親愛なるものへ… 奇蝶
今年もまた、冬の風が白い吐息を凍らせる季節がやってきて、そして俺はこの季節になると
きまってあの夏のを思い出す。この季節になると、なんていい方はおかしいかもしれない。
俺は冬じゃなくても、いつもあの夏を思い出している。
今日は、久しぶりにあの場所に行ってみた。相変わらず何もなく、ただその場は凍てつく風が
吹いていた。寒さのためにか、早くなる歩調につられて、俺はずいぶん早く自分の家に帰って
きていた。帰り道では、何人かの楽しげな恋人たちや、家族を見かけて、ああ、そうか今日は
ノエルだったんだと、改めて思う。俺はまるで何も聞こえないように足早に道を歩き、そしていつ
のまにか自分の部屋にたどり着いていた。
外とあまり変わらない寒さに一瞬身震いしてから、俺は灯りをつけ、湯を沸かした。
早く暖まりたく、コーヒーなんて手間のかかるものは作らなかった。温まった湯に砂糖をいれて
かき混ぜもせずに一気に飲み干した。
一息ついてから漠然と部屋を見回した。さきほど湯をわかしたせいで、いくらか部屋が暖まって
いるのを肌で感じた。何も、ほんとうに何もない部屋。あるのは少し大きめのテーブルと椅子、
窓、本棚だけ。寝室は隣だったが、そこにもベッドがおいてあるだけだ。花なんてものは、ここ
数ヶ月、飾っていなかった。
突然、俺はグラッと大地が揺れるのを感じた。それが地震だと分かるまでに少し時間がかか
った。本来この国には地震などあまりなく、ましてや地震による被害なんて体験したこともなか
ったが、今回の地震はかなり長く、その揺れの大きさも初めて感じるものだった。
1分ほどゆれていただろうか、本棚から何冊かの本が落ちていた。
しばらく完全に揺れがおさまるのをまって、俺は散らばった本を片付けることにした。
ひとつ、ふたつと本を元にもどしていき、最後に床の上に転がっていた本は、何かの悪戯であ
ろうか、そこの表紙には「ヌーベル・エロイーズ」とかかれてあり、手垢で少し汚れていた。
苦笑して俺は、それを手にとり、少しの躊躇のあと、本棚に戻そうとした。
その、瞬間。
一通の封筒がまるで風に舞う木の葉のように、床に落ちた。
本の中にはさんであったものだった。
その封筒をみて、俺は久しぶりの涙を流した。宛名は青のインクで、走り書きのように
書かれ、それでも不思議とその字体から温もりが感じられた。
封筒から中身を取り出す。2枚の便箋らしきものが入っている。一枚目には、やはり宛名と
同じ青のインクで、何やら風景画のデッサンあるいはスケッチのような絵が書いてある。
一見なんてことはない普通の風景だが、すぐにそれを見て、書いた人間が絵に関しては
一流の腕を持っていたことがわかる。それは、窓から見たある街の絵だった。丁寧で、
しかしその筆使いは大胆で情熱的だ。そして俺は2枚目の紙に目を移す。
またも、青のインクでそれは書かれていた。しかし今度は絵ではない。几帳面な文字で、
その手紙はかかれている。その字は綺麗で流暢であったが、少しクセがあり、文字の右が
あがっている。
手紙は、こんなふうに始まっていた。
─親愛なる…─
*
*
俺は、情事のあとの気だるい疲労感に包まれながら、ベッドから降りた。
ベッドからは相変わらずかすかな寝息が聞こえる。それを、俺はこの上なく愛しいと思う。
彼女を抱いたのはこれで2度目だった。今夜は、彼女の方から求めてきた。
先ほどまで、俺たちは気が遠くなる程の愛欲の中にいたのだ。
彼女が頂点に達した瞬間、俺は彼女の口から悲鳴にも似た喘ぎを聞いた。
そして、頬を濡らしているものに気づいた。
おまえは、あの時泣いていたのか…?
