徒然なるままに〜彼女の場合〜
『 本当に…不思議な驚きだった。私は彼にかなうのだろうか?
…そう思った。他人に対して、こんな感情をこの私が、持つなどとは
思っても見なかったことだが。
「お待ち下さい!…アンドレの責任は、主人である私の責任…!」
…陛下にそう願い出たのは私にとっては極自然な事だった。
何の勝算も計算もないが、こんな理不尽な事でお前を死なせる訳にはいかない。
たとえ、私の命に換えてもお前を見捨てはしない。
私がお前を守って見せる。
例えどんな結末に成ろうとも…。
この私の目の前でこんな事を見逃すわけにはいかない。
そう、
私の心に躊躇は無かった。
世間では主人と従卒…そう映っていても
私にとっては、お前は共に育った兄弟であり、
(お前が私の兄かは疑問だが)
大切な幼馴染なのだ。
誰よりも、もしかすると、私を知っているお前。
そして誰よりも、お前を知っているのは私。
お前が、何の寄る辺もない小さな雛鳥のように、私の前に現れた時から。
お前を守ることは…。私にとっては極自然な事なのだ。
…でも、彼は…。彼はどうだろう。
「私からもお願い致します。」
…驚きだった。
私の陛下への訴えに、他の貴族の加勢があるとは、
私は思っても見なかった。
この宮廷、ベルサイユの貴族の人間性を知っているからこそ、
私一人の無謀な訴えだとも十分判っていた事なのだ。
最初から、誰かに助けてもらおうとも思ってなかった。
国王…ルイ15世陛下。
このべルサイユの貴族にとって、いや、フランス全土に置いて
…陛下は絶対の権力者。
この国の太陽であり、父。このフランスなのだ。
陛下が右と言えば、右であり、
黒いと言えば白いものでもそれは、黒いのだ。
生まれた時から貴族であれば嫌というほど
叩き込まれる現実であり、…唯一の真実。
王太子妃殿下に故意ではないといえ、
あのような馬の暴走を起こしてしまった以上、
お前が罪を問われるのは、
過去の前例を見ても当然であり、判っている結末。
ただ、私はどうしてもそれを認めるわけには行かなかっただけ。
我慢出来なかった。私の命を賭けても…。
私の目の前で、お前を見殺しにする訳にはいかなかった。
だが…。
生粋の、それもひと目で高貴な貴族の香りを持つ
…ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン…!
外国人であり、留学中とはいえ、国に帰れば、
既に高い地位を約束されているフェルゼン。
その彼がアンドレの為に命乞いを共にしてくれるとは!
…新鮮な驚きだった。
思いもしなかった。
オペラ座で出逢って以来、確かに、彼に嫌な感情を抱いた事は無い。
宮廷貴族には珍しく、控えめな中にも光る、その思慮深さ、
深い教養。洞察力。存在感。
むしろ私には珍しく好感を持ったのは確かだが…。
彼にとってアンドレは私の従卒にしか過ぎない存在なのに…。
彼は願い出たのだ。あの、場面に置いて。私と共に。
果たして私が逆の立場であれば、如何なのだろう。
私は彼と同じようにあのような時、彼に加勢する事が出来るのだろうか。
それも異国の宮廷において…。彼の従者の起こした事故について…。
異国の国王に…。
“加勢する”と迷いも無く答える自分が居る。
しかし、一瞬だが戸惑う私は本当に居ないのだろうか。
…迷いが生じている自分の心は本当に存在しないのだろうか。
その人間とのつながりの深さに関係なく、私は正義を貫けるだろうか。
何度も何度も自問自答を繰り返しながら、
私は彼の人間としての大きさに、今更ながら驚く自分を否めない。
士官学校においても、そしてこの宮廷でも、
剣の腕、ラテン語、兵法、哲学、さまざまな学問の中でも
如何してもかなわないと、思う者は居なかった。
倫理観に置いても…。
周りの人間を軽蔑することはあっても尊敬できる貴族に
出逢ったことは無かった。
むしろ、自らの努力で何度もその壁を打ち破ってきた。
乗り越えられると思ってきた。
莫迦なこと。本質は…
今回の問題はそんなことで無いと判っているのに、
逃げている自分に気付いてしまった。
何より人間として一番大切で、誇り高い尊厳。
真実、正義のために自分を貫く信念を持つ、
人間としての器の大きさ。
努力して超えるとかの問題でない…。
持って生まれた懐の広さ。
この私の周りに居ただろうか?
