ショコラに関する一考察

     〜彼と彼女の場合〜


部屋に戻り、一息つくと、いつもと同じ足音がする。
あれは、私の為にショコラを運ぶお前の足音。
お前がこの屋敷に来てから、ずっと其れは、お前の役目。

ショコラのほろ苦く、甘い香りと共にお前はやって来る。
其れは見事に絶妙なタイミングで。
そして、今日の出来事等、軽口を交え、暫く話して部屋を出る。
其れが、お前の日課。そして、私の日課。

今夜、お前はどうするだろう。
私が、似非貴婦人になった事をからかうのだろうか。
お前の中に芽生えた疑問をぶつけるのだろうか。それとも…。
いや、お前の事だから、余計な事は言わずに、
さり気なく日常を装うかもしれない。
気が付かれまいと隠していた想いも、
本当は気が付いてるかもしれないな。…お前ならば。
部屋の前で、止まる足音。
少し躊躇っているのか、一呼吸置き、少し緊張した面持ちで、扉を開けるお前…。

「ショコラを持ってきた。疲れが取れるぞ。慣れない格好したからな。」

…そう出たか。そう来るだろうな。

「…黒い騎士が出た。」
ショコラを受け取りながら、さり気なく…話の方向を摩り替える。
ふふふ、私にしては、上出来だ。
悪いな、もう、お前はそれ以上立ち入れない。

思いもよらぬ私の言葉に驚くお前。…空気が、一変する。

「見たのか?」
「ああ、背後から、襲って来たぞ」
「!…で、大丈夫だったのか…?」

ああ、其の顔、其の顔が見たかったのだ。幼い頃と変わらぬお前の其の表情。
真っ直ぐと心配して私を見詰める瞳。…お陰で、いつもの私に戻れそうだ。

閑話休題。
…ゆっくりとショコラを一口。

確かに少し甘いが、今夜の私には心地よい甘さだ。
温かいショコラが体と、心に染み入る。
優しいショコラの甘さ。
大丈夫。…私は、私自身に戻れる。…そう呪文のように繰り返す。

「大丈夫に決っているだろう。私を誰だと思っているんだ。
…今夜は残念ながら、取り逃がしてしまったがな。」

そして、もう一口。
ショコラと共に、私に、日常が、返って来る。
こんな時間が、今の私には、必要なのだ。
封印した想いに、少し心を馳せながら、星空を見上げる。
…満天の星。

アンドレ、お前がいつも、影の様に居てくれるから、
私は、私の時間を取り戻せるのかもしれない。
私の心の疲れを、癒してくれるショコラの様に。
時には、甘く、時には、ほろ苦く。


「なに〜!全部の貴族の舞踏会日程表を作れって!?」
大声で、驚き、うろたえるお前、膨大なリストの数を思い、あたふたするお前、
…其の顔も見たかった。悪いな。
「ま、まさか じゃあ、これから毎日ドレスで…」
おい、言葉が、噛んでるぞ、アンドレ。
お前は、本当に気が付いていなかったのか?私がドレスを着た訳を…。

まあ、今更、どちらでも…いいか。お前がそうしてくれているのだから。
「莫迦、あんなもの着て動けるか。」
私の言葉に、肩をすくめ、やれやれと溜息をつくお前。

…そう、其の顔も見たかった。


ショコラの様に暖かい会話が、私の心を優しく包む。
こんな毎日が続けば、あの恋を、私は過去に…いつか出来る気がする。
そう、いつか…。こんな時間薬が続けば。氷が、少しづつ溶けるように。
知らないだろうが、私は、お前が気づいて様と、無かろうと、
感謝しているんだぞ。これでも。

「黒い騎士の現れるのを、待つんだ。奴は舞踏会を狙っている。」

そう、私は、近衛准将…オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
少し、悔しいが、それも、お前が居たからこそ、だな。
助けてもらった命。

必ず、私の手で、黒い騎士を捕まえてやる。見てろ!

