地図にない道        奇蝶

   「この確かな時間だけが 今の二人に与えられた
   唯一の証なのです
   触れ合うことの喜びを あなたの温もりに感じて
   そうして 生きているのです
   曇りガラスをたたく 雨の音数えながら
   どうぞこのまま どうぞこのまま
   どうぞ やまないで」                  (丸山 圭子 <どうぞこのまま>)



   この私が人を愛し、人から愛されるなどと、私は今まで思ったことがあろうか。
  軍服に身を包み、男性の眼差しを拒み、いっそ本当の男性だったらと何度考えたことだろう。
  男性から愛されたことがないといったらそれはまたうそになろうか。
  今まで、私の姿や顔、金の髪や青い目を愛した男はいたのだろうが、
  私の、彷徨い揺れるような儚い魂を、私のエゴを、無力さをそれら全てを愛してくれたのは
  ただ一人である。故に私も彼のすべてを愛したい。彼の弱さも、痛みもすべて、すべて。
  なぜなら、愛は与えられるものではなく、与えるものだからなのである。そして、それは
  彼が教えてくれたことなのだ。


   ─風が、巡る。風が巡って夏を連れてくる。オスカル・フランソワは、今日も衛兵隊の兵舎
  のなかで、激務に追われていた。いや、追われているというよりかは、自ら進んでやっている
  といった方が正しいのだろう。普段から仕事には手抜きなどしない彼女だが、このところは少
  々、根を詰めすぎである。束になった書類を前に、オスカルは手を止めて、大きく息を吐いた。
  「隊長、失礼します」
  突然ドアがノックされた。あの声はアランだ。
  「入れ」
  オスカルは一言そういうと、入ってきたアランに目を向けた。
  「どうした?何かあったのか?」
  オスカルの蒼い瞳に見つめられるのに耐えられないといったような表情で、アランは
  目線を下に向けた。
  「なんだ、そんな顔をして。私の顔に何かついてでもいるか?」
  からかい半分でオスカルは尋ねた。
  「い、いえ、そんなことないんですが…」
  アランはまだしどろもどろである。
  「では、なんだ」
  「隊長、このところ少し働きすぎではないですか?顔色がよくないと、隊の皆も心配しています」
  オスカルは苦笑して答える。
  「そのようなこと、心配する必要はない。私は大丈夫だ」
  「しかし、もう何日もこの兵舎に泊り込みだ。そんなに急ぎの仕事なんですか?」
  アランの真剣な口調に、オスカルはまた笑顔を見せた。
  「すまない、アラン。そんなに心配をかけて。ならばおまえには先に言ってこう。
  ─私は2,3日休暇をとろうと思う。別に体が悪いわけではない。久しぶりにゆっくりとしたいだけ
  だ。このような時勢の時にわがままかもしれないということは充分承知している。それに、皆が
  過酷な訓練で疲れきっているのも知っている。だから、休暇のまえに、私にできる限りのことをやっ
  ておきたいというまでだ」
  オスカルは立ち上げると、心配するなとでも言うように、アランの肩を軽く叩いた。
  「な、なんだ、そういうことだったんですか。それならよかった。それで、いつから休暇を?」
  オスカルの白い顔がまじかに迫ってきて、アランはさっきよりもしどろもどろだ。
  「うん、ブイエ将軍にはすでに報告済みだからな。明後日からだ」
  「分かりました。皆にも伝えておきます」
  アランの心を知ってか知らずか、オスカルはこの隊に転属してきてからは見せたことのないよう
  な優しい表情でアランをみつめた。
  「ありがとう、アラン」
  まじかで見るオスカルの姿、一人で部屋にこもっていて暑かったのだろう。
  軍服の襟を緩め、首から鎖骨にかけて、真白な肌が艶やかに輝く。
  ふと、アランはあるもの気が付いた。
  「隊長、首筋、虫に喰われて─」
  そこまでいいかけて、アランはしまったと心の中で叫んだ。
  オスカルの顔がみるみるうちに赤く染まったからだ。
  兵営ではこのところ蚊や虫が多く、アランもまたかゆみに悩まされていたゆえ、つい
  深く考えず言葉がでてしまった。
  「あ、そ、それじゃあ、休暇楽しんで下さい!」
  やっとのことでそこまで言うと、アランは逃げるように部屋から出て行った。


  「おい、アンドレ」
  「なんだ?また給料が少ないなんて八つ当たりにきたのか?」
  夜の見張りの最中、おどけているようなアンドレとは打って変わって、アランは真剣である。
  「おまえ、まさか明後日から休暇だなんて言わねえよな?」
  「ああ、休暇をもらったけど?それが何か?俺はおまえと違って訓練も真面目に出てるし
  夜遊びをしに街なんかにも行かないからな」
  その一言で、アランは自分の考えが正しいことに確信をもった。
  昼間のオスカルの優しい微笑みと、今横に座っている男の横顔が、アランの頭の中で
  重なる。
  「今夜の見張りはおまえにまかせた。俺は街で酒のんでくるぜ。ワインなんてやすっぽちい
  もんじゃねえ。今夜は極上のブランデーだ、ブランデー!!」
  アランはそう言うが早いが、立ち上がって夜の闇に消えていった。
 
