ベルサイユのばら天国編・最終話

 オスカルは、自分の寝室に突然の訪問者を案内した。なぜだろう。雨宿りにき
ただけの男。
フィルという名の男。初めてあったはずなのに、ずっと同じ時を重ねてきたよう
な懐かしい匂いがする。
自分でもよくわからないうちに、オスカルはフィルの手を取っていた。
ま るで、生前のアンドレにあまえるかのように。

 オスカルの部屋に案内されながら、アンドレはオスカルの腕のあまりの細さに
動揺を隠せないでいた。
激しい雨の音と雷鳴が動揺をオスカルに悟られないように協力してくれ
ているみたいであった。

「フィル、ここが私の部屋です。あ・・すみません、消毒液の匂いでいっぱいで すね」
泣きそうになりながら、オスカルは笑った。
「・・違います」
「え・・?」
「私は今はアンドレです。あなたは先ほど、私に今日だけアンドレになってほし
いと頼みました。
だから、私は今はアンドレだ。そして、あなたも私の恋人です」
しばらくの静寂のあと、「ありがとう」とオスカルが静かに呟いた。

 オスカルは、部屋の明かりを灯して、自分はベッドに座り、アンドレにはいつ
もロザリーやアランが座っている椅子を勧めた。

 一体どれほどの沈黙が続いただろう。
「一夜限りの恋人同士。なかなかロマンチックですね。なんだか、あなたには、
今の自分の気持ちを素直に話せそうな気がします。私と、アンドレのことも・・」
そう言ってオスカルは長いため息をついた。
「・・聞いてくれますか?」
アンドレは無言で頷いた。

「アンドレと私は幼なじみでした。私は・・貴族で、彼は平民でした。私の家は
、代々王家の信任も厚い、軍人の家系でした。しかし私の兄弟は全員女でした。
しかたなく私の父 は、末娘である私を男として育て初めました。
私は女ながらに馬に乗り、剣を持ち・・・。男と して生きるというものは、きっと
誰にも分からないほど辛かったけれど、女でありながらもこの混沌と した時代を真に
人間らしく生きてこれた・・そういう意味で、私は父に感謝しています。近衛隊
に入隊し、青春の日々を私は軍隊で過ごしました。・・恋もしました。叶わぬ初恋でした。
やがて 私はフランス衛兵隊に転属になりました。もう・・、言葉では表せないほどの
いろいろな出来事があって・・。」
 
 オスカルは、そこまでをまるで夢でも見ているかのように、幼い少女のように 一気に話した。
雨が、激しく降り続いている。

「そんな時代の中、私はアンドレと愛し合いました。彼は私がほかの男を好きに
なっているときですら、私を愛してくれていた。私も、彼が好きだった。愛していた。
しかし、 たった一度身体を重ねただけで、彼は逝ってしまった・・・。」

