ベルサイユのばら 天国編  3

 雨の中、ただ呆然と路上に立ち尽くしていたアンドレは、まず今の自分に光があることに
驚いた。天界でレダが言っていたが、地上におりてくるときには自分ではない誰かの肉体を
かりるのだと。アンドレは目が見えるという事実に戸惑いながらも、店のガラスを鏡にして、
己の姿を凝視した。今自分が、いや正確にいうとアンドレという男の記憶と心をもった男性。
その人物が誰なのか、アンドレは一瞬にして分かった。
「父さん…」
ガラスに映った姿はまぎれもなく、アンドレが幼い頃に死んだ彼の父親、ジョシュア・グランディ
エだったのである。甘栗色で、肩に届くほどの長さの髪。背丈はアンドレと同じくらいだろうか。
そして、母親のルティーシアがいつも話してくれていた、深い緑色の瞳。服装は、普通の一般
市民が着ているような質素なものだった。
なぜ、自分は父親のからだをかりてこの地上に降りてきたのか。理由はわからなかった。
父親といっても彼はアンドレが2歳のときに事故で亡くなっているので、アンドレは父のことを
母から見せてもらった写真でしか記憶を残すことができなかった。しかしその写真も、母が突然
亡くなったので、どこにあるのか分からないままアンドレは祖母と一緒にジャルジェ家に引きとら
れた。しかし、今ガラスに映っている己の姿を見て、間違いなく自分の父親のジョシュアだと
確信がもてた。理由などない。ただなんとなく、天界で父や母が、自分がこれから行おうと
していることを、見守ってくれているような錯覚に陥った。
 しばし、その場を動けなかったアンドレだが、雷の音でやっと我に返った。
すぐ傍の時計塔に目をやる。夜の7時15分。急がなければ。自分は明日の朝のこの時間まで
しか地上にいられないのだ。早く、早く行かなければならない。最愛の女のもとへ。
自分を求めてやまない、オスカル・フランソワのもとへ。


 オスカルは、そっとベッドから身を起こした。雷と激しい雨の音がなんだかわからないが、
妙に心を掻き立てる。今夜は、いや正確にいうと明日の夜まで自分は一人なのだ。
ロザリーとベルナールは、長年の友達が急に亡くなったというので、今日の夕方から出かけて
いた。最初ロザリーは、オスカルの身を心配して家に残るといっていたのだが、オスカルが
あえて、自分は大丈夫だから、と言ったのだ。たまに、一人きりになるのも、悪くないかもしれな
い。そんなことを、考えていた。
 ジェローデルがこの家にやってきて、オスカルは初めて心から泣いた。アンドレが死んだのだ
という現実を受け入れたのだ。そういった意味で、幸か不幸かは分からなかったが、ジェローデ
ルの訪問は、彼女の心の何かを変えてくれた。
 オスカルは自分の部屋を出ると、居間に向かった。
いつもなら、ベルナールやロザリー、あるいはアランといった面子がここにいるのに、
人気のない今夜の居間は、オスカルに人恋しさを、アンドレへの思慕を募らせるのには十分
だった。そっと灯りをつけ、辺りを見回す。綺麗に整えられた家具、ほのかに香る窓辺の花。
ロザリーの心配りが随所に現れていた。ふと、オスカルは部屋の隅にあるローチェストに
目をやった。そこにはロザリーがあわててしまい忘れたのだろうか。彼女がベルナールと
結婚するときに、オスカルが誰にも内緒で贈った香水が転がっていた。いまも、ロザリーは
これを愛用しているのだ。一瞬、オスカルの思考が白く弾む。当時はおかしくて笑ってしまった
できごとだった。アンドレと恋人という関係になってから、オスカルは香水を贈られた。
それは、オスカルがロザリーに贈ったものと全く同じものだった。あまりの偶然に驚いたオスカル
は、どうしてこれを選んだのかアンドレにきいてみた。アンドレは最初なかなか口を割らなかった
が、「おまえがどういう香りを好きなのか分からなかったから、ロザリーに聞いたんだ。
そしたら、ロザリーが使っている香水があんまりいい匂いだったから、それに決めた」
 オスカルは、笑ってしまった。アンドレに、香水をつけてくれと頼み、髪をかきあげた。
しかし、香水よりも先に口付けが振ってきた。
(そんな日も、あった)
何気なく、オスカルはロザリーの使っているその香水をうなじにつけてみた。
ホワイトムスクの香りがかすかに漂う。以前、アンドレと夜をともに過ごすとき、この香水を
つけた。「いい香りだね」そう言って彼はいつも照れたように笑っていた。
「どうだ?アンドレ」
誰もいない部屋で、まるで話し掛けるようにつぶやく。金の髪をフワっと後ろにかきあげて、
その香りをさらに漂わせてみる。一瞬、アンドレの暖かい手が、自分の頬を捕らえたかのように
感じた。オスカルは泣かなかった。錯覚でもいい。このまま自分の頬を捕らえられながら、
アンドレに連れ去られたかった。

