三文小説〜唇に関する一考察〜
ふと、
目にとまるお前の薔薇色の…口元。
その、
ほんのり色づく艶やかな…唇。
静かに閉じていても尚、語りかける様な、
強い意志を感じさせながらも、ふと、垣間見える
女性特有の、その甘やかな香しさ。
悔しくて、唇を噛む仕草も、
大声で、馬上から指揮を取るその口元も、
どうしても、お前が女である事を隠せない
魅惑的な…オスカルの唇。
つい、目にとまり、視線が外せなくなる今日この頃。
まずい。
この状態は。
俺はこの落ち着かない気持を抱え、如何すれば良いのか混乱している。
お前と俺。
あまりに近しく存在しているからこそ、
あの夜、
偶然に与えられた時間。
その機会をいつも、伺いながら傍にいるわけじゃないが、
つい…。愛しくて、
本当に愛しくて、溢れ出した想い。
…まずいな。やはり。
心がざわめく。
お前が、彼に心を、奪われ、
恋の深みに落ちていくのを見ているのは
俺にとっては
砂を噛んでいる様だ。
ざらざらとした嫌な感触だけが残り、
吐き出したくても、吐き出すことさえ出来ない。
見たくなくても、見えてしまう、お前の気持。
知りたくなくても、否応なしに知らされる想い。
お前の、甘く切ない、恋心、そして、苦しみ。
お前の一挙一動から、
手を取るように
その痛み、辛さ、割り切れない気持が、
俺の心に、流れ込んでくる。
お前の心の叫び、人知れず流す涙さえも。
俺が、お前を想うからこそ。
流れ込む。
俺が、お前を、敬愛する気持が、深い愛情に変わった様に、
お前は、伯爵の陛下への強い愛に感動し、
いつしか、初めての恋に落ち、其の想いに気付いてしまった。
お前が、彼の愛を傍に眺めながら、
彼の幸せを望みながらも、
自分の恋に苦しむ様子。
俺がそれを眺め、
お前のその心、お前の全てを大切に思いながらも
言い知れぬ心の闇を独り、流離うなんて。
巷の恋愛小説じゃあ有るまいし、
莫迦げた恋物語。
まるで、三文小説だ。
いや…。
小説にも成りはしない。
それは俺の思い上がり。
俺の現実逃避。
俺は特別に出入りを許されているとはいえ平民。
彼らは貴族。
お前や、ジャルジェの人達は俺を人間として、対等に扱ってくれているが、
それは、特別な事。本当に稀有な方々。
俺と、お前の会話する様を、何度か眉を潜め眺める貴族の視線。
お前が居てくれたからこそ、俺は其の視線の中でも堂々としていられた。
俺が、同じ人間であることを少しも卑下する事無く。
だが、
このベルサイユの貴族にとって、平民が、人間ではない事を、
俺は知っている。
俺は、十分に、否応無しに、気付かされて来たからこそ。
俺は、十分に、否応無しに、其の現実を観て来たからこそ。
俺は知っているのだ。
平民はこのフランス、いやこの世界に於いて、人間ではないのだ。
例え、俺達がどう、想い、どう感じ、どう存在しようと。
俺は部外者。
小説は、成り立たない。
それが、今生きる俺の世界の現実。
かの理想に燃える新大陸、アメリカでの独立戦争が終っても、
伯爵の帰国の知らせが一向に無い時の、
その生死も解らずにいた時のお前の様子。
あれは、ただ事じゃなかった。
お前のその激しい情熱に、苛立ちに、苦しみに、心が、涙を流していた。
手を伸ばし、…お前を抱きしめ、あの黄金の髪を撫で、
「大丈夫だから…」
そう耳もとで何度囁きたいと思っただろう。
だが、
他の者に自らの恋心を知られてはならないと、(俺にさえ)
そう懸命に装うお前の気持が、
痛い程伝わってくるから、
俺には、出来なかった。
何も出来なくて、静かに見ているだけだった。
口惜しくて、遣る瀬無くて、無力な自分に苛立ちさえ覚えるしかなかった。
俺はお前を護りたいと思っているのに。