 オスカルは、そこまで話すと、突然ベッドに倒れ込むようにして、羽枕に顔を
埋め嗚咽をもらした。

 アンドレは、そんなオスカルを幻想でもみているかのような気持ちで見ていた 。
初めて会った時のオスカル、気絶するほど喧嘩したときのオスカル、叶わぬ初恋
に身を焦がしていたオスカル、自分の恋人となったオスカル、笑顔のオスカル、泣いているオ
スカル、怒ったときのオスカル。今まで自分が彼女と共有してきた時間が、走馬燈のように思い
出され、そして今のオスカルとだぶった。
 気がついたら、アンドレは泣いていた。
「・・オスカル、ベッドに座ってもいいですか?」
答えを待たずに、アンドレはオスカルのベッドに腰を下ろした。
 波打つ金の髪を優しく梳きながら、アンドレはゆっくりと口を開いた。
「オスカル、ライアルの泉というものを知っていますか?」
 突然、風もないのに、蝋燭の火が消えた。
「ライアルの泉・・?」
「そうです。ある知人に聞いたのですが、天国にはライアルの泉という、地上の
世界を見ること
のできる泉があるそうです。しかしそれはただの泉ではなく、自分の愛する人と
その周りの人間だけを見ることのできる泉なのだそうです。・・もしもアンドレがその泉をのぞ
いていたらどうしますか?」
アンドレは俯せになっているオスカルを優しく起こさせた。
「ライアルの泉を見て、アンドレは何を思うのでしょうか。きっと、あなたを一 人残してしまっ
たことに対して、自分を呪い、運命を呪い・・・。なおかつ胸の病に苦しんでいるあな たを見
て・・・・・、アンドレは何をおもうのでしょうか」
 オスカルの瞳は涙で濡れていた。
それは、今まで見たこともないような、悲しい、悲しい顔。
突然、オスカルはアンドレであるフィルに抱きついた。
懐かしい、オスカルの香り。オスカルの、体温。
「・・・・アンドレだな?」
ピクっとアンドレの身体が震えた。
「私は、自分が胸の病に犯されているとは一言も言っていない。・・・姿は違っ ても私には
分かる。おまえはアンドレだ」
咄嗟にアンドレは天界でレダと交わした約束を思い出した。どんなことがあって も、自分が
アンドレだと悟られてはいけない。本当は、今ここで名乗りたかった。自分こそが、ラ イアル
の泉でおまえを見てきたアンドレだと。しかし、そうすれば、今ここで自分は消えてし まう。
「・・・すみません。残念ですが、私はアンドレではありません。この部屋に入 った時、
消毒液の匂いがしました。私は以前医学を学んでいたので、あなたが胸を患ってっている
ことはすぐに分かりました」

 オスカルは確信していた。フィルと名乗ったこの雨の訪問者は、アンドレだと 。
間違うわけはない。たとえ姿がちがっていても、アンドレに抱かれたときのお日
様のような匂い。
夢にまで見た彼の抱擁なのだから。

 オスカルは思った。これは、神様がくれた私への最後のプレゼントなのだと。

「・・・あなたが、アンドレだったらどうしますか?ライアルの泉から私をみて
、どう思いますか?」
オスカルはアンドレにしがみつくようにして聞いた。
「分かりません・・・。もしかしたら、ライアルの泉など見ないかもしれない。
最愛の人が苦しんでいるのは、何よりも辛いことです。しかし、もし見ていたとしたら・・・。
どん なことをしてもあなたに会いにくるでしょう。ある一言を伝えるために」
「・・・ある一言・・?」
「そうです。もし、私がアンドレで、何らかの魔法であなたに会えたとしたら、
私はあなたにこう言います」
アンドレはオスカルの耳元に口を寄せた。
「俺はいつでもおまえの側にいる。だから生きろ、オスカル」