                         *

                         *
  「ははっ、それで、アランはそのあとどうしたんだ?」
  「知るもんか。俺だけに見張りを任せて、どこかにとんずらしたよ」
  ここは、久しぶりに帰ってきたジャルジェ家。そしてオスカルの寝室である。
  結局アンドレはアランの八つ当たりに耐えながら、オスカルは膨大な書類に埋もれながらも
  なんとか2日先の仕事まで終わらせ、めでたくそろって休暇となった。
  今日は、といってももはや時計は午前零時をまわっていたが、その休暇の一日目だった。
  午前中は二人で遠乗りに行き、青空の下でまるで幼子のごとく戯れた。
  そして、夜はお互いに求めあい、それに応じた。
  ベッドの中で、気だるい疲労感に襲われながら過ごすのは、二人にとって至福の時間だった。
  アンドレはオスカルの金の髪を愛でるがごとく梳き始めた。
  心地よさそうにオスカルは目を閉じる。
  「それで、明日はどうする?また遠乗りか?」
  オスカルが、甘えるように尋ねる。
  「ん…そうだな。実はおまえに一緒に行ってもらいたい場所があるんだ。いいか?」
  「私に行って貰いたい場所?どこだ?」
  「それは、明日のお楽しみだ」
  そう言うとアンドレはオスカルの身体をグッっと腕に抱きしめた。
  「…アンドレ」
  「なんだ?」
  「何でもない。今夜はおまえの腕の中で眠りたい」
  「仰せのままに、我が姫君」
  クスクスと笑い、アンドレはその腕に力をこめた。
  ─夜が、二人を飲み込んでいく。


   翌日は、二人で昼過ぎに屋敷をでた。
  ついた場所は、アンドレの生まれ故郷であるルーアンという小さな町だった。
  「オスカル、こっちだ」
  馬からおりたアンドレは、ひっそりとした森の小道をオスカルに案内した。
  そこを抜けると、大きな木があって、その下には小さな墓石がひとつあった。
  「アンドレ…?」
  「ここは、俺の母さんの墓だ。今日は、母さんの命日だ」
  オスカルがかがみ込んでそれを見つめる。小さな墓石には、更に小さな文字で、
  「ルティーシア・グランディエ ここに眠る」
  と刻まれている。
  「そうか、いつかおまえに母君の写真を見せてもらったことがある。おまえと同じ黒髪で、
  とても綺麗な人だった。」
  オスカルは、そういってアンドレの肩によりかかった。
  すると突然、アンドレがオスカルを抱き上げた。
  「ア、アンドレどうしたのだ?」
  ふいの出来事にオスカルは困惑する。
  「おまえを、母さんに紹介しようと思ってね」
  アンドレは穏やかな微笑を見せる。
  風がそよそよとまるで子守唄のように二人を包んでいた。
  「…母さん、この人はオスカル・フランソワ。俺の一番大切な人だよ。
  どうだい?とても綺麗だろう。母さんに紹介したくって今日ここまでついてきてもらったんだ。 
  だから母さん、俺たちのことを見守っていてくれよ。これから先も、ずっと、ずっと…」
  最後のほうの言葉は小さくてオスカルには正確に聞こえなかったかもしれない。
  アンドレはそっとオスカルをおろした。その時、アンドレの瞳が潤んでいたことを、オスカルは
  見逃さなかった。遠い、悲しい目だった。
  でもすぐにアンドレの表情はいつものように穏やかになった。
  「さあ、そろそろいこうか」
  「あ、ああ。もう、いいのか?」
  「ああ。母さんに報告できたし、もうすぐ宿で夕食を堪能する時間だ」
  「あいかわらず食い意地が張ってるな、おまえは」
  オスカルは先ほどのアンドレの表情が気になったが、あえて何も尋ねなかった。
  「では、行くか」
  二人は繋いであった馬に乗り、早駆けで森の小道を抜けていった。
  ふと、アンドレは、風のにおいに混じって、母の懐かしいにおいが自分の鼻腔を擽ったことに気づいた。