相変わらずの、俺の無力さに、自己嫌悪に陥ってしまうしかないのか。
そして、
お前の言うなりに俺はお前を酒場に連れて行ってしまった…。
浅はかな俺。
当然ながら、騒ぎが起こった。
一目見れば、お前が他の客と違い、目を引いてしまうこと。
俺は配慮を欠いていた。
貴族のお前があの店に行く事。
否、それだけではない、
お前の気高さが、人並みはずれた美しさ、あの時のお前の精神状態が、
何を引き起こしてしまうかは
当然、気が付くべきだった。
いつも、近しく傍にいる俺だからこそ。
何処かで、感情に流されてた俺。
その、軽はずみさから、迂闊にも
俺は、お前を酒場に連れて行ってしまった。
他の客には、お前が女だとは、幸運にもばれなかったが。
もし、ばれていたら、もっと後悔することになっていただろう。
酒場での乱痴気騒ぎ。喧嘩。
其の中で、
お前が、彼の名を呼びながら、店の客とひと暴れする様子、
帰って来ない彼を罵倒し、頬を涙に濡らしながら、喧嘩をする様子に
お前の想いの深さを改めて知り、
誰よりもその、お前の女らしさに、
軽い眩暈を覚える。愛しいお前。
強がっていても、お前は女。女性なのだ。
そして、
そんな気持を抱えながら、男として、武官として
性を超越してこの時代を生きなければならないお前の人生の皮肉、
その問題の大きさに、俺がお前に一体何が出来るのか、改めて、深く考えさ
せられた。
俺はお前の従卒。お前を護るべく為に生きる者。
お前の苦しみを、どう支えて行けるだろう。如何に軽く出来得るのか。
しかし…。
俺にも酒が残っていたとはいえ、
俺の腕の中に、
恋しいお前を抱きながら、歩いたあの夜…。
思いの外、
細く、
柔らかく、
軽く、
華奢なお前…。
ほんのりと香る薔薇の香り、
白い肌、
黄金の髪…、
甘い吐息に。
つい、魔がさした。
酒に酔い、お前に酔った俺は、
艶やかで、いつもは魅せない妖艶なお前の薔薇色の唇に惹かれ
重ねてしまった。
あの夜…。
そう、
舞台は満天の美しい、星空、
星の煌く音だけが聞こえて来そうな、静かな夜の闇。
貴族でもなく、平民でもなく、
子供の時見た絵本の夢物語の様に…、
俺は、ただ、お前を護る者として
身分の差など考える事無く、愛するお前を抱きながら…、
つい、交わしてしまった口づけ。
お前だけでなく、俺も随分な現実逃避だ。
だけど、重ねたお前の唇は、
可愛くて、
柔らかくて、
冷たくて、
何よりも、
そっと触れただけなのに、俺を幸せな気分にさせた。
唇を重ねる。
そんなことが、
俺をますます、狂わせる。
あれから、前以上に、お前の唇が忘れられないなんて。
やばい。
本当に、まずい。
何度、平静を装おうとしても、
ふと赤面してしまう俺、
気が付くと追うお前の唇。
いつも、俺の中の荒れ狂う男としての俺が、
お前をただ、ひたすら恋い慕う俺が、
何処かでもう、抑えられないでいる。
それは、苦しくなる程に。
俺たちは本当に近しく、お前は、手を伸ばせば其処に居る。
お前の、其の見事な黄金の髪、矢車草の青いサファイヤ色の其の瞳。
手を伸ばせば、触れられそうな程近く。
ただ、女であるお前だけでなく、お前の自分を、律する生き方。
誰に対しても、正面をみつめ、
真実を見据えながら、
直向きに、理想を追い求める姿勢。
そんな、人間としてのお前を敬愛する俺であるのに。
お前が、お前である事を敬愛する俺であるのに。
お前の瞳を真っ直ぐに見据えられる俺でいたいのに。
俺の前で、お前の中の女性の部分が、次々に華開いていく。
花弁が、少しづつ開き、甘い、華の蜜、艶やかな香りを漂わせ、開花する様
は、
俺を酔わせる。
全ては恋の為せる神の業。
彼を想うお前の全てが、
俺には眩しい。
俺に痛みを感じさせながら、俺を包む。