 激しい雷鳴が、空気を裂いた。

「だから・・生きろ・・ですか」
オスカルは項垂れたように呟いた。
「みんな同じだ。みんな同じことを言う。アンドレは天国で私を見守っていてく れる、だから
彼の分まで生きろ。・・・誰も私の気持ちなど分からない!帰る家をなくし、家族を失い、
たった一人の、最愛の人も失い、自らは胸の病に犯され、こうして独り死ぬのを 待っている!
私の気持ちがあなたに分かりますか!?」
オスカルは必死だった。顔を涙でぐしゃぐしゃにして、アンドレに訴えかけた。
 その顔は、もうずっと昔、オスカルが愛したルイ・ジョゼフ皇太子がなくなっ
た時のような、絶望の表情。
 アンドレの中で、また今のオスカルと昔のオスカルが重なる。心の中で重なり
、涙で彼女がかすみ、そこに以前の彼女がいるような錯覚に襲われる。
 瞬間、アンドレは自分でも分からぬうちに、オスカルの頬をたたいていた。
「・・・・っ!!」
今までにないくらいに強くオスカルを殴った。
「オスカル・フランソワ。あなたは甘えている」
オスカルの怒りの表情がアンドレに向けられる。
「確かに、あなたは今辛いかもしれない。死んでしまいたいかもしれない。しか し、
そんな思いをしているのはあなただけではありません。この間、一人の女性が死に
ました。
生まれて間もない自分の子供に乳をあげようと、働きすぎて死にました。昨日、一人
の男の子が死 にました。
革命で怪我をした父親に早く元気になってもらおうと、自分の食事を減らしたた めに
、栄養失調で死にました。それでも、残された者は生きています。いつまでも悲しみに
暮れている時間がないからです。彼らは明日のパンのために働かなければいけない
からです。私の 見たところ、あなたは確かに重度の胸の病に犯されている。しかし、決
して治る見込みがなくもありません。」
 アンドレはオスカルの頬を撫でた。さっき殴ったところを。
「オスカル、あなたは生きようと思えば生きられる。それなのに、なぜ生きないのですか?」
 暫くの間、オスカルは答えなかった。
「・・・アンドレが、いないから・・。彼がいないと、私は生きていけない・・・」
 アンドレの胸に、心痛がこみ上げた。しかし、あえて彼は思ってもいないことを口にし始めた。
「・・これは笑わせてくれますね。恋人が死んだから、あなたも生きられないのですか。あなたは
そんなに弱い人だったんですね。初めてあなたを見たとき、すぐに分かりました。あなたは
あのオスカル・フランソワだ。謀反を犯しながらも、我々市民と戦って、ついにあのバスティーユ
を陥落させた、名誉あるフランス衛兵隊の隊長でしょう。しかし残念ながら、今のあなたとあの
衛兵隊隊長が同一人物だとは思えない。」
オスカルの肩がだんだんと小刻みに震えてきた。
「別に、あなたに何と思われてもかまいません。どうせあなたに私の気持ちが分かるわけがない」
「分かります」
「嘘だ」
「いいえ、分かります。なぜなら一週間前の私も、あなたと同じ状況だったからです。
恋人のフランシーヌを革命で失い、元々私には両親はいませんから、本当にこの世で一
人になってしまった。絶望して、生きるのがいやになって、生まれつきの持病も悪化して。
すべての人に心を閉ざして。そんな時に、夢にフランシーヌがでてきた。私が抱きしめようと
したら、彼女は私をにらみつけ、向こうにいってしまうのです。私は追いかけた。そして言った
。『なぜ振り向いてくれない?』彼女は答えた。泣きながら答えた。『今のあなたは私が愛した
あなたではないから』と。そこで目が覚めました。それから、私は再び生き始めたのです」

 いつの間にか、アンドレは泣いていた。この話は、オスカルになんと生きる希 望を与えようと
して、思わず口からでた言葉ではあったが、アンドレは静かに涙をこぼしていた 。

「そうだ、あなたに元気のでるおまじないをしてあげましょう」
アンドレはそういって、部屋のすみにあった小さな姿見をもってきた。
「さあ、この鏡をじっと見つめてください」
 何をするのかと思えば、アンドレはいきなりオスカルの脇腹をくすぐり始めた 。
「・・・・!?」

 ・・・ずっと昔、オスカルはアンドレとよくこうして遊んだ。
オスカルはくすぐられるのに弱くて、弱くて・・・そしてアンドレと、まるで子猫のようにじゃれあった。

 ピクリとオスカルの頬が緩んだ。
「いや・・だ、やめろ。」
しかしアンドレはやめない。この部屋に不釣り合いなほど、子供みたいに笑ってオスカルをくす
ぐる。

 ついにオスカルの口から、降参の合図である笑い声が漏れた。

瞬間、アンドレが真顔になる。
「やっと、あなたの笑顔がみれた。あなたも見たでしょう?この鏡で。自分が笑ったのを」
「・・・・・」
「まだ、あなたは大丈夫。鏡の前で、こんなにすてきな笑顔をみせることができるから」
 オスカルは複雑な表情でアンドレを見つめた。
この男は一体、誰なのだろう。どうして自分は、彼にここまで素直になることが
できるのだろう。
さっき、出会ったばかりなのに・・。

「もし、本当にライアルの泉があったとしたら、アンドレは今の私の笑顔をみた
だろうか・・?」
「それは、私にはわかりません。しかしこれから、あなたが変わっていけば、彼
はいつもあなたの笑顔を見ることができるはずだ」
「フィル、あなたはここにはいない、天の国にいる恋人のために生きろと私にい
うのですか?」
「そんなことはいっていません。・・・オスカル、人間は、皆一人で生まれてきた。一人で
母親の身体からでてきたんだ。初めての場所、何も、誰もしらない。けれど、赤ん坊は
物怖じ一つしないで生きる。蜻蛉は、ほんのわずかな時間しか生きられません。けれど、
死には しない。
・・・あなたも、生きなければだめだ」
アンドレの手が、オスカルの両肩をつかむ。
「・・・なぜ?なぜ生きなければならない?こんなにつらい思いまでして・・・ 」
 アンドレが、ささやくように呟く。
「・・・今、生きているから。今、あなたの心臓が動いているから。血が通っているから。
だから、生きなければならない」

