「ベルばら天国編」  2

オスカルの寝室を、ロザリーはジェローデルに案内して、すぐに自分は台所へと消えた。
ジェローデルがオスカルに受け入れてもらえないことは十分に承知していた。それでもロザリーは、
ジェローデルを彼女の寝室に案内した。
 それは、もしかしたらという思いがロザリーの心の中にほんの少しでも存在していたからだった。
 アンドレという最愛の人間を失い、失意のどん底にあるオスカル・フランソワの心に、もしかしたら
ジェローデルならわずかであっても灯りを灯すことができるかもしれない。
ロザリーはそう考えた。もし、ジェローデルが訪ねてきたときに、ベルナールが在宅であったなら、おそらく
ベルナールはジェローデルがオスカルと会うことを絶対に承知しなかったであろう。実際のところ、ロザリーも
最初はたとえジェローデルが何と言ってもオスカルに会わせることなど思ってもいなかった。
しかし、ロザリーはジェローデルの話しをききながら、もし、自分がオスカルだったら?と考えてみた。
 自分がこの世で一番愛しているベルナール・シャトレ。
もし自分が彼を失い、失意と悲しみのなかで生きているときに、ずっと昔から自分を愛してくれていて、今もその
気持ちに変わりはなく、わざわざ危険を犯してまで自分を探し求めてきてくれたのなら? もちろん、そんな男が
きてくれたことですぐにその別の男の胸に飛び込めるはずなどない。そんなことなど到底ない。けれど、
もしかしたら、その男に出会ったことで、今までためにため込んでいた自分の悲しみや悔しさや怒りが、
一気に爆発したとしたら?その男の前で心の底から泣けたとしたら? 今のオスカルは自分の感情を表に
出すことさえもできなかった。しかし、ジェローデルが自分の前に姿を現したことで今まで彼女がため込んで
いた複雑な思いが一気にはじけることができるかもしれない。
 ロザリーは、そこまでを冷静に考えて、そのうえであえてジェローデルをオスカルの寝室に案内したのだった。

 ロザリーは、オスカルの寝室を離れ、台所にいく途中で、涙が溢れるのを止めることができなかった。
なぜ、みんなが幸せになれないのか?
その思いだけがロザリーの心を支配していた。そして、ベルナールのことを考えていた。
早く彼に帰ってきてほしかった。いつも通りのあの優しい笑顔を見せて欲しかった。そして、はやくあの温かい
腕に抱きしめられたかった。


 ─オスカル・フランソワの寝室は、消毒液の臭いでいっぱいだった。その中で、ジェローデルはかつての軍服姿
からは想像もできないほど儚げな、女を見つけた。
 オスカルは、小さな小さな、それこそ今にも消えてしまいそうな声で、子守歌を口ずさんでいた。たしかそれは古くから
ロワール地方に伝わる、どうしても子供が駄々をこねて眠らないときに母親が歌うと、どんな子供でもコロッと眠って
しまう、魔法の子守歌とよばれている、「小さな妖精たち」という唄だった
 オスカルは、ジェローデルが入ってきたドアに対して、斜めにベッドの上に座って、窓辺を見ながらその子守歌を
歌っていた。そして静かに泣いていた。
 ジェローデルは寝室の微かに軋む扉をバタンと音をたてて閉めた。
 オスカルは、ジェローデルのほうをちらりとも見ずに、
「すまないロザリー。今は一人にしておいてくれないか?」
と独り言のように呟いた。
ジェローデルは暫く後に、口を開いた。
「私は、ロザリーではありません。彼女の了解を得て、あなたの部屋にいれてもらいました。
オスカル・フランソワ、私はジェローデルです。」
オスカルの体がピクリと反応したかのように見えた。
 ジェローデルはその反応を見逃さなかった。
一気にベッドにかけより、オスカルの顔を正面からみて、その体を左右に揺さぶった。
「私を見てください。オスカル・フランソワ。あなたに会いたいがために、ここまでやってきたのです。」
オスカルは、そんな必死な彼を虚ろな目で見つめていた。
「…そして、迎えにくるよ…。小さな小さな妖精が…。」
依然として彼女は子守歌を歌いながら、ぎこちなく立ち上がり、窓辺に佇んだ。
「…そうだ、私も妖精なんだ。だからきっともうすぐ迎えにきてくれる。」
ジェローデルはいつの間にか涙を流していた。
まさかここまで彼女が精神を病んでいたとは。
彼はオスカルの近くに歩み寄り、その細いからだを後ろから優しく抱きしめた。
「オスカル…思い出して。あの春の日、あなたの近衛服は紅に揺れていた。思い出して…。
初めて私があなたに口づけした日を。」
 その場にはただ沈黙だけが流れ、そしてオスカルは歌うのをやめた。
「…ジェローデル?私は・・。」