ふと、俺は窓の外を見た。俺の目はぼやけていたが、我に返ると手はペンをもち、
青いインクで窓から見えるわずかばかりの風景を描き始めていた。
「…う…ん?」
「ああ、目がさめたのか?」
「うん、おまえの起きる気配でな」
「すまない、明日は早いのに起こしてしまったな」
「いや、平気だ。それより、何をしている?」
「絵を、描いている」
「絵?」
「そうだよ」
「おまえは昔から絵を描くのがうまかった。でも、最近は描いてなかったろう?
どうして急に?」
「なんとなく、急に思い立ってね。おまえと旅行にくるなんて、本当に久しぶりだからな。
このときを、忘れないようにしようと思って」
「ははっ、バカ。旅行なんて、これから先いくらだってこれるだろう」
「そうか、…そうだな」
「そうだ。私たちは夫婦になるのだからな」
「…もう一度、おまえを抱きたい。いい?」
「…ウィ」
今夜2度目の情事の果てに、彼はさすがにぐっすりと眠っている。
私は一人起きだして、先ほど彼が描いていた絵に見入る。
それは、私たちが今回休暇に訪れたアラスの街、この旅館の窓からみた風景だった。
繊細で、しかし力強いタッチでそれは描かれている。まるで、彼そのものを表しているかの
ようだった。
備え付けの書き物机の上に置いてあった青いインクを使ったのだろう。
インクのしみがひとつ、弾けた玉のように机に落ちていた。
ふと、私の中にある考えが浮かんだ。
私はさっき彼が使ったであろうインクの蓋をあけ、もう一枚旅館の便箋を使い、
手紙を書き始めた。宛先の住所を思い出すのに少し時間がかかったが、以前その住所を
たよりにその家に行った事があったので、すぐに思い出せた。
私は、手紙の書き出しをどうするか一瞬迷ったが、こう記すことに決めて、書き始めた。
─親愛なる…─
*
*
俺は、しばし時を忘れ、その手紙に見入っていた。これを読むのは、もう何度目だろう。
いつの間にか、俺は小さく声にだして、それを読んでいた。
「親愛なる アラン・ド・ソワソン
今、時計の針は夜中の2時をさしている。アラン、この間のことをアンドレに言わないでいてくれ
てありがとう。感謝する。私が執務室で血を吐いていたなどと彼が知れば、今回の旅行も
決して実現しなかっただろう。パリの様子はどうだ?何か変わったことはないか?
私が考えるに、我が衛兵隊もいずれ出動するときがくるに違いない。そのとき、私たちは
行かねばならない。おそらくパリは血の海とかすだろう。だが、私は隊長として、
衛兵隊隊士を代表してアラン、君にお願いがある。我が隊が出動するときがきたら、
私の指揮に必ず従ってほしい。今はその指揮がどのようなものであるのかはいえないが、
必ず、私についてきてほしい。そして、もうひとつお願いがある。出動してから私にもしものこと
があった場合君を衛兵隊の隊長としたい。それだけだ。
私は君に出会えてよかったと思う。私は衛兵隊に転属できた偶然に感謝する。
ああ、そろそろ私も眠くなってきたよ。アンドレが描いた窓からの風景のスケッチを同封する。
私の恋人の絵は、センス抜群だ。
オスカル・フランソワ」
結局、この手紙が俺に届いたのは彼らが亡くなってからだった。
届けてくれた人間によると、雨でインクがにじみ、住所がなかなかわからなかったということ
だったが、それは神の悪戯だったのかもしれない。
今日俺は、オスカルとアンドレの墓に行ってきた。相変わらず二つの墓はまるで寄り添う
ようにあって、俺の胸をしめつける。そしてオスカルが衛兵隊に転属してきてから、とりわけ
彼女がアンドレと想いあうようになり、一段と美しくなったあの年の夏を思い出す。
俺は、すっかり暗くなった外にでた。
空を見上げると、チラチラと、何か白いもの降ってきた。
雪だ。
あちこちで、今日を祝う楽しげな笑い声が聞こえる。恋人の、家族の笑顔が行き交う。
今日は、ノエル。
そして、俺が初めて愛した女の、誕生日だ─。
fin.