 無言の時が過ぎる。
そしてそれは永遠にも思われた。

「フィル・・・・・、いや、アンドレと呼んでもいいだろうか?」
「・・・・はい」

オスカルは、泣きながらも、今まで見せたことのないようなわずかな微笑みを称えながら、
アンドレの肩にフワリと頭を乗せた。

「生きる・・ということは、難しいことなんですね」
「・・・そうですね。人間は、とても不器用だから」

 アンドレのその優しい微笑みは、たとえ姿は変わっていてもオスカルに伝わったのか。
オスカルもほんの少し、笑った。
きれいな唇が、丸い円を描いた。

 どちらからともなく、静かに抱擁しあった。


暖かい、アンドレの香り。
優しい、オスカルの香り。

大きな、アンドレの手。
しなやかな、オスカルの手。

逞しい、アンドレの背。
たおやかな、オスカルの背。

忘れられない、アンドレ。
忘れたくない、オスカル。


 どれくらいの時がたったのだろう。
オスカルは安堵の表情をうかべて、ベッドで眠っている。
それを、見つめているアンドレ。
 愛し合えて良かった。出会えて良かった。生まれてきて良かった。
そんな思いが、涙とともに彼の胸の中で交錯する。
 この世では、もう二度と会えないけれど、自分が庇い、救った命を、オスカル がもっている。
オスカルの魂が生きている限り、彼もオスカルの魂に寄り添いいきていくのだ。

 これまでの、オスカルとの思いでがとめどなくあふれてくる。
そっと、オスカルに口づける。
アンドレの頭上に光がさし、そして彼の記憶はそこで途絶えた・・・・・。



                           *

                           *

〜第7章 降臨〜
1789年 8月20日 パリ、下町                    
        
オスカル・フランソワ ベロニカ・メルロワーズ


 残暑厳しい、パリの街。オスカルは急にロザリーに、7月14日に自分の命を
助けたベロニカ医師を呼んでほしいと頼んだ。しかし、それは身体の苦痛からで
はないらしい。
このところ、オスカルは食事はきちんととるし、よく眠るし、そしてほんの少し、笑う
ようになっていた。


 相変わらず消毒液の匂いきちが立ちこめるオスカルの部屋。
今日のオスカルの穏やかな表情に、ベロニカは驚いていた。

「どうしたっていうの、なんだかかわったじゃない」
「・・・別にそういうつもりはない」
 忙しそうにベロニカは、オスカルの診察を続ける。
年は40代後半だろうか。それでも豊かな金髪とあどけない唇が女らしさを醸し出している。
彼女が、オスカルの命を救ったのだ。
 おそらく、オスカルに対してこのような口が聞けるのは今のところベロニカだけだろう。
彼女はオスカルに、何の遠慮もしない。
「少しずつ良くなってるじゃない。あとは、あなたの気持ちと、お日様の力。いい?まったく
一時はあたしが往診にきても見向きもしなかったのにね。まあ、でもいい傾向だよ」

 ぶつぶつとしゃべるベロニカの言葉を、オスカルは苦笑して聞いていた。
あの日、フィルという名の男に会った夢を見て以来、なぜか考え方が変わっていた。
所詮は夢の中の話だが、目が覚めたオスカルは、朝日を見て、美しいと感じた。
あのころのように・・・。

「あれ、なんだい、これは?」
ふとベロニカが、オスカルの首筋に、星形の赤い痣を見つけた。
 オスカルは、そんな痣にこころあたりはない。
「はははっ・・そういうことね・・・。あんたもあたしと同じ体験したんだね」
「・・・・?」
そういうとベロニカはゆっくりと椅子に腰をおろした。

