りんご
ふと、気づけば もう深夜だった。
私は、まだ どこもかしこもおかしい自分の体を、彼の腕にゆだねていた。
「・・・おまえ・・腹はへってないか?」
その彼の言葉は、いぶかしいほど 今の私の心情には そぐわない。
「おまえ・・・腹なんかへってるのか?」
私の不機嫌を察したアンドレは、いいわけがましい。
「うん・・・男は・・な・・・」
「ふ・・・ん・・・おんなとちがって、か? 」
おいつめてやると、あいつは いくらか困惑したらしい。
とにかくまってろ のどは渇いたろう、と言って 寝台から出て行った。
ガウンに隠される寸前に見える 彼の見事な 広い背中。
そこには、いくすじもの紅い爪あとが 走っている。
あいつは そしてドアを開けると ひとつ目配せをして、部屋をでていった。
腹がへる? は! わらってしまいそうだ。
こっちは 腹どころか、からだじゅうが 飽和してるというのに。
あいつと夜を重ねるようになったのは、もうずいぶん前のことだ。
とどかぬ想いに 心底 嫌気がさしていた私は、求められるままに 体をあたえていた。
いっときの ぬくもりが欲しかった。それだけだった。
どうってことではない・・・。なにもとりたてて珍しいことでは・・・
そう、思っていた。つい最近まで。
けれど ここ数ヶ月というもの なにかがおかしい。
あいつが いない寝台が 痛いほど。
与えられても 与えられても まだ もっと、と体がいう。
まえは こんなではなかった。
『 愛している おまえだけだ 』
そう言って 求めてくる あいつが うっとおしいことすら まま あった。
事実、部屋の鍵を かけてしまったことも。
それが いま、なぜこんなことに・・・。
おんなのからだ とは、変化するものなのだろうか。
アンドレが そっと私の部屋へ もどってきた。
運んできたのは、小ぶりの林檎二つに ワイン。
私のこのみの マルゴー。
そのグラスを ほら、という顔で わたしてよこす。
そして 自分は林檎を手にすると モゾモゾ まのぬけたようすで 寝台に もぐってきた。
こんな こいつを見るのは、わるくない。
男とは みんな どこか 滑稽だ。
こいつが さっきあんなにまで 私を 翻弄した。
そう思うと ふいに からだじゅうの神経が 細かく 甘く 振動する。
こういった 感覚は なんと名づけたら いいのか。
愛 それは陳腐すぎる。
情欲 あるいは そうなのか。
あいつは 上掛けの下に 入り込むと 枕にもたれて 林檎に歯を立てた。
行為のあとの空気に ぱあっと 甘くて清い 香りが 広がった。
その香りにつられて私の視線は、あいつの口元に吸い寄せられた。
林檎は まず くちびるに捕らえられ、そしてわずかに内側の粘膜をまくりあげたあと、
前歯で 噛みしめられて、その身をけずられる。
けずられた切片は 口内の奥に はこばれて 奥歯でこなごなにされていく。
かみしめるほどに 果汁はしぼられ、やがて繊維だけになって、
その のどへと 嚥下される。
そして、あいつの 体内へ入り込み 吸収されていくのだろう。
私は、おかしな表情をしていたのか。
「 どうした? 」
きかれて 戸惑った。
「 私もたべたい 」
言葉は 勝手に 出てきてしまった。
ふと、目元をゆるませて グラスのかわりに もうひとつの 林檎を 手渡された。
瞬間、触れ合った 指先が うるさいほど しびれるような刺激を 伝えてくる。
自分もそれに 歯を立てようとして、気づいた。
ちがう。
たべられてしまいたいんだ。 私が。
林檎に 嫉妬していた。
めちゃくちゃに 咀嚼されて もとのかたちを奪われて アンドレと一つになる。
その 光景は、めまいがするほど 魅惑的だ。
どこまで 私の意識がつづくものか。
あいつの 体内で 熱い胃液を あびせられるまで。
そして分解されて 血流にのり 細胞のひとつひとつに いきわたるまで。
その感触を 享受できるのならば、もう この先の どんなものと 引き換えてもかまわない。
私の手から、林檎をとりあげると 見透かしたような瞳で みつめられた。
なんだ まだたりないか、とその目は 言っている。
寝台から ころがりおちる 原罪の果実。
今宵 いく度めかの 接吻は つよく その香りがした。
FIN