彼を、恋い慕うからこそ、
フェルゼンの為に、お前は、ドレスを装うのだ。
フェルゼンの為だけに、お前は髪を結い上げるのだ。
そのコルセット、粉おしろい、香水、そして、紅を指した唇。
あの、甘やかな、魅惑的なく・ち・び・る。
お前は俺の知らない貴婦人になって、彼の元へ行く。
貴婦人のお前は、俺から、ますます、遠く…。
その、神々しいまでの高貴な美しさは、
決して俺には手の届か無いものだと、改めて確認させる。
そう、今まで、
俺は、宮廷に出入りして来て、
お前ほど、天上人にも似た美しさを持つ、貴婦人に出会ったことは無い。
お前の魂の気高さがより、お前の美しさを際立たせる。
例え、アントワネット様でさえも。お前ほどではない。
俺のオスカル。
大切なオスカル。
愛しい、オスカル。
慣れない、ドレスに躓き転びながらも
神話から抜け出したような透明感を持つ貴婦人。
照れて、伏せた瞳も、
かすかに色付く頬も、
誰もが、息を殺し、ため息をつくだろう。
いつもは、隠れている、艶やかな白いうなじにさえも、眩暈をするだろう。
いつにも増して、妖艶なお前。
全ては彼の為に。
お前が愛して止まない彼の為に、お前は初めて装うのだから。
きっと、彼でさえも魅虜してしまうに違いない。
お前を無視できる者が、魅虜されない者が、この世に居る筈は無い。
お前の覚悟、想いに…そして、お前自身に、
俺は、ただ、ひれ伏し、崇拝し、恋い慕うしかないのだ。
そして、俺の、心の闇。
深く、暗い、心の闇に…俺は為す術も無くただ、立ち尽くす。
何度、あの時の日記を読み返しても、抑えがたい…狂った様な嫉妬。
俺の中の野獣。
荒れ狂う想い。
感情に流されてはいけないのに。
誰よりも、何よりも大切なお前を失うのは怖い。
誰よりも、何よりも、この命を捧げても足りない程のお前。
お前の気持を欲しいと思っている訳ではないのに。
ただ、ひたすら、お前の傍らに居たいと思う俺なのに。
軍服に馬上の凛々しいお前も、美しすぎる。
ドレスを装うお前も、此の世の者ではない。
神は何処まで、俺を試したもうのか。
神は俺に何を望むのだろう。
俺は何処まで、罪深いのか。
俺のお前に対する忠誠、あの誓い。
俺はお前を護る者として忘れてはいけないあの思いを。
なのに、
俺は、どうしてこんなに、俗物で、醜いのか。
あの時の日記を何度読み返しながらも…!
俺のオスカル。
今夜の夜会で、
お前は、好むと好まざるとに関わらず注目を浴びるだろう。
多分その夜会にはお前の恋い慕うフェルゼンが居る。
お前が、敬愛し、恋い慕うフェルゼン伯爵。
貴婦人のお前は、彼のその腕に抱かれ、共に踊るのだろうか。
彼はお前を誘うだろうか。
お前のその願いは叶うだろうか。
貴婦人の、女性としてのお前の手を取り、
彼は、お前とは知らずに。
彼は、お前の想いも、知らないままに共に踊るのだろうか。
その一瞬に賭ける、お前の想い。
彼に抱かれながら、お前の瞳は、何を語るのだろう。
彼に抱かれながら、お前のあの唇は、何を想うだろうか。
お前はどんな顔して、彼に抱かれ、踊るのだろう。
そして、
そんなお前の想いに、気が付かない振りを
俺はいつまでしてられるのだろうか。
何処かで、壊れてしまえと叫ぶ俺が居る。
醜い狂った俺自身。
幾ら逃げ出したくても、出口さえ見えない迷宮。
暗い、暗い心の闇。
彷徨う俺は、
お前の幸せを第一に願いながらも
お前の、想いを伯爵が知ったとしたら。
もし、そうなれば、お前はどうするのだろうかと…。
彼の運命はもはや王侯陛下ただ一人と解ってさえいても。
お前の儚い幸せを望みつつ、
涙に頬を濡らすお前を俺の心が何処かで、望んでいるなんて。
なんて俺は、罪深いのだろうか。