「ねえ、オスカル。ライアルの泉の伝説って知ってる?」
 オスカルの身体が反応した。フィルが夢の中で言っていた言葉。
「ライアルの・・泉??」
「そうだよ。一度しか言わないからよく聞くのよ。ライアルの泉っていうのはね、天界にある
泉なの。その泉はね、天界にいる人の最愛の人物と、その周りの人間の生活を映し出せる
不思議な泉なんだよ。そこにはレダっていうお婆さんがいてね、まあ、天界にいるんだから
魔法使いみたいなもんさ。この世に強い未練を残して死んでしまった者は、レダとライアルの
泉の力をかりて、もっとも会いたい人のところへ、12時間だけいけるっていう話だよ。もっとも、
一度死んでしまっている人間だから、そのままの姿ではこれない。だから姿を変えて、たった
一日だけ現れるんだ。けれど、その12時間のうちにどなことが起こっても、この世の人間は、
それを夢としか記憶できないそうだ。・・そして、その証拠に残るのが、首元の
赤い星型の痣・・・・あたしみたいにね」
そういってベロニカはオスカルに自分の首もとを見せた。そこには、確かに残る
、星形の赤い痣。
 
 しばらく、言葉がでなかった。

やはり、あれはアンドレだった---

涙が、溢れて止まらない。嗚咽が、止まらない。想いが、止まらない・・・・。

「だから、頑張っていきなくっちゃね。あんたもあたしも」
何度も頷くオスカル。その頬を、ベロニカがそっと撫でた。


〜終章 時は忘却の彼方に〜

1792年11月7日 クレルモン、とある小さな家
ベルナール・シャトレ ロザリー・シャトレ アラン・ド・ソワソン オスカル・フランソワ

「それでさ、こいつったら真っ赤になってよ」
少量の酒の勢いも手伝ってか、ベルナールが舌の回らない口でしゃべり出す。
「おい、やめろよ。まったく、そんな訳ないだろう」
アランも笑いながら否定する。
さっきから二人は、最近アランがかわいい年下の女に言い寄られてるとかいないとか、
そんなことを、ロザリーとオスカルにおもしろおかしく聞かせていた。

「まったく、もう酔っているのか」
オスカルが、からかうように言う。
変わらないな・・・ベルナールも、ロザリーも、アランも、そう思う。そんな、オスカルの姿。
 オスカルが自ら胸の病を克服して、このクレルモンの片田舎に越してきてから1年半。
今ではすっかり昔の気力を取り戻していた。髪の毛はアンドレが逝ってから、一
度も切っていない。腰にまで届いている、金の糸。
 その後ろから、今でもアンドレが微笑んで顔を見せるような、そんな感覚がアランを襲った。
アラン自身にも、あの時オスカルにどんな心境の変化があったのかは分からない 。
 ただ、ある日を境にしてオスカルはまるで人が変わったように、自らと向き合った。
ひたすらに、時には痛々しいほど生きようとして、アランはそんな彼女の生への姿勢に、何度
勇気づけられただろう。時々、「隊長」ともう一度呼びたいと、そう思うことがあった。
 共に戦ったあの戦闘を、断片的に思い出す。

「それで、仕事は順調なのか?」
ベルナールの瞳がオスカルに向けられる。
「ああ、おかげさまで順調にやってるよ」
そう言って笑う、オスカル。この家にくると、いつでもこの笑顔に出会うことができる。
「でも、君に向いている仕事だな。きっと」
「最近、よくそう言われるよ」
 オスカルは、この家に越してきてから、近所の学校にいけない子どもたちに勉強を教えながら
一人、暮らしていた。
「一緒に、やらないか・・・って言ってもだめだな。もう30回は断られてる」
ベルナールは、以前からオスカルに、自分たちの仲間になってくれないかと頼んでいるが、
オスカルは笑って首を振り続けていた。
「もう、いい加減にあきらめなさいよ、ベルナール」
そう言ったロザリーも、この3年ですっかり少女らしさが消えて、ベルナールを
支え続けている。

 30分ほど、たわいない世間話を4人で続けた。
オスカルがここに越してきてから、何度となくここでこうして集まった。
けれど、こんなに楽しい夜は久しぶりだった。
4人とも、くだらない冗談に笑い、うわさ話に興じた。

「・・・あら?オスカル様、なんだか顔が赤いですよ」
突然心配そうにロザリーが言った。
「本当だ、熱でもあるんじゃないか?」
アランも心配げにオスカルの顔をのぞき込む。
「・・そうか?なんだか少し寒気がすると思っていた・・風邪でもひいたんだろう」
オスカルは何となく怠そうだ。
「お医者様をよんできましょうか?」
 まったくいつになってもロザリーは心配性だと思いながら、オスカルは大丈夫だと言った。