 オスカルはやっと正気の目でジェローデルの姿を見つめた。
「あ・・・・。」
オスカルはまるで今の自分を恥じるかのように彼から目を反らす。
「…なぜ、なぜここにやってきた?
私のことなど、放っておいてくれればよかったのに。」
独り言のようにオスカルは呟く。あたかも子守歌の続きのように。
微かに開け放たれた窓から一陣の風が吹き、夕刻の寝室を揺らしていった。
「なぜ?私がここにきた理由を述べよというのですか、
あなたは?…数年前、私はあなた求婚した。あなたを愛していたから。
上司でも友人でもなく一人の女として。
でも、私はあなたにいわれた通りに身を引いた。でも、今は違う。私はまた新たにあなたを愛し始めてる。
だから探しにきたのです。」
ジェローデルは一つ一つの言葉を丁寧に喋った。
乳飲み子に初めての言葉を教えるがごとく。
「…それで、私にどうしろと?ジェローデル、おまえがきてくれたことには感謝する。でも、今の私にどうしろと
いうのだ?死を目前にした人間の哀れな最後を見に来たのか?」
その言葉はまるでガラスの欠片のようにジェローデルの心に突き刺さった。
今の彼女は壊れた人形のようだった。
そしてその人形の口からは、以前だったら想像もつかないような言葉があふれ出てくる。
「オスカル…あなたは変わってしまった。
どうか、前のあなたに戻ってください。あなたの病気はよくなるのだから。いや、私がそうしてみせる。
 アンドレのことは、忘れろとは言いません。しかし、もう彼はこの世にいないんだ!
あなたの恋人は死んだんだ!」
ジェローデルは必死だった。もはやオスカルが自分を愛しくれるなどとは微塵も思ってはいなかった。
ただ、彼女の心に例え蝋燭ほどでもいいから灯りを灯したかった。
「…アンドレが死んだ?そんなことはない。彼はもうすぐ私を迎えにきてくれるんだ。私たちは、
永遠に一緒だと誓ったのだから。」
「違う!死んだ人間はもう戻ってはこない!あなたの考えは間違っている。どうして、アンドレの分まで
精一杯生きようとしないのです!?生きてください。あなたを愛するものたちのために。」
 一瞬、オスカルは黙った。
キッとジェローデルの横顔をにらんだかのように見えた。
「お願いです。私と一緒にきてください。私の別荘はここよりも環境はいいし、何より有能な医者が揃っている。 
さあ、オスカル・フランソワ!」
そう言ってジェローデルは強引にオスカルの肩を掴み、ベッドから抱き上げようとした。
「やめろ!やめてくれ!!…アンドレは死んでなんかない!
きっと、きっともうすぐいつものように笑って迎えにきてくれるんだ!おまえなどにわかるものか!!」
オスカルはジェローデルを力一杯突き放した。
とたんに彼はバランスを崩し、サイドテーブルの上に置いてあった水色の宝石箱らしきものを倒した。
 それは、オスカルがアンドレから送られたもので、出動前日にあの例のブリキの箱に入れて大事にしまって
いたものであった。
ガチャンと大きな音を立てて、宝石箱は床に落ちた。
そのとたん蓋が開き、中から鉛の駒と赤いナイフが転がりでてきた。
 そして・・・。
微かにメロディーが流れ始めた。
曲はなんと、「小さな妖精たち」であった。
それまでオスカルは、この宝石箱がオルゴール仕立てだったなんて、気がついていなかった。
おそらく、床に落ちたショックでゼンマイが壊れたのだろう。

 途端にオスカルの目から大粒の涙がこぼれ始めた。
「…そうだ。アンドレはあのとき、撃たれたんだ。
…私を庇って、たくさんたくさん銃弾を浴びて。
服が血の色に染まって…!ははっ…そうだった。
アンドレは、死んだんだった。もう、二度と会うことはできないんだ。」

