誌が読みたい!バストアップ体操?最新のメイクアップの魔法?なんだかわからんが、読むだけで美しくなれそうではないかあ〜!

ところが、オヤジはオスカルから目を離さない。このまま、あのコーナーに突入したりしたら、女性雑誌を漁る変な男に思われることは絶対である。

この後パリの巡回のときにオヤジと会ったりしたら・・・・思っただけでも恥ずかしいではないか!
でも、最後に、あ、そうだついでに彼女に〜ってカンジで買えばおかしくないんじゃないかな〜っと。

オスカルは狼狽えながら、しかし冷静を装い「週刊文秋」から手を離した後、当然、というように男性雑誌のコーナーにオヤジの視線に追い立てられていった。
そこにあったのは・・・。
「ベルナール・シャトレの噂の真実」

お、ベルナールもとうとうアングラ同人誌の世界から表に出て来れたのか!ロザリーもこれで生活苦から抜け出せれるだろう。

思わず嬉しくなりグラビアを捲ると・・・
「ベルナール編集長も悩殺!藤原海苔香の魅力!」と大活字が踊り、海苔香を膝に乗せたベルナールが鼻の下を伸ばしている姿が第一面にっているではないか!

くっそ〜っ藤原海苔香め!こんなところにまで出てきやがって!ベルナールもベルナールだ!こんなにヤニさがるとは!職権乱用ではないのか?
他の記事も・・・何だ、こりゃ?パレ・ロワイヤルの夜の交友関係だとか、芸能人の噂話だとかばかりじゃないか。フランスの将来を、初心を忘れたか、ベルナール!
ロザリーもあれで苦労しているんじゃないかな。ベルナールなら大丈夫だろう、と結婚させたのは間違いだったのかもしれんな。

ブツブツ文句を言いながらも熱心にページを捲っていたオスカルは、ある広告欄にピタと注目し、じっくり読むと、雑誌を買って馬に乗って足早に行ってしまった。