─答えてくれる人がいない、自分一人の空間は、ことのほか寂しかった。

 ふと、オスカルは雷鳴の音で我にかえった。ふと見上げた時計が、夜の7時15分を刻んでい
た。その瞬間、彼女は体中を走る、何か電気のようなものを感じた。なんと表せばいいのか
よく分からないが、オスカルはビクッと身震いをした。
 ゆっくりと大きく息を吐き、居間の椅子に座る。衣擦れの音とともに、暖かい木のぬくもりを
感じた。まるで回想録でも綴るように、オスカルは自分のこれまでを思い出していた。
士官学校で、女の兵隊だとからかわれながらも一心に剣や武術の訓練に励んだこと。
初めてみた異国の女性、後のフランス女王となる女性のどんなにまぶしかったこと。
そして、初めての恋。決してかなうことはなかったが、その恋はなんとも輝かしい、自分の
青春の日々をあらわしているかのように感じる。近衛隊から衛兵隊への転属。
荒くれ男たちとともに無我夢中で過ごした日々。
そして、アンドレ。
いつも、いつも自分の傍には彼がいた。夜よりも黒い髪と瞳をもち、闇よりも優しく語り掛ける
あの声。お日様のにおいがする彼の身体。笑った顔は、まるで少年のようだった。
「アンドレ…会いたい。会いたいよ…」
 オスカルはテーブルに顔を埋めるように静かに体を動かした。
一筋の涙が頬を伝い、ああ、まだ自分の涙は枯れ果てていないのかと考える。
雷鳴が、唸るように轟く。瞬間、玄関のドアをノックする音に、オスカルはピクリと反応した。


 アンドレは、必死で走ってきた。ベルナールの家は以前から知っていたが、時間がないのだ。
途中、ベルナールやロザリーのところへ行っても、彼らがいるのなら、当然自分はオスカルに
会わせてもらえるはずはないという思いが彼を悩ませていた。けれど、そんなことを考えている
暇はなかった。時間は待ってはくれない。一秒でもはやくオスカルに会いたかった。
 そしてついに、懐かしいドアの前にたどりついた。
息を整え、心を抑え、大きく2回ドアをノックした。
「はい」
オスカルの、声だった。アンドレははやる気持ちを抑えながら、ドアが開くのを待った。
そして、ドアは開かれた。そこには、最愛のオスカル・フランソワが、まるで陽炎のように
佇んでいた…。

〜第6章 恋慕〜
1789年 8月13日 パリ、下町─
§アンドレ・グランディエ§ §オスカル・フランソワ§


「…はい」
ドアは、突然の来訪者を迎えるためにあけられた。
重い、扉があく。
空気が、とまる。
そして、こらえきれない思慕が募る。

(…オスカル)
アンドレは必死だった。自分を抑えることで必死だった。
今、目の前にオスカルがいる。
最愛の女がいる。
 風は、頬をなでながら小さな魔法でもかけたように去っていき、
オスカルとすごした今までをアンドレに思い出させてた。

抱きしめたかった。強引にでもそのやせ細った肩を抱き、「大丈夫」
といってやりたかった。
オスカルの肌は、あの輝いていたのが嘘のように今では真白にくすんでしまい、
頬は涙でぬれていた。唇にもまるで艶がなく、カサカサだった。
 白い顔に金の髪だけが、儚げに夜に靡いていた。
瞳が、寂しそうに呼吸している。「助けて」と叫んでいるようにアンドレには思えた。

「あの、ベルナールとロザリーは、あいにく出かけています」
か細い声で、そうつぶやく。目の前の女。オスカルという名の。
とたんにアンドレは我に返った。そうだ、自分には時間がない。
それに、ベルナールとロザリーが出かけているなんて、これは偶然だろうか。
こらえきれない思慕を抑えて、アンドレは気がついたら勝手に口を動かしていた。
「す、すみません。知り合いの家に行く途中で雨に降られてしまいまして。雨宿りをさせてい
ただけないでしょうか?」
精一杯の繕いだった。オスカルは一瞬怪訝そうにこちらを見たが、すぐに笑顔を浮かべた。
 それが彼女の作り笑いだということ。そして、それにすぐ気づく自分。
自分はこれほどに彼女を愛していたのか、かすかな作り笑いに気づくほど。
そして、それがわかるほど、自分たちは深い時を重ねてきたのだ。
「どうぞ」
オスカルの手が、ドアを全開にし、アンドレを迎えた。
そっと、あの香りが漂った。自分がオスカルに贈った初めての香水。
入らないのですか?
とでもいいたそうなオスカルの弱々しい笑みを見て、自分が彼女を愛しているのと同じように、
彼女が自分を深く愛していたのだということに改めて気づいた。