  着いた宿はお世辞にも豪華と呼べるものではなかった。しかし、アンドレの言った通り、
  この土地の家庭料理風の夕食はとても美味しかったし、気の利いた宿主が眺めのいい部屋を二人に
  提供してくれた。
  夕食を終えて部屋に戻ると、時計の針はすでに夜の9時を回っていた。
  何気ない、いつも繰り返されているような、それでも決してあきることのないような普段の雑談が続いた。
  たとえば、最近衛兵隊のピエールに恋人ができたようだとか、ロザリーとベルナールは元気だろうかと  か。
  1時間くらい話していただろうか。
  アンドレは部屋の灯りを薄くして、オスカルをそっとベッドに押し倒した。
  「アンドレ…」
  「ん?…あ、疲れているのか?─嫌なら、やめるよ?」
  「そうではない、私もおまえに抱かれたい」
  そういうとオスカルは、自らアンドレの唇に自分のそれを近づけた。

  オスカルはアンドレに抱かれながら、彼へのいとおしさで胸を詰まらせていた。
  「アンドレ…」
  「どうした?」
  「私の恋人は世界一だ」
  アンドレは答える代わりに口付けの雨を降らせた。
  二人して同時に果て、オスカルはあまやかな眠りの中に落ちていった。


  ふと、オスカルは何かの気配で目を覚ました。
  手を横に伸ばすと、アンドレの温もりが感じられない。
  オスカルは慌てて、身を起こした。
  アンドレは、オスカルに背をむけるようにしてベッドの脇に腰掛けていた。
  かすかだが、その肩が震えていえる。
  「アンドレ、どうかしたのか?」
  眠っているとばかり思っていたオスカルに突然声をかけられ、
  アンドレはピクリと肩を動かした。
  オスカルはベッドから降りると、すばやくアンドレの正面に回った。
   アンドレのひとみからは、涙が、あふれていた。
  「ど、どうした?アンドレ!」
  「何でもないよオスカル。大丈夫だ」
  アンドレはいつもの笑顔に戻り囁くように言った。
  「…おまえは、いつもそうだ。私を心配させまいとして、何でも自分ひとりの心にしまってしまう。
  私ではだめなのか?おまえのその心に安らぎをあたえるには、私では役不足か?」
  「オスカル─」
  オスカルはアンドレを包み込むように抱きしめた。
  「…夢を、みていた。昔の夢だ。俺はいつものようにこの街でたくさんの友達と遊んでいた。
  そのころ母さんは小さな工場で働いていて、あ、父さんは俺が生まれるまえに、事故で死んでいた
  から、俺と母さんの二人暮しだった。それで、その日はいつまで待っても母さんは迎  えにこなか
  った。心配になった俺は急いで家に帰るんだ。でも、もう母さんはどこにもいなく  て、俺は必死に
  探すんだ。でも、見つからない─。目がさめたら、泣いていた。すまなかっ  た、オスカル。心配を
  かけた。…ごめん」
  「アンドレ─」
  いつのまにかオスカルも泣いていた。
  「─アンドレ、血より濃い絆だってあるんだ。そう信じているのは私だけだろうか?」
  「オスカル……おまえは、母さんのにおいがする」
  闇の中で、二つのシルエットが一つになった。
  「オスカル、俺の恋人は世界一だ」
                         *
                         
                         *
  翌日、二人は朝早くに宿を出た。休暇はもう終わりだ。今日からまたいつものように厳しい現実と
  向き合わなければならない。
  途中、馬を休めるために立ち寄った木陰で、アンドレが呟いた。
  「人生は、地図にない道を歩くようなものだ─。俺の母さんが、いつもよく言っていた」
  「地図に、ない道…か」
  「今になって、その言葉の意味がやっとわかったような気がするよ。人生に決められた道は
  ない。自分の意志で、道をさがし、道を作っていかなければならないんだ」
  一瞬の間があき、オスカルが言った。
  「ならばアンドレ、お願いがある。その道を、私と一緒に作っていってくれないか?」
  アンドレはびっくりしたように、だけどいつもの優しい笑顔で言った。
  「ははっ、昨日も今日も、言いたいことはいつもおまえに先に言われてしまうな」
  アンドレはオスカルの金の髪を優しくなでた。
  「さあ、もう行こう。帰ったらアランの八つ当たりが待ってるからな」
  そう言ってアンドレは立ち上がりった。
 
  早駆けで帰っている最中、オスカルはそっと心に思った。

          二人で迷い込む  地図にない道へと
          明日のことなんてわからなくていい
          後悔しないと 私は 言えるから

  その思いが、アンドレにも伝わったのか、彼は何歌のような言葉を口ずさむのだったが、
  それが何であるのか、オスカルには聞き取れなかった。
   あとで彼はそのときの歌を教えてくれるのだが、それはまた、別のお話──。


     
                                         fin

   今回は、アンドレの母の思い出みたいなのを書いたつもりです。
  今までけっこうオスカルの弱さとか脆さを書いたものが多かったので、たまにはアンドレの
  こういうのもいいだろうと思っていました。(長年温めていたもの)