いつも、いつもお前の傍らに、居た俺。
初めて、出会ったあの日から、お前の傍には俺がいた。
お前とは、近く、本当に近く。
だが、
今夜は、お前の傍には居られない。
お前はただ一人夜会に赴いた。
お前に必要とされない俺。
俺は、一人。
お前も、一人。
二人に流れる、違う時間、違う空間。
いつか、俺は、今夜の様に
もう、お前の傍に、居られなくなる時が、来るのだろうか。
お前が、俺を、一切必要としない時が来るのだろうか。
例え、そうなっても尚、
俺は、お前をただ、ひたすら、恋、慕うしかないのだろう。
お前が、俺の全てなのだから。
お前は、俺の運命なのだから。
他の誰でもない、お前でなければ、俺は俺で無くなるほどに。
お前に、必要とされなくなった時、
俺は、生きていられるだろうか。
否、生きて、お前に必要とされてなくても、
それでも尚、俺は、お前を護衛する者でありたい。
愛する者であるが故に。
愛している。
この想いは、決して届くことが無くても。
愛している。
これだけが、俺の真実、全てなのだから。
心の中で、何度も叫ぶ。
愛している。愛しい俺のオスカル。
窓から、お前の帰る姿がまだ見えないのが、辛い。
まだ、お前の、帰宅を告げる馬車の音がしない。
時間はこんなにも長く、心苦しいものなのか。
一向に進まない時間。時計の針。
神がまた、俺を試しているようだ。
俺の覚悟、俺の思いを。
嫉妬に苛まれる俺の醜い心を、お前が帰ってくるまでに
封印しなければ…。
俺は、お前の傍に居られなくなる。
俺の中の、悪魔。
お前の気高さが、俺をいつも苦しめながらも、救ってくれる。
天上人を思わせる、お前の黄金の髪、サファイヤの瞳が、俺を救ってくれる。
迷宮を独り、流離う俺の心を。
お前の、貴婦人の姿を俺はまさか見る事があろうとは思いもしなかった。
美しいお前。
そうして、お前は俺から、離れていくのだろうか。
それは、俺にまだ、お前を護る器が無い為なのか。
愛している。
その想いだけが、俺を支え、
お前を、追う。
お前の風になびく黄金の髪に俺は何時になったら追いつけるのだろうか。
お前を本当に護るべき者として。
愛しい俺のオスカル。
遠く、
かすかに
…聞こえてきた馬車の音。
早く仮面を被らなくては。
何事も無いように。
何事も知らない振りをして。
お前の理由、恋する気持、その願い。
お前の幼馴染として、お前を護る者としての仮面を俺は被るのだ。
脆い硝子の仮面だが、無いよりはましだ。
帰って来たお前が安心できる様に。
お前がお前に戻れる様に。
今夜のお前はどんな顔を俺に見せてくれるのだろう。
心の痛みを感じながらも、俺は、いつもの役割に戻るのだ。
お前が、どんな顔をしたとしても、俺はお前を護るべき者。
お前の友人。
幼馴染。
お前の従者。
俺は、大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐く。
深い深い、深呼吸。
近づいた馬車の音。
さあ、
感情に流されること無く、
俺は、俺の役割を果たそう。
いざ、
貴婦人姿のオスカルを迎えよう。
お前は、お前で、きっととても疲れているから。
お前の安心して休める場所を、用意しよう。
例え、お前がどんな想いを抱えていようと、
安らげ、癒される場所を用意しよう。
お前の好きな、
熱い、ショコラを用意しよう。
いざ、行かん。
俺の行くべき場所に。
全ては愛するお前の為。
お前の傍らにいる為に。
俺は、お前の求める俺で有り続けるのだ。
愛しい俺のオスカルが、俺を必要とする限り。
俺はお前を護る者であるのだから。
『ソワレを装った愛しい、俺のオスカル…』
其の一文に、想いを込め、
俺はお前を出迎えに行く為日記を閉じた。