アンドレは、運命というものを、初めて呪った。

 部屋は懐かしさに満ちていた。何度かこの家をオスカルと二人で訪れたことがあった。
オスカルは帰ってくるたびに、ロザリーの妻としての成長を誉めていた。
しかしアンドレが、その誉め言葉の中に無意識の憧れを感じ取ったのは、たぶん、
この家を訪れた最後の夜だった。

「あいにく私は少し体調を崩していまして。何ももてなすことはできませんが、雨がやむまで
どうぞごゆっくり」
オスカルはそう言いながら、熱いコーヒーを台所から運んできた。
 夢みていたはずの光景だった。ただいまと帰ってくる自分。ぎこちない手つきで
コーヒーを運んでくるオスカル。二階では、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が聞こえる─。

「すみません、突然・・・」
愛想笑いの彼女に、愛想笑いを返せない自分がそこにいた。
「いえ、私もこんな夜は、話し相手がほしいと思っていたところです」
そういってオスカルはコーヒーに口をつける。その指が震えていることを、アンドレが見逃すはず
があろうか。

(似ている…)
オスカルはコーヒーを飲むふりをして、じっと突然の来訪者を観察していた。
姿こそ違うが、どことなくアンドレに似ている。声や、そのしゃべり方。動揺すると、語尾が
少したかくなる。そんなところまで。

「知り合いの家に行くとおっしゃっていましたが、恋人ですか?」
穏やかな表情でオスカルが話し掛ける。
答えに迷ったあげく、アンドレはつぶやいた。
「私の恋人は、今度の革命で命を落としました。今夜は、彼女の両親に会いに行くところでした」
「…す、すみません。余計なことをいってしまった。あ、私は時々くせで男言葉を使ってしまう
んです。気にしないでください。─どうか、気にしないで」

 アンドレは、いっそここで自分の正体を明かしてしまおうかと思った。
辛すぎる。目の前にいる女が、どうして男言葉を使うのか、どうしてこんなにやつれているのか。
そして、どうしてこんなに寂しそうなのか。そのすべてを一番よくしっているのが、今ここに
いる、名もなき男なのだ。その名もなき男の肉体は、ジュシュアと名乗っていた。
そして記憶と心は、アンドレと名乗っていた。

「ああ、そういえばまだお名前を伺ってなかった」
「私の名は…フィル。恋人はフランシーヌといいました」
 とっさに思いついた名を口に出していた。しかし、フランシーヌは思いつきでもない。
「それは、偶然ですね。私の名はオスカル。オスカル・フランソワです。姓は、ありません」
その一言がアンドレの胸を突き刺す。

 時計の針が、8時をさしていた。

「私にも、恋人がいました。」
ポツリとオスカルが言った。
「黒髪で背が高く、とても優しく、そして強かった。私の、生涯最愛の人でした。
名前は…アンドレ。アンドレ・グランディエ。ふふっ、こんなこと私のことを知っている人が
聞いたら驚くだろうが、私は彼との間に生まれる子供の名前まで考えていました。
─13日に、ちょうど一ヶ月前の7月13日。私を庇って砲弾に倒れました。今は、もういません」
 オスカルの顔が憂いに沈む。しかしその顔は儚いまでに美しかった。

 涙がこぼれそうになるのを、必死でアンドレはこらえた。
抱きしめたたいと願うその腕を押さえつけた。今ここで天界でレダに言われたことを破ってしまっ
たら、自分はこの世界にどこにも存在しなくなってしまう。もちろん天界に戻ることも。
オスカルを見守ることも。そしていつかオスカルが天界にやってきても、自分はいないのだから、
彼女は死してさえもなお、孤独に苛まなければならない。
 とりとめなく、考えが頭の中を巡り、アンドレを悩ませた。

 そのためだろうか、オスカルが蹲るようにして椅子から崩れ落ちたことに気づくのが、遅れた。

「オスカル!?」
慌ててアンドレが駆け寄る。その身体を支える。
「だ、だいじょうぶ…いつもの、こと。」
荒い息のなか、声を絞り出すようにオスカルは言う。
「フィ、フィル…。あなたは、私の恋人に、よく、にている」
一筋の涙を流し、彼女は微笑んだ。
「私たち…さみしいもの、同士。雨がやむまででいい。アンドレに、なって、ください。
見ての通り、わたしは、もう、長くない」

 アンドレの身体は震えた。その身体をさするような声で、もう一度オスカルが言った。

「あなたは、私の恋人に、とても、よくにている」

震えがとまった変わりに、今度は涙があふれてきた。けれど、それを隠そうとはしなかった。

「あなたも、私の恋人に、よくにています」

アンドレはオスカルの身体を抱きしめ、ゆっくりと背中を擦った。

轟くような雷鳴が響いた。しかしその音よりも、アンドレがオスカルを抱き上げる時の衣擦れの
音の方が、二人の心をおおいに響かせていた─。


続く