 オスカルは泣いた。号泣した。意識が戻って以来声をだして泣くというのは初めてのことだった。

「アンドレ!アンドレ!!」
声が掠れるほど彼女はアンドレの名を叫び続けた。
ジェローデルは、ただ呆然とその場に立ちつくしていた。

「オスカル様!?」
突然の叫び声を聞いてロザリーが慌てて飛び込んできた。
「あっ・・・。」
その場の光景をみて、ロザリーは静かに言った。
「ジェローデルさま、どうか、お帰りください。
お願いです、もしも本当にオスカル様のことを愛していらっしゃるのなら、どうか帰ってください。」
「…わかりました。けれど、けれど必ずまたきます。
どうか、体を大切に。私の愛する、オスカル・フランソワ」
 ジェローデルはそうポツリと言うと、静かに彼女の寝室を後にした。

「ロザリー、アンドレが、アンドレが!」
オスカルは子供のように泣きじゃくった。
ロザリーはそんな彼女の肩を優しく抱きしめた。
 こんな風にオスカルが自分の感情を表に出してくれる日が来ることを、ロザリーはどれだけ待って
いたことだろう。
 オスカルの呼吸が落ち着いた後、ロザリーはオスカルに睡眠薬を飲ませ、眠らせた。
 彼女が眠った後、ロザリーは床に転がった水色の宝石箱を片づけた。ふと箱の底をみると、AとOという
二人のイニシャルが、まるで恥じらうかのように彫られていた。
 そんな文字を見つめていると、自分がジャルジェ家に引き取られたころのあの懐かしい青春の日々が、
次々と思い浮かんでくる。アンドレとオスカルの優しい笑顔。
活気に満ちた笑い声。重なる剣の音。
 ロザリーは泣いた。声を立てずに。
「どうか、この世に神様が存在していますように」と願いながら…。


ー1789年8月12日ー  天界
◇アンドレ・グランディエ◇

 ライアルの泉を通してその全てを見たアンドレは、しばらく何も言うことができなかった。
そして、涙に濡れた瞳で、そばにいたレダを見つめた。
「……お願いします。どうか、一日でいい。彼女の元にいかせてください。お願いします!」
「だから、さっきもいっただろう?行かせてやることは
できると。しかしその為の条件がある。」
レダは淡々と言った。
「何ですか?その条件というのは!?」
「第一に、下界にいられるのは12時間だ。それ以上は決して認められない。第二に、例え下界に降りた
としてもそれは生前の自分の姿形ではない。心と記憶はそのままだけれどね。第三に、自分の正体を、
要するにおまえさんがアンドレ・グランディエだということを絶対に誰にも
言ってはならない。そして最後に、実際に下界に降りて、どんなに頑張ってそのオスカルという女性に何かを
語っても、一晩経ったら、その女性にはおまえさんとのことは全て夢だったとしか記憶されない。」
レダのその言葉は、何度もアンドレの胸を貫いた。
「……そんなに、厳しい条件なのですか?」
「あたりまえだよ。何といってももうおまえさんは死んでいるのだからね。後はおまえさんがどう選択するのかだよ。
どうするんだね?行くのかね?それとも行かないでここから彼女の哀れな姿を見続けるかい?」

アンドレは即答した。
「行きます。どうか彼女のもとに行かせて下さい。」
「わかったよ。いいかい?絶対に条件に従わなければならないんだよ。」
「はい。わかっています。」

とたんに、鋭い閃光がアンドレの体を包んだ。
ふとアンドレは、その閃光の中に、幼き日の自分と母親の姿を見たような気がした。
「…母さん?」

─そして、彼の記憶はそこで途絶えた。



〜第5章 再会〜  
1789年8月13日ーパリ、下町ー
◇アンドレ・グランディエ◇

 気がついたアンドレが、一番はじめに目にしたものは、あの水色の宝石箱をかった店の前だった。
 天気は土砂降りで、アンドレはずぶぬれになりながら呆然とだれ一人いないその通りに立ちつくしていた。
 彼は驚いた。もちろん本当に下界におりてこられたことにもだが、何よりもまず、今の彼には生前なかった
ものがあった。そう、店のショーウィンドウに写る、黒髪でもなければ黒い瞳でもない、自分の姿を認識する
ことのできる、尊い光があったのだ──。

続く