そして、部屋を後にするお前に無言の感謝を送ろう。

親愛なる、私のショコラ、幼馴染、…アンドレ・グランディエ殿。
いつも、有難う。
今夜は悪いが、頑張ってくれたまえ。



******************


いつもの様に、お前が多分部屋で一息つくだろう頃を見計らい、ショコラを運ぶ。
そして、今日の出来事や、お前の愚痴、俺の冗談を暫く交わし、
おばあちゃんに叱られない程度の時間で、部屋を去る。
(おばあちゃんも、其れが、あいつの精神安定剤だと知っているから、
多少多めに見てくれるが)
此れが、この屋敷に来て以来、俺の日課。

しかし、今夜は、少し気が重い。
どんな顔をして、あいつに逢おうか、
あいつがどんな顔をしているか。
貴婦人姿になった事を全く無視して、他の話をするのも、技とらしいだろう。

香り立つ、ほろ苦く、甘いショコラを抱えながら…。

ショコラは、高価で、普通の平民たちは香りを嗅いだ事さえ有りはしない。
この屋敷に来るまでは、俺もそうだった。
昔、オスカルにこっそり飲まして貰ったな。
甘くて、ほろ苦くて、…おばあちゃんに、うっかり嬉しくて喋っちゃったものだから、
ひどく叱られた。
そして、ショコラがもっと高価な昔…。
かのカサノヴァが、恋人と、愛を語りながら必ず用いた…恋の媚薬。
皮肉だな。恋の媚薬とは。有り得ない事だ。


部屋の前で、俺は軽く深呼吸した後、ノックをし、思い切って、部屋に入る。
まあ、成るようになるか。開き直るしかないか。

「ショコラを持ってきた。疲れが取れるぞ。慣れない格好したからな。」

まあ、この位なら、いつもの俺の言いそうなことだな。
目に入る、お前の表情が、思ったより、明るい。…良かった。

「黒い騎士が出た」

何を、唐突に、黒い騎士?話が、切り替わって、少し安堵しながら、
思わぬ展開と、お前の少し悪戯な表情に、俺達の日常が戻る。

「見たのか?」
「ああ、背後から襲って来たぞ」
「!」襲われた〜!?「で、大丈夫だったのか?」

思わず頭が、真っ白になる。黒い騎士の奴〜!!

「大丈夫に決っているだろう。残念ながら、取り逃がしてしまったがな。」
確かにそうだろうが、とすると、黒い騎士は相当驚いたに違いない。

腕の立つ不思議な貴婦人にさぞ、戸惑ったに違いない。
想像すると、少し気の毒な気もして思わず、笑いをこらえる。
しかし、待てよ、何故独りで、そんな、庭園なんかに居たんだ。お前は。
だが、考えを整理する間も無かった。

「全部の貴族の舞踏会の日程表を作れって!?」

ああ、迂闊だった。
お前がしらっ…と、さり気無い時は、昔からどんでん返しが待ってるんだよな。
俺にとって。一体、どれだけ大変だと思っているんだ。
…と思わず心の中で叫ぶ。
俺とお前に戻ってきた、暖かい、ショコラの様なこの時間に感謝しながら。


お前が、今夜、どんな思いを抱え、何が有ったのか俺には判らないが、
昨日までのあの、思いつめた様子とは違う様だ。

恋を諦めたのか。初めての恋を…。
ドレスを着て伯爵と踊ることで、気持の整理が少しは着いたのか。

本当の所は判らない。お前にとって、そう簡単な事でもないだろう。
少し無理をして、気持を切り替えようとしているのだろう。

俺はお前が少しでも安心できる場所、お前のくつろげる時間をお前と過ごそう。
お前が、其れを望んでいるならば…。
いつか、そんな時間薬が、お前を癒してくれるように。



…俺はお前の部屋を去り、空のカップを運びながら、ふと、考える。

“ところで俺は今日眠れるんだろうか?”