「それじゃ、仕事が落ち着いたらまたくるよ。なんといっても、ここはとても居
心地がいいからな」
「今夜は、雨が降るかもしれません。どうぞ暖かくして寝てくださいね」

そう言い残し、ロザリーとベルナールは帰っていった。
アランも、オスカルを心配して、早めに家へと帰っていった。

 誰もいなくなった部屋を片づけ、オスカルは二階へとあがっていった。
質素だけれど、清潔で暖かい彼女の寝室。
オスカルは長袖の夜着に着替えて、部屋の窓を開けた。
気持ちの良い夜風が、オスカルの側を通り抜ける。

今夜は、とてもいい気分だ。
そう思いながら、オスカルは灯りを消し、ベッドへと入った。

ふと、アンドレの姿が頭に浮かんだ。

--アンドレ・・・
今日はいろいろなことがあった日だったよ。
ベルナールたちがくる前、一通の手紙を受け取った。
そこにはこう書いてあった。
「親愛なるオスカル・フランソワ
あなたがこの手紙を受け取る頃、私は祖国にはいないでしょう。
あなたに出会えたことが、私の生涯を通じての一番の喜びでした。
ヴィクトル・クレマン・ド・ジェローデル」

 それから、ロザリーから大ニュースを聞いた。
なんと、あのロザリーがベルナールの子どもをついに身ごもったんだ。
私は自分のことのようにうれしかったよ。
 ロザリーはもう、生まれてくる子どもの名前を考えていたぞ。
ベルナールもとてもうれしそうだった。子どもが男の子だったら、フランソワという
名にするんだそうだ・・。これには私も苦笑してしまったよ。

 そうそう、アランだけどな、今まではベルナールの仕事を手伝っていたが、
やっぱり自分には軍隊が似合うなどと言って、今は失業中の身だ。

 今夜は、久しぶりに本当に楽しい夜だったよ。
みんなと、お茶を飲み、おしゃべりを楽しんで、笑って・・・。
人間の幸せというのは、もしかしたらこういうことを言うのかもしれないな。
なあ、・・・アンドレ。

 おまえは今も、ライアルの泉から私の姿をみているのか?
でも、心配しなくてもいい。私は大丈夫だ。
 ベルナールやロザリーは、本当に私のことをよく考えてくれている。
アランも、口には出さないがいつも私のことを気にかけていてくれる。
近所の人たちもとても親切だ。
私の生徒も、みんなとても良い子だよ。

  みんな、とてもいい人たちだ。私は、幸せだよ・・・・・。

 突然、一陣の風が部屋の窓から入ってきた。
レースのカーテンを揺らし、まるでその風はオスカルの頬を撫でるかのようにし
て、去っていった。

 静かに、オスカル・フランソワは目を閉じた。そして、その瞳は、二度と開け
られることはなかった。1792年、11月7日。雨がにわかに降り始めた、そんな夜だった
・・・。


                           *

                           *

 オスカルは、まるでおとぎ話のような世界に迷い込んでしまったのかと思った 。
空には星が一面に輝いていて、小さい頃読んだ絵本を思い出させた。
 
 目の前には、どこまでも続いてるかのような白い階段。
不思議に思ってオスカルは近づいた。

 そこに、人がいた。漆黒の髪、オスカルに向かって微笑んでいる。

アンドレ・・・・。

二人は、どちらからともなく、抱擁しあった。


暖かい、アンドレの香り。
優しい、オスカルの香り。

大きな、アンドレの手。
しなやかな、オスカルの手。

逞しい、アンドレの背。
たおやかな、オスカルの背。

やっと巡り会えた、アンドレ。
やっと巡り会った、オスカル。


二人は、一歩一歩階段を上っていった。

ここで何をしていたんだ、アンドレ?
おまえを迎えにきたんだよ、オスカル。

ここはどこなんだ、アンドレ。
内緒だよ、オスカル。

どこまで、昇っていくんだ、アンドレ。
どこまでも、どこまでも、天の果てまで。

そこに何があっても、
そこに何もなくても・・・・。

高く、高く・・・。



                                    
            fin