自分の身の保身を考え、
体面だけを気にすることの多いベルサイユの貴族の中に。
そして私も自分自身を省みてしまう。
だからこそ私はこんなにも驚き、君の行動に深く感謝し、
感銘を受けているのだ。
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。
君を友人として、誇らしく思う。
私も君に誇らしく相応しい友人だと思われるように。
こんなふうに私が感じることの出来る友人に
ベルサイユで会えるとは思いもしなかった。
私が借りをつくる人に出逢えるとは!』
…日記を読んだ。
偶然開いた、あの時のページ。
どうしてだろう。
君がまだ逢ってもいない他の女性と結婚することが
心の何処かで、私の心に突き刺さり、
つい、投げかけてしまった疑問。
「愛していない女性と君は結婚するのか」
私の感情が、言葉を吐き出す。
正直に答えた君の王侯陛下への想い。
私を腹が割って話せる友だと思うからこそ
君が吐き出してしまった真実。
何故ならそれは、陛下への裏切りに通じてしまうからだ。
そして、私の奥深くに潜んでいた真実…。
気付いてしまった想い。
この時から、私にとって彼は特別な人であったのか…。
偶然開いた日記を前に、今更ながらに気が付き
この気持にどう対処してよいのか、
誰にも聞く事が出来ないで居る自分の心は独り迷宮に取り残されたようだ。
フェルゼン…。
女の心…私自身気がつかないうちに密やかに芽生えていた。
アントワネット様を心配し敢えて謁見を願い出たあの時
陛下の彼への想いに圧倒され、陛下の女としてのお気持ちを
同じ女として推察し、御守りする事が出来ない自分に、腹立たしく
女の心はこの私には存在しないのかと、動揺したあの日。
私でさえ、気が付かない場所で、育っていたのだ。
女の心が。
この日記に記された日
貴方は、初めて私を女と知ったのだ。
たが、その時にはもう、彼の心はアントワネット様にあり、
彼にとっては、今同様に大切な友人として、
大太子妃付きの近衛仕官としてしか、映らなかったのだ。
私は男として育ったのだから…。
戴冠式の後、帰国を促した際、彼が、言っていた。
「アントワネット様は美しすぎる!」と。
あの時はこんなにも苦しくなかったのに。
彼に私の生き方の如何を問われても
私は堂々と、自分の育ち方に自信を持って答える事が出来たのに。
ただ、妃殿下の身を案じ、友人として彼の身を、案じていれば良かったのに。
少しずつ、本当に少しずつ、私の中に知らず知らず育っていた、儚い想い。
私は、この仮面を被らなくては成らない。
私の瞳が、彼を追い、(そして、彼の全ては、あの方を…)
彼の傍に居たいと感じている自分を。(そして彼はあの方と共に…)
私が、私で居られる様に。
「王侯陛下を愛してしまったとどうして言えるのだ!」
気付いていたものの、知りたくなかった真実。
彼の叫び。彼の深い苦しみを絞り上げながら
彼の暗い、炎を浮かべる眼差し。深い深い心の闇。
異国の貴族であるとは言え、ベルサイユに伺候している以上
其れは、陛下への裏切りになる事を十分承知している為。
長い迷宮を彼は彷徨い続けてきたから。
そして、その時私が、貴方を愛していることにも、気付いてしまった。
私の中の、女に…。
そして、貴方の中での私の位置にも…。
入り込むことさえ出来ないことも!
貴女にとって王侯陛下が運命の人であることも。
彼の瞳を、彼の手の温もりを、
彼の指、彼の声、
彼の全てを、自分の物にしたくて、私を見て欲しくて仕方の無いのに、
籠の中で、一歩も動けなくて、震えているのだ。
私には、無縁な感情だと思っていたのに。
…気が付いてしまった。
誰か、助けてくれ。私が、この感情に流されないように。
私は、武官なのだから…。
ああ、どうして、女に生まれてきたのだろう。
どうして、男ではないのだ。
こんな中途半端な存在の私の心を
どの様に私は私に納得させなくてはならないのだ。
こんなにも、狂おしい気持を、私は一体どうすればいいのか。
誰か教えてくれ。
アンドレ、助けてくれ!
私はこんなにも小さく弱い存在なのだ。
私が、私である生き方を苦しむのは、私の罪なのか!
人は皆どの様にこの想いに絶えているのだろか。
教えてくれ…。
……否、誰にも知られては成らない。私だけの秘密。
そうでなければ、私は、私で居られなくなってしまうだろう。
例え、アンドレ、お前にも。
硝子の様に脆い仮面を被りながら、私は静かにページを破り、
暖炉へと、私の心を封印するために燃やしたのだった。
独り、孤独に耐えながら。迷宮を彷徨うのだ。